鷲座のアルタイル、通称『牽牛』。  
 琴座のヴェガ、通称『織女』。  
 彼らは広大な銀河――天の川を隔てて逢瀬を果たす。  
 触れ合うことは許されない。ただ、遠く離れた対岸に佇む互いの姿を見つめ合うだけ。  
 だがもしも隔てる河が、相手の影を見ることすら叶わないほどの圧倒的な大きさを持っていたとしたら・・・  
 
 
 
 
「千鳥」  
 会いたいんだ。せめてもう一度――  
 
 
「・・・ソースケ!?」  
 彼の声が突如聞こえた気がして、かなめはベッドから跳ね起きた。  
 息を弾ませて辺りを見回すが、誰もいない。・・・いるはずがない。  
 言いようのない不安感に襲われ、彼女はしばらく自らを抱き締めるようにして身を縮めていた。  
 ある程度気持ちが落ち着いたところで、改めて室内に首を巡らす。  
 部屋の様子はなにも変わっていない。調度類も、最初に連れて来られた時のままだ。  
 もう『あの日』から何日になるだろう。・・・彼は、無事なのだろうか。  
 彼を思うたび、九ヶ月余りの間に起こった騒動の数々が次々と頭に浮かんでくる。  
 胸元にそっと手をやる。ひんやりとした小さな感触が伝わってきた。  
 彼からもらった、誕生日プレゼントのラピスラズリ。かなめはそれをペンダントにして、肌身離さず持ち歩いていた。  
 あの激動の日に無くさなくて本当に良かった。家を出る時に持っていた鞄は、結局東京に置いてきてしまったから・・・  
(ソースケ・・・・・・)  
 この宝石を手渡された教室でのやり取り。そして、『その夜』の記憶が蘇る――  
 
 
 ――東京には珍しいほど、星の綺麗な夜だった。  
 <パシフィック・クリサリス>号シージャック事件の後の臨時登校日、十二月二十八日。  
 その夜、かなめは宗介と二人で、いわゆる『脳細胞を破壊する物質』を摂取していた。  
 もちろん始めから堂々と違法行為をするつもりだったわけではない。そもそも、それなら宗介が納得するはずがない。  
 二人だけの、四日遅れの誕生祝い兼クリスマスパーティ。そのために用意した、どうせノンアルコールの砂糖水に決まっている・・・と思ってチェック省略で購入した格安の似非シャンパン。  
 それが実は普通に本物クラスの度数だった――至って単純なオチである。  
 そして、双方とも酔いが相当回るまでこれっぽっちも気がつかなかった。これもお約束と言えばお約束だ。  
 過去の輝かしい実績(?)からも分かるとおり、かなめには結構な酒乱の傾向がある。  
 その夜も見事に絶好調モードに差し掛かっていた。が、自宅ということもあってか、幸い安易な破壊活動にまでは至っていなかった。  
「そぉすけぇ〜っ。まだ飲み終わってないわよっ。せっかくご馳走してやってるのに残すなんて、どぉゆう了見してんのぉ?」  
「ち、ちろり・・・すまない・・・・・・俺にはもう・・・無理だ・・・」  
「あによぉ、ダメ男っ、ヘタレッ。くぬっ、くぬっ」  
 と、いつかのフレーズを呻いてソファーに倒れ伏している彼を、これもいつか言った罵詈とともに蹴たぐり回す。視界が揺れているせいか、キックの狙いがかなり外れていた。  
 一際高く足を振り上げた時、三半規管が普段どおり働かずに体勢が崩れてしまう。  
「それでもツイてんのか〜っ、と、ぅわっ!?」  
 とびきりお下劣な台詞を悲鳴に変えて、かなめはソファーに斜めからダイブした。  
「ぐわっ・・・」  
 背中からもろに押し潰された格好の宗介が苦しげな声を上げる。  
「あらら、ごめーん。だいじょぶ?」  
「・・・ネガティ・・・・・・いや、肯定・・・だ」  
 力なく片手が上がったかと思うと、すぐにぽてっと落ちた。どうやら、相当効いたらしい。  
 宗介の上から身をずらしたかなめは、苦悶の表情を浮かべる彼を抱え起こし、自分の隣に並んで座らせた。  
「ほんとにごめんね、ソースケ。痛かったでしょ?」  
「いや・・・気にするな」  
 返す顔はすでにいつもどおりの仏頂面だったが、かなめには彼がまだ痛がっていることはすぐに分かった。  
 心配そうにその横顔を眺めた後、名案が浮かんで一度大きく目を瞬き、  
「そ〜だっ。ね、こういうの知ってる? ・・・痛いの痛いの、飛んでけ〜っ♪」  
 と言って、彼の頬にちょこんと唇を当てた。  
「!!」  
 酒が入ると彼女は、驚くほど素直で積極的になる。ことスキンシップに関してそれが顕著だ。普段がかなり意地っ張りなだけに、その行動のひとつひとつに宗介は戸惑いを隠せない。  
 さらには、ごく最近そこから『最後まで至った』とあっては、動揺するのも致し方ないだろう。  
 先の行為について考えてしまった彼は、直前までの酔いでぼんやりした状態と入れ替わりにやって来た緊張感に、ひたすらどぎまぎしていた。  
 
 かなめは宗介の首に両腕をぐるりと回して凭れ掛かり、柔らかな胸部を目一杯密着させてくる。  
「ち、千鳥。あまり抱き付くな・・・」  
「なによ今さらぁ。ことあるごとに散々人を押し倒しておいてぇ」  
 少々痛いところを突かれ、彼は顔を背けた。  
「あ・・・あれは全て緊急時だ。やむを得ん」  
「あっそ。なら今も緊急ですよ〜だっ」  
「ちど・・・んむっ!」  
 彼が振り返ろうとした一瞬の隙を逃さず、その頬を挟みつけたかなめが唇を合わせる。  
 宗介が反射的に身を引いた瞬間、かなめは座面に膝を立て、彼を背凭れに押し付けるようにして馬乗りになった。重力を利用できるポジションを確保してから、口内へと侵入する。  
「ん、むぅっ・・・」  
 紛うことなき歴戦の兵士である宗介だが、彼女の種々の攻撃だけはどうしても避けることができない。  
 来ると悟っても、素人同然に身をすくめるくらいしか反応ができないのだ。理由は彼自身にも分からなかった。  
「むっ・・・ふ・・・んぅ・・・っ」  
「んん、んっ・・・ふ、んっ・・・」  
 温かいドームの内壁を、幾度となく巡る彼女の舌先。より深みへと挿し込まれるたびに二対の歯列が硬質な音を立ててぶつかり、それがさらなる脈動の礎となった。  
「ん、ふっ・・・・・・ん・・・」  
 とろりと生み落とされる、この世に二つとない極上のジュース。間断なく蠢く舌を伝って彼女から宗介へと送り込まれたそれは、彼の咽喉を潤すとともに、媚薬に等しい効果をもたらした。  
 恍惚としたひとときが続き、彼の雄が眠りから目覚めかけたあたりで、彼女の口が離れる。  
 虚ろな表情を天井に向ける宗介の口端を指でそっと撫でたかなめは、顔の位置をわずかにずらし、彼の耳元に囁いた。  
「・・・『水筒』の正しい使い方。もうクルツくんから教わったんでしょ?」  
「・・・・・・聞いたのか・・・」  
 奴め、いつの間に彼女に喋ったのか。あるいはマオ伝いか――ほくそ笑む同僚達の顔が浮かび、宗介は途端に基本形のむっつり顔に戻った。  
「あの後、しばらく心配でたまらなかったんだから。思わず妊娠検査薬まで使っちゃったわよ」  
「そ・・・そうだったのか」  
 彼女が言っているのは、もちろん林水家を訪問した日のことである。  
 あの時は双方が今以上の泥酔状態だったこともあって、道具まで気が回っていなかった。そもそもそれ以前に宗介は、まだ避妊具の使用法すら知らなかった。  
 お互い、随分と危ない橋を渡ってしまったものだ。  
 ちなみに余談であるが、彼女が使用した検査薬。購入したのは他でもない宗介だったりする――ラベルなど見もせずに、だが。  
 とある騒動の際、尾行者の様子を見るために適当に買い物をした時の品だったのである。  
 彼に同行していたかなめは激怒しながらも、捨てるのはもったいないので、没収したセットをそのまま引き出しの奥にしまっておいた。それこそ、永久凍土の下に埋めるような気持ちで。  
 それがその後いくらも経たないうちに掘り起こされ、本当に使用するはめになるとは、なんとも奇妙な巡り合わせだった。  
 ともかく前回の働きかけは彼女からだったのだが、万一の際にはそんな理屈など通らない。宗介は深々と頭を下げた。  
「・・・すまなかった」  
 それに対し、彼女は後腐れのない態度でからからと笑った。  
「ははは。まあ、あたしも悪かったしね。大事には至らなかったし、そっちの話はもう終わりで。それで、今日は?」  
「問題ない。持ってきている」  
 妙に畏まった様子で制服のポケットを軽く叩く彼を見て、かなめは感嘆の声を上げた。  
「進歩してるじゃない。偉い偉い」  
 
 ベッドへと移動した二人は、身に纏うものを早々に取り払い、互いに愛撫を繰り返した。  
 間もなく、アルコールの作用など軽く凌ぐ陶酔感が彼らの心を満たしていく。  
 やがて彼女を背後から抱く形で座った宗介は、すでに唇の跡をいくつも残した瑞々しく美麗な双丘を、思うさま揉みしだいた。  
「ぅんっ・・・あっ、はぁッ・・・・・・ねぇ、ちょっと向き・・・変えよ」  
 艶のある声に混じって、彼女がふと告げてくる。  
「? どうすればいい?」  
「えーとね・・・ソースケは横になって・・・」  
「こうか」  
 宗介が言われたとおり仰向けになると、かなめは彼に対して逆さまになるよう身を重ねた。  
 彼の腹部に豊満な房を押し付けて寝そべりつつ、眼前にそそり立つものをしげしげと眺めて小さく笑う。  
「ふふ。元気いいわねぇ」  
「そ、そうなのか・・・うッ」  
 彼が返事に窮しているうちに、かなめが立派なそれに両手を添えて、口に含んだ。  
「ん・・・こんな感じかな・・・・・・んっ、ふっ」  
 しごくと言うよりは撫で回すに近い仕草で、彼女は肉棒を根元から丁寧にさすった。上では舌と唇を交互に用い、敏感な先端を柔らかく刺激する。  
「う・・・むっ・・・」  
 宗介は急激な快感に全身を支配され、まともな身動きができなくなっていた――が。  
 視界の大部分を埋め尽くしているのは、彼女の臀部と秘部。それは、ほんの少し顔を浮かせれば容易に届く距離で・・・  
「ねぇソースケも・・・あ、ぁんッ」  
 かなめが呼びかけた絶妙のタイミングで、彼の舌も行動を開始していた。  
 彼女の壷から滲み出す蜜は、麻薬のごとき依存症状を彼に植え付ける。それは比類なき甘美さをもって、味蕾を介して快楽中枢を絶え間なく刺激した。  
 宗介は貪るように壷の周辺一帯を舐め回しては、一滴も零すまいと唇を吸い付かせて魅惑のシロップをすすり続けた。  
「ふあっ、あぁんッ! ・・・はあっ・・・んぅっ、ふっ・・・」  
「ん、ぅんっ・・・む・・・うっ・・・! ・・・ふぅ・・・ん、むっ・・・」  
 留まるところを知らないかに思われる愛撫の応酬にも、終着点が見えてくる。  
 宗介は無意識のうちに彼女の太腿に両腕を絡み付かせ、割れ目を一杯に押し広げていた。最大限まで伸ばした舌を壷の奥へとねじ込ませた時、  
「ふあ、んぅあぁ・・・ぁふあぁッ!!」  
 肉棒を咥えた彼女がくぐもった鳴き声を上げ、はずみで、棒の先端が上顎を抉るように擦り付けられた。  
「ぅむっ・・・くぅッ!!」  
 内なる雄が、外へと一気に放たれる。行き着いた先は雌の内壁の奥。  
「んぐっ・・・! ごふっ、げほっ・・・ぇほっ」  
 勢い良く飛び込んできた液体が気管に入り、かなめが苦しそうに噎せ返った。  
「すっ、すまん千鳥。・・・ぶ・・・無事か」  
 彼女はひとしきり全身を揺らして咳き込んでから、うろたえる宗介に涙声で告げた。  
「けほ・・・っ、と。アファーマティヴ」  
「え・・・」  
「なーんてね。『そっち』風にしてみた♪」  
 彼の方を振り向き、悪戯っ子のようにぺろっと舌を見せる。  
 宗介は少々決まり悪そうに、だが心底安心した様子で息をついた。  
 
 新たな試みを終えた後は、スタンダードな方式で。  
「痛くないか?」  
「ぅんっ・・・前ほどは・・・」  
 わずかに歪む顔を見て若干怯みながらも、宗介は彼女の長い両脚に手を掛け、慎重に自身を挿入していった。  
 もちろん、用意してきた道具の装着は完了している。  
 蜜と唾液で潤った通路の滑りは上々で、道幅も前回より拡がっているようだった。  
「んっ・・・あぁ・・・ッ」  
 ふくよかな双丘を揺らして身じろぐ彼女の艶っぽい声は、彼を鼓舞する応援歌。その美声に背中を押され、彼は最奥まで自身を挿し入れた。  
「ふう。・・・では、動くぞ千鳥」  
「うん」  
 彼らしい律儀な前台詞に対し、彼女らしく迷いのない首肯が返された後、往復運動が開始される。  
「・・・うぅ、ぁんっ・・・・・・あ、あぁッ、あぁんッ!」  
「う、むぅっ・・・くっ・・・」  
 宗介側が主導してピストンを行うのはこれが初めてである。行為の最中にも試行錯誤し、彼女に無理が掛からないよう体勢や速度も調整する。  
 そんな彼の気遣いを敏感に悟ったかなめが、  
「あぁ、あんッ・・・・・・いいよ、ソースケ・・・ペース抑えなくても。もっと動かして」  
 嬌声に混じらせ、優しく促した。  
「だが、千鳥・・・」  
「そんなにつらくないし。・・・あたしなら、大丈夫だから・・・ね?」  
 聖母と見紛うような微笑を見せる。そこにあるのは、彼に対する慈愛と――絶対の信頼。  
 それをないがしろにするなど、言語道断。考えられないことだった。  
「・・・了解」  
 端的に告げると、宗介は彼女の両腿を抱えて下半身を浮かせ、ひねりを加えながら自身を幾度も突き入れた。  
 片方の太腿を肩に乗せて突き上げたかと思うと、そこからさらに回転させて彼女に四つん這い姿勢を取らせ、骨盤に手を掛けて再度突く。  
「あ、あっ、あぁッ・・・はぁ、あぁんッ!」  
「うっ、む、ふぅっ・・・・・・う、くッ」  
 粘質な潤滑液が棒に纏わり付いては雫を散らし、二つの肉体に儚き無数の橋を架ける。  
 肌同士のぶつかり合う音は文字通り効果音となって、精神の深奥から野性を呼び覚ました。  
 滴る汗も、乱れる髪も、顎や頬を伝う涎でさえも気にならない。  
 彼らはただ本能の赴くままに、互いを求め合った。  
「はあぁんッ! ・・・あ、あぁぁ、ソースケぇっ・・・ふあ、あぁぁッ!!」  
「く、うッ・・・ちど、り・・・・・・う、うぅッ!!」  
 至上なる高みへの到達が、二人の絆をよりいっそう堅固なものにする。  
 吐精し、脱力して倒れ込む中にあっても、宗介の手は常に彼女のほうへと伸ばされていた。  
 
 二人はベッドで互いに寄り添い、疲労感の後に来る睡眠欲を迎え入れようとしていた。  
 ある時、夢うつつにいる勢いか、かなめがストレートな質問をした。  
「・・・ねぇねぇソースケ。あたしのこと・・・好き?」  
「!! そ・・・・・・」  
 瞠目した宗介は、全身を包み込んでいた眠気が瞬時に消し飛ぶのを感じた。  
 『それ』を言いそびれたのは、つい今朝のことだ。  
 まさか同じ日に当の相手から問われるとは思いもよらず、彼は顔じゅうに脂汗を浮かべて黙り込んでしまった。  
 しばらく流れる静寂。  
 いつものかなめなら痺れを切らしてむくれそうなところだが、今日の彼女はただじっと彼の顔を凝視して、返答を待ち続けている。  
 それがかえって戸惑いと躊躇いとプレッシャーの種になっていたのだが・・・  
「・・・・・・・・・・・・」  
 長い長い間が空いた後。彼は、先日上司に訊かれた時と同じように返した。  
「・・・・・・たぶん、そうだ」  
「なによ『たぶん』って」  
 我慢が限界に来たようで、やはり彼女はむくれ顔をした。  
「この感覚が、その・・・『好き』という言葉に当てはまるのか、まだよく分からんのだ」  
 ・・・内心では、とっくに答えが出ているようにも思えたのだが。宗介は曖昧な返答を続けた。  
 言い切ってしまうのが照れ臭かったのかもしれない。もし今の気の置けない関係が崩れてしまったら・・・という懸念のようなものがあったのかもしれない。  
 どれが本当の理由なのかは分からない。  
 ただ、彼はおぼろげながら感じていた――『好き』という日本語が、辞書に記載されている意味とは別に、なにか絶大な力を持っている・・・と。  
「もう・・・はっきりしてよ。じゃないと、不安になるんだから・・・」  
 かなめが彼の首筋に、すがるように抱き付く。  
「すまない。だが・・・」  
 と、そこで天井に視線を彷徨わせ、またしばし黙考。  
 気負って不確かな表現を用いるより、使い慣れた言葉で伝えよう。そう結論した宗介は、彼女の端整な顔をしっかりと見つめ直してから、一語ずつ確認するように告げた。  
「君は俺にとって、誰よりも最高に・・・大切な女性だ。それは誓って言える」  
 かなめが綺麗な双眸を、夜空の星々のようにぱちぱちと瞬かせる。  
 言い終わった後で急速に気恥ずかしさが募り、彼は首ごと目を逸らしてこめかみを掻いた。  
「そ・・・それでは、駄目か?」  
「・・・じゅーぶんよ♪ ありがとっ」  
 屈託のない笑顔を向け、かなめは彼の頬――最初のキスと同じ箇所に、もう一度唇を当てた。  
 
 
 本当は分かっている。言葉など要らないのだ。  
 それでも聞きたかった、彼の口から。そして聞けたからには言おう、今度は自分の口から・・・  
 目覚まし時計の横に腕を伸ばす。ひんやりとした小さな感触が当たった。  
 手に取り、大事そうに胸に押し抱く。次第に高鳴っていく鼓動。  
 静かに両の瞼を閉じ・・・一度大きく深呼吸。それだけで、不思議な力が全身にみなぎっていくような心地がした。  
 母なる海を思わせるその石から最大の勇気を得たかなめは、すぐそばの濁りのない瞳をじっと見つめて告げた。  
「あたしもね・・・誰よりもずっと、あんたのことが――」  
 
 いつしか彼女の目からは、止め処なく涙が溢れていた。  
 部屋には他に誰もいない。彼がいない。・・・いるはずがない。  
「・・・・・・ソースケ・・・ソースケぇ・・・・・・」  
 自分は、ただ助けを待つだけのお姫様ではなかったはずなのに。  
 あの日以来、すっかり行動を起こせなくなってしまった。  
 なにかをしようとするたびに、強大な暴力に蹂躙された故郷の町と、傷つけられた大切な親友と――あと少しで永遠に失ってしまうところだった、満身創痍の彼の姿が蘇って。  
 どうすれば良いのだろう。どうすればまた・・・会えるのだろう。  
 あの学校に戻りたいとか、普通の生活に戻りたいなどということを、もはや夢見てはいない。  
 ・・・彼に会いたい。ただ、それだけなのに――  
(・・・・・・・・・・・・・・・)  
 泣き疲れた末のまどろみの中で、かなめは不思議な邂逅をした。  
 目覚めた時に、その内容は記憶に残っていなかったが・・・  
 ティーセットを持ってきた秘書と、二、三のやり取りを交わす。  
「悲しい夢をごらんになっていたようですね。涙の跡が」  
「そうね・・・」  
 紅茶をすすりながらまた涙を流す彼女を見て、秘書は気を利かせるように一礼を残して退室していった。  
 再び、室内に静寂が訪れる。  
 飲み終えたカップを盆の上に戻した後、大きく一息ついて。  
「・・・・・・・・・・・・・・・」  
 目を閉じ、ペンダントにもう一度手を当てたかなめは、その神秘的な深いブルーを優しく握り締めた。  
 両の瞼をゆっくりと開く。  
 刹那――消えかけていた光が、澄んだ瞳に戻っていた。  
 脳裏にはほとんど残らない夢。そして『あの時』最後の勇気をくれた――彼がくれた宝石。それらが、彼女の細胞の内に潜むものを確実に衝き動かしつつあった。  
 
 
 
 
 ――牽牛と織女。  
 今、彼ら二人を隔てる天の川は、大海原のように深く果てしない。  
 その対岸も底も見えない水面へと、彼女は静かに足を踏み入れた。  
 広大な大河の全容に比べれば非常にちっぽけな波紋に過ぎなかったが、それは確かな一歩。  
 川の水を全て飲み干してでも渡りきってやる――その脚線美に不似合いなほどの、力強さと揺るぎなさを秘めた一歩だった。  
 
 
おわり  
 

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