荷揚げされた商品が雑多と並ぶ市場の片隅で、ソフィーはふと足を止めた。  
即座に店主らしき男から話しかけられる。  
「お客さん、お目が高い。こいつは遥か東の国から仕入れたやつさ。滅多にここいらには入ってこないぜ」  
適当に相槌を返しながら、彼女はしげしげとその花束を見る。  
花屋を営む彼女でさえ、見たことのない花だ。乳白色で穂状花の蕾。綻ぶ花弁はしっとりと厚い。  
何より特徴的なのは、その香りだった。  
「夜になると、さらに強くなるんでね。そっからついた名前が夜来香」  
夜来香。きれいな名前だ。夜に香るなんて、なんて神秘的なんだろう。  
珍しさに引かれて、彼女は財布を開いた。  
店で売り物にしている生花は、基本的に花園から切り出す。  
従って問屋から仕入れることはないのだが、たまには舶来物が店頭に並ぶのもいいかもしれない。  
「今度入るのは、いつ?」  
そうさね、と顎鬚を撫でて店主は少し考え込む。  
「あんたが買い付けてくれるんなら、週一で持ってくるよ。ちなみに初夏限定」  
手渡された大きな紙包みを、慈しむように抱きかかえる彼女を見て、思わず男は口笛を鳴らす。  
「随分その花と相性がいいな。お世辞じゃないが、すっごく似合ってるよ、あんた」  
今後この花を見る度、即座に彼女が思い浮かぶことだろう。それくらい、妙に調和していたのだ。  
またくるわねと、しとやかに笑って彼女は人ごみの中に戻った。  
華奢な腕に大きな花束を抱えて歩く女性は、確かに人目を引いたが、それはほんの少しの時間だった。  
ここは市場。皆が様々な品を大量に仕入れに来る場所である。  
たとえその荷物が大きかろうと、彼女より頭一つ高かろうと、別におかしなことではないのだ。  
だがその大きさのせいで、必然的に視野が狭まり、歩きづらいことこの上ない。  
我ながら、なんとも思い切った買い物をしてしまったとソフィーは思う。  
普段は衝動買いをすることはまずない。家に浪費家がいるものだから、いつだって家計はぎりぎりだ。  
加えてこんな大荷物を抱えてしまった以上、他の店を回ることはできそうにない。  
本当は食材を買い溜めに来たはずなのだが、これでは買えたとしても持ち帰れるかどうか。  
けれど、後悔はしていない。だってこんなに素敵な花と出会えたのだから。  
 
それにしても、本当に不思議な香りだった。今でもかなり特徴的な匂いを放っているというのに、夜にはさらに強烈になるという。  
一体どんな風に香るのだろうと、ソフィーは期待に胸を膨らませて歩みを進める。  
そんな、ひどく浮ついた気持ちでいたものだから、横合いから出てきた人と、ものの見事に衝突した。  
慌てて謝ろうとして、彼女は驚きの声を上げる。  
「まあ、カブじゃないの」  
一体どうしてここに、と彼女は目をまん丸にする。その仕草がおかしかったのか、彼は朗らかに答えた。  
「停戦がらみの会議でこちらに滞在しているんです。ご主人から聞いておられませんか?」  
ああ、そういえばそんなことも言っていたなと、ソフィーは記憶を探り出す。もっとも、彼女が耳に挟んだのは夫のぼやきだったのだが。  
彼は家庭に仕事を持ち込まない主義なので、動く城の中でそういった話が出ることはまずない。  
国家の動向などに疎いのは、彼女自身、余り興味がないことも拍車をかけているといっていい。  
「ここのところ会議室に缶詰でして。気晴らしに街を探索してみようかと」  
確か夫もかつての師匠、執政サリマンの片腕として連日城に詰めている。  
散らかす人間がいないお陰で、掃除が非常にやり易く、助かっているというのはここだけの話だ。  
「それにしても、変わった花ですね」  
持ちましょうと包みに手をかけた瞬間、彼の指先はきめ細やかな肌に触れる。ただそれだけのことなのに、はっとして王子は彼女を見る。  
あの別れから、何度この女性の名を呟いたことか。何度夢に見たことか。  
心に描き続けたその顔と、今目の前にある顔は、寸分の狂いもない。星色に輝く銀の髪。優しさに満ち溢れた瞳。白磁のように滑らかな肌。  
その彼女が、ふいに紙包みを傾ける。丁度二人の横顔に被るように。  
行動の意味するところがわからず訝しむ王子に、彼女は顔を急に寄せた。  
戸惑う暇すら与えられず、しっとりと柔らかな感触が、彼の口元を襲う。そしてひどくゆっくりと唇から離れてゆく。  
まさか彼女の方からしてくるとは思ってもみなかったのだろう。呆然とする王子に、彼女は囁く。  
「情事は、お嫌い?」  
彼以外には聞こえていない、甘い声。抗い難いその声に吸い寄せられ、彼は顔を近づけてゆく。  
一方は家の壁、もう一方は大きな花束。その陰で、一組の男女は再び口付けを交わした。  
 
花束を抱えたまま、彼女は寝台に腰掛ける。  
まだ日も高い。宿の室内は、幾重にも重ねられた更紗からの光で薄明るかった。  
包みに顔を埋め、その香りを楽しんでいるソフィーに、王子はどう対応すべきなのか判断に苦しんでいた。  
宿について部屋の扉を閉めるそのうちに、彼は徐々に普段の冷静さを取り戻していた。  
完璧な片思いをしている女性から関係を求められれば、それはひどく嬉しい。  
嬉しいには違いないが、頭の片隅で警鐘が鳴っているのも、また違いないことであった。  
自分の知るソフィーなら、まず考えられない積極性である。  
さらに言うなら、彼女は既に人妻となっており、件の魔法使いと幸せな家庭を築いているはずだ。  
なのに、なぜ彼女はこんな行動に出たのか。彼に思い当たる節など、あるわけがない。  
王子はついに、思い切ってその理由を訊ねることにした。  
「どうして、こんなことを?」  
すると心底不思議そうに、彼女は逆に尋ねてきた。  
「男女の営みに、理由が欲しいの?」  
彼は答えに詰まった。  
「つまり特別な感情がなければ、異性と体を重ねられない?」  
女が言うならともかく、男がそんな理屈をこねるとは可笑しなことだ。  
だったらなぜ快楽街というものが存在する?娼婦は何のために街角に立つ?  
「愛の言葉を囁かれないと、あなたは女を抱けないの?」  
そんなことは、と抗弁する彼に、彼女はくすくすと笑った。そして再び腕の中の花に目を落とす。  
心奪われるとは、こういうことなのかもしれない。  
この魅惑的な香りの増加を、自分は欲している。もう夜の訪れを待つことはできない。  
彼女は意識を集中する。発する言葉に魔法を宿すためだ。  
包みを愛おしそうに抱えて、その可憐な花に語りかける。  
「夜来香。月下にのみ、清楚たるをさらす花よ」  
花束を括られていた麻紐が解かれる。その枝葉に頬を寄せて、彼女は切なく願った。  
「今は昼だけれど、あなたの真の姿が見たい。その芳しき香り、強く放つ姿を」  
淡く白い花弁と共に、むせ返る程の、濃厚な匂いが一気に散った。  
 
ちょっと驚いてるの、と彼女は言葉を漏らす。  
「一国の王子が、女に不自由しているなんて」  
その言葉に、彼はボタンを外す手を止めた。あからさまに不機嫌そうな顔で彼女を見上げる。  
「貴女以外、抱きたいと思いませんから」  
言い捨てて、再び彼女の襟元に集中する。そして素肌が露わになる度、細やかな口付けを落としてゆく。  
変に頑ななのね、呆れたように彼女は言い、けど、と続けた。  
「あなたのそういうところ、嫌いじゃないわ」  
自分の胸に顔を埋める彼の髪を、そっとくしけずった。  
次々と現れる彼女の肌は、外気に触れて芳しい匂いを放つ。  
充満する花香と交じり合い、余計感覚に訴えてくるのだ。  
彼の舌が、すっきりとした鎖骨をなぞる。喉もとの小さな窪みに、唾液が溜まる。  
彼女が繰り返す、浅い呼吸に合わせて水面にさざなみが走った。  
濡れて光る肌は、だんだんとその面積を下方に広げてゆく。  
服の上から散々揉みしだかれた乳房が、止め具が全て外された胸元からこぼれ出た。  
既に乳頭は硬い。手のひらで押しつぶすように乳房全体を鷲掴みにしても、その存在を主張し続ける。  
しこりを口に含んだとき、初めて彼女は嬌声をあげた。  
今までかすれた吐息しか聞かせてくれなかったので、彼はここぞとばかりに乳頭を攻めた。  
舌先でつつき、ねっとりとしゃぶり、時に歯を立てる。その逐一に彼女は見事な反応を返してきた。  
寝具に腰を下ろしている彼の膝の上で、銀髪を乱して喘ぐ女性。  
より強い快感を求めてか、彼女は自らの胸を押し付けるようにして彼にしがみついている。  
そして王子はその胸元に顔を埋めながらも片手で彼女の背中を支え、空いた手で乳房をもてあそぶ。  
ふと彼は、自分の膝付近が妙に温かいことに気付いた。  
乳房から離し、手をそっと差し入れる。湿り気を帯びた布地に触れた瞬間、彼女が悲鳴を上げて飛び上がった。  
どうやら自分の手は女性の敏感な部分に当たったらしい。  
だが彼はそのまま彼女の股間に手をあてがい、全体をやわやわと揉み始めた。  
下着を通じて滴り落ちる愛液は、膝頭どころか太股までをも濡らしている。  
膨れ上がった分厚い外陰は、茹で上げたように熱い。  
指先で少し擦っているだけなのに、愛液は大量に溢れ出している。  
 
彼女の全てを、自分のものにしたいという思いが強いのだろう。  
加えて、やっと思いの丈をぶつける事が出来るとあって、行為はますます加熱する。  
尽きるところを知らないかのような、そのとめどない湧き具合は、まさしく泉であった。  
これだけ濡れていれば、おそらくは平気だろう。  
当初の予定では、じっくりと彼女の痴態を観賞するつもりであった。  
だが、自分の猛りをこれ以上押さえ込むことは、もはや難しい。  
軽い絶頂を何度も与えられて、既に弛緩しきっている彼女の肩を押す。  
倒れ込む動きに併せ、汗でへばりついていない髪が、ほつれながらも鈍く輝いた。  
桃色に染まった肉体が、ベットのスプリングで弾む。  
四肢を投げ出し、虚ろに空いた唇から唾液が伝い落ちる。  
全てが快感に溺れている状態にもかかわらず、瞳だけは確固たる理性を宿していた。  
乱れた銀の髪の隙間から、茶の双眸がこちらを向く。  
取り出された彼の一物を見とめても、彼女は何ら感情を示さなかった。  
目を見張ることも、顔を強張らせることもしなかった。ただ黙って、ベットの中から彼を見上げてくる。  
相手がとても無感動なことに、王子はいささか拍子抜けしていた。  
「騒がれないんですね」  
ここでようやく彼女は口元を緩めた。今更、と笑う。  
「わたしが大声を上げたところで、カブ、あなた止めてくれるつもりなんて、更々ないでしょう?」  
「成る程」  
彼は彼女の唇に軽く口付けを落とした。顔を離し、一瞬絡んだ視線だけで、二人は笑みを交わす。  
位置を確認し、先端を陰門にあてがうと、濡れそぼったもの同士が擦れ合う、卑猥な水音が生じた。  
彼女を気遣う片鱗すら見せることなく、彼は一気に貫いた。  
 
慣れた大きさとは違えど、彼女の膣は見事に陰茎をくわえ込む。  
夫と度々体を重ねてきたことで、大分行為自体に彼女の体が慣れているらしい。  
王子は、目下で悶える裸体に、目を見張っていた。  
歯を食いしばってシーツをきつく握るその姿は、まるで処女そのものだ。  
そんなわけがないのに、立ち上る無垢さのため、一瞬錯覚を起こしかける。  
だが、彼女の反応は過敏であり、その締め付けは最初から凄まじかった。  
一気に果てそうになるのを何とか耐え凌ぎ、彼は早くも腰を動かし始めた。  
彼女は、立て続けに押し寄せる快感の波に翻弄されていた。  
ひたすら愛で満たされるより、遥かに強い快感。  
それが背徳により得られる代物なのだと悟った時、彼女は微笑んだ。  
男というものは、何て操りやすい生き物なのだろう。  
主導権を握らせてやっているようにみせかけて、実際の手綱はこちらが握る。  
見つめる視線には、常に星の瞬きを。  
機嫌を損ねたときは、優しく頬に触れて口づけを。時に笑みを。時に涙を。  
なんて容易い。どんな道具を扱うよりも、その仕組みは単純で明快だ。  
そしてどれだけ人道に悖ろうとも、無垢さが立ち去らないことを、彼女は自覚していた。  
今後情事を重ねることを予定しているソフィーにとって、これは大きな強みだった。  
意識して振舞わなくても、常に乙女の匂いを立ちぼらせることができる。  
有り難いことだ。こんな体を作り上げてくれた父と母に、感謝しなくては。  
ソフィーの笑みはますます深くなる。  
「私は知らなかった」  
突然、耳元に響いてきた低い声に、ソフィーはうっすらと目を開く。  
「貴女が、こんなにも容易く」  
熱い吐息が、彼の腰の動きに合わせて耳朶にかかる。  
「伴侶以外の人に抱かれてしまうなんて」  
反対側の耳には、卑猥で盛大な水音が届く。そして皮膚同士がぶつかり合う音も。  
「悪いひとだ」  
その言葉を聞いて、ソフィーは何故か満たされた気分になった。  
 
この腕で眠る人に与えてあげる。起きていても見られる、甘美な夢を。  
だから果てしなく続く妄想を、わたしだけにそっと教えて。  
それを糧に与えてあげる。かりそめの愛を。  
あなたが全てを悟ったとき、醒めることの無い恐怖を覚えられるように。癒えることの無い苦痛を味わえるように。  
愛してる。愛してるわ、ハウル。だから憎んであげる。わたしの全存在を掛けて。  
「ハウルより、随分乱暴ね」  
胸を流れる汗を掬い取りながら、彼女は率直な感想を告げる。  
夫と比べられたことに不快感を覚えたのか、王子は力任せにソフィーを押し倒した。  
寝台の中で嬌声が上がり、そして忍びやかな笑いが部屋に満ちる。  
組み込んだ腕の下、彼女は何の気負いも無く彼を見上げていた。相変わらずの笑みを湛えて。  
「でも、悪くないわ」  
褒められているのか貶されているのか、微妙なところだ。彼は苦笑した。  
寝具の上に広がる銀髪を弄びながら、軽口を叩く。  
「ご主人に関係を知られたら、殺されかねませんね」  
そうね、と彼女は同意する。  
「間違いなく命を奪い去るでしょうよ。ありったけの責苦を味わせてからね」  
彼女は淡々と、且つ的確に夫の性格を指摘した。  
確かにあの魔法使いならやりかねない。自分が冗談のつもりでいった言葉が急に現実味を帯びてきて、彼はいささか青ざめた。  
そんな彼の表情が可笑しくて、彼女は思わず噴き出した。なんて顔をしているの、彼女は屈託無く笑声を上げる。  
あらゆる不安を吹き払うような、その明るい笑いに、彼は安堵を覚えた。  
「貴女とは一蓮托生ということですね。共に死ねるなら、それは本望というもの」  
その言葉に、ソフィーは花咲くように笑った。  
殺されるのはあなただけよ、カブ。  
彼はわたしを殺せないわ。何故なら彼の心は、未だにわたしが持っているのだから。  
ソフィーはくすりと笑み零す。一度笑い出したら、なかなか止まらなかった。  
怪訝に思った王子が顔を覗き込んでくるが、ソフィーは尚もくすくすと笑い続けた。  
床や寝具の上にばら撒かれた枝葉を拾いながら、おもむろに隣国の王子が訊く。  
「次は、いつに?」  
少し考え込んで、銀髪の人妻はこう返答した。  
「夜来香を運ぶ船が、港に着いたら」  
 
午後の明るい日差しが溢れる町で、チェザーリの看板娘はその背中に声をかける。  
振り返った姉の髪からは、安っぽい石鹸の香りがした。  
「あら、レティー。お店は?」  
淡い疑問は、彼女のにこやかな笑みでかき消されてしまう。  
今休憩中であることを説明しながらも、その大きな包みに、どうしても目がいく。  
一抱えもある、大きな花束だ。ひどく大事そうに抱えられている包みを、レティーは覗き込む。  
「珍しい花ね」  
興味を引かれた様子でしげしげと眺める彼女に、姉は少しばかり包装紙を広げてくれた。  
「東の国の品よ。いい香りがするでしょう?」  
鼻を近づけてみれば、確かにほんのりと香ってくる。茉莉花に似た、だがそれよりも遥かに強い匂い。  
「なんだか不思議な香り。それに蕾ばっかりじゃない」  
「夜になると咲くのよ。白くて小さな花がね」  
うっとりと枝葉を弄ぶ姉を見て、レティーは言い知れぬ不気味さを覚えた。  
姉は美しい。以前に増して、とても美しい。  
だがその美しさは、本来の姉が持つ無垢さや清楚さと、全く反対方向の代物だ。  
「わたし、この花が今いちばん気に入っているの」  
その声音を聞いたレティーの背に、冷たいものが走った。  
「ね、姉さん・・・」  
思わず腕を押さえて自分を凝視している妹を気にも留めず、彼女はにっこりと微笑んだ。  
「とても、好きなのよ」  
 
終  
 

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