百鬼夜行抄  
 
 

 司ちゃんに恋人ができた。  
(恋人というより下僕だが)  
 従姉弟の僕としてはなんとなく面白くない。  
(司ちゃんに普通の――妖怪でも妖怪つきでもない――人間の彼氏ができたことは喜ばしく思ってるが)  
 別に司ちゃんに恋愛感情を抱いてるわけじゃない。  
(これは断じて違う)  
 どちらかというと、仲のよかった兄弟姉妹に恋人ができたときの感情に近い……ような気がする。僕は一人っ子だからわからないけど。  
(待てよ?)  
 頭の中で分析していた僕は、頭をかかえた。  
(シスコンか、僕は)  
 しかし、よく考えるとそれともまた違った感情であるようにも思える。  
「がーっ!」  
 僕は頭をかきむしった。  
 はっきりした言葉――形にしようとするとすればするほどわからなくなる。  
「若っ! いかがされましたか?」  
「疳の虫でも飲みこまれましたか?」  
 僕の声を聞いて、尾黒と尾白が飛んできた。  
「なんでもない……。てか、疳の虫飲みこむってなんなのさ」  
「おや、ご存じありませぬか。疳の虫というのはこれこのぐらいの虫でございまして、人  
に飲みこまれると体の中で悪さをいたしまする。まあ、力なき妖怪ではありますが、小さ  
な子供などに取りつくと……」  
 僕は尾黒の説明の途中でついていけなくなって、机に顔を突っ伏した。疳の虫なんて妖  
怪が本当にいるのか。こいつらの世界はまったく奥が知れない。  
 ……ああ、でも…………。  
「疳の虫かあ……」  
 僕は顔を上げて、机の上に力なく顎をのせた。  
 もしかしたら、そんなもんなのかしれない。  
 わけのわからない妖怪を飲みこんでしまって、そいつが体の中で悪さをしているのかも。  
 尾黒・尾白の声を遠くに聞きながら、いささか現実逃避気味に僕は考える。  
 ――まあ、いいさ。  
 いつか司ちゃんが誰かと結婚しても、僕はいつでも司ちゃんを助けに行く。  
 そして僕が誰かと結婚して家庭を持っても、司ちゃんは困ったときは必ず助けに来てく  
れるんだろう……。  
 僕たちの間にある感情が恋愛かどうかなんてわからないけど、確かな絆があることは信  
じられる。  
 それだけで、もういいじゃないか……。  

 

「……って、僕がようやく気持ちの整理をつけたってのに」  
 僕はまたもや頭をかきむしる。  
「どーして司ちゃんが、僕の隣で寝てるわけ!?」  
 僕の目の前にはつまみと空いた酒瓶の転がったテーブルと、薄い毛布をかけてすやすや  
眠ってる司ちゃん。  

 そーいや、昨日は祖母と母が留守で、司ちゃんが泊まりに来たんだった。  
 青嵐と尾黒や尾白たちがいるからいいかと思っていたのが甘かった。  
 そのまま僕の部屋で宴会になだれこんで、いつの間にか雑魚寝しちゃったらしい。  
 ――司ちゃんは、無防備に僕の隣ですやすや寝てる。  
 司ちゃんに彼氏ができる前は、こんなこと日常茶飯事だったんだけど、やっぱり今とな  
ってはマズイだろう。  
 だいたい、これまでがいい加減過ぎたんだ。  
 時計を見ると、まだ夜半過ぎ。今からでも遅くない。ちゃんと客間に行って寝てもらおう。  
「司ちゃん」  
 揺り起こそうとして伸ばした手が宙で止まる。彼女に触れるのが、なぜだか躊躇われた。  
「司ちゃん、起きて」  
「ん……」  
 やっっぱり声だけでは司ちゃんの目を覚ますことはできなかったようだ。彼女は口の中  
でむにゃむにゃ言って、ころんと寝返りを打った。  
 その拍子に、彼女にかかっていた毛布がずれて、キャミソール一枚の薄い肩がむき出し  
になった。  

(勘弁してよ〜)  
 青嵐たちもいつの間にかいないし。  
 僕がこんなに気にしているというのに、司ちゃんの方はまったく意識する様子がない。  
普通は逆じゃないのか。彼氏ができた子ってのは、もっとガードが固くなるものだろう。  
――それとも。  
(僕は端っから除外ってことか)  
 不意に、胸の奥から何かがわき上がってきた。  
 僕はゆっくりと司ちゃんの側に寄った。  
 彼女の体を挟んで、その両脇に腕をつく。彼女の上にのしかかるような体勢。この肘を  
曲げてしまえば、もう後戻りはできない。  
「司ちゃん……」  
 最後のだめ押しに声をかけてみる。司ちゃんが起きてくれれば。あの真っ黒な無機質な  
瞳で僕を見てくれれば。  
 そうしたら止めることができるのに。  
 でも、彼女は目覚める気配もない。  
(――疳の虫のせいにできるかな)  
 ゆっくりと腕の力を抜きながら、そんな馬鹿な考えがちらりと頭の隅をよぎった。  

 夜でも蒸し暑い季節なのに、司ちゃんの唇はひんやりと冷たかった。  
 軽く触れて離れ、でもまた引き寄せられるように唇を重ねる。  
「う……」  
 司ちゃんが呻く。まぶたがぴくぴく動いてるから、目覚めかかっているんだろう。――  
と、思っている間にぽっかりと司ちゃんが目を開けた。  
 黒い瞳が僕を見つめる。でも、もう僕は彼女に触れてしまった。  
「ん……律……?」  
 僕は構わず、もう一度司ちゃんに口づけた。  
 まだ半分眠っているような司ちゃんは、大人しく僕の口づけを受けた。そのことに、何  
だか感動してしまう。  
 軽く吸ったら唇が開いたので、舌を差し入れてみる。  
「ん……ふ、ん……んんん!?」  
 ようやく覚醒したのだろう、途中で司ちゃんの反応が変わったけど、気にせずに続けた。  
「ん、んんんんん、んーーーーーっ!」  
 司ちゃんが暴れ出したので、僕はようやく唇を離した。  

「なななななにやってるの!?」  
 完全に狼狽えて司ちゃんが叫ぶ。  
「キス」  
 真っ赤になる司ちゃんに、僕はまた唇を落とそうとする。が、それは司ちゃんの手によ  
って阻止されてしまった。  
 僕の体の下から逃れようと、ジリジリと上にずり上がりながら、司ちゃんはまだ理解で  
きないって顔をしている。  
「キ、キスって……どーして!?」  
「好きだから」  
 言葉がするりと出てきた。  

 司ちゃんも驚いたようだけど、僕も驚いた。  
 今さら間抜けな話だけど、この時まで本当に、僕は違うと思っていたのだ。  
 司ちゃんへの気持ちは恋愛ではないと。  
 だけど、気づいてしまうと、その感情は当たり前のように僕の中にあった。  
 ――そうだ、僕はずっとずっと司ちゃんが好きだった。  
 般若のように美しいと思ったあの時から。  
「ウ、ウソツキ!」  
 司ちゃんは怒ったような困ったような変な顔で僕を睨んだ。  
「何でウソなのさ」  
「だって、今までそんなそぶり見せたことなかったじゃない」  
「うん、そうだね」  
 あっさりと僕が認めたので、司ちゃんはますます変な顔になった。……いや、待てよ。  
この表情は。  
「しっ、信じらんない。ずーっと一緒にいたのに、今さらそんなこと言わないでよ」  
「しょうがないじゃないか。今気づいたんだから。……泣かないでよ」  
「だって、だってそんな……困る〜」  

 しまった、止めようとして言ったのが逆効果だったみたいだ。司ちゃんは顔をくしゃく  
しゃにして泣き出した。  
「つ、司ちゃん」  
 女の子に泣かれるのは苦手だ。ましてやそれが司ちゃんならなおさら。  
 僕はあたふたと手を動かしたあげく、泣いている司ちゃんを抱えこんだ。司ちゃんはぴ  
くっと肩を震わせたけど、僕を拒絶しようとはしなかった。  
 ゆっくり、ゆっくりと髪の毛を撫でているうちに、ちょっとずつ司ちゃんは落ち着いて  
いった。  
「……私のどこが好きなの?」  
 答えにくいことを聞かれて、僕は顔をしかめた。  
(『般若みたいに』綺麗だったとか言ったら、怒られるよな)  
 しばらく宙を睨んで、通りのよさそうな答え――一応、本音でもある――をひねり出す。  
「うーん、ときどき、こんな風に可愛くなるとこ?」  
「なんで疑問形なのよ!」  
 しまった、またもや逆効果だ。司ちゃんは憤然と顔を上げて怒り出した。その顔はまさ  
に般若。  

 ――妖怪から解放されて以来、司ちゃんはずいぶんと感情が豊かになった。こんな風に  
怒ったり、笑ったり、泣いたりする彼女は、やっぱりとても可愛いと思う。  
「だいたいね、最近あんたは生意気なのよ。3歳も年下なのに可愛いなんて……可愛いな  
んて……」  
 司ちゃんの勢いが弱くなってきた。顔を赤くして、居心地悪そうに目をさまよわせる。  
 そういえば、僕たちは今、抱き合っているような格好で、互いの顔が至近距離にあるん  
だった。  
 黙ってしまった司ちゃんの頬に、僕はそっと口づけた。  
「りっ、律!」  
「あのさ」  
 言葉を被せるようにして、司ちゃんの抗議を断ち切る。  
「確かに今さらなんだけど、言ったことは本当だから。僕は3つも年下だし、自分の気持  
ちに気づかないような間抜けだけど、本気で司ちゃんが好きだよ。――司ちゃんは?」  
「わた、私は――」  

 

 くしゃりと表情を歪めると、司ちゃんは顔を覆ってしまった。  
「そんなこと聞かないでよぉ……」  
「僕には聞いたくせに」  
「それは律が言ったからでしょ!」  
 司ちゃんは顔を覆ったままうずくまる。うーん、なんだかいじめてる気分。  
 僕は司ちゃんの手を掴む。それほど力は入れなかったのに、意外にもすんなりと白い手  
は動いて、その下から彼女の紅に染まった顔がのぞいた。  
「……そんな言えないことなんだ?」  
「う〜〜」  
 眉を寄せて、上目遣いに僕を見ながら司ちゃんが唸る。その瞳は途方に暮れたような色  
をしている。  
「司ちゃん?」  
 額を寄せて、息がかかるほど近くで囁く。  
「だ…だって、私だって、いままでそんなこと、考えたこともなかったもの。律は従弟で、  
弟みたいなもので――」  
「じゃあ、考えてよ」  
 額を合わせたまま、司ちゃんの頬に触れる。  

「わかんない、わかんないわよう」  
 司ちゃんが泣き言を言ったけど、僕は許さなかった。間近で揺れる黒い瞳をのぞきこみ  
ながら、答えを待った。  
 当惑、懊悩、混乱、羞恥。さまざまな感情が彼女の瞳で渦を巻く。  
 やがて、自分の内に向けられていたその瞳がふとさまよい、僕を捉えた。  
 ――やっと、僕を見たね、司ちゃん。  
 じっと黙りこんで、司ちゃんが僕を見つめる。  
 その手がすうっとあがって、僕の頬を撫でた。  
「小さい頃は、あんなに可愛い女の子だったのに」  
 ……って、ちょっと。  
 僕はがくりと首を垂れた。  
 この状況下で、どうしてそういうセリフが出てくるかな。  
 確かに僕は小さい頃、女の子の格好で育てられた。別にそういう趣味があったからじゃ  
なくて、魔を避けるためというおじいちゃんの言いつけだったんだけどね。  
 項垂れ、司ちゃんの肩に額を当てる格好になった僕の耳に、クスクスと笑う司ちゃんの  
声が響いた。  
「私、しばらくは律のこと、本当に女の子だと思ってたんだ」  
 ますます僕は全身の力が抜けてしまう。  
 これはやっぱり……僕は対象外ってことなんだろうな。あーあ。  

 泣きたいような虚脱感が僕を襲う。みっともないから泣かないけどね。  
 しょうがない。司ちゃんにとっては、僕はどこまでいっても3歳年下の従弟でしかない。  
そういうことなんだ。  
 そう自分に言い聞かせ、僕が司ちゃんから離れようとした、その時。  
 ふわりと司ちゃんが、僕の肩に腕を回した。  
「今はもう、男にしか見えないね……」  

 

 私ねえ、ずっと律の目が怖かったんだ。  
 僕の腕の中で、くすぐったそうに身をよじりながら司ちゃんが呟く。  
 律は特別な子だから、私たちとは違うものを見ているみたいで。……『みたい』じゃな  
くて、本当に見えてるんだってわかってからは、ますます怖くなった。  
 おかげで、ずっと律の目をちゃんと見てなかった気がする。  
 ――こんなに綺麗だったのにね。  
 損しちゃったな。  
 僕はといえば、司ちゃんに夢中で返事をする余裕もない。長い黒髪を何度も撫でて、司  
ちゃんの額に、頬に、鼻に、唇に何度もキスを降らせる。  
 そのたびに、くすぐったそうに、羞ずかしそうに、司ちゃんが笑う。  
 なんだかもう、幸せで眩暈がしそうだ。  
 ぎゅっと司ちゃんを抱きしめると、滑らかな肩に唇が触れた。そのままそこを軽く吸う  
と、ぴくんと司ちゃんが跳ねた。  

「あ」  
 髪を撫でていた手を前に滑らせて、服の上から膨らみに触れる。司ちゃんが少しだけ体  
を固くするのがわかった。  
 さっきから口数が多かったし、緊張してるんだろうな。怖がらせたくはない、優しくし  
てあげたいと思う――けど。  
 できるかどうかは自信ない。  
 司ちゃんに触れるたび、体温が上がっていく。思考に霞がかかって、何も考えられなく  
なっていく。  
「……司ちゃん」  
「な、に……?」  
 司ちゃんの唇から返事と一緒に吐息がこぼれる。そしてまた、僕の体温があがる。  
「本当に嫌なときは……言ってよね。じゃないと、僕、止められないから」  
 司ちゃんは目を見開いて、それから頬を膨らませてそっぽを向いた。  
「……バカッ!」  
「…ごめん」  
 たぶん僕は今、とても醜い貌をしているのだろう。司ちゃんが欲しくて欲しくてたまら  
ない妖怪のように。  

 僕はもう一回司ちゃんを抱きしめると、キャミソールの肩紐を落として押しさげた。  
「……っ」  
 言葉もなく、司ちゃんが身体を震わせる。とっさに胸を隠そうとした彼女の手を掴んで、  
床に押しつける。  
 華奢だと思っていたけど、やっぱり女の子の体は男とは全然違っていて、とても優しい  
丸みを描いていた。肩紐のなかった下着はキャミソールと一緒に少しずれて、色づいた先  
をのぞかせている。吸い寄せられるように唇に含んだ。  

 

「んっ」  
 司ちゃんが息を呑む。  
 軽く吸ったり、口の中で転がすと、そのたびに身体を震わせる。  
 ――どうしよう。ちょっと楽しくなってきた。  
 僕のほんのわずかな動きにも、司ちゃんが反応するのが嬉しい。――もっと。もっとい  
ろんな司ちゃんを見たい。僕の手で、司ちゃんのすべてを確かめたい。こういうの、征服  
欲っていうのかな。  
 司ちゃんの手を離して、僕は右手で胸を覆った。温もりと柔らかな弾力が掌から伝わっ  
てくる。壊れそうで最初はあまり力を入れられなかったけど、すぐに歯止めがきかなくな  
ってしまう。  
「…ぁっ、律……っ」  
 司ちゃんの手が僕の肩を掴む。しまった、痛かったかな。  
 顔を上げると、司ちゃんは何かに耐えるみたいにして唇を噛みしめていた。黒い瞳が熱  
をはらんで僕を見ている。  
(う、わ……)  
 僕は慌てて目をそらした。なんて表情をするのさ、司ちゃん。  

「ふ……っ」  
 僕が手を動かすと、彼女の噛みしめた唇から吐息が漏れた。それすらも僕を煽ってるん  
だと気づいているだろうか。……気づいてないだろうな、司ちゃんだし。  
 僕は司ちゃんの体の下に手を入れて少し浮かすと、ホックを外して下着ごとキャミソー  
ルを取り払った。  
「り、律!」  
「なに、司ちゃん」  
「……なんでもない」  
 耳まで赤くなって、それでも司ちゃんは僕を止める言葉を言おうとはしない。それが嬉  
しい。  
 僕は司ちゃんの上半身を抱えこんだまま、その唇に柔らかく口づける。何度も。やがて  
噛みしめていた力がゆるんで、唇が薄く開いた。するりと入りこんで中を探る。  
「ぅ、ふ…、……んっ」  
 奥の方に縮こまっていた舌をすくい、絡ませる。逃げようとするのを追いかけて、捕ら  
えて強く吸う。  
 貪る。  
 そんな表現が頭に浮かぶ。  
 本当に自分が妖怪になったような気がする。  
 司ちゃんの何もかも自分のものにして抱きしめて溶けあってひとつになりたい。  

 僕は司ちゃんのスカートに手をかけた。その途端、彼女が身をよじる。僕の腕を押さえ  
て首を振るので、名残惜しかったけど唇を離した。  
「じ、自分でする…から……っ」  
 息を弾ませて司ちゃんが僕を見る。恨めしそうな目に見えるのはなぜだろう。  
 司ちゃんの白い手が僕の服を握った。  
「律、も……」  
「あ……、うん」  
 ものすごく間抜けた声が出た。カーッと頬が熱くなっていくのがわかる。思わず顔をお  
おってため息を吐く。まいったな。  
 2人で背中を向けてゴソゴソと服を脱ぐ。なんだかとてもカッコ悪い構図だなあと、ほ  
んのちょっとだけ戻ってきた理性が自嘲する。  
 もっとスマートにできればいいんだろうけど、そもそも告白から間抜けてたんだから仕  
方ない。  
「律……。電気、消して」  
 背後からの小さな声に振り向く。司ちゃんはぺたんと畳に座りこみ、丸くなって体を隠  
していた。艶やかな黒髪が肩からなだれ落ち、彼女の顔を隠す。透きとおるように白い背  
中がほんのり上気して桜色に染まっている。  

「み、見ないでよ!」  
 僕の視線を感じたのだろう、司ちゃんが首だけこちらに向けて叫んだ。  
 どうして見ちゃいけないんだろうと、僕はぼんやり考える。とても綺麗なのに。  
 不意に昔のことが思い出された。  
 前にも一度、こんな情景に出会ったことがある。あれはまだ僕が高校生の頃で、司ちゃ  
んは妖魔に取りつかれて苦しんでいた。彼女の背中には大きな痣があって、それを見てし  
まった僕は彼女をひどく悲しませてしまったのだ。  
 手を伸ばして、僕は痣の消えた彼女の背中にキスをした。  
「綺麗だよ、司ちゃん」  
 痣があっても、綺麗だったけれども。  
「律、お願いだから……」  
 それでも司ちゃんが泣きそうな顔で頼むので、僕は体を伸ばして明かりを消した。  

 
 

 月明かりに白い肢体がぼんやりと浮かぶ。  
 背中を唇で辿りながら、両手を前に回して膨らみを包みこむ。  
 素肌と素肌の触れ合う感覚が気持ちいい。  
 軽く摘んだ胸の先端は、さっきよりも固く尖っていて、僕を少し驚かせた。  
「……ぁっ…………」  
 司ちゃんが背中をしならせて息を詰める。さらさらと長い髪が僕をくすぐる。  
 白い背中にいくつもいくつも跡が残る。妖怪の僕が司ちゃんにつけた痣。司ちゃんは気  
にするだろうか?  
「ぁ……んっ…………り、つ」  
 司ちゃんのかすれた声にくらりとする。初めて聞く、司ちゃんの声。  
 もっと。もっと。  
 手のひらでしっとりとした肌をたどる。まだ僕の知らない場所へ。  
 そこに触れた途端、司ちゃんの体が強ばった。  

「律……っ」  
 司ちゃんが縮こまる。でも、ごめん。止められないよ。  
 華奢な体を横たえる。キスを贈る。唇に、頬に、首筋に、胸に。  
「…ちょ、律、……あ…………っ」  
 司ちゃんが身体を震わせる。声にならない吐息が漏れる。  
 右手があたたかな場所を探る。指先に熱い滴りを感じる。それが嬉しくて、僕をさらに  
駆りててる。  
 何度も何度も探るうち、司ちゃんが特別強く反応する場所に気づいた。その小さな突起  
を摘むようにして転がす。  
「あっ、ゃぁ…っ」  
 司ちゃんが首を振る。長い髪が彼女に合わせて踊る。  
 頭の芯が灼かれるようだ。  
「律……、り、つ……っ」  
 怯えたような声を上げ、司ちゃんが僕の腕を掴んだ。痛いぐらいに。  
 ごめんね。だけど、知りたいんだ。もっと違う司ちゃんを。僕の見たことのない司ちゃ  
んを。  
 もっと。  

 

 体の下に司ちゃんを組み敷く。  
 止められない。きっと自分がこれから彼女に痛みを与えるのだと、わかっているのに。  
(……ごめん)  
 胸の中でもう一回謝る。  
「……りっ」  
「好きだよ、司ちゃん」  
 その瞬間、強く身を震わせる司ちゃんを、僕はしっかりと抱きとめた。  

 

「つっ……」  
 背中に感じた痛みで我に返った。  
 司ちゃんが涙をこぼしている。噛みしめた唇からは血が滲んでいた。  
「司ちゃん……」  
 大丈夫と聞きかけてやめる。滑稽だ。僕自身が傷つけているというのに。  
「…………ばか、律」  
 司ちゃんが僕を見た。  
「なんて顔、してるのよ」  
 涙に濡れた頬に微笑みすら浮かべて。  
「――好きよ、律」  

 

 刹那、わきあがった感情をなんて呼べばいいんだろう。  
 胸が詰まる。  
「――うん」  
 だけど、出てきたのはまたもやそんな間抜けた返事で。それ以上は言葉にならなくて、  
ただ司ちゃんを抱きしめる。  
 しばらくして、司ちゃんが僕にささやいた。  
「律……。もう…平気だから」  
「…うん、わかった」  
 嘘つきな司ちゃんに気づかないふりをして、僕はゆっくりと動き出した。途端に司ちゃ  
んが顔を歪めたけど、それも見てないふりで胸の中に抱えこむ。  
 だけど、僕は覚えていよう。  
 僕が司ちゃんに与えた痛みを。  
 司ちゃんの声を。言葉を。表情を。  
 ――司ちゃんが僕に与えた、この胸の痛みを。  

 

 司ちゃんの髪が、畳の上に広がっている。  
 それを何度か掬ったり落としたりして遊んでいるうちに、ようやく司ちゃんの目が覚めた。  
「おはよう」  
 といっても、まだ外は薄明るくなってきた程度だけど。  
「ん……?」  
 寝ぼけ眼の司ちゃんの視線が僕を捉える。  
 幾度かのまばたきの後、司ちゃんは真っ赤になって飛びの……こうとして、呻いた。  
「司ちゃん!?」  
「あ、いえ、大丈夫、大丈夫よ」  
 こっちを見ないで早口でまくし立てる。  
 でも、その後、遠くに押しやられていた毛布を引き寄せるのも辛そうで――結局、僕が  
取った――僕は自分がどれだけ司ちゃんに負担をかけたのか、改めて知ったのだった。  
「ごめん」  
 司ちゃんの動揺が落ち着いたのを見計らって、僕は彼女に頭を下げた。  
 上から下までキッチリと毛布にくるまった格好で、司ちゃんは不思議そうに僕を見る。  
「なんで謝るの?」  
 まあ、その、いろいろと。  
 辛い思いをさせちゃったことはもちろんだけど、突然だったこととか、おかげでなんの  
用意もしてなかったこととか、なのに……とか。  
 そりゃ万一のことがあっても、ちゃんとするつもりはあるけど。  
「……後悔してるってこと?」  
「それはない!」  
「よかった」  
 全力で否定すると、司ちゃんは子供のような顔で笑った。  
 だが、その顔が一瞬にして強ばる。  
「……じゃない」  
「え?」  
「よくない! ホッシーのこと忘れてた〜!」  
 ホッシーというのは星野くんといって、司ちゃんと同じ学校の後輩で、最近できた彼氏  
……だった男だ。  
「なんだ、ようやく思い出したの」  
「律、あんた覚えてたの!?」  
「うん」  
「なんで言ってくれなかったの?」  
 いくらなんでも、僕はそれほど間抜けじゃない。  
 どうしよう、どうしようと青くなっている司ちゃんを、僕は半分呆れながら見つめる。  
 司ちゃんは、本当にこういうことに鈍い。ついでに非常識だ。  
 きっと今、僕が不機嫌な理由もわかってないに違いない。  
「今の今まで思い出さなかったんだから、結局、それだけの存在だったってことなんじゃ  
ないの」  
「なんてこと言うの」  
 思いっきり冷たく言ってやったら、半べそ顔で怒りだした。怒りたいのはこっちだよ。  
「後悔してるんだ?」  
 ……って、何だよ、そのきょとんとした顔。  
「そんなわけないでしょ」  
 僕の言葉でパニックがおさまったのか、司ちゃんは大きくため息を吐いた。  
「ただ……ホッシーに悪いことしちゃったなあって。ちゃんと断って、それからだったら、  
こんな罪悪感も少しは薄らいだのに。……なに笑ってるのよ」  
「えっ、うそ。笑ってる!?」  
 僕は慌てて口元を引き締めた。  
 なんだ、そういうことか。なーんだ。  
「一緒に謝りに行くよ」  
「いいわよ。私の問題だから」  
「行くよ」  
 少し強引に言い切ると、司ちゃんはしょうがないなというように笑って「わかった」と  
言った。  

 

 翌夕、司ちゃんは帰ってきた母たちと一緒に食卓を囲んだ。僕の家では珍しくもない光  
景だ。  

 

「司ちゃん、昨夜は暑かったでしょう。客間は風が通らないから」  
 母がにこやかに笑いながら、司ちゃんにご飯を盛ったお茶碗を差し出す。  
「あ、いえ、その、客間には眠らなかったので……」  
 もごもごと答える司ちゃんに、すかさず――本人は何の気なしに――祖母が突っこむ。  
「へ? どこに泊まったんだい?」  
「……僕の部屋」  
 ガシャンと司ちゃんがお茶碗を落っことした。  
「あら、じゃあ、また律がお父さんの部屋で寝たの?」  
「ううん、一緒に」  
 母の手からしゃもじが、祖母の手から箸がポロリと落ちる。  
「律〜っ!」  
 真っ赤になった司ちゃんが叫ぶ。  
 心配させてくれたお礼だよ。  
 狼狽する女性陣を後目に、僕はしっかりと夕ご飯を平らげたのだった。  
                                       (終)  

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