何となくコムギが一人で駒を並べるところを見たくなった王。  
部屋に入ってきた王に驚き、「どうすたんですか?」とコムギは尋ねる。  
王はそれに明確な答えを見つけられないまま  
「…貴様が並べている駒を見るだけでも余が学ぶことは多いだろう。  
邪魔はせぬ。ただここで貴様が打つのをみるだけだ。…続けろ」  
と、適当な理由をでっち上げる。  
「は、はい!!分かりますた!!」  
王の言葉に戸惑いながらも、コムギは軍儀を続けようとする。  
しかし暫くしてその手が震え始め、盤上に乱れが生じ始める。  
そしてついにコムギはその手を止めてしまう。  
「…?」  
不審に思いコムギを見つめる王。その顔は耳まで赤くなっていた。  
王、その顔を見てふと何か、心動くものがあるように感じる。しかしそれが何かは分からない。  
「…貴様、熱でもあるのか?」  
「! は!? い、いえ、そんな事は…!!」  
「だが、顔が赤い。それに…なぜ手を止めている」  
「あ…す、すいません」  
「余は続けろといった筈だ。熱がないというのなら、打て」  
「は、はい!」  
コムギ、再び王の言葉に従って軍儀を打ち始める。  
しかしその指先は相も変わらず震え、盤上に向かう際のいつものような気迫がなかった。  
(やはり熱があるのでは無いのか?)  
顔が赤いことを懸念し、王は打っているコムギの額に無言で手を伸ばす。  
目が見えないコムギは王が自分に触れようとしていることに実際手が触れるまで気付けなかった。  
「…!!」  
自分の額に触れた王の手に目を見開くコムギ。  
声もなく驚きに口を開いた彼女は、体を細かに震えさせ、手に持っていた駒を盤上に落としてしまう。  
王はそんなコムギの異変には気付かず、手のひらから伝わる温度を確かめる。  
「…熱は無いのだな。しかし、貴様の様子がおかしいのは事実だ。心当たりは無いのか」  
コムギは無言で首を振る。  
「……」  
「…そうか。しかし人間の体は脆弱だ。余の側近を呼ぶ。体を直すまでしっかりと休め」  
「!! そ、そんな滅相もありません!ワダスはそんな」  
「余が休めといっているのだ。 不服だというのか?」  
「は…! も、申すわけありません…」  
言いながら、自分の言動に不審を感じる王。  
(余は、何がしたい?…この女を休ませて……そうまでして軍儀がしたいのか)  
――いいや、違う。と王は思う。軍儀は所詮遊びである。わざわざ側近達の力まで使って続けることではない。  
(なら、何だ?)  
自らに向けた問いに答えは出なかった。  
 
王はシャウアプフを呼び、コムギを別室で休ませるように命じる。  
戸惑うシャウ、「何故そのようなことを」「うるさい、余の命がきけぬのか」  
癇癪を起こす王。  
シャウアプフは急いで謝罪し、王の命令に従いコムギの手を引いて別室へと向かう。  
王とシャウアプフのやり取りをきいていたコムギ。  
ありがとうございます、すみません、と何度も謝辞の言葉を繰り返しながら、頼りない足取りでシャウアプフに従って歩く。  
シャウアプフは苛立つ。  
(どうして王は、この娘を…)  
王への服従。それはシャウアプフとネフェルピトーとモントゥトゥユピー、三人の本能に刻まれた絶対的なもの。決して覆してはいけない。  
しかし、それでも…、  
シャウアプフは、王の言動とコムギの存在に、疑問を感じて仕方がなかった。  
 
いや、疑問ではない。既に「王は変わった」とシャウアプフは感じている。  
この少女が来てから王は変わった――いや、変わってしまったのだ――と、感じている。  
 
(すなわちそれは、「この娘が王を変えている。」ということ――)  
 
シャウアプフは手を引きながらコムギの顔を見下ろす。  
脆くか弱い、盲目の人間。  
 
こんな存在がどうして王を惑わすのか、シャウアプフにはただ不可解で不愉快だった。  
 
 
以前人間達の使っていた、今は空き部屋となった部屋は、この城の中に数え切れないほどあった。  
シャウアプフは無意味だとは思いながらも、少女を少しでも王から離そうと先ほど軍儀をやっていた部屋からはかなり遠い部屋へと連れて行った。  
偶然にも、その部屋は以前この城に暮らしていた女の使っていた部屋だった。  
 
光を失ったかわりに、嗅覚が鋭敏になったのだろう。コムギはその事にシャウアプフよりも早く気付いた。  
「こ…、この部屋をワダスが使って、よろしい…の、ですか?」  
彼女の語尾が不自然に震えた。  
「ここは……お妃様の部屋ではないのですか?」  
女物の香水の香りに満ちた部屋は、今まで使っていた部屋とも今歩いてきた廊下とも全く違う種類の威厳に満ちている。  
 
妃の部屋。  
そこはある時は、王よりも権力を発揮する――王を意のままに操れる――影の最高権力者とも言える、存在の住む空間。  
 
コムギは、存在の大きさに恐怖して声を震わせた。しかし同時に、その声にはごく微かな期待も、感動も混じっていた。  
 
「ここ…、は……おきさきさま…の……」  
 
二度同じことを問いかけるのは不躾な行為であるということを、本来のコムギは心得ている。  
しかし今の彼女は狼狽のあまりその事を忘れていた。  
 
シャウアプフがコムギに王のように関心を抱いていたら――  
いや、そうでなくとも最低限の注意を払っていたら。  
シャウアプフは、彼女がそうして様子がおかしくなったことに気付いただろう。  
王に敬意を払う余り、コムギのことを快く思っていなかったシャウアプフは、その注意を払わなかった。  
ただ彼は、ぞんざいな返事をする。  
 
「ええ、そのようですね」  
 
彼にとってこの部屋を以前使っていた人間の女――コムギの言うおきさきさま――のことなど、どうでもいいことだった。  
 
「あなたが休む分にはちょうどいいでしょう」  
 
シャウアプフは、自分のその返答が今後大きな波紋を呼ぶことになるなど、全く気付いていなかった。  
 
 
コムギは用意された部屋の、彼女一人が使うには大きすぎる寝台に大人しく横になったが  
極度の緊張で眠るということは到底無理そうだった。  
さらに、手に入れられなかった視力を補うために発達した彼女の嗅覚は、彼女の意思とは無関係に  
この部屋の、本来の持ち主――本来の在り方――を考えさせる。  
 
休め、といわれたからには休まなければいけない。しかし、眠れない、休めない。  
 
コムギははしたないと思いながらも、寝台の中で何度も寝返りを打ち、やがて逆に体力を消耗させている自分に気がついた。  
場所はどうあれ寝そべっている以上、体には何の負荷もかかっていないはずなのに。  
これは精神的なものが原因である。  
 
慣れない、自分にとっては余りにも恐れ多い場所で、休んでいる――場所を借りている、ということが、  
無用な思考を呼び、自分の神経を張り詰めらせ、磨耗させている。  
 
コムギはそう気付いた。  
 
(今考えていることをやめないと…。……何か、何か、別のことを……)  
 
コムギは自身の鈍い(と、彼女は思っているが事実はそうではない)頭を懸命に働かせ、自分の思考が、  
しいては神経がもっとも落ち着くものを手繰り寄せて瞳を閉じた。  
 
手繰り寄せられたそれは急速にある法則をなしてコムギの頭におさまっていく。  
 
自分の思考がある一点に収束していくのを感じながら、ああやはり自分の生きる術はここにあるのだ、と  
コムギはその思考へ抱く愛着をより深くした。  
 
コムギの瞼の裏に浮かぶのは軍儀の盤上。  
彼女にとっては子供にも等しい自らの打つ手たち。  
 
指先で駒を実際に運ぶのではなく、脳内で駒をうった場合、彼等ともう二度と会えなくなるかもしれないことはコムギには分かっていたが、  
だからといって彼らのことを考える以外で、今の自分の神経を休ませる方法が思い浮かばないのが事実だった。  
 
(すまないす…ワダスの子なのに……)  
 
コムギは瞼の裏の彼らに心から謝りながら、同時に一言付け足す。  
 
(けどきっと…また、すぐ…会えるです……)  
 

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