鷲巣巌、その魂の器。それは大きく何でも吸い取った。
取り込み続けて彼は気付く。
自分を突き動かし、力をくれるのは、人智を超えて闇に巣食う悪魔達だと知る。
昭和17年、鷲巣巌52歳で内務省警保局を退職。
大東亜戦争の連勝、その熱が冷め遣らぬ中、鷲巣は国の上層部から姿を消す。
悪魔達のうねり、生霊の騒がしさ。ともかく内務省はもういけない、そう感じた。
負け戦だと、悪霊や生霊と関わりなく鷲巣自身がそう読んだ。
ミッドウェー海戦での敗北、そして鷲巣は市井の人となる。
国が負ける。業火を飲み、極寒の虚無を忍ぶ屈辱だった。
鷲巣にもその煩悶があったが、形の上では美しくこの国を見限った。
しかし……その市井の男は戦後、色を失い半植民地となったこの国で、
思うように生きられるかどうかまでは まだ見通しが付いていなかった。
昭和18年。訃報により帰郷。
鷲巣は親族に財産の殆どを任せ、洋館だけを相続する。
彼は一族から金に執着しない聖人のように見られた。
鷲巣家に執着せず、薄情だとも…。裏があるのではないかと、不審がる者も居たろう。
鷲巣は日本の負けを感じていた人である。この時、出来るだけ身軽で居たかった。
旧士族鷲巣家の価値そのもの、そして世間から抱かれている価値観さえ…敗戦と同時に、泡と消えそうな気もしていた。
社会がその価値を破棄すると共に、自分の中からも消すつもりで、この故郷へ帰って来た。
鷲巣には私産もある。この地に一年程滞在し、裏の世界を覗いて見ようと思っていた。
武器の売買等、金を増やす方法は戦時中の鷲巣だろうと様々にある。
一人住む洋館には、男だけの使用人が七人。
そして東京から鷲巣が連れて来たらしい女が一人居る。
元々病んでいたその女が、先日死んだ。
重病だった様で、衰弱した亡骸だった。
同 昭和18年。ほどなく、鷲巣は故郷で新しい女を見つける。
「えぇっ、あたいが?」
彼女はかわいいと言われる事はあっても、美人ではない。
自分の働いている姿を見た鷲巣巌に、なぜ見初められたのか見当も付かなかった。
使用人として雇うと言う話であるが、お偉い方はなんを考えとるかようわからんと思いつつ…茜は鷲巣の元へ赴く。
茜の両親は喜んだ。鷲巣に囲われる人生でも幸せではあるまいか。
彼女の夫は戦地で散り、昨年遺骨で帰って来ている。
22歳で悲しみに沈んだが……。時が経ち、そうとばかり言ってられない頃、働き始める。
しかしもう結婚はしたくないと思っていた。
あんな思いをするのはもう。
「雇うかどうかは、一日の働きを見て決める」
だそうだ。鷲巣の部下、白服の男が茜にそう言った。
一日で解かる事…鷲巣は寝室で待っていた。
「驚いたろう」
声だけで「ご神体」になるんじゃないかと茜が思う、鷲巣巌の恐ろしい程の美声である。
「はい」
茜は素直だった。
「私は特別な目≠持っている。その目で眼前の者が魔に耐えられる器か見極めて来た」
「へぇ」
茜は素っ頓狂な声を出す。
「私がお前を選んだわけはそれだ。お前の仕事は過酷だぞ。
その器を持って私のそばを離れず、私から吐き出された物を受け取る任だ」
(あ…)
と、茜は体を赤く染めた。男が女に吐き出すなど…あまりに自然な
「汚れ濾された魔物。それが私の体からお前に溜まる。
普通の体なら長くは持たぬが、お前は器が大きいようだし」
「鷲巣様…」
「敗戦前の世の所為にしたくはないが…なぜか、私の吐瀉が女の体を蝕むようになった。
とうとう一人死なせ、対処がわからなくなっている」
「戦争が負け?」
茜は初めてその言葉を聞いた。それがこんな立派な名士の口から聞けるとは。
「覚悟しておけ。亡国の大敗だ。負けたら終いだな。
しかし、終わった国でも私は在り続けるぞ。存在し続けてみせる。その為に受け取れ」
茜は鷲巣の五指、その指先で軽く押されただけでベッドに倒れた。
そして衣服を剥がされて行く。
(あ!…)
彼女は自分の服を洪水のように剥がして来る鷲巣の、揺れる長い髪を見ていた。
(さらさら…)
ずいぶん白髪が混じって、もう灰色だ。しかし潤んだように光ってもいる。
「鷲巣様、汚れとるの?」
「…私の話を聞いていなかったのか」
乳房を掴まれ、彼女は「ひっ」と顎を上げた。
(と、溶けそう…)
と、茜は大いに思い、鷲巣も少しそう思っていた。
「敗戦と共に、私は食い破られると思う事もある。
正直に言おう、お前はこうして務めるだけで、私を助けているのだよ」
事が終わって、はぁはぁと息を乱す茜は鷲巣の声を聞いていた。
鷲巣のこの美声…茜の見た夢か、現か、定かではない。
眠気に襲われ、彼女はそのまま昏々と眠りについた。
「元気そうだな。結構」
昨日の刺激にまだぼんやりしている茜に向かって、立ち姿の鷲巣が言った。
茜があんなに眠ってしまったのは、鷲巣に重荷を科せられたからか、男性に初めて触れられたからか。
「戦死したとは言え、伴侶が居たと聞いたが」
「一日だけの夫婦やけん、肌には触れませんでした」
「私が触れるまで何もなかったか。これからは忙しくなるぞ」
「鷲巣様。こん館ん中で、雑用でも、働いて良かですか?」
「結構。好きにしろ。たまに実家に帰っても良い。全て詳細はあの二人に聞いてくれ」
二人…と言っても、この寝室の中に影は見えない。
ただ、開いた扉から見える廊下で…小さな何かが颯爽と進んだように見えた。
「吉岡」
鷲巣に呼ばれた少年が、扉の前で畏まっている。
「私は、この吉岡と鈴木にはそれなりの話をしている。
使用人の男が七人、その内二人が子供でこの者達だ。目立ってわかり易いだろう」
二人共、声変わりも終えていない少年だが、鷲巣は優秀な者を側に置いているだけ。
たまたま若かっただけである。戦争にも参加したかった立派な男達。鷲巣に日本は負けると聞かされ涙した二人でもある。
「この国は負ける。だが私は滅びんぞ。私の力でこの国を復活させてやるのも良さそうだ。
誰しもいつかは負け、終わりが来る。復活し続ける者こそ強者なのだ」
鷲巣は事も無げに、少年達にそう言っていた。
男の一生を捧げても足りないくらいの衝撃と活力を、鷲巣は少年達に何度もくれた。
これから先も。
そして鷲巣ほどではないにしろ、鈴木少年は感性が鋭いようで、鷲巣のそばにいて、
鷲巣と同じ空気を吸うだけで強運になってすら居る。
そんな吉岡と鈴木に薄着の茜は微笑み、彼等を照れさせて言う。
「鷲巣様、白か服好きですねえ」
今部屋を辞した少年二人を始め、使用人達の服装は和洋問わず、全て白で統一されていた。
「お前も着ろ」
「真っ白。昨日の鷲巣様じゃね」
「げ…下品な。デカイ声で」
「あらぁ」
と言って、茜は丁重に謝った。
故郷に帰り、鷲巣は自らの運、その鍛錬の場所を初めて見つけた。
それは賭場。特に麻雀で運の操縦すら覚え始める。
彼の洋館に見合う麻雀卓を前に、今夜は一人で座っている鷲巣。
座る豪奢な椅子と、卓上に散らばったままの牌に、体を預けて居るようにも見える。
鷲巣に呼び出された茜が、白い襦袢を着て彼の前に現れた。
神と聴き紛う声に呼ばれるまま、彼女はその卓のそばに歩み寄る。
「まさか賭け事で…と思ったがな、行き先が少し見えて来たぞ」
鷲巣はこの頃、未来に対して明るくなっている。元々彼の性格は明るい。
牌を左手で摘みながら、右手で茜の腰を抱いた。
右手はそのまま胸元に伸び、乳房に触れる。
「鷲巣様…」
その手は腰の下へ滑り、彼女に触れた。
「あ…」
そんな女の声が聞こえる中、鷲巣は動きを止める。
顔もうな垂れて…茜は鷲巣の体調を心配した。その思われている美声が言う。
「良いぞ」
「はい…?」
「私が抱いてばかり居るから、女が死ぬのだろうと思ってな。
女に息抜きさせれば、その寿命が延びる…
結果そうならその方が良い。一人の女が長く続いた方が効率的だ」
「息抜き…」
「男が欲しくはないか」
鷲巣はそう言うと牌を雀卓へ置き、椅子から床に座った。
「雇い主の私などを、好きに扱いたくはないか」
「鷲巣様、そんな勿体無い」
鷲巣にこう言われては断れない。そして、断わりたい気持ちも茜にはなかった。
「私にも得る物がある」
そう鷲巣は言う。「構わん」と。
胸を張り、微動だにしない鷲巣の膝に、茜は手を預ける。そして瞳を閉じようとする鷲巣に彼女が口付けた。
「あぁ…」
と、用意の良い鷲巣を受け取った茜が鳴く。
「鷲巣様が…あたいん中、ぁ………」
はぁはぁと茜は鷲巣の上に跨り、震えている。
仰臥している鷲巣はたまにしか目を開けず黙っているが「そこ」だけは茜の期待以上に脈動。
彼は時に耐え切れず眉間に深い皺を作り、胸を反らすように跳ねさせては、吐息と共に快感を見せている。
大きく動きはしない。鷲巣は黙っているのに
「熱い……鷲巣様っ……」
と、茜が鷲巣の胸に倒れた。
自分の胸の上で息を乱す茜に、鷲巣はその低い声を掛ける。
「満足したか。これでいつも使用されている鬱憤も」
だが…彼女の体は満足している筈なのに、軽く唸るその顔には何か納得の行かぬものがある模様。
「…なんだ…」
「あたい、こいまで通りの方が…」
「だから、以前のようだとな」
「鷲巣様のお好なように。でも、頑張って貰って」
「が、頑張っ…」
「鷲巣様、悪か物ばあたいに流さんよう頑張って」
「そう言う意味か」
「そいで鷲巣様の言う、あたいの長続きになるでしょう。あたい、いつもの鷲巣様が良か」
「……お前の要望通りなのだから…筋は通るな…そうした息抜きもあるか…」
と、服を脱ぐ鷲巣だったが……襦袢が肌蹴てほぼ裸に近い茜を前に…まごまごして落ち着かない。
「鷲巣様?」
「初めてだ…」
「?」
「お前の言う…悪い物を流さずに女を抱こうと、意識した事がない」
そんな鷲巣を前に、茜は愛らしく笑ってしまい、
「良かよ。鷲巣様、いっつも通りで良か」
「私の思うままでは…お前の体が」
「鷲巣様は別におかしくなかよ。変な事しない人ばい」
「…行為は、いつも通りな」
「はい」
「…ふぅ」
と深呼吸の後に、茜を促す鷲巣の訛りが少し出た。
今までにない感覚に疼く茜は、彼の背と髪を抱いた。
「わからん…どうしておったのか…」
「お好きなように…」
茜は元気で、初めて鷲巣より早く起きた。鷲巣の体調も別段異常ない。
朝日が昇ると茜はハツラツとこう言った。
「鷲巣様、お元気になっとるね」
(う…)
彼女の言葉に鷲巣はまた、何の事かと思って身構えている。
「始めて会った頃と顔色違うけん」
(顔色か…)
鷲巣は安堵から小さく息を吐く。
「青かったのに赤くなっとるったい」
「お前が居るからだ…」
「はい?」
「お前は…これまで女の中で、断然に
人間が下衆とか…そう言う類ではなくな……卑猥だっ」
「あらぁ」
言われた茜は首を傾げて笑っている。
「あたい、やらしか?」
「そうだ、何度も言わせるなっ。だから私の顔色はお前の所為だ!」
鷲巣は機嫌が良いのか悪いのか解からないが、ともかく苛々しながら寝室を出て行った。
その日は急に雨となる。
(外に干せんかった…)
と洗濯物に関して嘆いていた茜だったが、雨の深夜に妙な来客を知った。
間もなく鷲巣の大きな声が響く。そして慌ただしく開かれる扉の音。
何事かと、茜は部屋から廊下に出た。
廊下の窓から外を覗くと、見知らぬ男が一人と、吉岡、鈴木。そして鷲巣が雨の中に立っていた。
鷲巣の手には抜き身の日本刀が握られている。
大の男が少年二人に両腕を捕らえられているが、子供と言えども相手が吉岡と鈴木では男の命運も尽きたか、身動きが出来ない。
鈴木がその捕らえている男の腕を、鷲巣に捧げるように前へ押し出す。
鷲巣の構えに対して一閃、女の声が走った。
「やめんね!」
茜は裸足で外へ、泥に走り込む。
「休んでいなさい」
造作もなく静かに、鷲巣は言った。
その声と眼差しは既に結界であり、茜はあと一歩を封じられる。
その隙に鷲巣は男の左腕を二太刀で切断。顔と首元に返り血を浴びた。
腕を斬られた男は酷く苦しみ、意識も失くしたようで
(死んだかも知れん…)
茜は戻った部屋で一人、脱力していた。
男の様子は死を連想させ、茜は体が震えて来た。雨に濡れた所為ばかりではない。
湯に浸かったのか、体を清めた鷲巣が茜の部屋の扉を開けて、凛とした立ち姿を見せた。
「女があんな所まで来て、あまつさえ口を開くなどならん。
今日は思い知って、反省して貰う」
鷲巣は部屋に入り、いつも座る椅子に腰掛けた。
茜だけがいつも通りではない。彼女は鷲巣を見ると戦慄している様だった。
濡れ髪の鷲巣が、雨に濡れた茜を見遣る。
肉感的な体に濡れた布が張り付きながら、なんとも心細そうな様子の女。
「震えているのか」
「嫌ですけん」
「何がだ」
「……」
「言わんか」
鷲巣が椅子から立ち上がって近付いて来たので、茜はさっと身を翻して逃げてしまった。
「今日のような鷲巣様」
「いつだろうと私は私だ。そしてお前は私のものだろう」
「あなたのものです。だから、今の鷲巣様は嫌です」
「ふざけるな」
と、鷲巣は茜を捕らえて押し倒す。
洗って清めた筈なのに、茜に圧し掛かる鷲巣の体はまだ血生臭い。
「やめんね、やめ…」
豊満で艶かしい茜の乳房に、体に、鷲巣の硬い鉤鼻が触れる。
鷲巣は美男だった。そのおどろおどろしい大きな目を細めて睨め回されると、呪われるかと思う程に。
(怖か。けど、よかにせ(美男)ばい)
鷲巣を初めて見た時そんな事を思っていた茜。
今はそんな記憶も朧になる。彼の様々に惹かれたからこそ今日が辛い。
「堪忍して…鷲巣様…」
快楽の動きを、男女はまた共有する。時に浅く、時に深々と。
いつも満足して来て、抱き合い慣れている男女が、快感に辿り着くのは容易い。
だが今日の鷲巣の体は、一人の男の血によって今ここにある。
欲情もあの男の血、あるいは死によって息衝いている可能性が「無い」と言えるだろうか。
そんな男と快感を味わう。今生きていると実感する。
茜は嬌声を上げる自分の体が恐ろしかった。
これは思慕に違いない。毎日が輝くようだ。ここに感動はある。だが…
鷲巣邸内の茜は思っていた。
館の廊下からに見える林。茜は以前そこで墓を見つけた。
鷲巣が東京から連れて来た女の墓である。美しく瀟洒に弔われていた。
(このままあたいも…)
弔われた彼女は鷲巣を愛していたのだろうか。だから身を捨てて…
鷲巣を愛してしまった女に待つのは、命を賭す死か、彼の呪に縛られた生か。
死んでしまえば瀟洒かも知れない。静かな洋館に見守られ、美しく。
生を選べば苦しみが女を待つかも知れない。
視線を林に向けて茜はぼんやり考えている。
(やってみんと、わからんばい)
ここに感動はある。だが死にたくないと思っていた。
鷲巣は使用人に少年を得て付加価値も手に入れた。彼らに女の世話をさせられたからだ。
人一人(鷲巣の女)の世話をさせる為に、わざわざ女手を雇わなくて良いのである。
声も低くなり始め体格の良い鈴木は、茜が来る前にもうお役御免になっていたが、吉岡には任がある。茜の体を洗うのだ。
「もういかんね」
湯気の中で茜が吉岡に言った。
「何がです」
彼女の背を流しながら、吉岡が問う。
「賭け知って、女子が要らんようなっとっと、鷲巣様」
吉岡がギクリと胸を鳴らす。彼もそう思って居た。
「姐様が要らないと…私は思いません」
「じゃっとな? 鷲巣様もあたいも自由になれるのに」
「姐様を、まさか出しませんよ鷲巣様は」
「えへ…こん生意気ばれよったら…あたい命なかと?」
吉岡はフと、これで茜の体を洗うのが最後のような気がした。
確かに茜が「自由になりたい」と要望するのは際どい。鷲巣がどう出るか。ただ
「鷲巣様は…姐様を最後の女にする筈です」
「え?」
浴室の中、茜の声が吉岡に向かって濡れた。
「女を長続きさせたいと鷲巣様は計画された。
姐様が最後であれば、その成果の最たる物でしょう」
吉岡は彼女を褒め過ぎぬよう、理も失わぬよう言葉を選び、引き止めようとしている。
褒め言葉、酔わせる言葉は彼女に効かない。茜は言葉の要らない女だったから。
吉岡の必死さ、それに伴う声…汗…胸の鼓動こそが、茜を迷わせ彼女の涙を誘った。
少年の欲情した手…これに誘われてから鷲巣の体に添った事も、あったのだ。
それを素直に言って伝える茜である。
「姐様…」
吉岡はもう顔を上げられない。我慢は限界を超えて、彼は耐え忍ぶ。
「吉岡さん…吉岡さん…さようなら」
一糸纏わぬ茜。最後に、女として吉岡をそっと抱いた。吉岡、その時だけは茜の肌に触れず手を止める。
饒舌で、少し軟派な印象のある吉岡。だが精神は鋼のような男である。
今日はこの危うい顔のまま、浴室の報告を鷲巣にしようと吉岡は思う。
そうすれば、茜がここに居続けても彼はこの任から放たれるであろう。
茜はこれから一人で体を洗う事になるはずだ。
鷲巣はもう、茜以外に女を雇わないだろう、寄せ付けないだろうと吉岡は思っていた。
吉岡は茜の手から離れ
「確かに、湯殿からは金輪際、失礼致します」
そう少し頭を下げ端正な目蓋を熱くじわり…と伏せた。
吉岡と自分を遮る物は湯気しかない今。これが彼との最後のような気がして茜は一気に声を駆り立てた。
「鷲巣様はお殺しになると調子がお悪い。今後お殺しになる時は、
力を失くされている証しと…吉岡さん、気にしててね…」
確かに、鷲巣は「人を殺す必要がない程強い」と呼ぶに相応しい。
人を殺し始めた時、その時は…
「はい」
吉岡の声が初めて濡れた。鷲巣の最後の女が、只者ではなかった事に対する喜びを前にして。
吉岡は体の冷めぬ間に報告しようと、鷲巣への長い廊下を進んでいた。
何度も確かめ、清めて、茜の体を知り尽くしたこの手の熱さ…。
それとは別種類の熱さを、吉岡は左半身に感じた。
窓の外を見遣る。太陽を地面に配したような赤を、吉岡は見た。
「火だ…」
即刻視認し、報告と救出をと、全速力で吉岡は鷲巣へと駆けた。
鷲巣の失態と言える。腕を落としたあの男の件で報復を受けたのである。館を焼かれた。
新しい時代は、自分以外にも芽生えている事を鷲巣は知る。
火を付ける男達は本能で国の終わりを感じているから、鷲巣家を恐れていない。
男達の心の奥底にある…その開放と衝動を、当の本人達は一人としてまだ気付いてはいないが。
暴漢が大挙して一階の広間へ押し寄せ、火と共に「主を焼き殺せ」の声を鷲巣に浴びせる。
「せからしか!」
鷲巣の怒号はその声共を、瞬間を、凍らせるのに充分だった。
攻撃を仕掛けた男達を後悔させるのに充分だった。
「館はやる、今日の事は忘れん」
鷲巣は蝙蝠の如くマントを翻し、吉岡を連れ立って館の奥へと消えて行った。
火の方向へ入る主に、暴漢達は少しの間 呆気に取られたが、
主だからこそ逃げる道も知って居ようと、鷲巣を追う者はこの時居なかった。
鷲巣は自分の部下を死なせたくなかったので館内を見てまわった。
こんな火で何も失いたくなかったのである。
館は惜しいどころか、捨てる気があった物。鷲巣はまた上京を計画していた。
この火で失った人も物も、何も無かった。何人も鷲巣を犯せない。
その時、茜が火の中で止まった。
鷲巣の美しい、蝙蝠のように丸く大きな目が、少し見開かれると続いて細められ、
「…大好きでした。鷲巣様」
茜のただ事ではない雰囲気にまた開かれた。
辺りに気を配ると火の回りが早く、今、茜が望んで鷲巣の手の届かない位置に居る事もわかった。
「あたい死んでも、燃え切ったらわからんけんね。火事の事故ばい」
「お前、ここで死ぬとは思えんぞ。そう言う魂ではない」
美しい声が火の前で茜を誘う。
「あたい、鷲巣様が嫌ではないのです。好きです」
「ならば 去る意味があるのか」
「鷲巣様に殺されたくなか。けどあたいを失くした鷲巣様の方が、きっと良かにせばい」
「……そんなものはわからんではないか。
お前よりも私の方が未来が見えるのだぞ、当て推量で物を言うな!」
「へへ…あいがと。わがままばかり言いました…許したもんせ……鷲巣様、さようなら」
茜の回りに炎が近付こうとしている。
(…この私が抱いた女が、貧しい暮らしをする?)
未来さえ刺す鋭い瞳に、茜の先が一瞬透けて見えた。
(許せない)
火を裂いて、鷲巣の低い叫びが響く。
「生きるに金は必要だぞ! お前が貧困など許さん!」
脳内物質でも出たのか、鷲巣の瞳が妖しく光っている。
「あたいの名前…「あ」じゃのうて、「お」だったら、鷲巣様とずっと暮らしていけたんね?」
「お? 「お」だと?」
「元気で、鷲巣様」
「茜!」
この二人の間を、大きな炎が渡り、切り裂く。
「茜!」
鷲巣の声は報われるか。池側の廊下から、濡れた鈴木少年が飛び出して来た。
火を越えると茜の体を強引に抱きとめ、持ち上げてその立派な肩に掛ける。
「鈴木さん! 逃げて!逃げて!」
茜は何より鈴木を心配した。鷲巣の方へもう逃れられないかも知れない。
「「泣こよっかひっ飛べ」か、姐様」
茜の精神でも読み取ったかのような鈴木の言葉。見抜かれ見破られた恥ずかしさに、勇敢な茜は照れてしまった。
鈴木は黙って、その精神の入った女を鷲巣の元へ帰そうとしている。抗う茜。腕力は比べるべくもないけれど。
火の中から、鈴木を諌めるような東訛りの声が聞こえた。
その声がざわざわと鈴木の背後に迫り、茜を奪う。
その声は火…吉岡からはそう見えたが、鈴木には人型の魔物に見える。そして鷲巣には…
身の丈六尺を優に超える、顎の逞しい大男に見えた。
「鈴木、殺せ!」
この場で戦闘力が最も高いのは鈴木である。次いで吉岡。少年二人はもう鷲巣を凌いでいた。
吉岡には殺せと言う意味が解からないが、鈴木には解かる。
鈴木は茜の両太ももに硬い腕を差し入れ、絡ませて、彼女を縄のように自身に縛り付けた。
その腕へ、鷲巣は日本刀を投げつける。
鈴木が鞘から引き抜く白刃に、茜の白い肢体が揺らめいて写った。
火は鈴木を襲い、彼から茜を引き剥がそうとする。
その快感に、茜は鈴木の前で体を捻り、跳ねさせながら唸った。
「姐、死にたくなかろう」
励ますような、鈴木の静かな声。
乳房でも唇でも耳でも、何でも良い、彼女に触れて、彼女を流されまいと鈴木は茜の中に入り込む。
「鈴木さん…鈴木さん、奥まで当たう…」
茜は優しい顔で恥ずかしそうに鈴木を嗜める。
「行くな」
そう声を掛けたが…茜を慰め続けた鈴木の刃が、音もなく折れた。そこで少年は観念する。
「駄目です、鷲巣様。心までは」
「鈴木!」
鷲巣は鈴木を叱咤する。そのどこまでも響き渡る声。どこまでも行けると思ったのに。
「姐様が、心も違う所へ」
「所? それは」
それは何かと鷲巣は部下に尋ねる。
炎が啼いて、茜だけを飲み込んでしまった。
業火は、茜だけに聞こえる音で「PARADISO」と嘶く。
あれだけの火に接しながら、茜に触れていた間の鈴木の火傷はほんの少し。怪異である。
鷲巣は炎と茜に背を向け、大きな瞳と口を開き部下達に言った。
「……お前達も私も、死んではくだらんな。行くぞ!」
袖が焦げ始めた茜は民家近くの池に放り投げられ、一命を取り留める。
「パラダイソっ言うは、なんね」
「このご時世に舶来語使っちまうが、極楽って意味よ。姉ちゃん助かったんだ。いつか遊ぼうな!」
大男は茜に別れを告げ、燃え盛る鷲巣の館へ戻って行った。
茜は鷲巣邸から去る途中…鷲巣を、吉岡を、鈴木を思い
(男っちゅうもんは良かったなぁ。良かもんじゃったなぁ)
そう走っていたが、亡夫を思い出し、請う。
(あんた…あたいここを生きて出られたら、また悪さするかも知れんけど…)
艶かしい悪さ…しかし、間接キッスくらいのかわいいものだったら許して欲しいと。
茜はとにかく身を隠した。親にさえ、死んだ者とされている。
それくらいでないと、鷲巣に捕まってしまうと思えたからだ。
焼けた鷲巣の洋館からは、男の焼死体が何体も発見されたが、六尺以上ある大男のものはなかった。
彼は骨まで焼かれてしまったのか、茜と鷲巣、鈴木だけが見た幻だったのか。
「…手放す前に、無くなりおって」
鷲巣は黒々と燃え落ちた己の洋館を高台から見下ろし、決意していた。
「もう女にも、生涯触れぬ。結局助けられていたのだからな、もう終わりだ」
業火の跡を見遣る鷲巣の圧倒的な存在感、パワー。
それは人間の物とは思えない程に透明で巨大だった。
失っても、何度でも復活出来る男は存在する。
吉岡と鈴木は、館の燃え落ちたこの朝、鷲巣に一人前の男として認められ、
これから先の、未来の自由を与えられた。
少年二人は自らの決意を行動で示す。鷲巣も言葉の要らない男だったから。
東京に向かう鷲巣に、吉岡と鈴木は従って着いて来た。
損失と獲得を立て続けに受けて、大きな椅子に腰掛けている鷲巣は、両の目蓋に少し触れた。