イリヤの空、UFOの夏
セプテンバー・バレンタイン
【9月13日15時48分】
「チョコをつくる」
「あした、浅羽にあげる」
バンに乗り込むと同時に、伊里野はそこまでを一息に言った。
『それは半年先の2月の話だ』
『今はまだ9月で、そんなことをするのはおかしい』
『浅羽はうけとらないかもしれない』
そう言いさえすれば、それで済む話だった。
だから、榎本は言った。
「作り方知ってんのか?」
うつむく伊里野を見て、
榎本は背広の懐から携帯電話をとりだし、
「椎名か? おう、俺」
「うんにゃ、違う。そっちは今んとこだいじょうぶ」
「実はな、おまえを女――いや、『元』乙女と見込んで頼みがある」
シャワシャワシャワシャワ……
セミの大合唱に包まれて、白いバンは山の中を走っていく。
夏は終わらない。
――――今は、まだ。
【9月13日16時30分】
「――――で、教えちまったわけだ、バレンタインとは何かを。」
榎本がため息まじりに言った。
昼休み中、保健室でこっそりビールを飲んでいた椎名真由美は、
伊里野の訪問を受けた。
どこで小耳にはさんだのか、伊里野の目的はバレンタインに関する知識の入手だった。
椎名真由美は、それはそれはおもしろがった。
この日本特有の恋愛イベントを、微に入り細に入り解説した。
それだけでは飽き足らず「私の友達の話なんだけどね」で始まる
甘ったるい体験談まで、あることないこと伊里野に吹き込んだ。
その結果、
「この騒ぎだ」
先坂絵里と柿崎は、木之下マートまで車を走らせている。
基地内のPXは、製菓用チョコなんて取り扱っていなかったからだ。
ついでにお菓子作りの本も買ってくる予定である。
「だって、しょうがないじゃない」
椎名真由美と榎本は、最寄りの食堂の調理場に向かって歩いている。
調理用具を借りてくるためだ。
「PXで売ってる板チョコじゃダメなのかよ」
榎本が歩きながらぶつくさとぼやいた。
「これだから男は。それじゃダメなのよ。」
なぜか胸をはって偉そうに答える。
そんな椎名真由美に榎本は「作ったことあるのか?」とたずねた。
半瞬の沈黙の後「……何を?」と椎名真由美はすっとぼけた。
「だから、手作りチョコだよ。気持ちのこもった本命の」
「……どうだっていいじゃないのそこんとこは」
椎名真由美はごまかしつつ、さりげなく歩く速度をあげる。
榎本もさりげなくそれにあわせ、並んで歩きながらからかう。
「おまえにもそんなころがあったってわけだ」
さもうれしそうに笑う榎本に、椎名真由美は言葉をたたきつけた。
「んなことより、今夜は『ない』んでしょうね?」
とたんに榎本の眼が暗さをおび、歩みがわずかに遅くなった。
「今のところはたぶん、な」
それ以上の保証が榎本にできないことは、椎名真由美にもわかっていた。
だから、そのまま黙って歩いた。
【9月13日17時08分】
オムレツを作ることは卵を割ることから始まると、誰かが言っていた。
なら、バレンタインチョコを作ることはどこから始まるのだろう。
先坂絵里は、パイプ椅子に座ってぼんやりとそんなことを考えていた。
そのわきでは、椎名真由美が制服の上から白いエプロンをつけた伊里野に、
包丁の握り方を教えている。
「基本はコンバットナイフと同じ順手」
「で、もう少し軽く握って親指だけ刃の背のほうに……そそ」
馬鹿みたいに広く天井の高い会議室とおぼしい部屋。
その一角が即席のキッチンと化していた。
会議用のテーブルの上に置かれたまな板と包丁。
弱火にしぼられた携帯用ガスコンロの上には鍋がかかっており、
湯が沸いている。
さらに、重ねられたアルミのボールが三つに泡立て器に木ベラがひとつずつ、
香りつけのラム酒のミニボトル、
デジタル表示の計量機にクッキングペーパーetc……。
当初は給湯室で行うはずだったのだが、
暗くて狭い上に汚い給湯室を嫌った椎名真由美が
大胆にもブリーフィングルームの使用を提案したのだ。
―――― どーせ使っちゃいないんだから、かまやしないでしょ
その一言で渋る木村を説得し、火災報知器のセンサーだけは
ちゃんと殺してから作業することを約束して、
なかば無理やりブリーフィングルームを占拠した。
【9月13日17時08分】
かくして、本来ならば作戦説明が書かれるはずのホワイトボードには
“誰にでも一晩で作れるチョコガナッシュ”なるピンクの大文字が躍り、
そのレシピが書かれることとなった。
(ちなみに、この段階で榎本と柿崎は逃亡した)
“その1.チョコ(製菓用)を細かく刻んで、
湯煎にかけて溶かしながら45〜50℃まで温める。”
ダンッ! ダンッ! ダンッ!
間違ってもリズミカルとは言えない断裁音が、
ブリーフィングルームにこだまする。
伊里野が包丁でチョコを刻む音だ。
恐ろしく真剣な顔をしながら包丁を動かしている。
肩には明らかに力が入りすぎており、あぶなっかしいことこの上ない。
かかる状況は、時としてはたで見ている者に恐怖をもたらす。
どうしても流血沙汰を想像してしまうからだ。
不安に耐えかねた先坂絵里が伊里野に声をかける。
「えーと、ちょっといい加奈ちゃん?」
そう言って、伊里野が手をとめた瞬間を見計らい自ら手本を見せてチョコを刻むため
その手の包丁をとろうとして
「いや」
即座に伊里野が拒否した。
先坂絵里は驚いた。
予期せず自分の口からとびだした言葉に、伊里野自身も凍りついた。
次の瞬間、「プッ」椎名真由美がふきだし「ぶはははははっ!」弾けるように笑い出した。
伊里野の顔が火がついたように赤くなる。
先坂絵里は理解した。
自分の目の前で作られているのは、他でもないバレンタインチョコなのだ。
しかも、本命バリバリの。
だから、伊里野に謝った。
「……そうだよね。ごめんね」
顔を真っ赤にした伊里野が、
先坂絵里の謝罪にふるふると首を横にふる。
「わたしのほうこそごめんなさい」
「じゃ、仲直り」
先坂絵里が笑いながら頭をなでると、
伊里野はこくんとうなづいた。
「でね、もうちょっと力ぬいてこんな感じで……」
別の包丁を手にとり、まな板の端で軽く動かしてみせると
伊里野がぎこちなくそれをまねる。
タンッ! タンッ! タンッ!
少しだけ軽くリズミカルになったチョコを刻む音と、
椎名真由美がゲラゲラ笑う声とが、
夕闇の迫りはじめたブリーフィングルームにこだましている。
【9月13日18時14分】
その時。
花村と西久保、浅羽の三人は書店のエロ本コーナー付近にいた。
西久保は見るともなくアイドル雑誌をパラパラとめくり、
花村は堂々とエロ本を物色していたが
ひとり浅羽だけは本に手をのばさなかった。
落ち着かなげな様子であたりを見回している。
と、そんな浅羽の鼻面に花村がエロ本のグラビアを突きつけて言った。
「浅羽浅羽、これちょっと伊里野に似てるぞ」
とっさに浅羽は右手をふりあげて空手チョップを花村の頭に叩き込もうとして
断固として花村に粛清の攻撃を加えんとする清き意思と、
本能的にグラビアを視認しようとする邪悪な衝動とが、
コンマゼロ数秒の間浅羽の中でせめぎあった。
その結果、力加減と方向制御を誤った浅羽の空手チョップが
マス大山顔負けの実に見事な角度で花村の左耳をそいだ。
「いッてええええええええ!!」
花村が絶叫し、店中の人間の視線がエロ本コーナーの三人に集中する。
……店内が比較的空いていたことは、不幸中の幸いだったと言えよう。
【9月13日18時14分】
その時。
水前寺は、木ノ下マート駐車場に停められた軽トラの荷台で仮眠をとっていた。
幌をかけて外から見えないようにしてある荷台の内部は、
まるで子供がおもちゃ箱をひっくりかえしたようだった。
赤外線レンズやデジタルカメラといった撮影機材に
得体の知れない記号が殴り書きされたメモ、
パソコンとそのバッテリーにMOドライブなど、
足の踏み場もないくらい散らかっていた。
そしてそれら雑多な諜報ツールのすき間を埋めるようにして、
くの字になった水前寺が寝息を立てている。
その寝顔には、夏休みを待つ小学生のような笑みが浮かんでいた。
【9月13日18時14分】
その時。
晶穂は、中華料理の『鉄人屋』でメモをとりながらワンタンメン大盛りを食っていた。
本来、知られざる名店を紹介するのが晶穂の担当する「行き当たりばったり」の目的である。
しかし、どうにも今回はネタが見つからなかった。
そうこうするうちに締め切りが迫り、今回は別の記事でいこうかと思っていたところ、
偶然この店の前を通りかかったのである。
たまには有名店の辛口実情レポートもよかろうと思いふらりと入った晶穂だったが、
すぐにその考えを撤回した。
盛りが恐ろしく良いにもかかわらず、その味は決して悪くないのだ。
いや、むしろそのボリュームと値段に不釣合いなほど美味い。
しっかりしていながらそれでいて瑞々しいワンタンと
細めにうたれたコシのある麺を、
上品でコクのある醤油スープがしっかりと支えている。
ワンタンメンを完食した晶穂は満足のため息をついた。
今までこの店をアホのような大盛りが売りなだけの
ゲテモノと評価していたことを反省もした。
が、ふと視線をめぐらして油染みた店内の壁を見た途端、晶穂の上機嫌は吹き飛んだ。
そこには、Vサインを出して不敵に微笑む男の写真が飾られていた。
“最年少記録保持者 水前寺邦博・学生・15歳”
……ここは良い店だ。それは認めよう。しかし。
―――― 鉄人定食だかなんだか知らないが、あんなものに挑戦するやつはただの馬鹿だ
そう心の中でつぶやいてから、晶穂は勢いよく立ち上がってレジへ向かった。
【9月13日18時14分】
その時。
38度空域高度12万フィートを、何かが通過した。
【9月14日午前2時28分】
数時間前には即席キッチンだったブリーフィングルームは、
今は静まりかえっていた。
床に落ちた鍋から大量に流れ出たチョコが、
白く粉をふいてカーペットの上で固まっている。
派手に倒されたままの椅子とテーブル。
ホワイトボードに残された“誰にでも一晩で作れるチョコガナッシュ”の文字。
床に転がった生クリームの空パックと、
チョコがこびりついたまま洗いもせずに放り出されたゴムベラ。
それらを、じかに床へ座り込んだ椎名真由美がじっと眺めている。
右手にグロック、左手にウオッカの瓶を持っていた。
【9月14日午前2時40分】
「伊里野の様子は?」
「安定しています。どうにか落ちついたみたいです」
榎本が滅菌区画に通じる廊下を早足で歩き、
先坂絵里がそれを追うようにして報告を続ける。
「それと……」
先坂絵里が口ごもる。
「なんだ?」
「ブリーフィングルームのほう、柿崎さんが片付けにいったそうなんです」
「そしたら、べろんべろんに酔った椎名先輩にすごい剣幕で追い払われたって」
「ああん? なんだそりゃ??」
思わず立ち止まってきき返す榎本に、先坂絵里は続けた。
「椎名先輩がウオッカをラッパ飲みしながらグロックふりまわして、
『指一本でも触れたらケツをネバダまで吹っ飛ばしてやる』って」
その地名が、榎本の記憶を呼び起こした。
――――――――ピーナッツ・アプローチのやり方を習ったのは、
まだネバダの基地にいたころ
――――――――私が見たものとか触ったものとか歩いた場所とか、
そういうのはみんな片付けられちゃうんだって
「あの、榎本さん?」
「……ああ、悪い」
すぐにまた歩き始めた榎本に、先坂絵里が追いすがって指示をあおぐ。
「で、どうしましょう?」
「ほっとけ」
「ウォッカ片手に銃を持ってるんですよ? そんなわけにいかないでしょう」
「いいからほっとけ」
「でも」
「だいじょうぶだからほっとけ」
すがる先坂絵里に、どこまでも榎本は同じ答えを返し続ける。
【9月14日6時30分】
椎名真由美が目を覚ますと、ブリーフィングルームはチリひとつなく片付けられていた。
左手に持っていたはずのウオッカの瓶は消え、
右手に持っていたはずのグロックはテーブルの上においてあったが、
そんなものには目もくれずに立ち上がって廊下へ飛び出す。
榎本の姿を求めて走り出そうとした椎名真由美の視界の片隅で。
当の榎本が、給湯室の前の廊下にうんこ座りしていた。
駆け寄った椎名真由美が必殺の一撃をくりだす寸前、
榎本は黙って給湯室の中を指差す。
伊里野が、こちらに背を向けて流し場で鍋を洗っていた。
「加奈ちゃんっ!? まだ寝てなきゃ」
「へいき」
ふり返らずに伊里野が答えた。
そのまま洗いものを続けながら、ぽつりぽつりと言葉をつむぐ。
「椎名さん」
「なに?」
「ありがとう」
「……ううん」
「また教えてくれる?」
椎名真由美は思った。
ダーマ精製ポッドの中でうごめく蛆虫の群れを。
滅菌区画の床に投げ捨てられた空の輸血パックを。
機関銃の弾丸のような速さで消費されるアンプルを。
めちゃくちゃに痙攣して飛び跳ねようとする体を。
それにあわせて振り乱される長い髪を。
ブリーフィングルームにエマージェンシーコールが鳴り響いた時、
伊里野の顔に浮かんだ表情を。
自分は生涯見ずに済むであろう高度12万フィートの死の世界を。
これが自分のエゴであることはわかっている
そんなことを祈る資格すら自分にはないことも
それでも
それでもどうか
「――――2月になったらね」
鍋を洗っていた伊里野の手がとまった。
数秒して再び洗いはじめたものの、肩が震え、
すぐにしゃくりあげるような泣き声が聞こえてくる。
椎名真由美は、黙って伊里野を抱きしめた。
榎本はいつの間にか消えていた。
【9月14日7時45分】
期待しつつ警戒するという、非常に複雑な心の準備をしながら下駄箱を開けた浅羽は、
中からふっと甘い香りが漂ってきたことに気づいた。
いぶかしげに下駄箱の中をのぞきこんだ浅羽が見つけたのは、
紙でできたチョコの空き箱だった。
『Couverture Sweet 〜製菓用最高級リッチチョコレート〜』の文字が、
流麗な書体で箱の表に踊っている。
顔に近づけると、かすかなカカオの匂いが鼻をくすぐった。
普段と違った『手紙』に首をひねりながら浅羽がふりむくと、
いつのまにか後ろに音もなく白衣姿の椎名真由美が立っていた。
「うわあぁっ?!」
心臓が口から飛び出すかと思った。
――――しまった、見られたか?!
焦る内心とハイテンポで高鳴る鼓動をどうにかおさえながら、
浅羽はとりあえず挨拶をした。
「お、おはようございます」
椎名真由美は、挨拶を返さなかった。
無言で浅羽をみつめる。
「あの、何か」
椎名真由美は無言のまま、どこか疲れたような眼差しで
じっと浅羽をみつめ続ける。
「えぇーっとあのですねこれは別に何もおかしな」
浅羽が緊張に耐え切れなくなって何もかもゲロしそうになった瞬間、
椎名真由美が視線を外した。
そのまま身をひるがえすと、あっけにとられる浅羽に手をひらひらとふって立ち去っていく。
浅羽は得体の知れない安堵感に襲われ、脱力のあまりその場にしゃがみこんだ。
保健室に向かって大またで歩きながら、椎名真由美はひとりごちた。
「んったく、どいつもこいつもニブチンどもが」
もしもあそこで一言でもしゃべっていたら、浅羽に言ってしまっただろう。
言わずにはおれなかったはずだ。
今日に限っては、それに特別な意味がこめられていることを。
―――それは、伊里野の予告状なのだということを。
END