「それでさあ、彼女と結局そのままやり始めちゃって……」
「サイテーだな、この好きモノ!」
居酒屋の中に大学生たちの笑い声がどっと響く。
その笑い声の片隅で一人別世界を作りながら、律はこの場所に来たことを猛烈に後悔し
ていた。
(空気がよどんでる……)
そもそも男だけの飲み会なんて参加するつもりはなかったのだが、妙に律を気にかけて
いる同窓生の近藤が強引に彼を誘ったのだった。……本当は誘いに乗る気などなかったの
だが、その友人の名前を呼び間違えるという失敗をおかしてしまったおかげで、断り切れ
なかったのだ。
前にもこんなことがあったな。あの時は合コンだったけど。
猥談に興じる友人たちの声をBGMに手酌で酒をつぎながら、律はぼんやりと考える。
あの時は彼氏がいるというのに司も相手側で参加していて、心底ビックリしたものだった。
どうも、司ちゃんにはそのあたりの常識が足りない。
ふと、杯を口に運ぶ律の手が止まった。
まさか今も合コンに参加しているとか、いわないだろうな。
まさか、と思いながらも否定しきれないのが司の怖いところだ。積極的に合コンを企画
するタイプではないし、好きというわけでもないようだが、誘われれば断らない。
司と律が単なるいとこ同志から、いわゆる恋人同士という関係になったのは、ほんの2
週間ほど前のことである。その間に合コンがあったかどうかはわからないが……。
一度、きっちりとクギを差しておこう――と、律が思ったその時、ずしりと彼の頭が重
くなった。
『お前はこの先、背が伸びない』
「……」
頭に上に乗っかった妖怪を、律は無言で払いのけた。
煩悩や欲望渦巻く場所には妖怪が集まりやすい。色欲なんて人間の3大煩悩のうちのひ
とつだ。おかげで、さっきからこの居酒屋にはそりゃもうたくさんの妖怪たちが引き寄せ
られてきているのだった。
妖怪たちは他人の不幸を好む。
わざと虚実取り混ぜて、でたらめを聞かせる。そうやって、疑心暗鬼の闇に人が取りこ
まれていくのを、楽しんでいるのだ。
こういったヤツらは無視するのがいちばんだと、律は祖父から、そして長年の経験から
学んでいる。
杯を傾けた律の頭がまた重くなった。律は完全無視の構えで、口に酒を含む。
『お前はこの先、交尾できない』
酒が思い切り気管に入った。
『交尾できない、交尾できない、交尾でーきーなーいぞー』
律が反応したのが嬉しいのか、ゲホゲホと咳きこむ彼の頭の上で、妖怪が踊る。亀に似
たその妖怪を、律は怒りをこめて叩き落とした。
「わぁっ!」
悲鳴に律が視線を向けると、そこには怯えた表情の近藤がいた。
「なんだよ、飯嶋。そりゃ無理矢理誘ったのは悪かったけど、そんなに怒ることないじゃ
ないか」
どうやら律が妖怪を払いのけた時に側に来ていて、自分がされたのだと誤解したらしい。
人のよさそうな顔を歪ませて、半泣きになって訴えてくる。泣き上戸のようだ。
「いや近藤にやったわけじゃなくて、……悪い」
妖怪のことを人に説明するのは難しい。まして相手が見えてない場合は。誤解を解くの
をそうそうに諦めて、律はこの状況を逆に利用することにした。
「なんか悪酔いしちゃったみたいだ。ちょっと喉も痛いし、風邪かも知れない。悪いけど、
もう帰るよ」
「何だよー、飯嶋帰るのかー」
荷物を持って立ち上がろうとする律に、酔っぱらいと化した男子学生が絡む。
「お前も話せよ! 魅惑の初たいけーん」
いつの間にそんな話になったのかと律は頭を抱えた。
「抜けるなら、その前に語ってけよ。義務だぞー」
「誰と、どこで、いつ、どうやったか、詳細に述べよ!」
近藤を除く学生たちは、人に対して積極的に関わろうとしない律に対して構えているよ
うな部分があるのだが、今日は酔いも手伝ってか遠慮がない。愛想笑いを貼りつかせた律
に次々と迫ってくる。
「いや、その……勘弁してくれよ」
「いいじゃんかいいじゃんか。年上だったか、年下だったか、それだけでもさあ!」
言わない限り、とうてい解放してくれそうになかった。何でそんなことが知りたいんだ
と思いつつ、言葉少なに律は答える。
「……年上」
その場が一斉に沸き立った。
「うおー、年上の女!」
「やっぱ初めては年上だよなあ!」
「やさーしく教えてもらったか!?」
「……ああ、まあ。気持ちよかったよ」
昂奮する同窓生たちに、律はニヤリと笑って見せた。司のことを酒の肴にする気は彼に
はなかった。どうせ彼らは酔っぱらいだ。ウソでも何でも、その場で楽しい話が聞ければ
それでいいのだ。
――これが後になって司の耳に入ることになるとは、もちろんその時の律には予想もつ
かなかった。
律がバイトから家に戻ると、玄関に華奢な靴があった。母はたいてい和装だ。祖母は洋
装もするが、彼女のものにしてはデザインが若すぎる。……とすると。
「律、おかえりなさい。司ちゃん来てるわよ」
予想通り、母が居間から顔を出してにこやかに告げた。
「……うん」
先日、2人で夜を過ごしたことがバレて以来――律が自分でバラしたのだが――親戚中
ですっかり2人の仲は公認になってしまった。司の父だけは反対しているのだが、司の母
と律の母と祖母が大賛成している以上、認めるのは時間の問題だろう。飯嶋家では女性の
方が強いのだ。
公認となったこと自体にはまったく不満はない。何しろ自分が仕掛けたことだ。しかし、
例えばこうやって司が律の家を訪問したとき、家族の言葉に以前にはなかった含みを感じ
るのが、どうにも面映ゆい気がする。
「……ども」
のそのそと居間に入って、その場の誰にともしれない挨拶をする。すると、司も照れた
ような怒ったような微妙な表情で同じ言葉を返す――のが、いつものパターンだったが、
その日は違った。
「お帰り」
一瞬だけこちらに目をやって、司はそのまま視線をそらしてしまった。口調にもわずか
に棘がある……ような気がする。
「律、すぐにご飯にしますから、手を洗ってらっしゃい。司ちゃんも食べていくでしょう?」
「あ、いえ。今日は家で食べると言ってきてしまったので」
「あら、そうなの?」
意外な返答に、律の母の目が大きく開かれた。司が家に来たら、一緒に夕飯を囲むのは
当たり前になっていたからだ。
「おばさん、ごめんなさい。また今度に」
荷物を持って、司が立ち上がる。律の方は頑として見ないままだ。――どうやら、何か
怒っているらしい。それも律に対して。
律が頭の中で心当たりを探っているうちに、司はさっさと玄関を出て帰ってしまってい
た。
「残念だったわね、律」
邪気のない笑顔で、母が律を見上げた。律も曖昧に笑い返す。
「……部屋に荷物置いてくるよ」
わかって言ってるんだかまったく気づいてないのか母の言動は相変わらず謎だ。おそら
く、司が不機嫌だったことには気づいてないと思うのだが。
以前に比べれば格段に豊かになったとはいえ、司はもともとあまり感情を表に出すタイ
プではない。しかも人付き合いは淡泊で、あんな風にあっさり帰ってしまうこともしばし
ばあった。
しかし、律には確信があった。司は律に対して怒っている。……でも、何に対して?
律が部屋の扉を開けると、尾白と尾黒が顔に貼りついてきた。
「若っ! 姫のご酒肴の用意が調いましたぞ」
「して、姫はどちらに?」
夜になって小天狗の姿に戻った2匹を顔から引き剥がしながら、律は憮然と答える。
「帰ったよ」
「なにっ!」
大好きな姫の突然の帰宅に、2匹はあからさまにガッカリした様子になった。
「やはり、ホタルがお気に召さなかったのかのう」
悲しそうに2匹が律の机の上の虫かごを見やる。
「あれって……」
尾白・尾黒がいうホタルとは、妖怪のホタルのことに決まっている。律がぼんやり光る
虫かごに顔を近づけると、案の定、童子姿のごくごく小さな妖怪が3匹ほどそこにいた。
彼らは尾白と尾黒の好物で、太らせて食べるとうまい……らしい。
……これにショックを受けて、司ちゃんは帰ってしまったのだろうか。
だが、最近はすっかり妖怪慣れしてしまってる――本人は否定するだろうが――司が、
こんなことぐらいで驚くとは思えない。
それに、あの様子は動揺しているというよりは、怒っているように見えた。
「尾白、尾黒。司ちゃんは――」
2匹に詳しく事情を聞こうとした律の耳に、ボソボソと話すホタルたちの声が届いた。
『年上の人に優しく教えてもらったそうだよ』
『気持ちよかったって言ってたよ』
――何!?
「い、今、何て!?」
思わず律は虫かごをガシッと捕まえた。ホタルたちはピタッと話すのを止めて、怯えた
表情で律を見上げている。
「ああっ、若。だめでござる。せっかくいい声で鳴いてましたのに」
「驚かせては、身がやせ細って、旨くなくなってしまいまする」
「……尾白、尾黒。司ちゃんにも、このホタルは同じ話を――いや、こんな風に鳴いてた
のかな?」
虫かごを放り投げてしまいたい衝動に駆られながら、律は引きつった笑顔で2匹に聞い
た。
「はい! このホタルの声は大変によいので、姫にも聞いていただこうと思いまして」
「姫も最初は興味深そうにしておられたのですが、そのうちに急に黙りこまれて」
「やがて、ふいと席を立ってしまわれ、居間の方にゆかれてしまったのです」
そういうことかと、律はガックリと首を落とした。
ホタルたちは人の秘密を暴く。隠しておきたいことを隠しておきたい人に告げてしまう。
それがごくたまに役に立つこともあるのだが、今回は裏目に出た。
……司ちゃんは、まだ家に着いてないよな。車なら追いつけるかな。
「あっ、若!?」
「若、どちらへ!?」
荷物をひっつかんで部屋を飛び出そうとしていた律は、尾白たちの声にあることを思い
つき慌ててUターンした。
「急用を思い出した! 尾白、尾黒、もののけ提灯を貸してくれ」
食事の用意しちゃったのにと少し不満そうな母親にごめんと一言残して、律は家を出た。
尾黒の先導でもののけ道に入る。
この世と異界が交わるもののけ道には距離感というものがない。とてつもなく長い道を
歩いたつもりでほんの300メートルだったり、逆にほんの一瞬で何百キロの距離を超えた
りする。
尾黒や尾白がついていれば目的地を見失うことはないが、あちこちに異界との接点があ
り、妖怪たちも行き交うこの道に、一人で入ればたちまち迷い、出られなくなってしまう
だろう。
また、便利だが使いすぎれば魔にひかれる。かつて円照寺の和尚にそう忠告されたこと
もあるのだが――。
(いまさら、だ)
すでに律は開き直ってしまっていた。
まっ暗な道を律の感覚で100メートルほど歩くと、やがて前方がぼんやりと明るくなっ
て、その先に人影が見えた。
それが司であることを確認して、律はホッと息を吐く。
場所でなく、人を目的にしたことはなかったから不安だったが、どうやら無事に着いた
らしい。
「尾黒、ご苦労。もう家に戻ってていいよ」
「若っ!? 姫を迎えに来られたのではないので?」
「ちょっと司ちゃんと話があるから、先戻ってて」
大好きな司と帰れると思っていたからか、残念そうな尾黒を残して、律はもののけ道か
ら通常の道に戻った。
道の向こうから来る司を待ちかまえる。彼女はまだ律には気づかず、不機嫌なオーラを
まとったまま、夜道をこちらへやってくる。
なんだか、自分がまた妖怪になったような気がした。もののけ道を使って、先回りして
待ち伏せて――目的の姫を捕まえる。
5メートルほどの距離に近づいて、ようやく司は、塀にもたれかかって立つ律に気がつ
いた。
「やあ、司ちゃん」
「り、律!? あんたどうしてそこにいるわけ?」
「司ちゃん、僕の部屋でホタル見たでしょう」
司の質問には答えずに、律は一足飛びに本題に入った。
「そ、そんなもの知らないわよ」
口ではそう言ってるが、律から視線を外す司の表情には、ハッキリと動揺が表れている。
「たぶん誤解してる気がするから、それを解こうと思って」
「知らないって言ってるでしょ!」
「あいつらが言ってたのは、ウソだからね」
「知らないってば! だいたい、あんたが誰とつき合うと私は――」
かみ合わない会話にじれて、つい司は感情を表に出した。はっと口を押さえる司に、律
がニヤリと笑う。
「やっぱり知ってるんじゃない」
そして一転、真面目な顔になって、司を見つめる。
「言っとくけど、僕は司ちゃん以外とつき合ったことないからね」
よく考えるとかなり情けない宣言ではあるのだが、言ってる律も聞いてる司もそんなこ
とに気づく余裕はない。
「ウソツキ!」
「ウソじゃないよ」
「だって優しくリードしてもらったって言ってたわ!」
「それは――」
その時、ゴホンゴホンというわざとらしい咳払いの音が聞こえた。焦って音の方を見る
と、ちょうどどこかのおじさんが彼らの横をすり抜けていくところだった。
「…まったく、近頃の若いもんは……」
ポツリと呟かれた言葉が、律と司を現実に引き戻した。もしや今の自分たちの姿は、端
から見れば道のど真ん中で痴話喧嘩を繰り広げるバカップルとうヤツではなかろうか。
「………………と、とりあえず場所、変えようか」
「……うん」
近くにあった公園は、街灯もないようなごく小さなところだったが、月明かりで結構明
るかった。
「あー恥ずかしい。もうご近所歩けなくなっちゃうわ」
ベンチに体を投げ出すように座って、司が呟いた。律もその隣に腰を降ろし、説明しよ
うと口を開く。
「……あのさ」
「わかってるわよ」
だが、その彼の言葉を断ち切るように、司が強い口調で話し始める。
「ああいうやつらの話すことを真に受けるなって言うんでしょ。でたらめばかり聞かせる
んだから。私だってそれはわかってるけど」
実はホタルたちの言っていたことはある意味真実である。ただ、律が近藤たちにウソを
ついただけだ。しかし、律は黙っておくことにした。
「やきもちやいてくれたんだ」
「違うわよ!」
冗談半分の言葉だったのだが、即否定されるとやはり傷つく。律の語調がほんのわずか
尖った。
「じゃあ、なんで怒ってたのさ」
「怒ってないわよ」
「怒ってたよ」
「……っ」
重ねて断言されて、司は言葉を詰まらせた。しばらく沈黙があたりを支配する。やがて
拗ねたように俯いていた司がポツリと言葉を漏らした。
「……どうせ、私は優しくリードなんかできなかったわよ」
「はぁ!?」
思わぬことを言われて、律の声がひっくり返った。そんな彼にお構いなく、司は堰が切
れたようにしゃべり出した。
「うろたえてわたわたしてるばっかりでリードするどころか自分自身がどうしていいかわ
かんないぐらいで3歳も年上のくせにみっともないったら」
「ちょ……、ま、待った、司ちゃんっ」
怒濤のように話し続ける司を慌てて律は止めた。彼女の言葉を頭の中で反芻して、よう
やくその意味を悟る。
そんなことを気にしていたのか、と正直思った。
自分が思っていたよりずっと、司は年上だと言うことにこだわっていたようだ。
司にそんなことをして欲しいとは、律はまったく考えていなかったのだが。というより、
男の立場としてはリードされてもあまり嬉しくないのが本音だ。
だいたい、それを言うなら自分の方がよほど余裕がなくてみっともなかったと思う。
あの日、律が痛切に感じたのは、自分の弱さと司の強さだった。
彼女が欲しくて、子供のようにねだった自分を、司は受け入れてくれた。
「司ちゃんは優しかったよ」
拗ねた表情のまま俯いていた司が顔を上げた。その彼女に律は微笑みかける。
「とても綺麗だった」
「ウソ」
「ウソじゃないよ」
律は赤く染まった司の頬に手を伸ばした。
それに、今だって綺麗だ――。
言葉は声にならずに柔らかな唇の中に消えた。
それは、あの日以来の口づけだった。
たいてい誰かしら――主に妖怪――が周囲にいたというのがその最大の理由だが、決し
て機会がなかったわけではない。だが、2人はそれをいつも見逃していた。あまりにも長
い間従姉弟でいたせいかもしれない。新しい距離感を、彼らは計りかねていたのだ。
重ねられた唇は、すぐに相手を探るものに変わっていく。舌先で滑らかな唇をなぞり、
滑らかな白い歯の後ろをくすぐる。絡み合う舌の熱さが思考を侵していく。
「……ん…っ」
陶然としていた司は新しい刺激に身体を震わせた。自分を抱きしめていた律の手が、い
つの間にか胸へと移動して――って、ちょっと!
「ど、どこさわってるのっっ、こんなところでっ」
司は真っ赤になってあわてて体を引き離した。律も我に返ったらしく、焦った様子で手
をどける。
「ご、ごめんっ、つい」
動揺した律の口から飛び出た言葉が、司をさらに怒らせた。
「ついって何よ、ついって!」
「……ごめん、失言でした」
神妙な顔で律は頭を下げた。何とも決まらない自分がつくづく情けない。
そんな律を見ていた司に、逆に少し余裕が生まれる。……そう、今こそ3歳年上の余裕
を見せるべきではないのだろうか。
ガックリとうなだれ、落ちこんでいる従弟の手をそっと握る。
「――ここじゃ嫌だから場所、移そう?」
弾かれたように律が顔を上げる。微笑む司のその顔は、耳まで赤くなっていた。
シャワーを浴びている律を待ちながら、司は濡れた髪を何とか乾かそうと必死にタオル
で拭っていた。
ついいつもの習慣で髪まで洗ってしまったのだ。
当たり前のことだが、ラブホテルにドライヤーはない。
濡れて重くなった髪はずっしりと垂れ下がり、バスローブを冷たく濡らしていた。
妖怪に取り憑かれ、できてしまった痣を隠すために伸ばした髪。妖怪から解放された後
も短くしなかったのは結局気に入っていたからなのだが、こういう時は面倒くさい。
「あー、もういいや!」
いつまで経ってもなくならない湿り気にうんさりして、司はベッドにタオルを放り投げ
た。水滴がしたたり落ちなくなっただけでもよしとしよう。
ベッドに腰掛け、ぼんやりと周囲を見る。
入り口で適当に選んだその部屋は、深めのグリーンが基調になっていて、思っていたよ
りずっと落ち着いたデザインだった。
ベットも別に回転したりはしないようだ。もっとも、バスルームには妙な形をした椅子
が用意されていたが……。
カタンと背後で音がして、司はビクリと身体を震わせた。
静かにバスルームの扉が開く気配がする。だが、司はそちらを見ることができない。年
上の余裕のことなど頭からきれいに消え失せ、ただ緊張に体を固くする。
「……司ちゃん」
律が司を呼んだ。その静かな響きに少しだけ緊張が解けて、司は振り向くことができた。
自分から1メートルほどの距離に、やっぱり少し緊張したような顔をして律が立ってい
る。もしかしたら自分たちは今、鏡に映したように同じ顔をしているのかも知れない。
「司ちゃん」
律はそれ以上近寄ろうとしない。もう一度司の名前を呼ぶ。まるでそこに結界があって、
彼女の許しがなければ入れないかのように。
司の唇に微笑みが浮かぶ。
「律」
小さな、けれどもはっきりした声で名前を呼んで、司は律に手を差し伸べた。
バスルームから出ると、彼女は申し訳程度に備えつけられているソファセットではなく、
ベッドの上に腰掛けていた。誘っているつもりはもちろんないのだろうが、バスローブを
まとった無防備な姿は、律を煽るのに十分だった。
しかし律は、意識してゆっくりと司に近づいた。気配を感じたのか、司の体が緊張する
のがわかった。
1メートルほど手前で足を止める。
「……司ちゃん」
律はそっと司の名前を呼んだ。
司が律を見上げる。つややかに濡れた髪が、白く強ばる顔の横で揺れる。
「司ちゃん」
もう傷つけたくはない。今度こそ優しくしたい。
だから律は待つつもりだった。司が律を呼ぶまで。
白い頬が、ほんのわずかほころぶ。
「律」
細い手がゆっくりと上がって、彼を招いた。
長い長いキスの後、律の手が、司の背中にそっと回された。
髪から滴るしずくで、バスローブはかなり濡れてしまっている。
「…冷たい」
耳元で囁いて、そのまま律は耳たぶを軽く噛んだ。ぞくりと背筋が粟立つように感覚が
して、司は肩を震わせた。
律の唇が首筋をゆっくりと辿っていく。時折くすぐるように舌先で軽く触れる。その微
妙な刺激に、司は吐息をこぼす。
バスローブの腰ひもが外されて、前がはだける。悩んだ末に上も下も下着を付けてしま
ったのだが、やはり外すべきだったろうか。チラリとそんなことが頭に浮かんだが、律が
膨らみに触れた瞬間、そんなことは忘れてしまった。
「んっ」
下着の上から律がゆっくりと胸を愛撫する。送りこまれる刺激に、顔が火照っていくの
がわかる。
熱い。
律が触れた部分から体がどんどん熱くなっていく。
「……ぁっ」
律が直接触れた。思わず声を上げそうになって、司は必死に声をかみ殺した。細いけれ
ども骨張っていて大きい、男の手だ。
いつの間にこんなにも変わってしまったのか。司ちゃん、と、自分を呼ぶ声はずっと同
じなのに。
「……司ちゃん」
こんなにも、熱さが違う。
律がもたれかかるように体重をかけてきた。そのまま、ベッドへと押し倒される。
律がキスを求めてきた。首を少し傾けて、それを受ける。滑らかな唇の気持ちのいい感
触にひたっていると、律の舌が奥へと入りこんできた。
柔らかなそれは、まるで別の生き物のように蠢き、司を煽っていく。
「!」
律が胸の先端を摘んだ。その指の感触で、自分のそこがすっかり固くなっていることを
知って、司は猛烈な恥ずかしさに襲われた。
「司ちゃん?」
司が身を固くしたのがわかったのか、律が唇を離した。何でもないのだと、司は首を振
った。しかし律は心配そうな瞳で覗きこんでくる。
顔を見られたくなくて、司は律の肩口に顔を埋めた。
額にふわりとした布の感触がした。そういえば律はまだバスローブを着たままだ。自分
はもうほとんど何も身につけてないのに。
……ずるい。
司は律のバスローブの腰ひもをぐいっと引っ張った。
「わっ」
律が焦ったような声をあげる。気にせず司はローブの襟を広げて、肩から落としてしま
う。
失敗したと司は思った。
律の裸なんか見たら、さらに恥ずかしさが増してしまった。あわてて横に視線を逸らす。
スタンドライトにぼんやり浮かんだ律の体は、滑らかに筋肉がついていて、思っていた
よりずっとしっかりしていた。そういえば彼はアルバイトで肉体労働に励んでいるのだっ
た。それで筋肉がついたんだろうか?
とりとめのないことを頭の中でぐるぐると考える。
しかし、半脱ぎにさせられたまま放置された律としては立つ瀬がない。
軽くため息を吐いて、律はバスローブの両袖を抜き、下に落とす。
シーツの上に広がる司の髪を一房手にとって口づける。彼女の髪はまだ少し湿っていて
ひんやりとしていた。
「寒くない、司ちゃん」
馬鹿な質問だとわかっていて問いかける。
「……うん、大丈夫」
少し間があって、司がこちらを見た。ぎこちないがその顔には笑みが浮かんでいた。
唇に軽く、ついばむようなキスを落とす。何度も何度も。やがて、司の体から少しずつ
強ばりが取れていく。
「ふっ」
律の手がふたたび胸の頂に触れたとき、司の唇からごく自然に熱い吐息がこぼれた。
「ぁっ……ふ………ん…っ」
背筋を絶え間なく快感が走り抜け、殺しきれずに司は甘い声を上げた。
「っ」
なま暖かいざらりとした感触に身を震わせる。いつの間にか律の唇が胸へと降りてきて
いた。
動悸が聞こえてしまわないだろうか。
そんなことがチラリと頭を掠めたが、すぐに甘い痺れに思考が侵される。
「…あっ…………んぁ……っ……あっ」
敏感になった先端を律の舌と唇が弄ぶ。声をかみ殺すのがどんどん難しくなっていく。
いや、かみ殺すという思考すらあやふやになって、快楽の中に溶けていく。
律の温かい手が、少しずつ胸から腰へ、下腹へと降りていった。感覚でそれを追ってい
た司が、その意味に思い当たったのは、たったひとつだけ残った下着に律が触れたときだ
った。
霞みがかっていた意識が覚醒して、思わず反射的に脚を閉じてしまう。律のことは好き
だし、この行為を受け入れてはいるのだが、それでもまだ恥ずかしさと……そして、わず
かな恐怖があった。
律は無理強いはしなかった。
骨張った指が腿に触れて、すうっとなで上げる。ぞくりとした快感が司の体を走る。
そんなところですらも感じてしまうなんて、思ってもみなかった。
律に触れられると、そのすべてが快楽に変わる。
「あ、……ふっ、…ん……り、つ…………」
律に手を伸ばす。その背を抱きしめる。
そして司は、下肢の力をゆっくりと抜いた。
そこはすでに潤みを帯びていた。
何も隠すものがなくなったその場所を、律がゆっくりと探る。じぃんと痺れが全身に走
った。
「っぁ……」
自然とおとがいが上がってしまう。律の指が、襞を柔らかになぞりあげ、くすぐる。胸
からも甘い刺激を与えられて、司は体をのけぞらせた。
目が眩む。脚が勝手にうねる。呼吸が速い。熱い。何もかもが熱い。
「は……っ」
律の指が中心に沈められた。初めての時の痛みを一瞬思い出したが、それは単に新たな
快楽を司にもたらしただけだった。
指はいつの間にか2本に増やされて、司の中を出入りしている。自分の中で蠢く指先が
はっきりと感じられて、司は赤い頬をなお赤らめた。
ビリビリと電流のような快感が全身を駆けめぐる。
おかしくなってしまいそうだ。
「……っ、ぁくっ、………っ…あっ!?」
不意に、今までとは違う感触がした。胸の辺りにあった律の重みが消えている。目を閉
じて快感を追っていた司は慌てて視線を下に向けた。律の黒髪が目に入った、と同時に、
これまでとは比べようもないぐらい強烈な刺激が司を襲った。
「っ!!」
声も出せずにただ司は喉を大きく喘がせた。腰が自然に浮き上がる。熱くぬめるこの感
触がなんであるのか、下肢にある律の頭が何を意味してるのか、頭の隅では理解している
のに、圧倒的な快感の前に思考がついていかない。
「んっ、ぁ…………あふ、り、つ……りつ…………っ!」
それでも何とか手を伸ばして、その淫らな行為をやめさせようとしたのだが、力の入ら
ない手はただ律の髪をかき乱すだけだった。
律の舌が――そう、それは律の舌だった――自分でもほとんど触ったことのないような
場所に触れている。いや、舐めている。
羞恥と、それを上回る快感が司の体を昂ぶらせた。
律がつ…と舌先を前に滑らせた。ざらりとした感触がもっとも敏感なそこに触れたとき、
司は激しく体を痙攣させた。
「ぁっ……ぁく…………っ」
未知の快感に呼吸すらうまくできない。指とはあまりにも違うその刺激に、快楽に慣れ
ない体は反射的に縮こまる。だがそれは、律の存在を脚の間に強く感じる結果になって、
また司は恥ずかしさに身悶えた。
熱い。熱い。甘い痺れが間断なく全身を襲う。自分がとろとろに溶けてしまいそうな気
持ちさえする。
やがて幽かな水音が聞こえてきて、とうとう司は音を上げた。
「…りつ……律っ、も……やめ…………」
これ以上されたら、自分がどうにかなってしまいそうで怖かった。
哀願する司の声に、律は顔を上げた。その顔がどうしてと問いかけている。
「もう……いい、から」
「……嫌だった?」
真面目な顔で聞いてくる従弟に、司は泣きたいような怒りたいような、奇妙な気持ちに
なった。自分のことを鈍感だとかよく言うが、彼だってわかっていないと思う。
初めての時もそうだった。
(本当に嫌なときは……言ってよね)
生真面目な口調で律はそう言ったが、そもそも本当に嫌な相手に触れさせる女はいない。
今だって嫌ではない。
嫌ではないのだが……もし理由を訊ねられたら、本当のことなんか恥ずかしくて言えな
い。
とりあえず司は首を振って否定の意志を伝える。
「……じゃ、なんで」
予想通り聞き返されて司は顔を覆ってしまう。
「そんなこと聞かないでよ…」
わずかの間があって、少し焦ったような声で「ご、ごめん」と返事が返ってきた。きっ
と律の顔も赤くなっていることだろう。
律がベッドから手を伸ばして、何かを取ったような気配がした。ビリッとそれを破る小
さな音。
しばらくごそごそしていた律が、やがて司の側に戻ってきた。耳元で小さく囁く。
「……いい?」
司はこくりと頷いて、閉じていた瞳をさらに固くつぶった。
律の指で慣らされていたとはいえ、それを受け入れるにはやはりまだ痛みがともなった。
「司ちゃん……」
痛みに震える彼女の体を、律が優しく抱きしめる。それだけで辛さが和らぐような気が
するから不思議だ。それとも、やはり2度目だからたいして痛くないだけだろうか。
かっかっと火照る頭の隅で、埒もないことを考える。
「……ごめん、動くよ」
律の熱い吐息が耳にかかって、司はまた快感が背筋を這いのぼるのを感じた。すぐにそ
れは下からの直接的な刺激にとって変わる。
「んっ……ん、………あ…っ」
痛みはある。けれども、それはすぐに体を竦ませるほど強いものではなくなり、かわり
に鈍い痺れがじわじわと広がりだした。
律も司の変化に気づいたのか、動きがさらに激しくなる。入り口近くまで引き抜いたか
と思うと、腰が触れ合うほど深々と突く。体の中が引きずり出され、また押し込まれる感
覚に、司は甘い悲鳴を上げる。
「あ、ふ……律、りつ……っ」
夢中で司は律の背を抱いた。薄く目を開けると、眉をわずかに寄せて、何かを耐えてい
るような律の顔が見えた。
こんな顔、初めて見る。
おそらくは自分一人しか知らない律の顔。
司の唇に柔らかな微笑みが浮かぶ。胸の中にとても温かな感情が広がる。律を抱きしめ
る司の腕にぎゅっと力が入った。
「……っ、司ちゃ…………っ」
律のかすれた声。こんな声を知っているのも、きっと自分だけだ。
やがて律の体から震えが伝わって、司は温かな時間が終わったのを知った。
律がまた、司の髪を弄んでいる。
うっかり洗ってしまった髪の毛は、さすがにもう綺麗に乾いて、さらさらと律の指の間
をこぼれていく。
なんだかまた気恥ずかしさが戻ってきて、司は枕に顔を埋めた。恋人同士という、この
新しい関係に馴染むのには、まだ時間がかかりそうだ。
そんな司を見て、律はくすりと笑った。
――それからほどなくして2人はホテルの部屋を出た。司の父に反対されている手前、
まさか外泊するわけにもいかない。
エレベータの中で、ふと思いついたように律が訊ねる。
「ところで司ちゃん、まさかいまだに合コンとか出てないよね」
「最近は機会はないわね」
……ということは、機会があれば出るつもりなのだろうか。律は脱力したくなる気持ち
を何とか抑えた。
「…もう出ちゃダメだからね」
「どうして?」
心底わかっていない顔で、司は聞き返す。
この従姉はどうしてこうも鈍いのか。心の中でため息を吐くと、律は司の唇にキスを落
として囁いた。
「僕が怒るから」
「ば、ばか!」
司は真っ赤になってそっぽを向いたが、やがて小さく頷いた。
(終)