赤木しげるの20代が終わる頃、  
彼の麻雀を気に入った不動産が、彼のために用意した家があった。  
赤木自身がその佇まいについて注文をした、普通のマンションである。  
どこか一般庶民の空気を吸いたいところが赤木にはある。10代の頃住み込みで働いた「沼田玩具工場」などその典型。  
そして赤木は思い出したかのように、たまにしかそのマンションに帰らなった。  
マンションと言えども部屋は狭く、右隣は空き部屋、左隣に三人親子が住んでいた。  
三人親子の夫婦は、その隣人がアウトロー≠セと感じている。  
見るからにヤクザと言った風の男や、黒尽くめ姿の男達が隣室に訪れるからだ。  
そしてヤクザ達の顔はどれも、異常な緊張感を湛えているのである。  
見えない隣人のその迫力を、訪ねる人々が表情で教えてくれた。  
 
三人親子の一人娘が、誤って小さなボールを隣人のベランダに入れてしまった。  
彼女は少し色っぽい普通の女の子だが、閃光のような好奇心を持つ時がある。  
遊んでいた友達と別れ…ボールを取ろうと一人、正体不明の隣室を訪ねた。  
赤木宅に入った娘は、そのベランダから、隣のベランダに居る自分の母に呼びかけていた。  
娘と共にベランダ居た隣人の男も、その母に向かい「どうも」と、開けた窓を閉めぬまま、ゆっくりと自分の部屋へ戻って行く。  
身重の母は…隣の部屋から娘の楽しそうな絶叫や笑い声が聞こえると  
(カードゲームをしてるんだ)と、何故かホッとして、娘が帰るのを黙って待つ事にした。  
 
白髪の隣人が、母に向かって6歳の娘の勝負強さを褒める。  
白い男と黒髪の母娘が、マンションの通路で立ち話である。  
「主人がこうしたゲームを昔からこの子と…」「母さんも教えてくれたよ」「そうだったっけ?」  
「フフ…」  
親子の会話を楽しそうに聞く男の、甘く低い声に、女二人の腰の辺りがズン…と刺激された。  
「おじさんまたね」  
「ああ…」  
背の高い男が白い残像を残して、自分の部屋へ戻って行った。  
 
娘に向い、母が楽しそうに隣人の男振りを褒める。娘は濁った声で「うん…」と頷くが、  
(でも…かわってると思う…)  
この言葉は飲み込んだ。あのおじさんと自分の時間、空気を守りたかったからだ。  
少女がボールを取りに訪ねると、手にトランプを持っていた男は初対面で部屋に入れてくれた。  
話の流れで遊ぼうとなった時、赤木は少女にこう言ったのだ。  
「遊ぶだけかい? 何か賭けないか」  
「かけ…」  
「あんたが勝てば、俺があんたの言う事を聞こう。  
ただしあんたが負けたら…何かを諦めるって言うのはどうだい。何か損をするのさ…」  
少女は取りに来たボールを賭ける。こうして、赤木と少女の勝負の日々が始まった。  
 
少女の父親が家に帰ると、三人親子の食卓は赤木の話題で華のように盛り上った。  
父母は「やっぱりマジシャンなんじゃないの?」と娘に聞いて来る。違うとの事。  
隣人が越して来てから3ヶ月経つ土曜の夜。  
今日も娘は彼と戦ったそうで、父はフと弟の言葉を思い出した。  
少し危うい生き方をしているその弟が  
「100年に一人の男だ。鬼みたいなギャンブラーだ」  
と、何者かを評し騒いでいた事があった。その博徒は白髪だったと言う。  
その鬼の名前も覚えている。「赤木 し××」そんな名だった。  
三人親子の父もギャンブル好き。打った回数は少ないものの、一度も負けた事がなかった。  
隣人の事を考える父は落ち着かず、ベランダに出てその様子を窺いたくなった。  
簡単だった。白髪の男はベランダで煙草をふかしていたのである。  
一家の父が自己紹介をすると隣人も名乗る。  
「……赤木です」  
無人のような家に住んでいる謎の男。その「ぬるり」とした迫力。  
白髪のインパクトは彼の年齢をぼかしてしまい勝ちだが、赤木の顔を良く見ると…30歳代だと感じる。  
この人がギャンブラーの赤木かどうか、聞いて確かめるのはやめよう。  
(俺が、俺の力で判断する。100年に一人の男かどうか)  
男は微笑みながら赤木に勝負を挑む。その笑顔に、甘い笑みを返しながら赤木は言った。  
「何を掛ける?」  
「え?…」  
「あんたは俺が何者なのか、薄々気付いてるようだし。それなりの物をお互い賭けようぜ」  
この赤木の声によって、男が本物のギャンブルに触れたその時、妻が産気付いて一家は騒がしくなった。  
 
土曜の夜が深まった頃、一家に生まれたのは男の子だった。  
その男児を見詰めた父は、疲労から寝入った妻の側を去り、赤木の家へ向かう。  
日は変り日曜。赤木のリミットは今日の朝。これきりで部屋も引き払ってしまうと言う。  
つまり、男と赤木の勝負はこの夜だけとなる。一晩、一時ながら…彼の息子が生まれた時。  
「俺は指4本と、この部屋を賭けよう…あんたは何」  
「俺が負けたら、赤木さんに俺の息子の名付け親になって欲しい」  
どんな名前にされるかわからないまま、ギャンブルの負け代に投じると言う。  
息子のゴッドファーザーを赤木とする。息子の人生、初の門出を、赤木に委ねる。  
「いいよ」  
赤木は二つ返事で承諾した。  
いいさ、くれてやる。あんたの息子の人生、それで後悔は無しだぜ。  
 
男は赤木の抱える闇に酔わされていた。積極的に酔ってもいた。  
たぶん昨日出会った時から勝てないと、どこかでわかっていたのかも知れない。  
彼はただ闇に触りに来た者。  
 
父が自宅へ帰ると眠っていた娘が目を覚ます。日曜の朝日が昇り始めていた頃だった。  
土曜の夜に生まれた、間の良い弟を姉は喜ぶ。弟と一緒に居たがるその娘に父は伝えた。  
「名前決まったぞ。それからな、隣の赤木さん今日で引越しするんだって」  
少女は家の外へ飛び出した。赤木の家の前には黒服が三、四人たむろしている。  
少女は衣服を乱したまま、恐れずに赤木が現れるのを待った。  
朝のマンション、その通路を白い麻糸のような頭髪が渡る。  
「おじさん」  
「あぁ」  
「………いつか、遊んでくれる?」  
「そうだな……今で良い」  
そう言うと、赤木は黒服を待たせる事にした。  
少し騒ぐ黒服に「いいから」と言って、赤木は少女を部屋に入れる。  
ボールを巡っての、赤木と少女の最後の戦いが始まった。  
 
「あんたは俺に勝てなかった。だからもう駄目だ。これは貰って行くぜ」  
そのボールはたった15円くらいの、緑色のスーパーボールである。  
しかし少女には掛け替えのない物だった。赤木の家を訪れる理由だったのだから。  
思い出の品と赤木本人がいきなり、どちらも無くなってしまう。  
「そんなにこのボールが惜しいか」  
「うぅん…賭けたんだからいい」  
「そんな顔してどうしたい」  
「思い出…なにか残る物があればいいのに…」  
「…形のある物は壊れる。ボールよりも魔法をやろうか。あんたの弟の名前に魔法をかけた」  
「まほう?」  
「忍法みたいなものかな」  
子供に対して用意した言葉なのか、まるで言霊のような計り知れない台詞と声を残して赤木はマンションから去って行った。  
 
 
女伊藤27歳の、弟はギャンブル好きで…  
彼女は特に弟だけに限らず、ギャンブラーと言う人種に溜息とも叱咤とも付かない熱い吐息を吐きながら、公務員の仕事を真面目にこなしていた。  
恋人はない。仕事は好き。金が溜まっては酒を飲むくらいしか楽しみはない。  
彼女は、たまにしか飲まない高い酒を求めて店の扉を開けた。  
滅多に足を運ばない店だが…いつものようにカウンターに座る。  
その彼女の視線が、茶色のソファーに座る一人の客を捕らえた。  
白髪。あの白さになるにはまだ若い顔付きに見える。  
「赤木さん」と呼ばれている。まさか。  
 
白髪の男の元へ向かおうとする、自分の足取りがなんとなく覚束ないと彼女は感じた。  
落ち着くために彼女はまずトイレへ立った。豪奢で大きな洗面所の鏡に自分を映す。  
懐かしくて、女の頬に笑みが浮かぶ。  
魔法を使うおじさんと、本当の自分を…久しぶりに見てみようと思った。  
 
「失礼します」  
ソファーの男達は、その女の声に一斉に顔を上げた。女を見遣る。  
「赤木さん…少しお話して下さい」  
五十絡みの白髪の男は、振り返る肩越しにじっと女を見た。  
女もその男に視線を預け、男女は少し長く見詰め合った。  
男に許されて女はソファーに座る。  
「お前達はもう帰りな」  
黒服達はざわめくが、白髪の男に言われるまま席を立った。  
「いい女…赤木さんの女かな」  
得体の知れない凄みがあったから、そうかも知れないと黒服達は言い合った。  
 
白髪の赤木は、女が喋る20年前の話を…時に頷き、聞くままにしていた。女はたずねる。  
「また…お手合わせして頂けますか? ブラックジャックでも、麻雀でも…」  
「クク…まだ好きなのかい…」  
こうした男女の会話はどう言う進展を迎えたのか、伊藤は翌日、赤木と共に賭場へ発っていた。  
赤木は勝負に勝ち、大金を手に入れる。  
「あの車ごとやるよ…金…」  
「私お金より、赤木さんとの時間が欲しいです」  
伊藤は言った。まるで10億で赤木の体を買うよう。赤木は言う。  
「俺は勝手に、好きな機会に時間を使うから…あんたと合わないぜ」  
「私、仕事辞めて来ました。自由な時間はあります」  
赤木は哄笑した。  
「ムチャだな。仕事辞めて、金も要らないか」  
赤木との一晩には、それでも廉価だと女は思っている。  
 
伊藤は、赤木の明日の予定を聞かないまま、彼に脱がされてその背を晒した。  
長くうねる黒髪を前に落とし、豊かで滑らかな乳房の上に掛けている。  
彼の指が自分の背に触れるだけで、女は吐息を乱した。  
指を赤木に触れられると、声を漏らす。  
「今度勝負が出来たら…指でも賭けるかい、姉さん」  
その指に口付けられると、女は短く呻いて男に快感を知らせた。  
女はベッドに倒され、衣服を全て剥ぎ取られた。明るい部屋の中、女は蛇のように蠢きうつ伏せになると、男を振り向く。  
「脱がないの?」  
「歳を考えてくれ、俺の」  
近付いて来た赤木の胸をシャツ越しに触ると、しなやかで逞しい気がした。  
 
「指も賭けさせて。私、赤木さんの様になりたいんです」  
衣服を着込んだ男に、裸の女は触れられて喘ぐ。  
「あんた女じゃないか、俺のようにはなれないよ」  
最も男女の差が現れている今この状態で(私は女だから無理かも知れない)と思う女は、思わせる赤木は、冗談めいているが、  
今の瞬間に時間も、自分の鼓動も止まって感じたのは彼女の中で確かだった。赤木と言う人に圧倒されたのは本当だった。  
着衣の赤木が、女の心を煽って…体ごと彼の世界へ堕とす。  
赤木は思わぬところから触れて来て、女を驚かせた。  
そして彼の真域≠ェ、大いに彼女を喜ばせる。体の相性の良い男女だった。  
 
昨晩、赤木と女はソファーの上でこんな会話をした。  
女はギャンブラーになりたいそうで、赤木のような闇まで持ちたいそうだ。赤木は言う。  
「俺はもう………長い勝負は出来ない……勝負するには妙な頭になってる」  
艶っぽい唇の女がそれを半開きにし、目を皿のようにして赤木を見る。  
「そうなったのは……年の所為もあるだろうが…  
若い頃無茶した所為……それでも俺のようになりたいか」  
「もちろん」  
女は昂揚し、迷いなく即答した。  
興奮したその目には、涙も浮かんでいる。  
赤木の全てに泣きたくなった。赤木のようになりたい。そして赤木の全てを任されたいと思う、この胸狂おしい感情は。  
赤木は若い頃、思考し過ぎたとか…殴られる的に頭を使ったとかで枯れるのが早いのか…。  
女はたぶん、トランプの散らかった部屋で一緒に遊んだ時から、この人を愛している。  
「やれやれ…」  
赤木は女に溜息を吐く。こうした話から、赤木は賭場に女を誘った。  
 
服を着た男の下、裸の女は快感に落ち過ぎて失神していた。  
男はその間に煙草を吸い、服を脱いで灯りを消した。  
薄く覚醒した伊藤は、闇の中 月明かりに浮かぶ、赤木の肩の傷を見た。日本刀で押し斬られたような、深い古傷。  
この傷が付いた20歳くらいの頃から、赤木は走り続けている。この世界に走り込んで来たのは、もっと前かも知れないが。  
暗闇で女の肌と肌を合わせる赤木は、さっきとはまるで違って感じた。  
(なんて、変る人だろう…)  
赤木はまた、女に深く進入してくる。  
女は頭(かぶり)を一度大きく振り、低い声で悶える。  
伊藤は赤木の頭部を、腕と乳房で抱きしめ、目を閉じた。  
「あなたの所まで、私の力で行く………行きたい…」  
女の体が長く仰け反った頃…男の粘りついた白が、熱い闇の中で迸る。  
 
気が狂って居るわけでもない、破滅に酔うわけでもないこの女の真摯な願いに、赤木は虚を衝かれた感覚を一瞬味わった。  
ベッドに座っていた赤木は、女の寝入っている隣で自分の肩を少しだけ掻く。  
(若いなぁ姉さんは…)  
黒髪をうねらせて眠っている女を、赤木は振り返る。  
この肩を、刀で斬られたあの頃、あの頃が一番体の動いた時期だ。  
それを失くし始めた頃の俺を…見てたんだあんたは。  
「おい…おい…姉さん」  
艶かしい女が、悩ましく目を覚ます。男の低い声に呼ばれて少し顔を上げる。  
「あんた確か一晩って言ったけど…一回とは言ってないな」  
「え…」  
「倍プッシュだ」  
 
 
その朝には、赤木の影は女のそばに無かった。  
伊藤と赤木が、肌を合わせて別れてから2年後…ある依頼が赤木の下に届く。  
「その者にはギャンブルしかもう残されていない。  
そいつから全てを奪って欲しい。  
生きていても死んでいるような…完璧な負け…そう心の負けと死を…与えて欲しい」  
それが出来る対戦相手は「赤木しげる」しか居ないと、兵藤和尊の判断だった。  
「神域の赤木……人の心こそ美味いと…言ったそうじゃのお…  
…奴の心は…気に入ると思うがのう、神域は」  
兵藤はそう言ったそうだ。  
「兵藤…初めての依頼だな…自分でやれと伝えておけ」  
赤木は無下にそう言うが、兵藤はこうも言ったらしい。  
「儂は駄目じゃよぉ…神域赤木より優しいから、人の心に止めなど刺せんのじゃ」  
(クク…何を言うかね……あんた悪鬼羅刹の類だろ…)  
「で、そいつの名前は」  
「××××」  
「なに?」  
「えぇと…」  
赤木の乗り出すような態度に、黒服はたじろぎ、その名を言い直した。  
赤木はいきなり帝愛に乗り込んだ。対戦相手の情報を聞き出す。  
(……来たぜ、姉さん…!)  
 
20年前、赤木が去った後、女伊藤の周辺には様々な事が起こった。  
(父さんはきっと…赤木さんとギャンブルで戦った…)  
そう、父がああならなければ…自分は公務員なんて堅い仕事には就いていなかっただろう。  
見事な反面教師だった。  
そして久し振りに、東京にいる弟に電話でもしようと思った。  
赤木と別れてすぐの頃である。弟を思いながら、赤木が静かに、熱く思い出される。  
 
女伊藤のギャンブラー人生が始まった。赤木との仲は一晩。それ切り2年会って居ない。妊娠はしなかった。  
母には、職を変え羽振りが良くなった事を伝え、定期的にかなり纏まった金銭を送り続けた。  
そうすると母はパートをやめてしまい、友人と共に、または一人でマカオやラスベガスに行くようになった。  
そして大体勝って帰って来るのだ。母も飛び立ちたかったのだろうか。  
弟との通信は、彼からの一方的な電話だけとなっていた。どこに住んでいるか言えないと、一年以上前から毎回言う。  
そのうち連絡先を言うから…なんていつも。  
だから、姉が弟を求め一人で、目ぼしい地域を捜索しおうと思った時である。  
「伊藤さん。ちょっとあるきっかけでよ。あんたを思い出してさ」  
2年の時を経て、いきなり52歳の赤木が伊藤のもとに現れた。  
 
伊藤は赤木と行動を共にする。ほんの数日だったのだが  
「赤木さんが女連れてるなんて…珍しい」  
そう言われた。その筈。赤木は日本で、自分の決まった女をそばに置いた事が一度もない。  
赤木は女の唇も好きだが、言葉の通じない、会話の出来ない女との関係も好むようだった。  
「ずげぇ良い女…」  
そう噂され、伊藤の顔も広くなった。まず、赤木の傍らに立つと、女性は女振りが上がると言われている。赤木の魔力の一つである。  
「戦いたい奴が居てね…でもそいつとの勝負の依頼をして来た兵藤ってのが、断ってきやがった。  
何の事情かは知らねぇけど…俺とそいつを戦わせたくなくなった事は確かだな。  
だから嫌がる兵藤の心ごと、その男の負けを頂いちまおうか……」  
仲間や女に見せる物とは異質の艶かしさで、赤木は笑顔を見せた。  
これが本当の赤木だと女は知っていた。その彼が言葉を続ける。  
「それからな…そいつが勝ったら、俺は姉さんに近付かないようにしよう。  
姉さんの方からも俺に近付く事が出来ないようにする」  
「赤木さん……」  
赤木の戦いたい相手を悟り、伊藤は高くか細い声で泣き出した。  
絞られ、引き裂かれるような魂を震わせて、男の名を呼んだ。  
「俺に関わる事、そいつの姉さんである事、  
両方である事は、あんたには出来ねぇさ。そんな器用には見えないぜ」  
赤木の命はあと一年半。そんな未来をこの男女は知らないが  
つまり赤木が勝てば、彼女が赤木に近付ける時間があと一年半と言う事になる。  
赤木が負ければその場、その賭場で二人の会う時間は終わる。  
赤木が伊藤に語りかけた。  
「これが俺の、大きな賭場でやる最後のギャンブルだと思う。それなりの相手と戦いたい」  
「…弟は…それなりですか…?」  
「あぁ」  
嘘か本当か、その淡いで赤木は笑みを見せた。  
女はこんな時に(…生きてて良かった)と思った。そして、弟の全てが奪われる危険がすぐ隣にある事を理解する。  
 
赤木がその、伊藤の弟と戦う為、練馬に来た時である。  
大きな公園の駐車場近く、ネクタイを着けないスーツ姿の赤木が歩んでいると、  
「見て…あのおじさん素敵…」  
と、親戚の子供と連れ立って公園を歩いていた女が、赤木にときめいていた。  
(お…)  
と、赤木は自分に視線を投げた醜女にフワ…と近付く。  
「きゃっ、こっち来る…」  
子供の肩に手を乗せて、醜女は体を跳ねさせた。  
「赤木さん、ちょっと!」  
黒服は驚いて赤木を止める。この勝負の為に赤木が雇った二人の黒服である。  
「あんな女どうしようって言うんですか」  
「良さそうな唇じゃねぇか」  
黒服達はびっくりして、とにかく赤木を止めようとした。  
「お前ら、一目見ただけで「あんな女」とはなんだ。無礼はよせよ」  
(あんただって、あっちに好意があると解ったら、唇見ただけで寄ってってるじゃねぇか!)  
赤木の「女の唇好き」は、そこいらの黒服もつっ込む程自由なものだった。  
 
赤木とその女はすぐにも仲良くなって、一緒に噴水で遊びだした。  
その遊びっ振りと感じの良さから、まわりがざわめく男女である。  
実に楽しそうで、女の親戚の子を始め、見も知らない子供達も一緒に遊び出している。  
相変わらず、赤木のそばに居るだけで、女は随分魅力的に見えていた。  
 
女は合流した親戚達から上手く別れて、一人で赤木の下へ戻って来た。彼に誘われたからだ。  
赤木は公園のベンチに座っていて、女を見上げた。  
「よお…戻って来てくれたか」  
先程噴水の前で跳ねていた時は、青年のように、蝶のように軽やかに見えていたこの男が、  
今はその木の座席に根を張っているような、座ったらもう立ち上がれないんじゃないかと言う程の 静けさと重さの中に居た。  
「うん…」  
「あんた優しそうでさ……別に好きな男は居ないのかい?…」  
「居たけど…もう会えないかも…」  
「ふぅん…」  
そしてその男は、今赤木が座っているベンチでよく昼寝をしていた。  
「美心を置いて居なくなっちゃった…美心、子供じゃないのに。もう子供じゃないもん」  
赤木は美心の手を取った。美心はこんなに美しい人を見たのは初めてだ。  
いや、見たとは言わない。美心は感じた。  
赤木の涼しい風。鳴り止まない風。  
「俺も子供じゃないから…丁度良いな…」  
ヒールを履いた美心より背の高い赤木が、ゆっくり立ち上がって美心を見おろす。  
そして自分の泊まっているホテルの鍵を彼女に渡し、車に向かって歩き出した。  
美心は赤木の影を踏まないように彼に続く。  
 
「何をしようか…あんたを部屋に入れて…その先どうするのか、まだ考えてねぇ。  
何も賭けないでカードゲームはどうだ…それともギャンブル好きかい」  
「もう」  
美心は明るい笑顔を見せる。赤木も笑った。  
「美心…駄目な事かも知れないけど…ギャンブル…  
ギャンブル好きな男の人が気になっちゃう。居なくなった好きな人も…そんな人」  
「あらら……駄目だね」  
「赤木さん賭け事好き?」  
「俺もバカだから」  
好きなようだった。賭博が好きで狭い考えを持つ自分自身をバカだと言った。  
「何も考えてないって言ったけど…部屋にあんたを入れる前、車に乗せるより前に、  
したい事はあった」  
駐車場に止めてある車の前で、赤木は何の淀みもなく若い女に口付けた。  
見ている者に、すぐにも野生を取り戻させるような赤木の動き。空気が一瞬で暗く変ったかの様に扇情的だった。  
その口付けを見ていた傍観者は二人の黒服だけだったが、黒服達はこの歳になって……  
キスを見ただけが原因で、女やら自慰やらを求める今日だとは思わなかった。  
「美心…初めて……」  
「なにが…」  
「こんなにドキドキしたの……」  
「じゃあ、俺も同じくらいにしてくれないとな……」  
「ドキドキしなかった…?」  
「もう少し欲しい」  
美心は高鳴る胸を、全く押さえる事が出来ないまま、息も切れ切れに、赤木に抗議した。  
「えっち…」  
「ハハハッ」  
なじられた赤木は快闊に笑う。  
 
ベッドの上とは言え、胸が肌蹴ているだけの美心の上でスーツを着たままの赤木。  
その彼がいきなり昏倒する。いや、しそうになって、美心に全体重を押し付ける事を防ぐ為、自分の体をその腕の力で支えた。  
「赤木さん…?」  
美心は赤木の目に宿る影を、初めて見た。  
(どうしたんだろう。心配……)  
どうしたの? と、言葉ではなく瞳で語る美心。  
「悪いな…」  
赤木はぼそりと言った。  
「こんなおじさんでよ……」  
美心はフルフル…と首を振った。  
日の光が揺れて当たり、女の白い肌を、乳房を、更に白く光られた。  
(綺麗だ……)  
昏倒は……セックス中のあの、ゆるゆると染み込んで来る眠気ではなく、  
判で押したように性急な、当然意識を絶たれる、怖い程の睡魔だった。  
(来年くらいには…)  
来年には失うかも知れない「俺」の可能性を、赤木は考えた。  
うな垂れた赤木の白い髪が、ちょうど美心の乳房をかすめるように落ちる。  
「…フフ…赤木さん、くすぐったい」  
赤木は頭(こうべ)を上げ、美心の目を見詰めた。  
男女は見詰め合った。もうすぐ雄ではなくなってしまう彼の最後の眼光。  
そんな眼差しを向けられた美心の恥かしそうな瞳と、先程の笑い声に誘われて  
「あらら」  
と、赤木も少しだけ笑った。  
 
美心は赤木の肩を、下から両腕で抱いて、自分に引き寄せる。  
「これから…どうするんだったの?」  
昏倒する前の続きを、美心は望んでいた。  
「さっきから俺の勝手ばかりじゃねぇか…美心さんは、何かして欲しい事あるかい?」  
「…なでなで、して」  
「…ククッ」  
赤木は吹き出すように少し笑った。美心は照れてジタジタしている。  
「なによぉ」  
「フフ、わかったよ……」  
赤木の指が美心の額をすべり、その髪の生え際から中へ入り込んで、彼女の黒髪を内側から愛撫した。  
それはただの なでなでとは程遠く、美心は嬌声を漏らした。  
髪でこんなに感じる事が出来るなんて、美心は想像すらした事がなかった。  
赤木は美心の体を、自由に開発して行く事が出来る。  
しかし今は、女の体を育て上げるとか発見するとかではなくて、違う閃きが欲しかった。  
「……あっ……赤木さん…」  
彼女の髪の先や、髪の内側を指で撫でながら、赤木は美心の耳、首筋に口付ける。  
次に彼女の瞼に唇を押し、唇に唇を合わせた。  
彼女も唇で赤木を求めて、ゆっくりと吐息も一つになっていった。  
 
赤木は前戯で美心を高め過ぎ、初めて挿入する時、その進入の途中で美心は絶頂を迎えていた。  
「赤木さんっ…美心イク、…イッちゃう」  
挿入前、赤木が全裸の美心の腰を抱いた時、彼女は息を切らしてそう訴えた。  
その後体を跳ねさせ、あとは鮮魚のように痙攣して赤木を長い時間締め上げた。  
美心は初めてだったが、赤木を受け入れる事が出来た。  
男を迎えやすい体。しかし締まりや濡れ方、形などが優れているのは…  
赤木の手腕と、経験が少ないと言う理由だけから来る物ではなく…つまり名器だった。  
彼女は少し痛みを訴えて来たが、そこは赤木の工夫で和らげ、どうにでもなって行った。  
スーツを着たままベッドに座る赤木に、素肌の美心が座り、彼女の背が彼の胸に抱かれ。  
美心は艶かしい体を仰け反らせる。または愛らしく丸めて、快感と絶頂を隠さなかった。  
赤木は時にフッと軽く目元を歪める。それは眠気のせいではない。  
 
「エヘヘ……美心、また赤木さんでイキたい…」  
処女がそう言う程の快感を、赤木は何度も引き出した。  
元々、美心は快感を得やすい、感じやすい体だったので、男女はどこまでも行ってしまいそうだった。  
限度もなく、処女と50代の男の、地獄の淵が見えるまで。  
 
「赤木さんも…美心でイッて……中に、欲しい」  
赤木の射精感は、普通一般の男のものとは違っていて…手応えのないものであり。  
世界が裏から表に裏返るような、あの、はっきりとした放出を迎える事はあまり無かった。  
しかし、今は足の裏やふくらはぎが攣りそうになるほどイッた。  
(俺があんたの事を好きだから?)  
それとも  
 
この頃…赤木は漠然と物足りない気持ちを抱く事がある。  
そんな時、似合わないが体を動かしていた。  
しかし動かしても、朝に腹筋運動した事を忘れて、夜にもしてしまう日々が続いた為に、腹筋が薄っすら六つに割れていた。  
(なんで朝した事を忘れるんだろう…)  
赤木はそうも思うが…奇しくも、若い女に見せるのにあまり抵抗が無い体になっていた。  
 
赤木はバスルームで一緒に湯に浸かっている美心に言った。  
「よく言うだろ…男は女の最初の男になりたくて…女は男の最後の女になりたいってな」  
「なんだかえっちよね。美心恥かしくなっちゃう」  
「おいおい…俺達がモロにそれだなって話なんだぜ」  
「赤木さん…美心が…最後?」  
「ああ」  
赤木の最後の女になる…美心はしかし、悲しそうな顔で言った。  
「そんな、そんな、赤木さんまだまだでしょ。赤木さんはまだずっと、  
男の人として生きるんだからね…! まだまだ だぞ!」  
「フフ…美心さんやっぱり優しいな…ありがとよ…」  
そう、赤木はまだ若い。こうして女を抱く事も、問題なく出来るのだから  
「赤木さん、何か困ってる? そう思うから美心、さっきおっぱい見せたんだよ」  
「何かね…俺、こう言うのから随分離れててよ。今日は取り返そうと思ったんだ。美心さんを見た時に…」  
「ドキドキ出来た…?」  
「あぁ、したよ」  
「赤木さんっ」  
美心が笑顔で赤木に抱きつく。赤木も笑顔で美心を迎えた。  
 
赤木はこのホテルで生活していた。彼の日用品が部屋の所々に見られる。  
「赤木さん…何で冷えピタ…」  
「おぉ…頭に張ると気持ち良いだろ…それ」  
「うん……でもいっぱいだね…こんなに…」  
「買った事、何回か忘れてよ…」  
「えへへ…物忘れなんてするんだ…凄く頭良いのに」  
「だから…ジジイで悪かったな…」  
珍しく赤木が少し拗ねて、美心は胸が引き裂かれそうになるほどかわいいと思った。  
その冷えピタがはみ出して入っていたビニール袋。または封の開いた封筒。  
その封筒だが…表には何も書かれておらず、裏に判で押した住所が印されていた。  
封筒のデザインの美しさと、住所の「岩手県 紫波町 清寛寺」の文字を美心は何気なく見ていた。  
 
「封筒凝ってるよな…そこの住職不良だぜ…」  
「知り合いなの?」  
「うん」  
(あ…、この電話番号で赤木さんと連絡取れる)  
美心はそう閃いて、住所を覚えよう、電話番号も書いて控えようと思ったが…書き留める事が出来なかった。  
こんな心の動きを覚えるのは、美心は本当に珍しい事だった。  
(美心…図々しいのに…)  
なにより、こんなに赤木が好きで、又会いたいと思っているのに…。  
寺の住所を書いたら、完全に覚えてしまったら、何かが終わってしまう気がした。  
ただの勘なのだが、赤木と終わってしまう方へ、自分から手を染める事が美心には出来ない。  
「赤木さん」  
「あぁ…」  
「赤木さん」  
「なに…」  
「……キスして、お願い…」  
美心の顔はとても明るかったが、深く悲しそうに見えた。  
赤木は、ベッドに座る美心の唇に、唇を重ねる。  
(赤木さんとずっと居たいの…だって…赤木さんは美心の、美心は赤木さんの…)  
赤木は大人の色気で、時に子供のような表情で、不思議そうに美心を見詰めた。  
なぜ美心は赤木の聡明さを良く知っていたかと言うと、本当に赤木とカードゲームに興じたのが大きな理由だった。  
赤木の計り知れない強さと頭の良さを、まるで魔法みたいで素敵だなと思っていた。  
 
「家まで送るよ美心さん」  
赤木の運転は静かだった。静かなのに速く、鋭い。堂々たる無免許。  
 
出会ったばかりの赤木と美心が、公園の噴水で遊んでいた時。  
ふら付いた美心が赤木に抱き止められて笑い合っていると、赤木の側にもの凄い美人が通りかかった。  
その時、美心は自然に赤木から離れて親戚の子や周りの子供達と遊んだ。  
美しい彼女と赤木は知り合いだったようで、軽く会話を交わすと別れていた。  
「俺…色んな人間と手分けして、ある男を探しててよ。この公園にも居なかったみたいだな」  
そう言って赤木は平気で美心のそばに戻る。美心が赤木の知り合いを褒めた。  
その美しさはまるで賭博勝利の女神。人の女と思えない、まるで自然神のように見えたその存在は…、赤木とは手を組み、その男の事は探した。  
「格好良い人。美心じゃ赤木さんに似合わないね。美心、知ってるもん美人じゃない事」  
「俺は美心さん好きだね。色気あるよ」  
「嬉しい…でも…本当?」  
「ヘナヘナすんな」  
と、男女は笑い合って、水と遊んでいた。  
 
「美心さん…」  
「赤木さん…」  
心細い美心を赤木は呼んだ。もう美心の家…坂崎邸に、車は到着している。  
「本当は、あんたを攫っちまいたいな…  
でも、何もわからなくなった俺があんたに頼りっ放しになる可能性を思うとゾッとしねぇ…  
あんたを得る事に時間を掛けてる間に…あんたを得るのと交換みたいに…俺は、俺自身を失くしてるかも知れないから  
だから…行かなきゃな…」  
「赤木さん……」  
美心は…男の名前は呼べても、引き止める方法がわからない。感じる事すら出来ない。  
黒服達が赤木の運転に追い付き、坂崎邸の前にもう一台の車を止めた。  
良い女や絶世の美女と話したと思ったら、こうした女とまで…黒服は赤木の自由さに驚き、なかば辟易していた。  
そしてこの家…赤木が探しているあの男が住んでいた家ではないか。しかし赤木はそんな事を忘れていた。  
「赤木さん、この家、伊藤が住んでた所ですよ」  
黒服は赤木に、ひそやかに言う。  
「そうだったかぁ?」  
黒服は(あれ? 大丈夫か?)と、今度は本当に赤木を心配し出した。  
もう一人の黒服が身を乗り出して赤木に言う。  
「赤木さん。この勝負が終わったら病院に行きましょう。すぐ」  
「おぉ……そうだな。実はそうしようと思ってたんだ……」  
「手配しますね」  
(優しい兄さんだな、おい)  
赤木は黒服にそう思った。伊藤と接触した事がある帝愛の黒服だった為、赤木自らから彼を抜擢したのだが、心ある男でもあったようだ。  
赤木から見たら「優しい兄さん」だが、20歳代の青年から見たら「おじさん」くらいの歳の黒服。  
 
美心はバスルームで赤木を見た時は彼の体と、肩の大きな傷に圧倒されたが…  
家に帰った今、好きだった青年にもあんな傷があった事を思い出す。  
彼には、指と耳と顔に傷があった。  
(赤木さんの肩…ギャンブルで付いた傷なの?)  
と、思いがまた赤木に戻る。  
 
もし青年伊藤がこの美心の家にまだ住んでいて、出て来たら赤木に言うかも知れない。  
「あんた美心と付き合えよ。だって、あんたみたいな目で美心を見た男、俺初めて見たからさ。  
あいつには、あんたが最高のチャンスだと、俺は」  
「へぇ。優しいじゃないか美心さんに…だが、失礼な事を言うなよ。  
美心さんがあんたの物でもないんなら…あんたから俺に託す筋合いじゃねぇな」  
「いや…それは……。いやそんな事は良いから、嫌じゃないならあんたがさ」  
なんて、赤木と伊藤の会話があっただろうか。  
美心の唇や優しさに、欲情したり、好意を感じる男と、  
美心の幸せを考える男。  
美心に取って、どちらが喜ばしい男か。  
しかし、彼女を考えてくれる優しい男はこの場に居ない。あの優しさはもう帰らないかも知れない。  
そして、彼女を感じてくれる温かい男も、もうすぐ彼女の元を去るだろう。  
この二人の男は、大切なものがあった。その場所へ二人、向っているだけ。  
 
優しい黒服はもう、赤木に運転の面倒をさせない為に、彼を後へ招いた。  
背筋の美しい赤木が車を出て、後部座席に座る。車が動き出した。  
 
(冷えピタ買おう)  
赤木を見送る美心はそう思った。彼との思い出を、品物として持っていたい。  
そしてなにより、また会った時にまず、  
彼の熱くなっている額を、それで冷ますために。  
 
美心、知ってるもん美人じゃない事。  
(あらら)  
そんな事、気にしてたっけ。じゃあ俺の仲間内では美人にしてやるぜ。  
おれの最後の女は良い女だったってな。言ってやる。  
 
バイバイ  
 
車中の赤木は美心に小さく手を振った。ほとんど指だけで交わす軽い合図。  
車は進み、美心は小さくなる。坂崎家も もう見えない。  
もう休憩は終わり。しかし休んだ時間も、悪くはなかった。  
 
この時赤木は気付いた。女はもう駄目。口付けだけで、相手の女や傍観者たちを酔わせる扇情的な動きが出来ているのに。  
いや、出来ていても、彼が決めたならもう終わりなのだ。  
 
バイバイ…  
 
誰にとは言わず、赤木はぼんやりと、車の中で手を振った。  
 
 
公園を探した翌日、赤木は青年伊藤の足取りを掴んだ。  
赤木に狙われていると知った伊藤の連れが、伊藤を乗せた車で逃走していると言う。  
黒服が車で追跡すると、酷いスピードで逃げるのだそうだ。  
先回りしていた赤木は車から降り、伊藤の車が通るだろう(対向車線もない)一本道に一人立った。  
迫り来る車との距離70mで現れ、50mとなっても赤木は静止しており、眉一つ動かさない。  
「なんだこの白髪!」  
車の中の兵藤和也は叫んだ。もうブレーキだけでは男を撥ねてしまう。運転手はブレーキと共にハンドルを切った。  
車は一回転とさらに半回、空を切った。その側面を赤木に見せて停止する。もう車体が赤木のスーツに触れそうな距離。  
「失礼」  
赤木は止まった車を覗き込んでそう言った。  
兵藤は少し喜んでいるような顔で、赤木を見る。  
「よぉ、大人になったんだな」  
と、兵藤の隣に座る黒髪長髪の男、伊藤に、赤木は話し掛けた。  
伊藤は真っ青な顔で固まっている。言葉を話せるレベルではない。  
赤木だけが、淀みも無く言葉を続けている。  
兵藤和也は、目の前でこの男の胴や頭が千切れ飛ぶ様が見たかったな…と惜しい思いと射精感を抱きつつも、冷静に何かに気付いて行く。  
真っ青の伊藤だけが、一人残されている。自分がこれからギャンブルするのに。  
「…あー………!」  
兵藤和也、気付く。  
(俺があの時、後部座席から乗り出してアクセルを踏んで居たら、  
赤木しげるの肉体が道路に飛び散って、車のボンネット、窓ガラスに血も肉片も付いていた!)  
そう思うと、兵藤和也は勃起してしまった。  
(あんたの血を、想像すると…。赤木しげるの惨死なんて、いくらの金が動くのかな。  
でも俺は金より、血が良い)  
「こんな路上で自分から…死んで良かったんですか赤木しげるが…」  
赤木の轢死に劣情を燃やしながら、怖いもの知らずに喋る兵藤である。  
その言葉に透明感すら持った笑顔で答える赤木の方が怖いと、兵藤は思うかも知れないが。  
「あんたの親父から依頼があってよ。その話は流れちまったんだが…俺が伊藤と戦いたくてね…逃げられちゃ追い駆けるさ…」  
兵藤和也は(勃起しつつ)勇気を出して赤木に抗議した。  
「駄目なんですよ。この人は今大事な身で…」  
「良いんだよ。賭けるのは伊藤の金とか、腕とかじゃねぇ。  
おい…お前の姉さんな…俺が預かってるんだ。  
色々あって……身を預けたのは姉さん自身なんだが」  
この赤木の声に、伊藤が始めて人間らしい反応を示した。  
「久し振りに姉さんに会いたいだろ…ほら…声が低くて、この辺にホクロのある姉さんだ」  
赤木は別に大した事は言っていない。だがもう…言葉の全てが艶かしくて…。  
車の中から、伊藤が腕を伸ばし赤木の襟首を掴んだ。力強い。伊藤、腕っ節は良い。  
「…こんな勝負じゃ、お互い燃えないな。そうだろ?…」  
「てめぇ!」  
赤木に対して強気の伊藤に、兵藤和也がハフハフしている。  
「待て、離れろ」  
と、黒服が赤木から伊藤を引き離す。  
「おじさん…? 「沼」の時の…おじさんか?」  
顔見知り…そして彼との優しい思い出にも支えられ、緊張が一気に溶けた伊藤は泣き出した。  
 
(しかし…よく泣く姉弟だ…)  
と、赤木。  
「姉ちゃんが、拉致されたとかだったら、俺…」  
「そう言う事じゃない。俺よりもこの人を信じる事だな。俺が言いたいのはそれだけだ」  
優しい黒服は赤木しげるを伊藤に紹介した。  
「はじめまして…」  
伊藤に挨拶する赤木の声は低く…やはり怪しかった。  
 
赤木と伊藤の勝負の地、地下カジノの入り口で伊藤を待っている女が居る。  
伊藤は戦慄した。自分の姉だ。しかし姉とは思えない程に、彼女本来の、男をえぐって迫るような色香が開花していた。  
弟の彼が、身震いする程に。  
姉は弟を引っ張ろうとしたが、逆に弟が姉の手首を掴んで男性用のトイレに引っ張り込んだ。  
「このまま帰るぞ!」  
この姉弟、昔から泣き虫だったけれど、今弟は泣いていない。  
赤木と対峙して、彼は最初凄く凛々しかった。しかし、赤木に惚けて少しだけだらしない顔をした時もある。  
彼にもわかったのだ。目の前の男が神の域にいると。  
自分のそんな弱い心の流れに気付き、気を取り直してはキリッとし、しかし安定はせず妙な繰り返し…。キッとしてはグズッ…。ギラッとしてはジタッ…。  
姉は…赤ん坊だった弟があんまりかわいくて、耳たぶを噛んだりキスしたりしたものだ。  
今、その耳には痛ましい傷がある。彼自身が、ギャンブルで勝つ為、勝って生きる為に裂いた耳の痕。  
(ごめんね…ごめんね…)  
と、姉は弟の耳に触れ、耳ごと彼の頬を包んだ。  
この場を動こうとせず、ただ弟を懐かしがり傷を労わるだけの姉に…弟は当惑して言った。  
「…俺と帰るより、あの男の方が良いのか…」  
彼のしょんぼりとした、そして、今まで聞いた事のないような真面目な声を聞いて、姉は感情的になってしまった。  
「あんたが負けたらどうしようって…」  
男は姉を強く見た。彼に火が点いてしまった。まわりの空気、その温度が上がる。  
「あたしは勝負を見に来ただけ。勝敗はどうだろうと、今日はあんたと一緒に帰るよ」  
「いいや、俺が勝つなんて思えないから助けに来たんだろ。手助けなんて要らねぇ」  
弟は戦場に出る男として、目覚めてしまった。  
 
姉の弟への愛情は、裏目に出た。零れ落ちたのだ。失言は防ぎようがなかった。  
(あなたは、ギャンブルは家族で一番弱いと思ってる。  
でもあんたが本気出したら、皆絶対勝てない。あんたの強さは、私が一番知ってる。  
でもこの人とだけは……神域とだけは、当たったら潰される!)  
弟の人生、その未来と覇気が、暗闇に落とされ折られてしまうくらいなら…  
自分が赤木に会えなくなる方が良い。  
赤木のそばで強靭に研ぎ澄まして来た筈の彼女の牙は、弟にあっさり折られてしまう。  
姉は自分の事は考えていなかった。弟が愛おしくて、心配で、心配で。  
「姉ちゃんが初めて会った時、あの人30歳くらいだったんだろ」  
「…うん」  
「今はもうジジイと言われても良い見た目だ。年取ってるじゃねぇか。そんな神が居るか。  
人間だ。人間の中に、神なんか居ねぇんだよっ  
俺が勝つ可能性はある。神じゃねぇ、隙はある」  
赤木には隙がある。それが病から来るものだと気付いた時、勝負中の伊藤はどう言う反応を示すだろう。余りに人間臭い伊藤は、赤木に何を思うだろう。  
 
弟に牙を抜かれた姉が、ソファーに座る赤木の側に来た。  
「姉さん来てたのかい。  
あんた女っぽい見た目なのに、中身は漢気のかたまりだよな。  
俺はもう、あんたの女っぽいところは要らねぇ。  
今度からは、その漢気と博才だけ持って俺に会いに来な」  
「はい」  
「はい、じゃねぇだろ」  
伊藤弟の低い声が、赤木と姉の間の空気に入り込んだ。  
赤木の声が、また空気を生み出す。  
「よお…腹は決まったかい…。  
この勝負、俺が負けたら姉さんと俺はもう会わない。  
でもお前が負けたら、名前を捨てろ。俺の息子か弟になって、伊藤の名を捨てるんだよ」  
「何でも良いぜ。俺はあんたに負ける気がしないんでね」  
伊藤の声が、また空気を引き裂きに来る。  
 
赤木が立ち上がると、まわりの空気が変った。  
静かだ。少しのざわめきもない。  
赤木が「ギャンブルをしよう」と心に決めた時、いつもこうなっていた。世界はいつも赤木に風を送り、辺りを無にさせる。  
「俺より背がデカイんだな。あの時産まれた奴がねぇ…。ま、そう言う事もあるか」  
その白い奇跡が、ゆっくりと伊藤のそばで止まり、彼を見上げてそう言葉を発していた。神経を研ぎ澄ました者にしか感じ取れないように、静かに。  
 
この頃 記憶力が少し頼りない赤木。だが今…二つ彼の過去が、一つに繋がった。  
「坂崎美心と、一緒に住んでたろ」  
赤木の言葉に伊藤はびっくりして頷く。  
「坂崎の家に居候してたけど…(ああ、俺の身辺を調べてたならあの家知ってるか…)」  
「お前に惚れてたのかな」  
「…どうだろう…」  
「良くはしてくれたろ?」  
「まぁ…」  
「働きもせず…ギャンブルで付いたらしい傷を、顔と指に持ってる男に良くしてくれるなんて  
優しい子じゃねぇか…。なんにしろ勿体ない事したな」  
「あんた美心が好きなのか!?」  
伊藤は嬉しそうに言う。それは伊藤本人のためか……。いや確かに、美心の為に喜んでいる。  
(へぇ…本当に情の深い男だな…)  
と、赤木は伊藤に思いつつ  
「駄目さ俺は……女はもう駄目なんだ。  
最初は麻雀で、次は女が駄目になった」  
麻雀も打てないわけではない。女も抱けないわけではない。  
しかし赤木自身が納得の行かなくなったものは、もう…。不本意なものはもう。  
 
赤木は確かに天賦の博才を持つが、彼をギャンブラーと呼ぶ者は居なかった。  
雀士なのだ。13歳の時も19歳の頃も、闘牌の神。  
麻雀をする人こそ赤木だった。  
その彼が麻雀を降りると言う。今日の勝負も、それだけは出来ないと。  
普通、こう言う事を口にしている時、男は小さく見えるものだが…  
赤木は逆。大きく見え、自らの世界を営々と広げているように見えた。  
どこへ行くのか赤木しげる。  
伊藤が生まれて初めて見る神域。本物の博徒…その中で最強の男だった。  
伊藤は唇を噛む。伊藤だって、いや伊藤こそ、手痛く負けた時こそ胸を張って、大きく生きて来た男なのだから。  
心身に刻まれた数々の傷と喪失は、結果的に伊藤の勲章となっていたのだから。  
 
 
灰色のスーツ、その上着を脱ぎ、黒いシャツ姿となった赤木が、ジャケットを脱ぐ伊藤を招いてイスに腰掛ける。  
しだいに起きて来た喧騒の中、最初に赤木が誘う。  
白髪の男が、黒髪の青年に低い声で呼びかけた。  
「さぁ始めよう、開司」  
 
賭場に、これから最も静かな時が流れる。  
 
 

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