イリヤの空、UFOの夏  
 十八時四十七分三十二秒。 
 永遠に終わることがないかのように思われた夏、当時十四歳の時計に刻みこまれた時間。 
 その時刻が数百回繰り返された挙句、訪れた馬鹿げたまでにクソ暑い夏のある日。 
 
 めちゃくちゃ気持ちいい、というわけではなかった。でも、かけがえのないものと思えた。 
 何か予感めいたものも感じた。 
 だから、またやろうと決めた。 
 夏合宿からの帰り道、学校のプールに再び忍び込んで泳いでやろうと浅羽直之は思った。 
 
 高校一年の夏休み最後の日の、しかも午後八時を五分ほど過ぎていた。 
 といっても浅羽直之現在では十六歳の腕時計はその時刻を指し示すことはない。 
 時間はあの日から止まったままだ。 
 もっとも、世間様ではそんなちっぽけな腕時計が止まったことなどお構いなく、 連日ニュ 
ースを流し続けている。 
 曰く、北への復興支援が決定し、好況から微妙に不況への下り坂を転がり始めだした日本が 
どうやってその資金を捻り出すかとか。 
 曰く、今年は二年前に負けず劣らず暑い日々が続きました、という今年の夏の総括とか。 
 曰く、チェリーパイの大食い世界新記録があまり背の高くない日本人の兄ちゃんの胃袋によ 
って打ち破られたとか。 
 そんなことは浅羽にとっては最早何の関わりもなく、ただ水前寺手持ちの古ぼけたポータブ 
ルテレビから垂れ流される、情報という名の生ゴミとしか思えなかった。 
 国や気象庁やマスコミにとっては重要な情報の羅列よりも、浅羽にとって可及的速やかに直 
面しなくてはならない課題は『課題』の名のつく通り夏休みの課題の累々たる山であり、それ 
らはまだ全くといっても差し支えのないほどに片付いていなかった。 
 片付いてない理由といえば、直接的には浅羽の夏休みの行動計画の見通しの甘さが指摘され 
るだろうし、間接的には県立園原第一高等学校二年二組出席番号十一番水前寺邦博の主催する 
ゲリラ新聞部の夏休み合宿に強制参加されていたことが挙げられるだろう。 
 ちなみに今年の夏の水前寺テーマは『雪男は本当に存在するか』であり、本当に雪男が存在 
すれば各国の生物学者は泡を吹いて悶絶し、UMA研究者は歓喜のあまり失禁し、そして水前 
寺(と浅羽)はその手記を発表すればピューリッツアー賞は獲得間違い無しであったろうが、 
現実には園原市立中学の裏山ごときではそんな生物が発見されるわけもなく、見事なまでに空 
振りに終わった。 
 どれくらいの空振りかをたとえるならば、野球ならば胸元の高さでスイングしたらボールは 
バッターの遥か後ろを通過したようなものだし、サッカーならばボールを蹴っ飛ばそうとして 
実際にはボールではなくスパイクがゴールめがけてすっ飛んでいったようなものである。 
 そんなことはともかく、本当ならとっとと家に帰って、刻一刻と九月一日に向かいカウント 
ダウンを告げる時計とのにらめっこをしつつ、終わらない宿題に面して唸り声を上げているべ 
きなのだろうが、何故か浅羽はそれが出来なかった。もはや諦めて一年三組担任水無月冬美ど 
っちの季節かハッキリしろ三十五歳既婚にキーキー声で怒鳴られ平手で張り倒される運命を甘 
受したとも言えなくもないが、それだけとは言い切れない何かがあった。 
 それが何か、というのは浅羽自身にも説明がつかない。 
 ただ、何か、普通ではない感じがするのだ。 
 たとえば水前寺の行動。 
 合宿の最中、時折ふらっと二、三十分ほど姿を消してはまた浅羽の前に姿を現し、その間何 
をしていたのかについて、決して語ろうとはしなかった。一度こっそり追跡してみたのだが、 
山の中とあっては100メートルを十一秒で走るようなスタミナと瞬発力を持つ水前寺に簡単 
に追いつけようもなく、息も絶え絶えに追いついた頃には水前寺が携帯電話らしきものをしま 
う姿が確認されただけであった。 
 たとえば自衛軍の行動。 
 山の中を観察している以上、どうしても園原基地の周辺が目に入ってしまうことが多かった 
のだが、戦争が終わって落ち着いているはずの基地の様子が、どうにも最近あわただしい。ト 
ラックの数が昨年の軽く倍くらいには増えているし、それだけに限らず飛行機、特に輸送機の 
発着と種類の多さなど軍用機・航空機マニアが居たら瞬時に双眼鏡と一眼レフを取り出して餓 
死するまで覗き続けてしまいそうな勢いである。 
 たとえば、山の雰囲気。 
 山の中で一ヶ月強過ごしていたわけだが、山全体が妙なまでに静か過ぎた。正確には、静か 
になり過ぎていった。 
 二年前に山の入ったときがそうだったし、今年入ったその日もそうであったように、夜の山 
というのは存外やかましいもので、夜になると野犬やら狸やら狐やら野鳥やらの鳴き声が聞こ 
えていたのだが、日を追うにつれてその声が少なくなっていった。更に言えば、夜中のスポー 
ツ公園でゆさゆさ揺れているような車を爆竹で襲撃しようにも、そんな車自体が訪れない。 
  
 常識で考えてみるならばおかしい。 
 普通ではありえない。 
 しかし、浅羽はそれらの兆候に気付くことはあっても、それらが何を指し示すのかについて 
考えを巡らすことはなかった。 
  
 でも、現在浅羽の心の中にはなんとなく、予期したものもあった。 
 なんとなく、中二のときと同じ感じなのだ。 
 中二の、あの暑くて楽しくて嬉しくて痛くて悲しくて永遠に終わらないかと錯覚までした、 
忘れ得ない夏の日々と。 
 その先に待つのは間違いなく、普通の学生生活も、人との付き合い方も、笑い方さえも知ら 
なかったような少女のはずなのだ。 
  
 だから、夏休みの課題なんてものをかなぐり捨ててでも夜のプールに入って泳いでやろうと 
決めた。 
 目標は二年前と同じ、園原市立園原中学校のプール。 
 浅草寺は暴利を貪った近くのビデオ屋に自転車を止めて、それほど膨れたわけでもないダッ 
フルバッグを肩に掛けて、街頭もろくにない道を歩いて学校まで戻る。 
 北側の通用門を乗り越える。 
 部長長屋の裏手をさして速くもないスピードで通り抜ける。 
 焼却炉を通り過ぎ、更衣室の入り口をくの字型に目隠ししているブロック塀の陰に入り込む。 
 浅羽が卒業するまで結局修理されることのなかった更衣室のドアノブを両手で力いっぱいに 
回し、ロックを解除しようとする。 
 「がりっ」と金属がこすれあう感触と音が響くかと思ったが、完全に磨耗してしまっていた 
のか何の感触も音なくロックは外れた。 
 これじゃ鍵の意味なんてないよな、と苦笑しながら浅羽は更衣室のドアをそっと開け、中を確認。 
 当然のごとく、人の気配なんてものは存在しない。 
 真っ暗だった。 
 暗いのは全くもっていいことであるが、この中で着替えるのは無理だと思った。明かりを点ける 
わけにもいかない。というわけで、結局二年前と同じくブロック塀の陰で着替えることにした。 
 そして着替えようとしてバッグを肩から下ろしたところで、 
 ようやく浅羽は重大なミスに気がついた。 
 夏合宿からの帰り道、だったのだ。 
 二年前と同様なので途中は割愛するが、自分は今、海パンを持っていない。 
 ちょっとがっかりした。 
 浅羽は天を仰いだ。電車旅行に出かけ、さて乗り込んだので持ってきた好きなお菓子でも食べよ 
うとバッグのファスナーに手を掛けたそのときすでに妹の手によってそのお菓子が食べられていた、 
あのときの落胆に似ていた。 
 というわけでしょうがない。全裸で泳ぐか短パンをバッグからあさってそれで泳ぐか、選択肢は 
二つに一つだ。 
 せっかくだから全裸で泳いでやろうか、というなんだかものすごく気持ちのよさそうな行為も考 
えたが、流石に警備員なり当直の先生なり警邏中のお巡りさんなりにとっ捕まったときに全裸であ 
ることの理由の言い逃れも出来ないし、そもそもとっさに逃げられそうもないので止めておく。 
 ちなみに決して自分には露出狂の気があるわけではない、と思う。そう思いたい。 
 そんな自問自答というか煩悩というかを繰り返しつつ、闇雲にバッグの中をあさった結果、ほの 
かに汗臭く香る短パンがでてきた。 
 シュラフで眠るときにはいていた、勝利の女神の名前が刺繍された有名スポーツメーカーの短パ 
ンだ。 
 周囲に誰もいないことを確認して、浅羽はそそくさとズボンとトランクスを脱ぎ、短パンをはい 
てみた。Tシャツも脱いで己が姿を見下ろす。短パンは発汗性に優れた代物で、妙なまでにサラサ 
ラしているしインナーがないのでやけに股間がこそばゆく、すーすーする。 
 でも、そんなにおかしくないと思う。 
 第一、誰が見ているわけでもないんだし。 
 というわけで手早く着替えを済ませ、更衣室からプールへと続く扉を手探りで開け、目的地へ乗 
り込む。音がでないよう扉を注意深く閉める。そしてプールに目を向ける。 
  
 結果から言おう。 
 誰もいなかった。 
 当然である。八月三十一日の日が暮れた後にプールに入ろうとするような輩がいたら、間違いな 
く背中に「伊達」と「酔狂」の刺青が入っているような連中に違いない。普通の人間なら誰だって 
終わらない課題とにらめっこして 「だーもーわかんねーでも先生が怖いからやっておかなきゃで 
もこんな問題解けるわきゃねー解ける奴がいるとすれば間違いなく東大理科III一発ストレート合格 
間違いなしだろこれって今時間何時だぎゃーもう八時だもう間にあわねー」と叫んでいるはずだ。 
 浅羽は周りをもう一度見渡して改めて誰もいないことを確認。意識せず尻をぺたんと地面に押し 
付け、同時に今さっき閉めたばかりの扉に背中を押し付ける。 
 ものすごくがっかりした。 
 これは、と思ってなけなしの勇気と資金をかき集めて表紙買いしたエロ本(ちなみに本屋の店員 
さんはちょっとかわいらしかった)を家に持って帰って、どきどきわくわくさーやるぞー、とペー 
ジを全てめくったところお気に入りになりそうなモデルもポーズも一ページたりとてなかった、あ 
のときの落胆に似ていた。 
 そんな落胆の思いと同時に、昏い考えが心の奥底をじわりじわりと黒く染めようとする。 
 ―――大体当たり前だろ。こんな時間とか以前に彼女がこの世に存在してるわけがない。 
 ―――彼女が存在していたら、榎本なり椎名なり園原基地の広報なりがお前に連絡してくるはずだ。 
 ―――そんな連絡がないってことが彼女の存在がこの地球上から消え去ったことを明確に示して 
いるじゃないか。 
 ―――あーもーアレだろ、全てを吹っ切ったはずなのに、まだMIAという一言だけを信じて一 
縷の望みに賭けてんだろみっともないぞテメエ。 
 ―――それだったら裏山で一人「夏を終わらせるのだ」とか大見得切ってみせて書いてみせたよ 
かったマークも浮かばれねーなコラ。 
 うるさい。 
 気を抜いたら心を真っ黒く染め上げさせられそうな考えを断ち切るように、浅羽は立ち上がった。 
そしてこう呟く。 
 「帰ろう」 
  
 同時刻。プールの側面、知る人ぞ知るプールを覗き見できる穴場中の穴場にて。 
 弓手に微妙にまだ熱を持っているクロレララーメン、馬手に携帯電話(器用に左耳に当てている)、 
さらに両足爪先立ちという、世にも奇妙かつよくそれでバランス取れるなと感心できそうないでた 
ちの、背の高い顔つきは若くてタレ目で黒スーツ姿の若者というには妙に何かに疲れきったような、 
擦り切れたような印象を受ける人間がいた。 
 「なんだよせっかく着替えたのにもう帰んのかよもったいねーな第一そんな暇があったらちった 
あ俺によこせコラ」 
 『アンタ私怨混じりの実況中継やってないで報告よこしなさいよ』 
 「ああ、うっせーなー。パピーはブロック塀裏で着替えプールに進入したものの泳ぐことなくプ 
ールから撤退。以上」 
 『了解。……浅羽君何しに来たのかしら』 
 「知るかそんなもん。多分二年前の感傷にでも浸りに来たんだろーよ」 
 『随分なげやりねぇ……。アンタそんなに疲れてる?』 
 「ああ疲れてるね。アリスのリハビリ監督が終わったと思いきやその書類決済に米軍か自衛軍ど 
ちらに属するかの所属の確認、戸籍の再登録にそれらに加えて今度は転入手続きの書類書き、つい 
でにパピーの監視ときた。こんなことやってるよりも戦争で走り回ってたときのほうが何倍も楽だ 
った……。今なら死ねる。書類書きで死ねる……」 
 『そりゃ良かったわねこれが終わったら仕事を達成できた喜びに浸れるわよ。第一古今東西書類 
書くこと自体で死んだ人はいないんだから安心しなさい』 
 「……必死で頑張ってる俺にもー少し温かい言葉をかけよう、とか思うことはないわけ?」 
 それには答えず、 
 『軍法会議の連中もずいぶんな温情判決出したわねー。被告のセクハラに関しては死刑に値する 
点が多々あるものの、更正の可能性を考慮しアンタの今やってる任務の完遂をもって全てを不問に 
付す、ですからねー。十三階段上る予定が執行猶予だけで終わったのよ?』 
 「いやな、それどうみても俺に厄介な仕事押し付けたような気がしてなんねーんだけど。第一裁 
判官審判員全員と傍聴席に座ってた連中全員が判決出た瞬間、薄笑い浮かべてた、つーのがどうに 
も不気味かつ納得いかねーし」 
 『知らないわよ。そもそも、アンタが色々ヤンチャしたからこんなことになったんでしょうが。 
このくらいの判決で許してくださった世の女性に海よりも深い反省と山よりも高い感謝をしときな 
さい』 
 そう言いきった受話器からの声に続いて、子猫の鳴き声がにゃぁ、と相槌を打つかのように青年 
の耳に響く。 
 『ほら見なさい。校長もそーだそーだ、って言ってるわよ。これに懲りて以後はパピーとアリス 
の感動的な再会を演出するように誠心誠意勤めなさいって』 
 「俺には聞こえねぇよそんなもん。第一そんなことぬかす猫はラーメンの出汁にでもして食っち 
まえ。じゃなけりゃ黒く塗って鍵尻尾にして道端に置いとけ。売れない絵描きが拾って名前つけて 
飼ってくれんだろ」 
 『おー怖い怖い。ついにはかわいらしい小猫ちゃんにまで八つ当たりですかぁ? そこまで脳ミ 
ソ煮詰まってるんだったらさっさと家に帰って寝たほうがいいわよ?』 
 「そう思ってるんだったらせめてパピーの監視くらい代わってくれ……。これじゃいつ風呂に入 
れるか解んねーよ……。第一俺前風呂入ったのだって何日前か憶えてねーし」 
 『知らない。そんな不潔な人とはこれ以上話したくありませーん。以上で会話を終了します。以 
後パピーの監視続行。異常及び危害を加える可能性のあるものがあれば三課の連中総動員で排除す 
べし。オーバー』 
 「おいコラちょっと待て」 
 そんな声を無視するかのようにぷつっ、という音。 
 そして小さく鳴り響く、つーつーつーつー、という単調な音。 
 男は小さく舌打ち。次いですっかり伸びてしまったラーメンをさほど不味そうでもなく啜り、食 
べ終わり完成したゴミを焼却炉に行儀悪くぶち込む。 
 「さて……面倒くせーことこの上ねーけどやるっきゃねぇんだよな。全く面倒だ……」 
 ブツブツつぶやきながら少年の背中を目標に力なく青年は歩き始めた。 

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