深海の底に居るような昼休みが終わり、俺は少し遅れ気味に五時限目の授業に出た。  
教室に入ったとき、俺の隣の席にさつきの姿はなかった。  
「真中、隣の席の・・・北大路は保健室か?」  
黒川先生が訊いてくる。  
「ええ・・・多分・・・。」  
軽く頷きながら席へと歩く。  
事務的に頷きながら黒川先生は出席簿にチェックを入れている。  
席に腰を下ろすと思わず溜め息を衝きそうになって、俺は誰にも聞こえないように大きく息を吐いた。  
反射的ながらのろのろと教科書を用意すると、俺は横を向いて机に伏せて、さつきの机を眺めた。  
ひどく気が滅入った。俺は大事な友達の一人をおそらくは損なってしまったのだ。  
 
俺は授業を黙々と受けた。  
それはさつきについてこれ以上考えないようにするためだったのかもしれないし、  
そのことについて考えるには既に疲れ過ぎていたのかもしれない。  
俺は半分以上機械的に、教科書と黒板に書かれていることに目を走らせながらも  
心の重さを捨てることはできなかった。  
五時限目、六時限目はそんなふうにして狂おしくゆっくりと過ぎていった。  
喉が乾いていたにも関わらず、休み時間の間に水を飲みにいくことすらできなかった。  
俺は自分の席に座ったまま動けずに、ただぼんやりと誰もいない空間を見つけては眺めていた。  
 
やがて六時限目のあと、さつきが音もなく歩いて教室に戻ってきた。  
教室に入ってきたとき顔を正視することはできなかったが、横目に見て、泣きはらしてはいないようだった。  
声を掛けるべきか迷っているうちに、黒川先生が入ってきて午後のホームを始めてしまった。  
さつきは黙ってただ前を見ているだけだった。  
そんな横顔をじっと見ているわけにもいかず、俺も前を向いていた。  
 
ホームが済んでしまうと、さつきは何も言わずにカバンを持って帰ってしまった。  
 
さつきのことを思うと心がしめつけられるように痛んだ。  
でも・・・もう俺にはさつきにしてあげられることは何もない。  
今できるのは黙って現状を受け入れることだけなのだ。  
 
 
俺は掃除が終わると自分のカバンを取りに教室へ帰ってきた。  
掃除の後の埃っぽい教室の空気が俺の目をかすませる。  
自分の席に座ると、俺は何となくさつきの机に手を伸ばしてなめらかな木の面に手を触れた。  
冷ややかさが伝わってきて俺の手から体温を奪っていく。けれど俺はそのまま机に体温を与えつづけた。  
そのうち机の触れている面と俺の手の温度が一様になって、俺は机から手を離した。  
俺は何のために机に手を触れた?・・・わからない。  
その無意識の行動の意味を考えようとすると頭が痛んだ。何かをするには疲れ過ぎている。  
俺は組んだ自分の腕の上に突っ伏すと、自分の意識を混濁させた。  
 
 
動きの緩慢なエスカレーターから降りるように俺は眠りから醒めた。  
何か夢を見ていたような感覚があるが思い出せない。  
見回してみても教室にはもう誰もいなかった。  
既に空がオレンジに染まりつつある。教室に掛かっている時計を見ると5時半を過ぎていた。  
俺は大きく伸びをして椅子からゆっくりと立ち上がった。何となく頭が鈍い。  
教室から廊下に出ると俺は顔を洗いに水道へと歩いた。  
ざぶざぶと顔を洗って水を飲むと少し頭の中が滑らかになった。  
そして水道の蛇口を締めるとやっと現実感が戻ってきた。  
今日はこれ以上学校に残っていても仕方が無いのだ。・・・帰ろう。  
 
俺は教室へと歩く途中、少し足を止めて廊下の窓から赤橙色に焼けた空と、同じ色に染まった景色を眺めた。  
心象の投影のせいなのかもしれないが、それは隅々まで哀しみに満ちているように俺の目には映っていた。  
 
「真中君?」  
突然の声にはっとして横を見るとノートを抱えた東城が立っていた。  
「何を見てるの?」  
「え、いや・・・」  
言葉が見つからず目が宙を泳ぐ。  
「別に・・・。東城は帰り?」  
「私は文芸部に出てきた帰りだけど・・・」  
それきり東城は黙ってしまう。しかし俺の頭の中は再び回り出していた。  
そうだ・・・。東城にも伝えなくてはいけない。今日?・・・できるだけ早く。  
さつきに伝えたときの息苦しさがよみがえってきて、俺はそれを殺すように奥歯を噛み締めた。  
「あの、さ、東城・・・。」  
俺はそう切り出した。  
「話があるんだ・・・」  
「え・・・?」  
東城の大きな瞳が俺を見詰める。  
すると俺の頭の中から言葉が消えていった。何を継げばいいのかわからない。  
部活をやめること?別れの言葉?  
言葉どころか、ゆっくりと、考える力さえもが俺の中から消えていこうとしていた。  
じっと東城の眼を見ていられず俺は視線を床に落とした。  
うしろめたさ、後悔、罪悪感。それらが俺の中で渦を作って俺を飲み込もうとしていた。  
床に視線を落としていると東城がふと口を開いた。  
「屋上に行かない?」  
「え・・・?」  
「ここじゃ言いにくいことかもしれないから」  
 
 
今日、二度目の屋上だった。  
重い扉を開けると全てがオレンジと黄色い光に染まった風景が目の前に広がった。  
フェンス、床面、空・・・雲。昼の表情とはまるで違う光景に俺は思わず目を細めた。  
俺は軽く息を吸ってフェンスに近付いた。目の前に暮れなずみゆく街並みが広がる。  
すると後ろから東城が俺を追い抜いて先へと歩いていく。  
視線を動かして東城の姿を追っていると、くるりと振り向いて俺に向かって言った。  
「真中くんの言いたいこと何でも言って。  
 あたしは何を言われてもいいから・・・。」  
風が吹いて来て俺と東城の体をすり抜けた。  
風に揺れる東城の髪、その背景の夕焼け。  
 
俺は初めて東城に出会ったときのことを思い出していた。  
その一枚の画に魅せられて俺はずいぶん色々歩き回った。  
西野のこともそれのうちだったのだ。そして、今ここで一つの章が終わろうとしている。  
 
 
結局、東城は俺にとってなんだったのだろう・・・。  
感性が似ていて映画と小説で互いに惹かれあって・・・。  
でも、感性が似ているだけでは、恋人ではないのかもしれない。  
わからない。結局・・・、よくわからないまま、別れを告げようとしているのだ。  
そして東城を自分の行為の当然の結果として傷付けようとしている。  
そのことは、俺の心にたくさんの棘が付いた杭となって突き刺さった。  
 
でも・・・、と俺は思う。  
もう、決めてしまったんだ。大学に入って、唯と一緒に暮らして、或いは、映画で食っていく。  
そう、決めたんだ。  
「俺、映研部やめることにしたんだ」  
「えっ・・・」  
東城の眼が驚きで見開かれる。  
「それと、大学入るまでは、映画も撮らない。」  
俺は続けた。杭が疼く。  
「それって・・・。」  
東城が俺の目を見ながらそっとつぶやく。  
「ごめん、東城、俺、大学に入るために勉強始めることにしたんだ。  
 真剣に映画を撮ること考えたら、そうしなきゃいけないと思うんだ・・・。  
 だから、もう・・・」  
卑怯だった。世界で最も蔑まれるべき人間は間違いなく自分だった。  
俺は震えを止めるために砕けるほど奥歯を噛み締めた。  
 
「そう・・・。」  
東城が自分の腕をそっと触る。  
「そうよね・・・。」  
東城がフェンスの外側を見ながらつぶやく。  
「うん・・・映画を撮るのは小説とは道がちがうのかもしれないし、  
 きっと真中くんが映画を撮るために真剣に選んだ道だから、  
 きっとうまくいくと思うわ・・・。」  
東城がふと自分のノートに眼を写して言う。  
「この小説だって、もう読んでもらえないってわけじゃないもの・・・。」  
俺は俯いた。もう、何も言えなかった。  
「あれっ・・・?」  
そう言った東城の顔を見て俺は謝ることすらできなかった。  
「あれっ?ご、ごめんね・・・あたし何で泣いてるんだろ・・・。  
 泣くところじゃないのにね・・・。気にしないで・・・。ごめんなさい・・・。」  
必死に涙をぬぐう東城。俺には抱き寄せる資格もない。  
「ごめんなさい・・・」  
と繰り返しながら東城は顔を覆った。  
俺はフェンスをつかんで唇を噛み締めた。鉄の味がした。  
 
 
 
ゆっくりと商店街を歩きながら色を変えていく空を眺めた。夕焼けが夜空に変わっていく。  
星が出始めて、俺の壊れかかった心を少し優しく撫でた。  
・・・さあ、これからどうするかを考えなければいけない。環境は大きく変わってしまうかもしれない。  
うまく適応できるだろうか?・・・とりあえずは自分のできることを一つずつするしかないだろう。  
 
突然ふと、自転車屋が忙しそうに店じまいを始めようとしているのが目に留まった。  
そして斜め前のコンビニも。そこで、連鎖的に思い当たったことがあった。  
そして、少しだけ心が前に向いた。  
俺は急ぎ足にコンビニの自動ドアをくぐった。  
 

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