ジージリジリジリ、ジージリジリジリ―――。  
初夏の訪れを告げるように、ニイニイゼミの早鳴きがあたりに鳴り響いている。  
7月初旬、太陽の輝きは万物を等しく照らしていた。  
昼食後、大学の食堂棟を出た北王路さつきは、その光のまぶしさに思わず足を止め目を細めた。  
 
そこに追いついてきた友人達の声が背後からかかる。  
「さつきぃ〜、ちょっと待ってよぉ」  
「あのねぇ、もうあまり時間ないんだってば。  
 次の鈴ヶ峰の講義、遅れたりしたらまた怒られるわよ?   
 聡子はこないだ大目玉食らったばかりじゃない」  
やや非難がかった声色、それに振り向いたさつきは、腰に手を当てたままあきれたように応えた。  
「う゛ー…たく、あンのガンコ親父。少し遅れて教室に入っただけで、あんなに怒るんだから……」  
「遅れる方が悪いわよ。……ま、私にとってはありがたい講義だけどね。  
 とりあえず出席しておけば単位落とす事はないんだから」  
歩み寄ったもう一人の友人・由里花が、聡子と呼ばれた方をなだめる。  
それを見てさつきは改めて呼びかけた。  
「そーゆー事っ。じゃ、いこ!」  
 
 
大学内公道を進む女三人。たわいもない話題を二つ三つ、交わしながら、第二講義棟に近づいた時、  
前方にいた幾人かの男子集団の中から一人、同年代の男がさつき達に近づいてきた。  
「さつき、いいトコに来てくれた!」  
「うん? 真中、どしたの?」  
真中淳平―――さつきと同学部に所属する彼は、次の時限で同じ講義を受ける事になっている。  
「わりぃんだけどさ、次の鈴ヶ峰のヤツで、コレ出しておいてくれないかな」  
願い言葉と同時に真中が差し出した紙片。  
それは各講義受講時に集められる事になっている、名前・学部を明記した出席名紙だった。  
真中の顔と紙片を交互に一瞥したさつきは三白眼になり、ジトっとした視線を返す。  
「何よこれ。真中ぁ、次休む気?」  
「い、いや。バイトの他のヤツが病気で休んだらしくて、  
 そこの店長が『今日の午後シフトに入ってくれ』って泣きついてきたんだよ。  
 けど鈴ヶ峰の講義、出席重視だろ。 だから、な……?」  
「はぁ…………あーハイハイ。出しときゃいいんでしょ、出しときゃ」  
真中の手から紙を受け取ると、さつきはそれをピラピラと翻しながら言った。  
「サンキュ!」  
さつきの肩をポンッと軽く叩き、願い主は走って男子集団の中へ戻っていく。  
その集団に少し話し掛けだだけですぐに離れていった様子を見ると、  
どうやら先ほどの事情はウソでも無いらしかった。  
 
「いつもの彼氏の願い事だもんねぇ。さつきも断れないか」  
聡子が冷やかし気味にさつきに話し掛けてくる。  
「彼氏じゃないわよ、あんな奴」  
「………よねぇ。同性に対してるような態度だもん。  
 ホント、アンタら良いお友達コンビだわ」  
ムスッとした様子を見せるさつきを尻目に、友人二人はケタケタと笑い声を放つ。  
 
―――彼氏じゃないわよ、あんな奴。  
先ほど発した言葉を、頭の中で反芻させる。認めたくないけど、言うしかない言葉。  
真中が走っていった方向を見やりながら、さつきは友人達も気づかないほどの一瞬、  
一抹の寂しさと物足りなさを混在させた、複雑な顔を見せた。  
 
「真中……」  
そうさつきが語りかけたのは、アパートの真中の一室。  
 
その人見知りしない性格から、さつきの交友関係は広い。  
特に親しい間柄だけでも、男・女双方ともに数えれば両の手の指に余るだろう。  
ただ、高校時代から見知った真中は、親密度に関してその他のメンバーとは一線を画していた。  
週末などは度々さつきが、ごくたまに真中の方が相手のアパートに転がり込んでいたのは、  
―――時折「生活費が足り無くて、夕食をせびりに」というケースも含め―――、  
そういった親しい間柄の延長線上の事象であった。  
あまり内容の無い、だが暖かい時間にお互いが満足していた……はずだった。  
 
そして今日。7月初週の金曜日。  
去年から続く、幾度目かの訪問を真中は受け入れた。  
夕食、週末TVの映画放映とそれに伴う談笑、その後惰性で流すニュースやバラエティー番組、そして帰宅。  
そのいつものパターン、3番目の過程でさつきは、同室にいる相手の名前を呼んだ。  
「真中……」  
「ん…?」  
床に手をつき足を組んで座っていた真中は、TVから視線を外さぬまま応える。  
 
さつきはベッドの縁に腰掛けている。こちらも先程までTVを見やりながら軽口を交わしていた。  
今の応答も、それらと同じくたいした話題ではないと認識したからだった。  
「ここでこんな事言うのもなんだけど。…真中、さ。  
 あ、あたしの事………今も好き…?」  
「は?」  
唐突なさつきの言葉に、思わず真中は聞き返す。  
「何言ってんだよ、いきな―――」  
そう広くもない部屋、ベッドの方に顔を向けた真中は続く言葉を飲み込んだ。  
振り向くまで想像もしていなかった、思いつめた顔―――潤んだ瞳―――。  
そして一筋の雫が、彼女の頬を小さく伝った。  
今までほとんど見た事の無いさつきが、そこには居た。  
さつきはゆっくりとベッドから降り、真中の横に座り込む。  
「さつき……」  
「真中って優しいよね。ううん、気付いてないだけかもしれないけれど、ホント優しいよ。でも―――」  
そこで一つ言葉を切り、今度は少し口調を速めて続ける。  
「―――でも、あたしにもそれだけなのかなぁって。他の人と同じ『トモダチ』にしか見えてないのかなぁって。  
 真中が優しいから…あたしみたいな奴が一緒に居てもウザがらないのかなぁって」  
「………」  
 
「あのね、まだ憶えてるんだ。高校の時、校舎裏で一度だけ『好きだ』って言われた事。  
 あたしにだけ、じゃなかったけど、ちゃんとあたしを見て言ってくれた。  
 それから一緒の大学に進学できて、こうやって仲のイイ……かな?   
 そんなままでいられる事は、正直すごく嬉しいし楽しいよ」  
さつきはさらに真中に近づき、半身の体勢で次第に目の前のヒトに重心を預けた。  
顔と体、その横半分を真中の胸にうずめ、先の言葉を紡ぐ。  
「それでもね、時々胸が痛くなるんだ。  
 『昔から見知った相手だから』、ただそこまでの理由で、  
 『トモダチ』として必要以上に優しくされるとサ。  
 あの時あんなコト言われたから、余計に期待してるのかもしれないけど、  
 もっと別の理由は無いのかなって。……あぁっもう!」  
急に語気を強めて、さつきは真中の胸でかぶりを振った。  
その様を真中は、半ば呆然と見つめる。  
「ホンット、あたしのバカ。考えてるコト、なんだか上手く言えないな……」  
ようやく頭を振ることをやめて、小さく呟く。  
「ただね、女のコにはハッキリと相手に言ってほしい時があるんだよ。  
 例えそれが嬉しい事であっても、悲しい事であっても―――」  
 
「……さつき」  
自らの言葉で体の縛めがとかれたように、真中は外側を向いている方のさつきの肩に片手を回した。  
「なんかさ、怖かったんだ、俺。  
 高校の時は自分と周りの気持ちとかよくわかんなくて……。  
 ただ映研の奴ら、みんなイイ奴ばっかりだったから、その関係を壊したくない、それだけがあって」  
口を開いて出てくる言葉を、自身で確かめるように真中は言う。  
その中で一瞬、脳裏に高校の頃の思い出が走る。クラスの、映研の、その他様々な出来事。  
そういった日々に別れを告げて、まだ一年ちょっとしか経っていないはずなのだが、  
ひどく懐かしい情景として浮び上がった。  
 
「いつまでもあんな時間が続くと信じてた。バカやって、真面目やって、騒がしいけど面白くって……。  
 そんな毎日で、『さつきが俺の側にいる』って事も当然で、自然なものと思ってたんだと思う。  
 ……けど、実際は違うんだよな。これからも一緒だと思ってた映研の仲間も、  
 今はさつきしか俺の手の届くところには残っちゃいない。  
 新しい知り合いが増える一方で、外村の野郎も、東城も、別の――自分の道を歩み始めてる。  
 さつきだってもしかしたら…」  
言葉を並べていくうちに、真中は次第に鼓動が早くなる事を自覚した。  
肩に回した手につい力が入り、相手を引き寄せる形になる。  
「でも、さつきには俺の側にずっといて欲しい。『トモダチ』のまま、出会って別れて、ってそれだけじゃなくて、  
 ずっと、この先もずっと―――。  
 こういう言い方しかできないけど、もしお前が良かったら、もっと一緒にバカなことやり続けたい」  
 
「…真中ぁ……」  
そこまで聞いて、やっとさつきは声を絞り出した。それは真中の意思に対する了解であり、感謝でもあった。  
TVでは何かの番組が流れ続けているが、もはや二人の意識から完全に外れている。  
お互いの言葉しか、お互いの聴覚を刺激していない。  
さつきは体を預けたまま、すぐ上にある真中の顔を見上げる。  
先程の切なげなさつきの顔が、真中にとって初めて見るものだったのと同じように、  
今、さつきの目の前にあるやや紅潮した、それでいて真剣な真中の顔も、  
彼女にとってあまり見覚えの無いものだった。  
自然と二つの視線が熱を帯びて絡みつく。  
それを合図としたかの如く、二人の顔が近づいていき、唇を支点としてシルエットが重なった。  
   
再び互いの口が離れた時、残念そうにさつきが呟いた。  
「あはは……あたし達、スクリーンの中で色んな場面のセリフを経験してたのに、  
 こういう時に限ってカッコよくまとめられないんだね」  
その言葉に真中は苦笑いして応えた。  
「そんなもんだって。これは『用意された筋書きがある舞台』じゃないんだから」―――と。  
 
 
数時間後―――互いを心の拠り所として認め合った二人は、  
どちらから言い始めたわけでもなく、新たな関係を構築しようとしていた。  
 
なだらかな肩口。十分過ぎるほど膨らみ、張りのある胸。はっきりとくびれた腰周り。  
生まれたままの姿となったさつきから、真中は視線を外す事が出来なかった。無意識にゴクリとのどを鳴らす。  
夜もふけた部屋の中は、ほのかな室内灯しか光を発していない。  
その薄白い明りの下で、女体がいっそう艶やかに映る。  
「あ、あんまりじろじろ見ないでよ」  
伏目がちに言うさつきは、しかし既に、裸身を隠そうとはしない。  
右手で左手の肘を持ち、へその上あたりで腕を組むと、  
ベッドの縁に腰掛け、あとはジッと真中の反応を待つ。  
 
片や真中の方も一糸まとわぬ肢体を晒している。  
その内心は、肉感的な欲情と、ヒトとしての理性がせめぎあっていて、  
今まで経験した事のないほどの緊張感に包まれていた。  
ややあってさつきの側に寄る。自然と彼女の腕に触れた時、相手が少し震えている事を知った。  
「さつき…」  
「え、あ!」  
触れ合った手と真中の声に一瞬、ビクリと大きく身体を揺らしたさつきは、  
そのまま後方に倒れこみ、ベッドに横たわる形になった。  
「……ちょっと待って。…うん、もういいよ、もう……」  
一つ大きく深呼吸をすると、そうしたまま動かない。  
その姿を見て、真中はこわばった笑みを浮かべると、  
目前の身体に自らの身体を重ねもう一度キスを交わす。  
 
「ん、はぁ……」  
互いの口を包み込むようなキスの中、真中の利き手は相手の肩、わき腹、腰、と柔肌を次第に下ってゆく。 
違う箇所に触れる度に、さつきの口から息が漏れた。局所的に、ピリピリと弱い電流を流されているよう 
な錯覚に陥る。  
最後に、蠢く片手が股の付け根にある茂みに達した時、さつきは思わず息を飲んだ。しかし抵抗の意思は 
示さない。  
それを了承の意と察したのか、真中の指は草叢をかき分け奥へ奥へと進んだ。  
「! ぁぁっ、んふぅあ、はぁっは……!」  
女性の『それ』の縁に指が辿り付いた瞬間、持ち主の身体を今までとは強度の違う刺激が走りぬけた。  
目元がくらみ、意識の中で火花がぶつかり合う。  
それでいて身体の芯から蕩けさせる感覚にさつきは翻弄された。  
「くぅふぁ、うっく、ダメぇ。 何だか、あたし……っ」  
自分の意思とは関係なく動く指に、ただただその身が操られる。  
ちゅ、くぷ…。  
小さな湿音を聞きながら彼女が出来る事は、『何か』に飛ばされないよう、  
相手の身体にしがみつくのみ―――。  
 
真中は、眼下で嬌声を上げるさつきに驚きを禁じ得なかった。  
いつもの勝気な様子は消え去って、為すがままになっている一人の女性。  
自分の指を動かす度、女性の内側や頂点にある珠に触れる度、  
さつきの身体は敏感に反応し、彼女の表情は刻々と変化する。  
豊満な胸を揺らし身悶える姿を見ることは、ある種の『発見』に近い感覚だったかもしれない。  
(お前、可愛いよ……)  
心からそう思い、首筋や胸を甘噛みしながら、手先の動作に熱とリズムを込めてゆく。  
 
その間にもさつきの肌は薄紅色に染まっていき、  
発せられる息吹は、鈍く、女としての悦びを内包したものへと昇華しつつあった。  
既に真中の手が添えられている茂みは滑らかに潤い、  
流れ出る蜜は内股を伝わり、ベッドのシーツをもわずかではあるが濡らすほどになっている。  
「やぁ、う…んっふ、ん。 ゴメ…ま、なかっ…あたし、あたしね……?」  
上気しきった口調を必死に整えると、かすかに震える手で真中の腰の横辺りをまさぐる。  
「……いいのか?」  
「っ…うん。このぉっ…ままだと、あたしだけ……っ…」  
懇願、謝意、期待。それらがない混ぜになった微妙な言葉を連ねる。  
真中は遠慮がちに頷くと、愛しい娘の膝の間辺りに腰を降ろし、  
怒張している自らの分身に軽く手を添えた。  
自然と、横寝する相手に正面から覆い被さるカタチになる。  
「じゃあ…」  
「…大、丈夫、でもあまり強くしないで…」  
そう答えた次の瞬間、  
 
ズッ。  
 
さつきは下腹部に響く音を聞いた。  
もちろん―――加減がまだ良くわからないとは言え―――真中も出来る限りゆっくりと、  
過度の刺激を与えぬように沈めていったつもりである。  
だがそれでも、さつきの内なる耳は確かに『女に打ち込まれる音』を聞いたし、  
続く大きな痛みの波を全身で受け止めなければいけなかった。  
 
「つぅっっ! くっ、かぁはっ…」  
それまで悦びの支配下にあったさつきの顔は、ごく短い間に変化を遂げた。  
初めて与えられる苦しみ、今まで体験した事の無い痛み。そういったものが、瞬く間に表面に現れる。  
その表情に思わず真中は狼狽した。しかも苦痛は自分が与えているのだからムリもない。  
「さつき、大丈夫か?」  
「はぁっ…っはぁぁっ……ありがと、ダイジョブ…………じゃないかな、あんまり…」  
痛みのあまりしっかりと閉じられていた瞼。それを薄く開け、さつきは自分を抱いている男の顔を見上げる。  
芯に残る鈍痛のためか、眉にシワを寄せたまま、それでも満足げな笑みを薄く作る。  
と同時に、一粒の涙が目じりから耳元へと流れていった。  
―――それは痛みからくるものだけではない。  
「エヘ、ヘ……何だか嬉しい、真中がそんな…心配そうな顔をしてくれて」  
そう言って、突っ張りぱなしだった両肢の力を緩め、真中の足と絡めあわせる。  
「これまで見せてくれた顔より、ずっと素敵な顔だよ…?  
 今はあたしを真っ正面から見てくれてる、あたしをちゃんと心に置いてくれてる、  
 そんな顔…してるもん」  
「あっ……」  
真中が気づいた時には、柔らかな両の手が彼の頬に添えられていた。  
ほどなく、二人の身体はより深く重なり合っていった。  
 
…………。  
暗闇の中でムクリとベッドから半身を起こした影があった。  
その人物―――さつきは、薄い毛布を跳ね上げ少し伸びをすると、壁に掛けられている時計に目を向ける。  
蛍光色の針が指している刻はAM4:00。 夜明けまでは、まだしばしの時間があるようだ。  
部屋の中はどことなく暑く、甘い空気が滞留している。  
先程まで心から睦みあっていた、その残り香なのか……。  
 
ふと傍らを見やると、真中はスースーと寝息を立てている。  
身体を重ねて昂ぶっていた時とはまるで違う様子に、さつきはクスリと含み笑いを漏らした。  
それから改めて、少し不満げに口を尖らせる。  
「まったく……ちゃんと答えを出してくれるまで、何年待ったと思うのよ? このドンカン男」  
そう言うと、人差し指で軽く真中の頬を押す。  
「でも……そういうじれったさにも、あたしが惹かれた所はあるんだけどネ」  
どこか納得したように呟くと、さつきは今一度真中の頬に唇を寄せてから、身体を横たえる。  
そして朝までの時間をまどろみの縁で過ごす事にした―――。  
 
 
「さつきってさぁ、最近な〜んか変わったよねぇ」  
「……! ケホッ、ケホッ!」  
友人のさりげない追及に、さつきはジュースパックを口から離し、急にむせた。  
時間は昼時。大学の食堂は、いつもと変わらぬ喧騒を生み出している。  
「ど、どういう事?」  
「んぅ、なんて言えばいいんだろ、上手く言葉に出来ないんだけどぉ」  
「前より少しだけ落ち着いた感じがするよ、アンタ」  
聡子に助け舟を出すように、由里花が指摘する。  
「しっ、失礼ね。それじゃ何ぃ? 前のあたしは落ち着きが無かったとでも!?」  
「そんなの、改めて言うまでも無い事じゃない。ま、今でも目立つほどあるとは言い難いけどね」  
さつきの反発に由里花は冷静にツッコむと、後の言葉を続ける。  
「前まではね、さつきってどこか必要以上に自分をアピールしてる、  
 そういう雰囲気過剰なところがあったんだけど、その辺が無くなった、って言えばいいのかな。  
 なんだか自然体に振舞い始めた気がしないでもない、っとまぁ、そんなトコ」  
由里花の意見に、我が意を得たように傍らの聡子もウンウンと頷く。  
 
(あの夜、以来かな…?)  
「そうかなぁ」と曖昧に返答した後、二人の言葉にさつきも改めて思いをめぐらす。  
実は指摘されるまでも無く、どことなく意識の変化を自覚している部分はあったのだ。  
10日ほど前―――真中と夜を共にした、想い人にこの身を抱かれた、あの日から。  
もう肩に力を入れる必要は無くなったんだ、アイツに必要とされてることはわかったのだから、と。  
それらの事が要因となったのか、気持ちと体がフワッとした安心感に包まれるようになっていた。  
結果として、無意識に日々の行動にも影響を与えているのかもしれない―――。  
 
「どうしたの、ボウっとして?」  
その問いかけに、さつきの意識は現実世界に引き戻される。  
「ううん、別に!」  
首をかしげる二人に、さつきは慌てて誤魔化した。  
 
食堂を出る……話しながら学内公道を歩く……第二講義棟へ向かう。  
火曜日午後としていつも通りの行動を、さつき達三人はなぞる。  
そして―――。  
「さつき!」  
講義棟前で駆け寄ってくる真中。彼の姿を見たさつきは、少し喜ばしい思いと、それ以上の悪い予感を抱いた。  
 
「なぁに、またぁ?」  
「悪りぃっ、もう今回だけだからさ、頼むよ」  
目の前では真中が片手を立てて、『ごめん』と謝るようなポーズを取っている。  
頼まれたのは、先々週と同じく出席名紙の代理提出。  
「はぁ…」と溜息をつきつつ、さつきは紙を受け取った。  
後ろを振り返ると、少し離れたところで、この前と同じく聡子達が興味深そうに観察しているのがわかった。  
それがわかるだけに、また後でからかわれるだろうな、と、ややげんなりしてしまう。  
「もう…次はちゃんと出席しなよ?」  
「わかってる、わかってる」  
嬉しそうに真中は答えると、去り際にそっとさつきに顔を近づけて囁いた。  
(お礼に今度の休みあたりさ、埋め合わせするから!)  
「えっ…う、うん?」  
思わぬフォローに戸惑いつつ、反射的に返答する。  
我に返った時には、真中は再び顔を離し、恥ずかしげに片目をつぶっていた。  
そして身を翻すと、大学敷地出入口の方に駆けていく。  
 
(真中が……)  
こんな風に真中の方から、積極的に『付き合いを誘う』事など今まであまりなかった事だった。  
さつきはボウッとしながらも、体の内がむず痒く、じわじわと暖かみを増してくる感覚を味わっていた。  
「何よ、さつき。さっきみたいに呆けちゃって」  
様子を伺っていた聡子と由里花が、近づいて心配そうに顔を覗き込んでいる。  
「わっ……な、何でもないったら!」  
さつきは手を振って否定して見せた。―――顔がほんのりと熱を持った事を気付かれないように。  
そんな素振りを見て「おかしいよねぇ」「お昼ご飯にでも中毒ったのかしら?」などと、  
ひそひそと小声を交わす友人の声は、彼女の耳にはほとんど届いていなかった。  
(もう、あたし達…『トモダチ』の先にいけてる、よね?)  
そう思うさつきの心は、頭上に広がる青空のように晴れ晴れとしていた。  
その心境が足取りを自然と軽くさせる。  
「ほぅらっ、聡子に由里花。早く来ないと置いてくぞーっ!」  
スタスタと歩みを速めると、いまだブツブツ言っている二人を促す。  
「あ、待ちなさいってばぁ〜」「やっぱり、おかしいわよアンタ!」  
 
 
ジージリジリジリ、ジージリジリジリ―――。  
シュワシュワシュワシュワ…………。  
辺りに響くニイニイゼミの声に、クマゼミの鳴き声が交じり始めた、今の暦は7月中旬。  
真中とさつきの―――これまでとは違う―――新しい夏物語は、まだ始まったばかりだった。  
 
 
〜〜〜終〜〜〜  
 

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