イリヤの空、UFOの夏
終わらない課題にひたすら頭を悩ませる夜が過ぎてどうにもならない絶望と共に朝が来て、
浅羽は末期の麻薬中毒患者とそっくりなクマを目の下にこしらえて、口の中には眠気覚ましの
歌とコーヒーの残り香を残らせて、遅刻寸前で県立園原第一高等学校の校門をくぐった。
だだっ広い駐輪場に自転車を叩き込み大急ぎで昇降口に駆け込み、上履きを取り出そうとし
て下駄箱のフタに手をかけた。勢い余って力一杯にフタを開ける。
日常のはずの時間もそこまでだった。
下駄箱の中に白いものが入っていた。五センチ四方の正方形で、厚さは二センチ弱。ちょっ
とした刺繍が施されている。
リストバンドだった。
朝から極限の活動を続けていた浅羽の破裂寸前の心臓が大きく跳ねた。
―――あの、リストバンドだ。
見まごうはずもなかった。二年前の夏の日、毎日のように見続けたリストバンドだ。
浅羽は夢中でリストバンドを下駄箱からむしりとり、回れ右。弾みで落ちた上履きが地面に
あたってあげる悲鳴の音から逃げ出すように教室に向かってダッシュ。
昇降口を駆け抜け、中庭の通路の段差を走り幅跳びの要領でジャンプ。コーナーでは体を傾
けアウトインアウト走法。全ての経路を最短距離で教室に向け走り去る。
途中のどこかで「廊下を走るな」「土足で校内に入るな」という抗議の声を聞いた気がする
が完全に無視。部長の「浅羽特派員っ!」という叫び声を聞いたが聞こえないフリをして一途
に教室を目指す。
―――今度こそは間違いない。
―――今度こそは絶対に、抱きしめて離さないんだ。
静かな確信と決意を共に、少年は一目散に一年三組へ向かう。
時間は少々さかのぼる。
始業のベルが鳴り響くには十分ほど早い時間。
県立園原第一高等学校二年二組出席番号十一番水前寺邦博は、一年生用の昇降口で一人の生
徒が登校してくるのを今か今かと待ち構えていた。
もちろん、待っているのは県立園原第一高等学校一年三組出席番号一番浅羽直之その人である。
「浅羽特派員はまだか? 来て下駄箱を開けたらビックリドッキリ、どういう行動に出るか
見物だなうひひひひひひ」
四百万超画素数のデジカメを右手にぶら下げて奇妙な声で笑う姿は秋葉原のアイドル握手会
会場であったなら特段気にされもしなかっただろうが、ここは田舎の高校の昇降口である。傍
から見たら不気味なことこの上なかった。
「まだかーまだかー早く来ないとブツ隠しちまうぞー」
なんか怪しい歌まで歌い始めて不気味オーラ全開である。
「まだーまだかー。……来たぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
来た。
大して大柄でもない生徒が水前寺の視線の先に見えた。自転車を乱暴なまでな勢いで駐輪場
に置き、ダッシュで昇降口に向け突進してくる。
それも目の下にツキノワグマの胸のマーク並みに巨大なクマを作り、口は『見えないものを
見ようとしてー、望遠鏡を覗き込んだー』などとすばらしく無気力につぶやきながらである。
「……浅羽特派員、危ない薬でもキめたのかね?」
浅羽がこうなった原因を作り上げた人物は、本日の浅羽の状態を見て一言、誰にともなくつ
ぶやいた。
そんな水前寺に気付くこともなく浅羽は昇降口の自分の下駄箱の前に滑り込み、力任せに下
駄箱のフタを開ける。そして浅羽の時間が停止する。
一秒、二秒。
たっぷり三秒はかけてから、浅羽は思考と行動を再起動。中の白いものをひったくり、その
弾みで上履きがリノリウムの地面に向け特攻を敢行。自衛官が感心するような姿勢で回れ右。
上履きが地面を叩く音と同時に、浅羽は限界まで引き絞られた弓から放たれた矢のごとく走り
出した。
「いいっ! いいぞっ浅羽特派員っ!! ナイスリアクションだっ!!!」
水前寺、デジカメをムービーモードにして浅羽の追跡を開始。途中出くわした生徒を押しの
け、教師を跳ね飛ばす。
しかしながら、100メートルを十一秒で走るようなスタミナと瞬発力を持つ水前寺でさえ
今目の前を走り続ける浅羽に追いつくことは出来なかった。いや、追いつくことはおろか、じ
りじりと距離を離されつつある。
そしてついに目標は目的地に到達。これ以上の追跡はもはや無意味であった。
「やはり、愛する娘のためであれば、人間、限界以上の力を引き出せるようだな。……全く
いい実験結果が取れた」
そう言って追跡を終了し、無造作に制服ズボンのポケットから携帯電話を取り出し、短縮ダ
イヤルを呼び出し通話ボタンを押して耳に当てる。
「もしもし。―――おお榎本局長。こちら水前寺部長であります。さっそくですがすばらし
くいい画が撮れましたぞ。永久保存モノ決定、結婚式では是非百インチの大画面で新郎新婦一
族郎党ともども閲覧して大爆笑確定ですなこれは」
話しながらデジカメの動画データの保存と確認を行い、にやりと不敵な笑みを浮かべたその
顔は、はっきり言って好きな女の子にちょっかいを出し満足するまでいぢめぬいたハナタレガ
キそのものの顔であった。
辿り着いた。
入学したその日から立て付けの悪い後ろ側の引き戸を力任せに開き、教室を見渡す。一ヶ月
半前と同じ風景。クラス中に散らばっている連中は夏休みの前のままだし、そいつらはみんな
解けなかった夏休みの課題をお互い見せ合い補完している。
クラスの女子の中に最近見知った多数と、中学以降から知り合っていた少数以外に女子がい
ないことを確認し浅羽の足から力が抜ける。
―――また、無駄足か。
酸素が不足し、思考が真っ白になりそうな状態で浅羽の心は深い絶望感に包まれた。自分の
持てる以上の力を出し切り、息が苦しい。太ももとふくらはぎがパンパンに張っている。今走
ったら間違いなくひざの皿とアキレス腱が悲鳴を上げるに違いない。
―――また、何を期待していたんだ?
必死で足を引きずり、自分の机に足を向けるその一分足らずの間に、昨日プールで生み出さ
れた昏い考えが再び、心の奥底をじわりじわりと黒く染めてゆく。
―――期待すんなよ。誰かお前と伊里野のことを知ってる奴がやってのけた他愛のないイタ
ズラに決まってるじゃねえか。
そうだな。期待しちゃいけなかったんだ。もう忘れよう。
―――そうだ。あんな奴のことなんか忘れて、須藤にでも告白して暮らせ。失敗しようが成
功しようがそのほうがちったあマシだ。
わかったよ。わかったから座らせてそして机で突っ伏させてくれ。少し休ませてくれ。
そう心の中でつぶやいて浅羽は自分の机の横に鞄を引っ掛け、崩れ落ちるように椅子に座り、
机の上に腕と上半身を投げ出しそれでもまだ未練がましくリストバンドを手の中に力いっぱい
握りしめ、目と心を閉ざした。
そんなことだから、いつの間にか一つずつ増えていた机と椅子と、静かに校内に侵入してき
た白いバンに気付くことはなかった。
「きりーつ」
教室前方の入り口の妙なまでに滑りのいい引き戸が、からからからっ、と軽い音を立てた。
ふと気づいて首をほんの少しだけ上に持ち上げて目を開け前に視線を向ければ、委員長の完
全フライングな号令でクラス全員が起立して礼をしていた。座っているのは浅羽だけで、立ち
上がるのもおっくうでそのままみんなが座るのを眺めていた。担任の水無月が、北の悦び組を
思わせる軽快なステップで教壇に上がる。教卓に出席簿を角をきちんと合わせて置き、自分だ
けは生徒に対してフレンドリーだと信じ切っている口調で
「みんな、おっはよー」
とのたまった。誰も彼も適当にしか挨拶を返さない。こいつのフレンドリーさなんて上っ面
のものでしかないことに、短い付き合いながらも全員気づいているのだ。ただ誰も返事してや
らないと「学級崩壊だ」などとやかましいことを言い出すことが充分解っちゃいるので申し訳
程度に挨拶を返しているだけなのだ。
浅羽は小さくため息をついた。このうわべのフレンドリーさが気に食わないせいなのか、そ
れ以前に生まれつきそりが合わないのか、自分のクラス担任の水無月冬美という女をどうして
も好きになれない。担任というのはどうしても好きになれない人間が多かった浅羽であったが、
ここまで好きになれなかったのは中二の時の担任、河口泰蔵以来のことであった。水無月の顔
を見ているのが嫌で、浅羽はすぐ左にある開け放した窓の外へと視線を向けた。一階の窓から
見える木の幹にセミがまとわりつきやかましい声を上げ、その先にあるガラガラの駐車場に珍
しく白いバンが止まり陽炎で揺らめいて見え、その奥に県立園原第一高等学校の校門と体育館
が見え、
体が沸騰した。
あの男たちがいた。
白いバンの隣に、榎本と水前寺が立っていた。
何故、と思う間もなく榎本は二年前の夏休み明けと同じように顔中で笑って、これまた二年
前と同じように右から左へ一度だけ手を振ってよこした。水前寺はというと、こちらは腹を抱
えて今にも体中で笑い出しそうになるのを必死でこらえている。
水無月が喋っている。
その声が自動的に耳に流れ込んでくる。
「えーっとねぇ、このホームルームの時間を利用して、転校生を紹介するよ。とっても可愛
らしい女の子だから男子諸君は狂喜乱舞するように」
セミの声が次第に大きくなる。
浅羽はゆっくりと、
ゆっくりと、
ゆっくりと、
教室の中を振り返った。
きれいな字で、見覚えのある字で、黒板にはそう書いてあった。
あの女の子が、教壇に立っていた。いかにも新しい夏服を着て、まるで一年生のようにぴか
ぴかの鞄を手に提げて、まだ一度も下駄箱の中に入ったことのない上履きを履いて、両の手に
はリストバンドをつけずに。
浅羽の聴覚はセミの声にどんどん浸食されてゆく。
水無月が何か言っている。転校してきたばかりで解らない事だらけだろうからみんな色々教
えてあげるように、水無月の口元がそう動いている。しかし、その言葉はもう浅羽には聞こえ
ていない。教室中のざわめきも聞こえてはいない。そのくせ、女の子の声は、何度言っても慣
れない単語だけで喋っているようなあの不器用な声だけは、はっきりと聞こえた。
「伊里野、加奈です」