「更識さん、前! 前!」  
 放課後の廊下。後ろからクラスメイトが叫んでいるが、前に何があるというのだろう。  
 両手いっぱいに積み上げた本の山のせいで、私、更識簪のRVRはゼロ。全く何も見え  
ない。ちなみにRVRとは航空気象用語で『滑走路視距離』を意味している。  
「え、え〜っと、右? いや違った左、左! ってごめんやっぱり右!」  
 後ろから私が避けるべき方向をGCAよろしく誘導してくれているが、精度が悪すぎと  
いうかブレ過ぎである。本の山が崩れないよう、少しは配慮して欲しい。ちなみにGCA  
とは『着陸誘導管制』で、主に視界が悪いときなどに管制官がレーダーを見ながら、音声  
により航空機を滑走路直前まで誘導する方式を意味する。  
「ああああっ!? お、織斑くん避けて! 更識さんを避けてええええぇぇぇぇっ!!」  
 えっ! 織斑くんって――い、一夏!?  
 思いもしない人の名前が耳に飛び込んできた。私の心を動揺が走る。心の揺れは身体の  
揺れを誘発し、つまり私は大きく体勢を崩してしまった。両手に積み上げた本の山が雪崩  
を起こした。  
「簪、危ないっ!!」  
 私の名を呼ぶことを許した、この世でたったひとりの私の想い人が、倒れそうになった  
私の身体を抱きとめてくれた。  
「……ふう。大丈夫か?」  
「あ……うん。その……ありがたいんだけど……」  
 言いながら私は眼を下に落とした。つられて一夏も視線を下にずらす。次の瞬間、一夏  
が息を飲むのが分かった。一夏の両手は私をしっかりと捕らえている。一方の手は私の腕  
を、もう一方の手は私の……その……胸を。  
 一夏の手が触れた時の感触で、何が起きたかは瞬時に察しがついた。けれどこうして見  
てしまうと改めて恥ずかしさが込み上げてくる。顔中が熱い。きっと通常の3倍くらい赤く  
なっているに違いない。  
「あっ!? ご、ごめん! その、俺そんなつもりじゃ!!」  
 もちろん分かっている。偶然のアクシデント、不可抗力だということくらい。  
 一夏が顔を真赤にしながら私の胸から手を離した。ほっとしたような、少しだけ残念な  
ような、そんな複雑な思いが私の中に生まれた。  
 付き合うようになって、私と一夏は殆ど毎晩のようにえっちをしている。最近、付き合  
いだした頃に比べて、ほんの少し胸が大きくなったように感じる――勿論、本音ちゃんや  
お姉ちゃんほどではないけど。  
 ふと見ると、一夏が自分の手を見ていた。指がわきわきと動いている。  
「……なぁ、簪。ひょっとして――むぐうっ!?」  
 慌てて一夏の口を押さえる。私が感じているのと同じことを思ったみたいだけど、時と  
場所をわきまえて欲しい。  
 ……それにしても、さっきみたいな状況を何と表現していただろうか。確か――。  
「ラッキースケベだよ〜」  
 聞き慣れた、飄々とした語り口。いつの間に来たのだろう。笑っているような、泣いて  
いるような、なんとも表現しづらい表情(アルカイク・スマイル)でお姉ちゃんが傍に立  
っていた。  
「それにしても、白昼堂々やってくれるわね〜、一夏くん?」  
「た、楯無さんっ!? こ、これにはその、色々と事情が!!」  
「問答無用――ムフッ♪」  
 パンッ! お姉ちゃんが扇子を開くと、そこには『一夏。責任……とってくれるよね?  
by更識簪』と、どこかの学園ゾンビ漫画に出てきそうな言葉が大書されていた。  
【終】  
 
 

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