「ミトさん、ただいま!」  
 玄関の扉を開けたゴンは、やや大人びた表情で笑顔を見せた。  
 今夜ゴンが帰ってくることは、手紙で知っていた。だからミトは、いつものようにお帰りの挨拶を返そうとしたわけだが、不覚にも一瞬、口ごもってしまった。  
 久しぶりに戻ったゴンは、少しだけ成長していた。  
 つんつんとした髪形はほとんど同じだが、身長が伸び、見るからにたくましくなった。  
 子供らしさが薄れ、その代わりに不思議な雰囲気を身にまとっている。  
(いろいろな、経験をしたのね)  
 瞬間的に感じたミトは、戸口にたたずむ少年にとある人物の姿を重ねてしまった。  
(ジン――)  
 彼女がほんの子供だったのころの、たったひとりだけの大切な遊び相手。わけの分からない理由でくじら島を出て行った、ひどい奴。勝手に子供を作り、それを無理やり自分に預けて、いったい今は何をしているのか。  
『オレが、オレであるために――』  
 そんなことを言って、再びミトの前から姿を消してしまった。  
 思い出すたびに腹の立つあの男と、彼女が育てたゴンはそっくりである。  
「おかえり、ゴン」  
 もちろん、ジンとゴンは違う。  
 自分を見捨てたりはしない。必ず、こうして戻ってきてくれる。  
 ミトはゴンのそばに駆け寄ると、愛情を込めて抱きしめた。  
 
 ハンター試験へ出かけたときは、胸までもなかったはずなのに、今、ゴンの額は彼女の顎のあたりにくる。  
 もう一五歳。心身ともに一番伸びる時期だ。  
「おかえり」  
 もう一度言ってから、ミトはゴンの頭をぽんぽんと叩いた。  
「久しぶりに帰ってきたんだから、まさか夕食を食べちゃったなんて言わないでしょうね」  
「うん、お昼も抜いてきたよ」  
「よしよし。夕食はもうすぐできるから、先にお風呂に入ってきなさい」  
「え〜」  
「え〜じゃない。ほら、あなた、二、三日お風呂入ってないでしょ。鼻の頭に垢がついてるわよ。それから、耳の裏もしっかりと洗うこと!」  
「……」  
 何も言い返すことができず、ゴンは苦笑じみた笑顔を浮かべて風呂場へと向かう。  
「ちゃんと肩まで浸かって、ゆっくり三〇秒数えるのよ!」  
 いくら修行を積んでも、この人だけには敵わない。  
「せっかく決意して帰ってきたのにな」  
 音を出さずに、ゴンはため息をついた。  
 
 
「……そう、キルア君とはいったん別れたの」  
「うん。半年くらい経ったらまた会おうって。修行して、どっちが強くなったか、勝負するんだ」  
 久しぶりの家庭料理を味わいながらも、ゴンはミトから視線を離さなかった。  
 ミトの母親は敬老会主催の温泉旅行とやらで、今夜は出かけているらしい。夕食のテーブルはふたりきりである。揺らめくランプの光に照らされたミトの横顔は、どことなくなまめかしく思えた。  
「……」  
 会話が途切れてもゴンが視線を外さなかったので、しばらく互いに見つめ合うことになる。  
 ミトの目が少し細まり、しなやかな指がゴンの顔に向かって伸びていく。  
「ゴン……」  
「な、なに?」  
 その指先が、そっとゴンの頬をひとなで。  
「ほっぺにシチューがついてるわよ。ゆっくり食べなさい」  
 くすりと無邪気に笑い、指先を舐める。  
 一瞬、何かを期待してしまったゴンは呆気にとられたような顔になり、照れ隠しのために思いきりシチューをかきこんだ。  
(ミトさんは、鈍い)  
 自分もよく言われることだが、ミトさんは自分以上に天然だと思う。  
 通常の男女の交際のような、駆け引きなど一切通じないし、こちらが遠慮していると、一生かかっても先へは進めない。  
 ずっと一緒に暮らしていたのだから、それくらいは分かっている。  
(でも、どうやったら)  
 ミトさんをくどけるのだろうか。  
 自分が身内であるということは、実際には強固な足かせとなることを、ゴンは知っていた。ミトさんは血の繋がらない母親だ。子供に対する愛情と男に対する愛情は、決して同じ方向を向いてはいないのだ。  
 
 ゴンの想いもむなしく、その後はゴンの活躍の話となってしまった。  
 グリードアイランドを見つけるために、骨董品の売り買いをしたこと。ゲームの中に吸い込まれて、そこでビスケに会い、修行したこと。ゲームをクリアしたけれど、ジンには会えなかったこと。  
 そして、ビスケとの再開。二度目の修行から、NGL行きをかけてのナックル&シュートとの対決。  
 最後に、キメラアントの生態「調査」を行ったこと。  
「キメラアントって、あの凶暴な動物人間でしょう? まさか、危ないことしなかったでしょうね!」  
「し、してないよ。だから、調査だって」  
 キメラアントの凶暴性については、全国ネットで中継されていた。ライオンと人間を掛け合わせたような怪物が、インタビューに答え、その直後、アナウンサーを虐殺したのだ。  
 最近「王」が討ち取られて沈静化しつつあるものの、その恐怖は人々の中に根強く残っている。  
 そんなものと戦っていたことがバレたら、そっこく絞め殺されてしまうだろう。ゴンは冷や汗を浮かべながら必死にごまかした。  
 実は今回、キメラアント事件にようやく目途がついたので、しばらく骨休みしようということで、ゴンはくじら島へ帰省したのだ。  
 妙なところで勘の鋭いミトは、ゴンの様子を上目遣いに見ていたが、まあ無事だったからいいわと矛先を収めた。  
「でも、ずいぶんと忙しかったみたいね。彼女とか作る暇なかったんじゃないの?」  
「う〜ん。できたことはできたんだけど、なんかうやむやになっちゃった」  
「……え?」  
 意外な答えに、ミトは目を見張った。  
「彼女、できたの?」  
 
 ゴンは正直に話した。  
 ナックルとの戦いに敗れたゴンは、パームの要求により、彼女と付き合うことを承知したのだ。  
「あっきれた。どういう人なの?」  
「ん〜、ちょっと変わってるかな。年は……いくつだろう。二五歳くらいかなぁ。あ、料理は上手だよ。お化粧をすると、すっごい美人だし」  
「……」  
 自分とそれほど年の変わらない、年上の女。  
 何故か胸の奥に鈍い痛みを感じながら、ミトはおそるおそる尋ねた。  
「その人のこと、好きなの?」  
 ゴンは両腕を組んで、真剣な表情で考え込む。  
「嫌いじゃないと、思う、けど……」  
 ――好きでもない。  
 キルアが聞いていたら変な奴だと思うかもしれないが、ミトは知っていた。  
 ゴンは素直すぎる子供だ。善悪という判断基準よりも、自分の感情を優先させることが多い。一般的にタブーとされるようなことでも、自分の気持ちと矛盾がなければ、あっさりとやってしまうのである。  
「あなたも一五歳なんだから、分かっているとは思うけれど。男女の付き合いっていうのは、そう単純なものじゃないのよ。好きでもない人と付き合うなんて、相手に対しても失礼なことなんだから」  
「……うん。ごめんなさい」  
 パームの場合、要求を拒んだら、それこそ命が危なかったのだが、そういった事情を説明することは難しかった。  
 ゴンは素直に謝り、ミトはほっとひと息つく。  
「とにかく、あなたは年上の人にけっこうもてるみたいだから、気をつけること。本当に好きな人ができたら、わたしに紹介してちょうだい」  
「……たぶん、それは無理だと思う」  
 まっすぐにミトを見つめながら、ゴンは言った。  
 
「どういう、こと?」  
 訝しげに尋ねるミトから視線を外すと、ゴンは皿の中のシチューを無意味にかき混ぜた。  
「好きな人はいるんだけど。ミトさんは、許してくれない」  
「……わたしが、許さない?」  
 ミトは首を傾げた。眉根を寄せて思案顔になる。  
 いったいゴンは何を言っているのだろうか。  
 好きな人がいる? そりゃあ、ゴンだって年頃の男の子なのだから、好きな人いてもおかしくはない。正直、少々複雑な心境ではあるが……。  
 だが、自分たちは親子だ。隠し事なんかして欲しくないし、本当にゴンに好きな人ができたのならば、心から応援するつもりでいる。  
 それなのに、わたしが、許さない? どうして?  
 心の葛藤はしばらく続き、ミトはなぞなぞのヒントをせがむかのように、言った。  
「ひょっとして、ものすごく、年上とか?」  
 さすがに三〇も四〇も歳が離れていたら、意見もしたくなろうというものだ。  
 だが、ゴンは無言で首を振った。  
 となると、結婚が許されない立場の女性……。  
「ふ、不倫?」  
 再びゴンは首を振る。  
 ほっと安堵したのも束の間、またもや謎は深まってしまう。  
 年齢の差異ではない。不倫でもない。  
 ということは、どういうことだろう?  
「――!」  
 突然、雷光のような閃きが、ミトの頭の中を駆け抜けた。  
 顔を真っ青にしたミトは、悲鳴混じりの声で叫んだ。  
「だ、だめよ、ゴン! それだけはだめ!」  
「……え?」  
「いくらなんでも、男同士なんて! 確かに、キルア君はいい子だけれど、で、でもね――」  
 ゴンはがっくりと頭を落とした。  
 
「そんなんじゃ、ないってば」  
 ゴンは椅子から立ち上がると、席を移動して、背もたれのほうからミトを抱きしめた。  
 そんなことで狼狽するミトではない。首に回されたゴンの手に、自分の手をそっと重ねる。  
「分かったわ。降参よ。教えてちょうだい」  
「だめ。許してくれないから」  
 素直なゴンがここまで言いよどむとは珍しい。これはよほどのことなのだろう。  
 だが、いくら考えても自分が交際を許さない条件は見つからなかった。  
「――よし、許す!」  
 そう言ってミトは心を決めた。  
「ゴンとそのひとの間に、どんな障害があったとしても、わたしは二人を応援する」  
「……本当?」  
「本当よ。あ、不倫と同性愛以外ならね」  
 ゴンは腕に力を込めて、頬を摺り寄せてくる。  
 ここまでゴンが甘えてくるのは、最近では珍しい。  
 やれやれ。少しは成長したのかと思ったが、やはりまだ子供なのだろうか。  
「ミトさん」  
「なあに?」  
「だから、ミトさん」  
「……?」  
 耳元で、掠れたような声がささやいた。  
「オレが好きなのは、ミトさんだよ」  
 ぞくりと、心が震えた。  
 
 
「……」  
 ――リリッ、リリッ。  
 窓の外から虫の声が聞こえる。  
 ベッドの端に腰をかけながら、ミトはただ呆然と床板の木目を見つめていた。  
 どれだけの時間が経ったのだろうか。  
 はっと我に返って、落ち着かなげに部屋の中をきょろきょろと見渡す。  
「ど、どうしよう」  
 ゴンに告白されてしまった。  
 冗談でこういうことを言う子ではない。そのことを、ミトはよく知っている。  
 ということは――ほ、本気。  
 まったく予想だにしなかった展開に、びっくり仰天したミトは、何とかゴンに思いとどまらせようとしたのだが、ゴンの決意を変えることはできなかった。  
『ミトさんの言いたいことは分かってる。オレとミトさんは、親子だもんね。……でも、オレはミトさんを、母親じゃなくて、ひとりの女性として見てるんだ』  
『もし、ミトさんに、誰か好きな人がいるのなら、あきらめるよ。でも、他に好きな人がいないのなら、オレと本気で付き合って欲しい』  
『今夜……一二時に、ミトさんの部屋に行くから』  
 思い出した。ゴンはそんなことを言っていた。  
 時計の針を見ると、午後一一時五〇分。  
「うわっ、あと一〇分しかないじゃないの!」  
 心の中でキャーキャー騒ぎながら、部屋の中を歩き回り、ふと気づいて、ベッドの上の枕の位置を直す。  
「――って、何やってるのよ、わたしは!」  
 お風呂にも入って、すでにパジャマ姿だ。このままゴンが入ってきたら、まさに「あなたの愛を受け入れるわ」状態である。  
 まったく心の整理がつかない状態のまま、寝室のドアがノックされた。  
 
「……どうぞ」  
 ミトさんは淡いピンク色のパジャマを着て、ベッドに腰をかけていた。  
 きれいに後ろに流れた茶色の髪。くっきりとした大きな目。体つきは細めだが、胸の形はよくて、意外とボリュームがある。着やせするタイプといえるだろう。  
 その表情は落ち着いているように見えた。  
 自分でもかなり大胆なことをしたものだと思っていたのだが、さすがはミトさんだ。  
 ……などと思ってしまったゴンは、つい直前までミトがあたふたしていたことなど知る由もない。  
 張り詰めたような緊張した空気の中、ゴンはミトの隣に腰をかけた。  
「……お願い。ひとつだけ、聞かせて」  
 揺れる瞳をこちらに向けて、ミトが聞いてくる。  
「わたしは、あなたの母親よ。もし、あなたの想いを断ったら、どうする気なの?」  
 ちょっとずるい質問だとは思ったが、それは予想していたことでもある。  
 ゴンは思いのままに答えた。  
「変わらないよ」  
「……え?」  
 ミトはぱちりと瞬きをして、首を傾げた。  
「今まで通り、親子の関係に戻るってこと?」  
 そんなことは無理に決まっている。ゴンは首を振った。  
 まったく、ここまできても、ミトさんはまだ自分の気持ちを理解してくれていないようだ。  
 回りくどい言い方は逆効果。ここはもう、はっきりとさせたほうがいいだろう。  
「そうじゃなくて、オレの気持ちが変わらないってこと。でも、それだと、お互いに気まずいでしょ?」  
「……そ、そうね」  
「だから、オレ――旅に出ると思う」  
 そしてたぶん、もう戻ってこない。  
 そう言うと、ミトはショックを受けたように言葉を失った。  
 
 ゴンは知っていた。  
 ミトさんが、自分にジンの姿を重ねていることを。  
 この家で暮らしていても、町でデートしていても、時おり自分の顔を懐かしそうに見つめてくることがある。  
 たぶんジンは、ミトさんの初恋のひとなのだ。  
 そして、その恋が絶対に実らないものであることを、ミトさんは知っている。   
 それでもあきらめきれない。だから、ジンの息子である自分を育てて、恋人も作らず結婚もしないのだ。  
 これではいけないと思った。  
 では、どうすればいいだろう。  
 ――簡単である。自分がミトさんと付き合えばいい。  
 ミトさんは最高の女性だと思うし、ここまで育ててくれたことに感謝もしている。  
 だから、自分とミトさんが恋人同士になって、幸せにしてあげればいいのだ。  
 ジンの身代わりであることに、抵抗感はなかった。  
 母子の関係であることも、特に意識はしなかった。  
 あれこれ悩まず、自分の気持ちと結果のみを大切にする。  
 それがゴンの考え方である。  
(ミトさん。もう、我慢しなくていいんだよ)  
 ゴンはミトの手をそっと握った。  
 
 逃げる時間は十分にあった。  
 ゴンはゆっくりと――本当にゆっくりと顔を近づけていき、そして唇を重ねた。  
 子供同士がするような、軽いキス。  
 ミトは目を閉じることもできずに、呆然としている。  
「はい、時間切れ」  
「……え?」  
「へへぇ。もう、断れないからね」  
「そ、そんな、ずるい!」  
「ずるくない」  
 そう言ってゴンは、再びミトの唇を奪う。  
 自分のほうが背が低いので、やや苦しい体勢だ。両手をミトの頭の後ろに回し、少し強引に引き寄せる。  
「ん……んっ」  
 唇を割り、舌先を差し込むと、  
「――!?」  
 反射的にミトは、舌を奥にひっこめた。  
 ゴンは口を大きく開き、その後を追いかける。  
「う……ん……ちゅ……んん……あ……だ――だめよ!」  
 ふと我に返ったミトは、ゴンの身体を押し返した。  
 荒い息とともに、からみ合った唾液が一筋の糸を引く。  
 互いに気まずい雰囲気を感じ取ったが、ゴンはこの行為をやめるつもりはなかった。  
 だが、力任せに強引にしても、ミトを悲しませるだけだろう。  
 ごく至近距離でミトの瞳をじっと見つめる。  
「ミトさん……愛してる」  
「ゴ、ゴン……」  
 そのひと言で、ミトはパニック状態に陥ったようだ。  
 顔や耳を真っ赤に染めて、大きな瞳を潤ませる。  
「オレの気持ち、受け入れて……」  
 そして、再び深いキス。  
「ん……あ……ん」  
 たっぷり一分以上は続けただろうか。  
 抵抗する力は少しずつ薄れていき、やがて……。  
 おずおずと、ゴンの背中に手が回されてきた。  
 

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