イリヤの空、UFOの夏
浅羽の母は専業主婦で、父は在宅仕事である。
だから浅羽家は他の家に比べて家族全員が家にいる時間が長い。
が、「家族全員が家にいる時間」が長ければ「家族全員が顔を合わせる時間」も長いかと言えば全然
そんなことは無く、
朝飯の時も兄とともに家を出るのを嫌がる夕子と
遅刻ギリギリになってようやく起きだす浅羽が入れ替わりに食卓につくことが多いし、
昼飯や夕飯も学校やら部活やらで片方あるいは両方が居ないことがままある。
ここで唐突に話題を変えるが、浅羽家には家族ぐるみのお付き合いをしているような相手はいない。
もちろん浅羽や夕子の友人がやって来ることは珍しくないが、
それらはあくまでも浅羽や夕子の友人であって、浅羽家の友人ではない。
ここまで浅羽家の家庭事情を説明して何を言いたいのかというと、
今こうして父母兄妹の全員が玄関に集まり、
来客のもてなしをするというのは通常では有り得ないことなのである。
そう、ただの来客ではないのだ。
浅羽家の面々はどいつも「タンスの引き出しの一番上にあったのを着た」ような服装をしている。
父と母はやけに張り切って文化祭の時のようなキメキメの格好で臨もうとしたのだが、
子供二人が(特に夕子が)全力で止めたのである。
その冴えない服装で雁首揃えて玄関に並んでいる四人の姿は
ワイドショーの健康特集なんかで実験台にされる「○○さん御一家」の雰囲気を釀し出している。
そして、浅羽家の対面には二人の人間がいた。
浅羽一家から見て左には、糊のきいた紺色のスーツをばっちり着こなした背の高い年齢不詳の男。右に
は、ダッフルコートと長めのマフラーを着込みおよそ似つかわしくない大きなナイロン製のバッグを持
った、浅羽家の長男と同じくらいの歳の女の子。
「どうも。榎本です」
年齢不詳の男は、やけにさわやかな口調で自己紹介をした。
そして、
「伊里野、加奈です」
女の子は名乗り、何度も練習してどうにかここまでなった、という感じのお辞儀をした。
長かった夏が過ぎ、無かったといってもいい秋が過ぎ、カレンダーの寿命が尽きて、元旦も終わりを迎
えた一月四日の出来事である。
伊里野加奈は航空自衛軍勤務の兄と一緒に園原基地の居住区画に住んでいた。
が、兄は終戦直前に起こった北とのいざこざに駆り出され、流れ弾に当たり死亡。
兄がいなくなった以上伊里野はただの一般人であり、当然いつまでも基地内に住まわせておくわけには
いかない。
しかしその直後に終戦や園原基地の規模縮小など慌ただしい状態が続き、伊里野の居住問題は棚にあげ
られていたが、
年末にやっと一段落ついたので基地を出て新しい住居あるいは長期のホームステイ先を探すことにした
―と、ここまではいい。よくできた設定だ。
だがここから何をどうすれば「伊里野加奈さんのホームステイ先は園原市内の浅羽家に決まりました」
という結果に持ち込めるのか浅羽には見当もつかない。
事の始まりは二週間前の日曜日にさかのぼる。
昼飯後の一服つける時間帯、その時浅羽直之は畳の上にあおむけになって漫画雑誌を読み、夕子は「寝
たきれ!寝たきり刑事」の再放送をあぐらをかいて見ていた。
そこに。どこかに行っていた父と母が妙に上機嫌な様子で帰宅した。
夕子はそんな二人を見て警戒した。両親がこんな様子で帰る時は例外なく自分達も巻きこんだイベント
を用意している時である。「旅行に行こう」とか「テレビを買い換えよう」とか。
そしてたとえ夕子が反対しようとも時すでに遅く、旅館の部屋は予約済みだし無駄に豪華な機能のつい
たでかいテレビが翌日届くのだ。
居間のふすまを開けた状態で立っている父は、いまだ漫画雑誌を読み続けている浅羽直之とハリセンボ
ンのような目つきで睨みつけてくる夕子の顔をなぜか満足げに回覧し、高らかに一言、
「今度、家族が一人増えるぞ」
ばさりと漫画雑誌が落ちる音。
その時の浅羽直之と夕子二人の表情は眉の角度から口の開き加減まで、まさに血の繋がった兄妹と言う
にふさわしかった。
「お父さん、それじゃ私がもう一人産むみたいじゃないですか」
母が苦笑しながら言う。
あの時父と母がどこに行き、誰とどんな話をしたのかはわからない。もしかしたら暗示の一つでもかけ
られたのかもしれない。
そんなことは大した問題じゃない、と思う。
重要なのは、今こうして伊里野に再会できたことなのだから。
時計が午後二時を刻んだ。
父と母と榎本は、居間でちゃぶ台を囲み何やら話しこんでいる。榎本は普段の彼からは想像も出来ない
ような好青年の態度で今後の事を説明している。
伊里野の学費や生活費はすべてこちらで出すので、金銭面での負担は一切必要無い事。伊里野はアレル
ギーは無いが、体が弱いので食後に薬を飲む必要がある事。
よく鼻血を出すが、心配する必要は無い事。
親戚の家ほどではないが古い家なので、そういった話が二階にいる浅羽と伊里野の所までわずかに聞こ
えてくる。
伊里野の部屋は、二階の一番奥にある四畳半の部屋だ。
この部屋、伊里野が来るまでは父の書斎として使われていた―と言えば聞こえがいいが、実際にはただ
の物置である。
つい最近まで時代を周回遅れしたような物品の数々が埃とともに堆積していたそこは、大みそかに清掃
してから四日たった今でも鼻孔を刺激する饐えた匂いがこびりついている。
ひとまずそこに伊里野のバッグを置き、家の中を案内することにした。
「えっと、ここが妹の部屋で、その隣りが僕の部屋。一応屋根裏にも行けるんだけど、何にも無いし」
浅羽の説明を聞いているのかいないのか、伊里野は落ち着きなく四方八方に視線を巡らせている。
おそらく基地で育った伊里野にとって、日本家屋は異世界に等しいのだろう。
天井の人の顔にも見える染みを穴が空くほど見つめ、いまいち滑りの悪いふすまを何度も開け閉めし、
足に力を込めて床板をギシギシ鳴らせている。
その一つ一つの動作が浅羽には微笑ましく、たまらなく嬉しい。
伊里野の髪は完全に色素を取り戻し、長さも肩にかかるぐらいに伸びている。
傷や火傷の痕跡を微塵も残していない白い肌は、ややもすると彼女がほんの数ヶ月前に世界の滅亡を防
いだ戦闘機のパイロットだったことを忘れさせる。
「で、ここが階段。見ればわかるか。急だし、夜になると暗いから気を付けて」
一階に下る。下りた目の前にある玄関には、六人分の靴が整然と並んでいる。
居間と台所とトイレと風呂場を横目に歩くと、廊下のどん詰まりに校長のトイレがある。
結局、ペット屋で買った砂箱も校長を改心させることは出来ず、浅羽一家の方が校長に合わせる羽目に
なったのだ。
「ここは?」
伊里野が聞いた。白い指が示す先には、築20年のボロ家にはそぐわない新しめの白いドアが、校長の
トイレを横目にとってつけたような雰囲気を放っていた。
「ああ、そっちは床屋だよ。父さんの仕事場」
「―髪切るところ?」
「うんそうそう。あ、」
伊里野がドアを開けた。
家の中とは全く違う空間があった。
三脚の大きな床屋椅子が、三面の大きな鏡とそれぞれ睨み合っていた。
正面の大きな窓には「浅羽理容店」の文字が左右逆さまになっており、その隣りのガラスのドアには
「まことに勝手ながら本日休業とさせて頂きます」の貼り紙の裏側が見える。
ドアと窓の中間にある看板は今は回転していない。
一月初旬にしては暖かな日光が差しこみ、造り物の観葉植物を照らしている。
「伊里野?」
微動だにしない伊里野を不審に思った浅羽が、横から顔を覗き込むと、
「浅羽」
床屋椅子と鏡を見つめる、憧れの人や物を目の前にした時の表情。
視線を固定したまま、伊里野は浅羽に向かってひと言、
「して」
うわ。