「お嬢様方、そろそろお時間も遅くなってまいりましたが」
扉越しに低く力強く飛んできた声は剣持さんのものだった。
彼は(一応は)ボク達三人の仲を容認してくれている。
だが、まるでキラちゃんユラちゃんの父親の様に厳格なあの人の事だ。
今のこの状態を見られたらどうなってしまう事か。
『この刀は不埒者を始末するまで鞘に戻る事はございませぬ』
いつかの剣持さんの言葉が脳裏をよぎる。
(こ、こんなトコロを見られたら死ぬ! 確実に死ねる!)
冗談抜きで命が関わりかねない状況なだけに、完全にパニックに陥ってしまう。
「はい、分かりました。ありがとう、剣持さん」
そんなボクを他所に、キラちゃんが何事も無かったかの様な口調で返事をした。
こんな場面で機転が利くなんて、女の子という人種は凄い……と、つい感心してしまう。
「いえ。では、あまり遅くなりませぬよう……失礼致しました」
慇懃な声がして、足音が部屋の前から遠ざかってゆく。
ボクは大きく溜まっていた息を吐き出した。
助かった。本当に助かった。
ボクはお礼を言おうとキラちゃんを見て――
「……」
凍りついた。
「くすくす……」
物凄い笑顔だ。
そう、まるで青空を白く彩る大輪の様な笑顔だ。
その辺の男がこの笑顔を向けられたとして、きっと十人中十人が胸をときめかせるに違いない。
「くすくすくす……」
柔らかな木漏れ日に包まれてそよ風に揺れる一輪の花の様な笑顔だ。
心にどんな欝を抱えた人でも、きっと瞬く間に元気になれる事だろう。
「くすくすくすくす……」
嗚呼、でもどうして。どうしてやっぱり目が笑っていないのだろう。
それだけではない。
硬く握り締められた両方の拳が目に見えて震えている。
「き、キラ……ちゃん……?」
こんなキラちゃんを見るのはユラちゃんでさえ初めてなのだろう。
ボクの背中に隠れる様に小さくなって、恐々と双子の姉の様子を窺っている。
「え〜と、その、キラちゃん? 剣持さんの言うとおり、もう時間も遅いから……」
ちらりと時計を見やる。
短針は五時を少し過ぎた辺りを指し示していた。
流石にもう一戦交えるのは時間的に許されないだろう。
だから今日はこれまでにしよう――と、暗に言ってみた。
「ふ、ふふ……うふふ……そう、だね」
キラちゃんは薄ら笑いを浮かべながら、のろのろと立ち上がる。
彼女は妙に機械的な動作で下着や上着を回収し、身に着けていった。
……怖すぎる。
明らかに尋常ならざる空気を醸している。
やけに物静かなのが、より一層不気味さを上乗せしていた。
「き、キラちゃん……な、何だか様子がおかしいよ」
ユラちゃんが怯えきった調子でボクの耳元に囁く。
全くもって同意だ。
だがボクにどうしろと?
たとえ意気地なしと蔑まれようとも、たとえ鶏野郎と罵られようとも、
今のキラちゃんに声をかけるだけの勇気なんてボクには無い。
否。おそらく世界中を探してもそんな気概を持つ男なんている筈がない。
自分に向かって飛んでくると分かっている核ミサイルの発射ボタンを押せる人間など居る筈がないではないか。
ボクは為す術も無く、彫像の如く硬直してキラちゃんを目で追う事しかできない。
「……ねえ?」
ふと。
キラちゃんが、ギギギという擬音がつきそうな硬い動きで首だけを捻り、ボクの方を振り向いた。
「なな、何でしょう?」
思わず丁寧語が飛び出る。
核ミサイルの機嫌を気にかけるのは人として当然の事だ。
男が云々なんてどうだっていい。
体面より、矜持より、命の方が大事だ。
「今度は、きちんと私の相手をしてね……?」
「は、はい。是非とも……はい」
ボクは木偶の如くかくかくと頷いた。
多分、彼女に靴を舐めろと言われても同じ反応をしただろう。
兎に角、この場はひたすら卑屈になって、一秒でも早く逃れなければならない。
そう、ボクは心に決めるのだった。
長いような短いような一日が終わって、今日は二学期最初の授業の日。
昨日歩いたばかりの双愛中学校の通学路の途中、何度もボクは家に引き返しそうになった。
――何故かって?
それは……
「よぉ、一日振りだけど元気にしてた――って、どうした? なんでそんなに腰が曲がってるんだ?」
「お、大坂! いいところに来てくれた。肩。肩貸してくれないか」
地獄に仏とは正にこの事だろうか。
校門で大坂に声をかけられたボクは、肩を貸してもらってようやく身体を真っ直ぐに伸ばす事ができた。
今朝以来ずっと腰痛で前屈みの姿勢を余儀なくされていたのだ。
それもこれも、昨日のアレのためである。
あの時はキラちゃんユラちゃんの可愛さと初体験の快楽とで色々と感覚が麻痺していたみたいだが、
一日経ってみると普段は使用頻度の低い筋肉を酷使した報いがきっちりと返ってきていた。
つまり、筋肉痛というやつだ。
これがまたひどい事ひどい事。
ちょっとでも腰を伸ばそうものなら神経を針で刺される様な激痛が走り、
とてもではないがまともに立つことすらままならない。
もし昨日、剣持さんが来ずにあのままキラちゃんともシテいたら……
(うぅ、キラちゃんには悪いけど、あの時はあれで良かったのかも)
男として情けないとか、そんな風には思わない。
身体を壊してしまっては元も子もないのだから。
「おいおい、大丈夫か? いったいどうしたんだよ」
流石にボクの有様を不審に思ったのか、大坂が怪訝そうに訊いてくる。
「あ〜……い、いや。ほら、ボクさ、お寺に居候してるだろ?
昨日は草むしりの手伝いしてて、無闇に張り切っちゃったから、それで腰痛めたんだよ」
即興にしてはなかなかのでっち上げ、だと思う。
だけど大坂は何やら合点のいかない様子で「草むしりねぇ……」と呟いた。
まさかこのやり取り程度で本当の理由を悟られることは無いだろうけど、それでも心臓が跳ねてしまう。
「と、ところで大坂。お前、宿題どうしたんだ? 全然終わってなかったんだろ?」
とりあえずボクは話を逸らそうと試みた。
どこかで見た展開だ。
何と言うか――既視感?
「ああ、やってないけど」
「そうか……って、ちょっと待てい。
何でそんなにあっさりとカミングアウトしちゃってるんだよ」
「ふふん。俺は悟りの境地に至ったのさ」
大坂は鼻を鳴らして訳の分からない事を言った。
「俺は気づいた。山の様に溜まっている宿題をひいひい言いながらするよりも、
愛先生に優しく折檻される方が遥かに楽だってことにな」
「あ〜……そう」
嗚呼、無知とはある意味幸せだな。
ボクは密やかに大坂に手を合わせた。
――大坂、お前と言う無二の親友の事は、多分きっと三年ぐらいは忘れないと思うよ。
そんな馬鹿なやり取りを交わしながら、教室へと向かう。
そしてその扉の前で、昨日と同じ様に悩みに囚われてしまうのだった。
(どんな顔でキラちゃんとユラちゃんに接すればいいんだろう……)
身体を重ねるということは、やはり何かの一線を越えた間柄になるということを意味していると思う。
既に昨日とは違っているのだ。
ボク自身の位置。そしてキラちゃん、ユラちゃんの位置。
その関係にボクは戸惑わずにいられるだろうか。彼女達は戸惑わずにいられるだろうか。
「……」
否。今更どうこう考えるのも無意味だ。
そこは昨日と同じかもしれない。
成るように成る。それだけなのかもしれない。
無論、投げ槍という意味ではない。
それだけボクは彼女達を愛し信じているし、彼女達もボクを愛し信じてくれている筈だ。
……考えなしってコトではないと思う。きっと。
ボクは一つだけ小さく息を吐き出し、戸を開いた。
教室に二人の姿を探して、軽く手を上げて挨拶する。
「おはよう。キラちゃん、ユラちゃん」
「おはよう」
彼女達はにっこりと笑みを浮かべ、ちょっとおっとりした口調で答えてくれた。
いつもの二人だ。
今までと何ら変わりは無い。
ほっと肩の力を抜いた、その時だった。
「ねっ」
袖をちょんちょんと引っ張られる。
何事かと顔を上げると、すぐ目の前に瞳を閉じたユラちゃんの顔があって……
「え……?」
考える暇さえ、なかった。
唇に柔らかい感触。
鼻腔を抜ける甘い香り。
キスされたのだと分かるまでに、たっぷり数十秒は要した。
「ゆ、ゆゆ、ユラちゃん!?」
ようやく声が出たのは、ユラちゃんが真っ赤な顔を離してから更に数十秒の後。
ボクは半歩ほど後退って、思わず彼女をまじまじと見つめてしまった。
「えっと……“約束”のキス、だよ」
夕日みたいな顔を俯けて、ユラちゃん。
「や、約束、って……それは昨日……」
「“約束”では、『いつ』なんて言ってなかったでしょ」
「……あ」
――今度はユラちゃんがみんなの前で……――
それが“約束”だった。
「キラちゃんと一緒で――みんなの前で貴方にキスする。それが“約束”だから」
「で、でも! こんな場所、で……」
そろりと教室を見回す。
傍らの大坂は勿論、誰も彼もが顎を落としたままこちらを呆然と眺めている。
「うふふ。恥ずかしがらなくてもいいのに」
くすくすと笑いながらキラちゃんが言う。
その目に悪戯っぽい輝きが過ぎったように見えたのは――
「だって、ユラちゃんとあんなコトしちゃったんだから。もうキスなんて……ねえ?」
見間違いじゃなかった。
ご丁寧に『あんなコト』という部分に大袈裟なイントネーションをつけてくれたのだから。
「き、キラちゃん! こ、声が大きいって!」
慌ててキラちゃんを静止するが、時既に遅し。
口を出た言葉は止めようが無く、言葉が空気を震わすのも止めようが無い。
「おい……『あんなコト』って……どんなコトだ」
一瞬にして殺伐とした空気が漂いだした教室を代表するかの様に、大坂が暗い声を発する。
「お前、まさか……桜月さん達と――」「お、おい、マジかよ……」
「な!? ま、まさか二人と……」「きゃー、凄い凄い……」
「うっそ……彼って、絶倫ってやつ……」「て、敵だ……全人類の敵だ……」
それと共に堰を切った様にいたる所からヒソヒソと立ち上る囁き声の数々。
もう言い訳もクソもない。
男子の中には目を血走らせ、息を荒くしている者までいる。
キラちゃんとキスしてしまった時はボコボコに殴られただけで済んだが、今回は――
「赦すまじ……赦すまじいいぃ……」「そうだな……一月ぐらいは立てない様に……」
「いやいや、ここは磔にしてだな……」「いっそコンクリ詰めにして海に……」
洒落にならない。
昨日以上の危機だ。
「き、キラちゃん! ユラちゃん!」
「え……?」
「何? ……きゃっ」
ボクは二人の手を取って教室を飛び出した。
「あ、あいつ逃げるぞ!」
「追え、追えええぇい!」
「正義の制裁を! 鉄槌を下せええぇ!」
馬の大群が大地を踏み躙るかの様な轟音が背後から追いかけてくる。
「ああ、もう! これじゃ今日はもう学校に居られないよ!」
必至に走りながらボクはキラちゃんに向かって叫んだ。
なのに、彼女は緊張感の欠けた笑みを浮かべてみせる。
「じゃあ、お家に行きましょう」
「へ?」
「今日は剣持さんがお出かけしていて、夕方までお家には誰もいないの」
「そ、それって……」
「だ・か・らっ」
二人が口を揃える。
「今日はた〜っくさん、時間があるからね!」
もしかしてキラちゃんもユラちゃんもその積もりだったのだろうか。
……嵌められた?
(全く……仕方ないな)
こうなったらもうどうでもいい。
行けるところまで行けばいい。成るように成ってしまえばいい。
結局、ボク達はどんな道を辿ろうと最初の位置に戻ってくるのだから。
ボク達の最初の位置――あの鮮やかな閃光が漆黒の空に栄えていた夜へと。
究極的には三人の想いがそこに在れば、それだけで何もかも良いのだ。
サボタージュごとき恐くも無い。
「よぉし! こうなったらとことんヤってやるさ!」
ボクは二人の手を握る力を強めた。
駆け抜ける身体は何処までも軽い。
ボク達は、きっとこれでいいのだ。
もう喧騒は聞こえなかった。