自分の治療中に、血で汚れた体を洗っておくようにと総帥さまはおっしゃいますた。  
 手術を受けながら軍儀をするのは対等じゃなくなってしまいます、というワダすの言葉を受け入れてくださった故のお言葉ですた。  
「風呂は好きに使ってよい」  
 総帥さまの湯殿は常時お湯がはられていて好きなときに入れるだそうです。  
 ワダすの貧しい家ではそんなことは絶対出来ないです。  
 それを聞いてワダすは、総帥さまは別の世界に住むお方なのだと、いつも習っていることを繰り返し思い、何故か胸が切なくなるのを感じたのですた。  
 どうやらこの数日の軍儀の間に、ワダすは自分が総帥さまと同じ立場、とはいかなくとも、極めて近い立場にあるような、思い上がりをすたようです。  
 ワダすは一礼して部屋を出る際、その事に対して胸中で申し訳ありません、と謝りますた。  
 
 
 私はシャウアプフさまからの最低限の案内を頼りに、一人湯殿へ向かいます。  
 目の見えない自分にとって水は世の中でもっとも恐ろしく知り得ないものの一つです。  
 けれど総帥さまのお言葉には従わなければなりません。  
 壁をつたい、私の家がそのまま収まってしまいそうな広い道を歩いていくと、暫くして空気が暖かくなっていくのを感じました。  
 自然のものではない、人工の花の、香料の、蒸せかえるような石鹸のにおいがします。  
 お湯の匂いもします。  
 どうやら私はたどりついたようです。  
 一息付いて、私は肩の力を抜きました。  
 
 総帥さまの湯殿も私が今歩いてきた通路と同じように、広く、大きいようでした。がらんとした、誰もいない大きな空間には  
それ相応の気配と重圧があります。ここは湯殿ですから湿気も肌全体で感じます。  
 私はまず床に両手と両足をつきました。杖は手から離しませんし、まだ服は着たままです。そうして乾いた床と濡れた床  
との境目を捜します。  
乾いた床から濡れた床へただ歩いていけば滑ってしまいます。滑れば頭を打ってしまうかもしれません。それは避けなけ  
ればならないのです。  
私の命は軍儀にあります。そして私は今総帥さまとの軍儀の最中なのです。  
(ワダスの命は総帥さまのものス。ここで死んでしまうようなことがあれば申し訳がたたねース)  
 暫くそうしていると段差が見つかりました。靴のかかとと同じくらいの高さがあります。危ないところでした。普段のように  
歩いていたら、例え杖で確認していても転んでいたところでしょう。さらにその向こうを杖で確認するとどうやら階段になっ  
ているようでした。下に降りていく階段です。杖のとどく長さかどうか確認するために慎重に身を乗り出すと湯気が顔にか  
かりました。どうやら風呂はこの階段の下にあるようです。  
総帥さまの湯殿は階段を下りて浸かる。大きい湯殿は常に湯気が出るほど温かい。ああなんて大きなものなのでしょう。  
私の家の風呂はゴミ捨て場にある大きな缶を定期的に交換して使います。兄弟達は交代して湯を適温に保ち浸かってい  
ます。湯を沸かすことが出来ない私は湯を沸かしてもらうことが出来ません。なので私は火を消してもらい、少しずつ冷め  
ていく湯にいつも浸かっています。このような温かい冷めない湯を感じるのは私には初めてのことです。  
 杖で段差を確認すると杖の六割ほどが濡れました。それが湯殿の高さのようです。立っている私の腰くらいの高さです。  
これならば杖がなくとも余り危険ではないでしょう。しかもより辺りを確認するとどうやら最初に触れた靴のかかとほどの高  
さの段差、それは湯殿とそれ以外を区別するように作られているようでした。これならばこのはじめの段差に手をついてい  
れば私は風呂から上がれなくなることもないようです。  
 私は安心し、服を脱ぐことにしました。  
幸いなことにこの段差のおかげで湯殿の周りはほとんど乾いていました。私は階段のすぐ側に脱いだ服を畳み、ゆっくり  
と湯殿への階段を降りていきました。三段の小さい階段でしたが私には十分な脅威です。はじめに腰を降ろし、座ったまま  
体を引きずって階段を降りました。  
 私が湯殿の床に腰をおろした時、お湯は私の首の中ほどまでありました。これは日頃使っている私の家の風呂と変わら  
ない高さです。私は深く深く息を吸い、吐き出しました。あたたかい。  
 あたたかい。あたたかい湯でした。そうしてそれから吐き出されるあたたかい湯気。私の日常にはないものです。夢見た  
ものではありませんが、夢のようにすぐなくなってしまうものです。  
「気持ちいース……」  
 私は誰にともなく呟きました。湯殿の中で声は反響し、日頃より大きく聞こえました。  
 
 ゆっくりと弛緩していく身体を感じながら、私は髪をほどき湯の中に沈めます。髪の毛は湯の中で水を含み広がっていきます。  
 そうしてそれからは微かに鉄の匂いが零れます。総帥さまのお怪我から私が被った血の匂いです。洗っておくようにというお言  
葉をいただきましたので、私はこれを洗い流さねばなりません。  
 
 目の見えない私には、あの時何が起こったのかは咄嗟には分かりませんでした。しかし蒸せるようなあの鉄の匂い。私も女で  
すからそれが何を示すかは分かりました。それから一瞬遅れて気付いたのは、あの、肉の引き千切れる音です。二つは同時に  
生まれた筈なのに、不思議と私は匂いをまず嗅ぎ、あの音をその後に聞きました。  
 おそらく私は、正体の見当がついたものから感じたのだと思います。  
 血の香は私でも判別することが出来ます。あの時の音は「何」がどうなったのか、その見当がついてはじめて「肉の引き千切れ  
る音」となり、ようやっと聞こえたのだと思います。  
 総帥さまはいったい何故あのようなことをされたのでしょうか。  
 自分は愚かです。先程からあの瞬間が忘れ得ませんが、どうしてもその理由が分かりません。  
 『これでゆるせ』  
 総帥さま。何故そのようなことをおっしゃったのですか。私のような下賎の者は、総帥さまにとってはただの蟻にすら劣るでしょう。  
 何故、あのようなことをされたのですか。総帥さま?  
 どうか……どうか、  
 総帥さまには私には及びもつかない総帥さまのお考えがあり、私のようなものが何か進言するなど差し出がましいことだとは分  
かっております、けれど。  
 どうか二度とあのようなことは仰らないで。あのようなことはなさらないで。  
 私は胸の前で腕を合わせ、見ることの叶わぬ総帥さまの姿を思い浮かべました。片腕の、この国の頂。何よりも尊いお方。  
 集中したからでしょうか。目を開けてしまいました。目尻から冷たいものが頬に流れてきます。  
 それが涙だと気付くのに、数秒かかりました。  
 
 総帥さまの治療にどれだけのお時間が必要なのか、私には分かりません。けれどあの時新たに現れた方は、大した時間はかから  
ないと総帥さまに、それと、軍儀の初めからずっと私と総帥さまを見ていた方に仰っておりました。  
『これでしたら、大した時間はかからないにゃ。』  
『良かった、ではピトー早く頼みます。』  
『んにゃ。』  
 張り詰めていた空気が微かではありますが和らいだので、間違いはありません。声の感じからはおそらくあの方は女性でしょう。少  
々変わった口調をお持ちの方でした。……ひどい訛りの私が言えた事ではないのですが。  
 しかし尊い方々の言う『大した時間』とは、きっと私の感覚とは大きな差があるものでしょう。私にはこうして湯の中に浸かっているだ  
けの時間でも、総帥さまの腕はもうほとんど治っているやも知れません。急がなければ。  
 私は湯に浸した髪を手でまとめて絞り、血の香がついていないかを確認します。体も同様に。  
 本当は石鹸で洗うのがいいのでしょうが、石鹸は近くにはありませんでした。どうやら石鹸の置かれた洗い場は、私が入ってきた扉  
から向かいの壁際にあるようなのです。  
 行けないこともないでしょうが、私は目が見えません。またこれからはじめのように床を這って行くとなるとかなりの時間を要するで  
しょう。  
 その間に総帥さまの治療が終わり、総帥さまを待たせてしまうかもしれません。私はそれだけは避けなければならないのです。  
 幸い湯殿には石鹸の甘い香りが満ち満ちています。洗えなくとも体をよくすすげば、血の香を誤魔化してくれるでしょう。事実絞った  
髪を確認する限りでは血の香は残っていないようでした。  
(よし……こうならば大丈夫す。)  
 私は髪をほどく時手首に巻きつけた結び紐を解き、取り急ぎ髪を一つにまとめました。普段は二つに分けて、そう難しくない飾り結び  
にするのですが、今は時間がありませんので手軽さを優先します。  
(へば、急いでかえらねーと……)  
 私は湯殿の段差に引っ掛けておいた杖を手にとると、膝を突いて慎重に湯殿から床へと階段を上りました。服はそのすぐ側に畳ん  
でおいてあります。  
(あ……)  
 ですが、私はその時あることに気がつきました。  
 常日頃から注意力散漫だと指摘される私ですが、本当に、この時ほど、それを後悔したことはありません。うっかり……そんな生易  
しい言い方では到底足りませんが、うっかり、していたのです。  
 私の衣服は先程のまま。  
 総帥さまの血を被ったまま、だったのです。  
 総帥さまの血のついた服のまま、その前に出ていい筈がない。  
 けれど、換えの服も、代わりに纏えるようなも布も私は持ち合わせておりません。  
(どーしませば……いいでしょう……)  
 畳んだ衣服を前に私はどうすれば良いのか途方にくれました。  
 
 王の背後、治療中のネフェルピトーの隣に立つ形で、シャウアプフは立っていた。  
自分の左腕を治療するネフェルピトーの念を、王は治療をはじめて暫くの間こそ面白くなさそうに見つめていたが、現在は  
ある程度気が落ち着いてきたらしく、対する相手のいない盤上を無言で見つめていた。  
 おそらくその頭では、彼の少女を打ち負かすための算段が、ひたすらに組み上げられているのだろう。と、シャウアプフは  
推測する。  
あるいは、彼女自身に対する興味か。とも。  
(あの少女は、今までとは、違う。)  
 ――王にとって。  
王と少女の対決を見続けた身として、そんな考えがシャウアプフにはある。少女は王にとって非常に興を惹く存在であるら  
しいと――どうやら王の求める先にあの少女はいるらしいと――考えている。  
 もっとも、王にただ仕える身であるシャウアプフにとって、それは事実以上の意味を成さない。彼はただ認識しただけだ。そ  
うして一つ、ある事を慮っている。  
シャウアプフは、ネフェルピトーと王、二人の集中を妨げないよう小声で囁く。  
「あと、どのくらいかかりますか。」  
「……最低でも二時間。出来れば三時間は欲しいかにゃ。」  
「分かりました。では、私は少しこの場を離れます。」  
「どこ行くにゃ?」  
 シャウアプフの言葉にネフェルピトーは少々驚いたように目を瞬く。王もそれは同じだったのか、横目で彼を振り仰いだ。  
 それを見、彼は素早く王に跪いて自分の考えを口にする。  
ある一つの――気がかりを。  
「先程から、客人が浴場で何か困惑しているのが分かるのです。ご承知の通り、私の能力は『人の心を読み取る』こと。」  
「……。」  
「治療が終わるまでまだ時間はあります。よろしければその間、客人の世話を、私に任せては下さいませんか?」  
「……好きにするが良い」  
「ありがたき幸せ。」  
 それだけ言うと、王は再び視線を盤上に戻す。シャウアプフは立ち上がるとネフェルピトーにそっと耳打ちした。  
「……と、いうわけですから、頼みますよ。ピトー。」  
「なんだか物好きにゃ。あんな人間のことなんてほっといていいんじゃにゃい?」  
 小首を傾げ、さも不思議そうにネフェルピトーは零す。それにシャウアプフは口の端で笑った。  
「今はまだ、放っておくわけにはいかないのですよ、あの方は。……いえ、もしかしたら今に限らなくなるかもしれませんね。」  
 
   

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