ぽん、と肩に手を置かれて、帳簿をつけていたハウルが顔をあげた。振り返ると  
彼の肩を叩いたソフィーが微笑んでいる。  
「今日はもうおしまいにしましょ。お花、もう全部終わったの」  
「そう、じゃあこれでおしまい」  
そういうと、ハウルがペンをしまって笑った。ソフィーが帳簿を受け取り、大仰に肩をすくめて見せる。  
「誰かさんのおかげで、今日はお花が駄目になっちゃうかと思った」  
今日はハウルの仕事が休みだったので花屋を手伝ってもらったのだが、それがまずかった。  
花屋の客の大半は女性なので、今日やって来たお客さんの殆どがハウルに見惚れたり  
くすくす笑いをしていた。中には大胆にも身体を摺り寄せたり、自分を覚えてもらおうと  
世間話を引き伸ばし続けた娘が数人いて、それが原因で言い争いが始まり、そしてそれが  
口喧嘩に発展し、物騒な事に、遂には殴り合いになった。ハウルが止めて自体は収集が  
付いたのだが、それがソフィーを呆れさせた。それだけでなく、たまにやって来る  
男性客に対して彼が冷淡な態度を取ったのにも閉口した。彼らは純粋に花を買いに  
きただけであり、別にやましいことなどないのに、ハウルは頑としてソフィーと客を  
近づけなかった。可愛そうに、お客さん達はみんな困った顔をしていた。  
「ソフィーはもうちょっと警戒心を持ったほうがいい。まったくもって盲点だった。  
考えてみれば、花屋にだって男は来るのに!」  
子供みたいに頬を膨らませて、ハウルが憮然と言った。ソフィーがもう一度肩をすくめて  
彼の頭を小突く。  
「んもう、あなたって本当にやきもち焼きなのね!そんな事言ってるようじゃ、私  
家に閉じこもって生活しないといけないじゃない!」  
 
「本当はそうしたい位だけど、そんなことしたらソフィーは悲しむだろう?」  
当たり前でしょ、とソフィーがため息をついた。全く、どうしてこの人はこんなにも  
嫉妬深いのだろう。自分は他が見えないくらいに夢中なのに、気付いてないのだろうか。  
「だから、いいよ。信じてるから」  
そういったハウルの顔が思いのほか強張っていたのを知り、ソフィーは思わず彼を  
抱き締めた。いきなり抱き締められて、彼が上擦った声を出す。  
「ソ、ソフィー?」  
「馬鹿ねぇ……私はあなたしか見てないのに」  
ソフィーが悪戯っぽく笑って、ハウルに軽くキスをおとした。彼は驚きに目を見開き  
それから幸せそうな微笑を零す。そして、彼女を抱き締め、一度目を合わせてから  
ゆっくりと唇を重ねた。  
 
からん、と軽やかな音がしてドアが開いた。キスに夢中になっていたソフィーはそれを  
耳の奥で聞き、何の音かしらとぼんやり思った。ドアに背を向けていたハウルはせっかくの  
時間を邪魔された事に死ぬほど腹をたて、無視を決め込んで彼女の体をまさぐった。  
「……ところで、いつまでくっついてる気?あたし、ここにいるんだけれど」  
不意に響いた高い声に、ソフィーが飛び上がらんばかりに驚いてハウルを突き飛ばした。  
突き飛ばされたハウルは声の主を振り返る。  
「まぁ、おっかない顔」  
ピンクのエプロンドレス姿のレティーがハウルの表情を簡潔に表現した。真っ赤になった  
ソフィーが慌ててレティーに駆け寄る。  
「あ、あ、あらレティー!いらっしゃい」  
「こんにちは、お姉ちゃん。お茶を一緒にしようと思って、お菓子持ってきたの」  
ほら、というようにレティーは手に持っていた箱を示した。おそらく、彼女の勤め先から  
持ってきた品であろう。ソフィーはそれを受け取ると、彼女を部屋に促した。  
「入って!すぐに用意するから!」  
 
耳まで真っ赤にしたソフィーがあわてて階段を駆け上り、住居に飛び込んだ。  
ハウルがレティーを横目に見て、大きなため息をつく。  
「やぁ、レティー。歓迎するよ」  
明らかに嫌そうなハウルを見て、レティーが目尻を吊り上げた。それから、母親じみた  
口調でハウルをたしなめる。  
「義兄さん。いちゃつくのは結構だけど、時と場所は考えた方がいいわ。あんな事  
お店でしてたのがばれたら、客足遠のくわよ」  
「べーつーにー。看板下ろした後だし、別に僕の稼ぎだけでもやってけるし……  
ったく、ソフィーは僕が何の為にあんなに窮屈な王宮に勤めてると思ってるんだろう!」  
不機嫌そのもの、といった顔つきでハウルが答えた。レティーが軽く肩をすくめる。  
「お姉ちゃんも大変ね。あたしだったら二日でめげちゃう」  
あまりにストレートな物言いに、ハウルが苦笑した。ソフィーが二人を呼ぶ声が  
聞こえたので、レティーを家に促す。  
「幸いにして僕は君の義兄で、君は僕の義妹だ。それを神に感謝しておこう」  
そう言うと、ハウルがにやりと口元をゆがめた。そうね、とレティーも頷き、階段を  
上っていった。  
 
頬に灯った熱がなかなかひかず、ソフィーは猛烈に焦っていた。いくらハウルが可愛く  
見えたからってお店でキスするだなんて持っての外だし、それ以上に進もうとした時も  
まぁいいや、と拒まなかった事にも愕然としている。何よりそういったシーンを妹に  
見られたのは恥ずかしいし、気まずい。おろおろしながらお湯をカルシファーに沸かして  
もらい、ケーキを切り分ける。  
 
賑々しい声を上げながら、ハウルとレティーが店からやって来た。それをみて  
ソフィーは目元を和らげた。あの二人は何故だか知らないが仲がいい。それこそ、本物の  
兄妹のように。  
よっぽどうまが合うのね、とソフィーはコゼーをポットにかけながらひとりでごちた。  
ふと視線を流すと、レティーが戯れにハウルの腕を叩いている。その瞬間、言い様の  
ないほどの嫉妬と怒りを感じ、手に持っていた茶葉をひっくりかえしそうになってしまった。  
「レティー……」  
 
触らないで。  
彼は私のよ。  
   
頭の中にぽっと浮かんだ言葉に、ソフィーは言葉を失った。彼をやきもち焼きと評したのは  
自分なのに、自分のほうがひどいじゃないか。  
でも、そうしていると二人は仲のいい恋人にしか見えなかった。レティーは美人だし  
頭もいいし陽気で物怖じしない。ハウルにもよく釣り合うし、並んでいても様になる。  
もしも、レティーがハウルに恋をしたら、自分はきっと立ち向かえないだろう。  
「だめね、私………」  
ざわつく心をなんとか押し込め、ソフィーはトレイを手に持った。二人は義理では  
あるが兄妹なのだ。下手に仲が悪いよりもずっといい。そう自分に言い聞かせ  
笑顔を顔に貼り付けると足早に居間に向かった。  
 
「お待たせしたわね。どうぞ」  
ソフィーがレティーとハウルにカップを差し出す。二人は各々にお礼をいい、ふわりと  
微笑んだ。きゅ、と弓形に上がったレティーの唇がいやに赤く見えて、ソフィーは思わず  
視線を落とした。そのささいな変化に気付き、ハウルがソフィーの手に自分の手を添えた。  
ソフィーがはっと顔をあげ、それからレティーに柔らかく笑いかける。  
「どうなの?お店の調子は」  
「上々よ。戦前とそう変わらない位。町も活気が戻って、みんな幸せそう」  
レティーが嬉しそうに答えた。働き者の彼女は、店の売上があがるのが嬉しくて  
仕方ないようだ。  
「そう、それはよかった」  
ソフィーも微笑み、ハウルがその横で細く息を吐いた。国の復興を手がけている為に、  
そういった反応に気を張っているらしい。  
その時、とんとん、とドアを叩く音が聞こた。カルシファーが客だぞー、と叫ぶ。  
「あら、誰かしら?」  
ソフィーが慌てて立ち上がり、ぱたぱたと駆け出した。ハウルは紅茶を飲み、  
レティーはそれを目で追った。ソフィーがドアを開け、あらわれた人物に声を上げる。  
「まぁ、カブ!」  
げほっ。  
ソフィーの呼んだ名前に、ハウルが盛大にむせた。その綺麗な顔を嫌そうにゆがめ、  
ゆらりと立ち上がる。  
「……カブだと?」  
 
「カブ、いらっしゃい。どうしたの?」  
「外交の関係で、一昨日からこの国に居るんです。お久しぶりです、ソフィー」  
 届いてきた男の声に、ハウルが飛び出した。玄関先に立っている金髪の男と  
ソフィーの間に立ちはだかり、ソフィーを抱き寄せる。  
「やぁいらっしゃい。本当に久しぶりだね、カブ頭くん。公式な訪問ならひと月ぶり、  
お忍びもカウントするなら四日ぶりくらい?」  
「……お久しぶりです、ハウル殿。こんな真昼間から家に居るだなんて、なんです。  
遂に失業なさったのですか?」  
カブと呼ばれた男は、人当たりの良さそうな笑顔を浮かべてハウルを見た。綺麗で  
温和そうな声に潜む棘に惹かれ、レティーは彼の様子を覗う。  
「ご心配なく、貴重な休暇中だ。国税を使って遊びまわれるだなんて、君の国は  
随分と王族に有利な政治をしてるようだね」  
ハウルも優美な笑顔を浮かべた。しかし、そこはかとなくどす黒いオーラが漂っている。   
うわぁ、なんて面白い。  
いつも飄々としている兄が敵意を剥き出しにしてる。それがおかしくてレティーは  
にやにや笑った。もしかして、あれが噂に聞いた―――……。  
「いやぁ、しかし残念だなぁ。今日はもう客が来てるんだ」  
「あぁ……そうね」  
口ぶりだけは残念そうに、その実めちゃくちゃ嬉しそうにハウルが言った。ソフィーも  
レティーを振り返り、残念そうに首を傾げる。  
「ごめんなさい、今日は妹が来てるの」  
「あたしは別に構わないわよ」  
 
足取りも軽やかに、レティーが玄関に現れた。カブの前に立ち、にっこり微笑む。  
「はじめまして。もしかして、あなたがカカシの国の王子様?」  
「はじめまして。確かに僕は王子ですが、カカシの国のではありませんよ。  
その話は、どこかの性悪魔法使いに聞いたのですか?」  
カブに問われ、そうよ、とレティーが鮮やかに笑った。ソフィーはこっそりハウルの  
手を叩き、叩かれたハウルは顔をしかめる。  
「お姉ちゃんに話を聞いて、ずっとお会いしたいと思っていたんです。お姉ちゃん、  
お茶にお誘いしてよ」  
レティーが楽しそうにソフィーの服の裾を揺すった。ハウルが裏切り者、と小声で呟き  
カブもソフィーを見た。  
「レティーがいいなら構わないわ。カブ、さぁ、中に入って」  
どうぞ、とソフィーがカブを招き入れた。あーあ、とハウルが悔しそうに唇を  
とがらせ、それがレティーを笑わせた。  
 
お茶会の雰囲気は最悪だった。いや、表面上は仲睦ましげだったし、見目麗しい若者が  
四人も揃っていれば絵面的にもよかった。しかし、ハウルは縄張りに敵が入らないように  
警戒している母ライオンのように抜け目なくカブを意識しているし、カブは隙あらば  
ソフィーの感心を引こうと躍起になっている。レティーはその面白い光景を興味深そうに  
覗い、何も解ってないソフィーだけがしきりににこにこしていた。  
「紹介してなかったわね。カブ、この子はレティー。私の妹で、チェザーリの  
看板娘なの。どう、美人でしょ?」  
はじめまして、とレティーが会釈をした。カブも同じように返す。  
「レティー、こちらは隣国の王子様なの。お名前は」  
「ソフィー、カブで結構です。妹さんも」  
「えーと、じゃあ……私達はカブって呼んでるわ。色々あった時に知り合って、  
今も仲良くさせてもらってるの」  
そう紹介したソフィーの言い方には、女としての甘さがさっぱりなくて、レティーは  
内心唸った。可愛そうに、この王子様は完全に片思いらしい。ま、姉は本当に義兄に  
夢中だから仕方ないと言えば仕方ないのだが。  
その声音に反応して、ハウルが目の色を和らげ、カブがふっと笑いを浮かべた。  
影と諦めの滲む笑い方だった。  
   
あ、この人……。  
 
以前義兄に聞いた話だと、カブとは懲りずに姉にちょっかいをかける、鈍感で嫌な奴だった。  
姉に聞いた話だと、カブは優しくて紳士的な王子様だった。二人の意見があまりに  
違い、レティーの中の「カブ」は実に曖昧な像だった。  
でも、今の笑顔でわかった。彼は模範的な王子様でも、人の恋路を邪魔する嫌な奴でもない、  
もっと生身の人間だった。穏やかで優しい愛情を湛え続けられるだけの大人なのに、  
不毛の恋を諦められない子供だ。人のことをきちんと考えられるほどの紳士でもなければ、  
思いが通じない事に気付かないほどに鈍感でもない。  
カブがソフィーに向けて綺麗に微笑んだ。さっきみたいな顔を見せたほうがいいのに、と  
レティーは残念に思う。そんな仮面みたいな顔で笑わなきゃいいのに。  
 
ソフィーとカブが仲良く話し込んでいるのに内心鼻白みながら、ハウルがカップを  
傾けた。冷え切ったお茶にも気付かないほどにソフィーはカブ頭に夢中らしい、と  
皮肉っぽく考えたが、それが悲しい事に思えたのでやめた。レティーを盗み見ると  
彼女はぼんやりとカブを見つめていた。その瞳の艶やかさにぴんとくる。  
自分に注がれる視線を感じ、レティーがハウルを見た。彼女の義兄は面白そうな表情で  
こっちを見つめている。  
 
――――あの男が気にいったのかい?  
 
ガラス球のような瞳がそう尋ねてきた。レティーの頬に朱が走る。  
 
―――――そうよ。  
 
海色の瞳を輝かせながら、レティーが得意げに唇を吊り上げた。頭で考えて考えて  
考えてやっと心を決めるソフィーに比べ、レティーは直感や自分の気持ちによく従う  
娘だった。あの魔法使いのハウルと結婚するといった姉を止めなかったのも、この  
しょうもない義兄を気にいっているのも、直感で彼を善人だと信じたからだ。  
それくらい、レティーは自分の心に正直だった。  
二人になりたくない?とレティーの耳の奥にハウルの声が届く。魔法ね、とレティーは  
彼のやきもちとお節介に呆れた。でも、利害関係は一致しているので軽く背いておく。  
自分の心に正直な点では、ハウルもレティーに負けていなかった。  
 
「……ソフィー、悪いんだけど淹れ直してくれない?冷めてしまったよ」  
 優しい、でも有無を言わせないような口調でハウルが言った。ソフィーがはたと  
ハウルを見上げ、解ったわと答える。それからポットと全員分のカップをトレイに  
置き、席を立った。  
「カブ、レティー。気が利かなくてごめんなさいね」  
ソフィーの向かいに座っていたカブがむっとしたようにハウルを見た。しかし、お茶が  
冷え切っていたのは嘘ではないので大人しく彼女を見送る。  
しかし、ここに居る二人はソフィーを介しての知り合いな訳で。居心地の悪さを覚えて、  
カブはもぞもぞと座りなおした。悔しい事に、目の前の少女と性悪魔法使いは義兄妹であり  
彼女は何のためらいもなく兄さん、と呼ぶ。それが本当に羨ましくて、そして憎らしかった。  
認めるなと思った。こんなしょうもない男を、姉の夫だと認めるなよ。  
「あっ!」  
びしゃ、と嫌な音がして、カブの腿の辺りにピッチャーの中のミルクがこぼれた。  
レティーが真っ青になって彼に飛びつく。  
「あぁ、ごめんなさい!やだ、あたしったら何てことを!染みになったらどうしましょう!」  
レティーは慌てて鞄からハンカチを取り出すと、カブに零れたミルクを拭っていく。  
必要上の密着に、カブは妙にどぎまぎしてしまった。  
 
「大丈夫かい?二人とも」  
「いえ、大丈夫です。そんな事しなくても大丈夫ですよ」  
カブが首を振り、レティーを遠ざけようとした。しかし、彼女は首を振り、彼に被さる。  
それから、視線だけをハウルに向けて言った。  
「あたしも平気よ。でも、どうしましょう……ここはあたしが何とかするから  
義兄さん、ごめんなさい。お姉ちゃんに言って何か拭く物と着替えを」  
「解った………本当に、すまなかったね」  
そういったハウルの顔は本当にすまなさそうで、カブが目を瞠った。  
確かにミルクは染みになりやすいが、量はそれほどではないし、ほとんど拭いきれている。  
やはり、家族の失態を家長としては申し訳なく思うのかもしれない。彼のこういう  
まともな反応は初めてで、カブはちょっとだけ楽しく思った。彼を近しく思った。  
「いえ、本当に気にしていませんよ」  
「でも、お願い、そうさせて。あたしの気がすまないから」  
そう言ったレティーの顔がソフィーの面影と重なり、カブは息を呑んだ。息を詰めて  
見つめてくる彼女に、軽く顎を引いてみせる。  
じゃあ、お願いしますね」  
カブの答えにハウルが頷き、席を立った。座っていたカブには見えなかったが、  
テーブルの下ではレティーの小さい手がピースサインを作っていた  
 
「まぁハウル!一体どうしたの?」  
お湯が沸くのを待っていたソフィーが、いきなり台所に入ってきたハウルを見て  
声を上げる。ハウルは何でもないよと笑い、つかつかと彼女に近寄った。  
「ハウル、カブとレティーはどうしたの?」  
「レティーがね、カブにミルクをこぼしてしまったんだ」  
ハウルの言葉に、ソフィーが慌てて腰を浮かした。レティーの失態に、動揺が隠せない。  
「どうしましょう!何か拭くものは?着替えとか……」  
「大丈夫。たいしたものじゃないし、レティーが今対応してる」  
ハウルが明るく答え、ソフィーはほっと息を吐いた。それから居間の様子をうかがい  
首を傾げる。  
「行かなくて、本当に大丈夫かしら」  
真顔でソフィーが尋ねた。ハウルはがばりと彼女を抱き締め、頬にキスを落とす。  
「んもう!何してるのよ!」  
「奥さん、そんな野暮な事言わないの」  
野暮ぉ?とソフィーが大仰に語尾を跳ね上げる。答えずハウルは彼女をぎゅうっと  
抱きすくめ、その細い首に顔を埋めた。  
「あ、ゃ…も…やだ、ちょっと!」  
「……今帰ったら、レティーに怒られちゃうよ」  
 
悪戯っぽい口調で、ハウルがソフィーをたしなめた。意味が解らないというように  
彼女が彼を見上げる。  
「怒られる?」  
「そ。今いいところなの。もう少し待ってあげよう」  
その間に、とハウルはソフィーに口付けた。訳も解らぬまま、彼女はなすがままに  
され続ける。  
「ところで奥さん、さっきどうしてあんなに恐い顔してたの?」  
長い口付けから解放され、ぐったりとしているソフィーにハウルが囁きかけた。  
彼女がかぁっと赤くなり、もごもごと口ごもる。  
「だって……」  
「だって?」  
「…………ハウルとレティーが仲良さそうだったから」  
真っ赤になって恥ずかしそうに言ったソフィーに、ハウルが覆い被さった。頬やら  
唇やら瞼やらにキスの雨を降らし、感極まったように言う。  
「何て可愛いこと言うんだろうね!そんなやきもちだったら、大歓迎だよ!」  
失言だわ、とソフィーが眉根を寄せてこめかみをもんだ。しかし、ハウルはさらりと  
それを流すと、彼女にもう一度キスした。ソフィーも始めは嫌がってにみじろいで  
いたのだが、段々とその甘さに思考をとろかして彼の首に腕を廻した。  
 
「もう、それ位で大丈夫ですよ」  
親の敵みたいにスーツを擦っているレティーに苦笑しながら、カブが囁く。彼女が  
ふっと顔を上げ、それから表情を曇らせた。  
「本当にごめんなさいね。弁償させていただきたいくらいだわ……」  
いきなりピッチャーのミルクをこぼすだなんて強引かとも思ったが、この男は疑う事を  
知らないようで、真顔で結構ですよとだけ言った。  
彼のクリーム色のスーツは一介の菓子売りの娘に買える値段ではないだろうと見ただけで  
解った。それこそ、花でも売らない限り買う事は難しい。  
作戦を決行しようとした時にはさすがに逡巡したが、ま、いざとなったらあの義兄が  
どうにかしてくれるでしょ、とレティーは実に軽い気持ちでミルクをこぼした。  
二人きりで過ごす時間を作る為には、少しぐらいの強引さは目を瞑ってもらわないといけない。  
「……駄目ね。お姉ちゃんだったら、きっともっと上手くやるのに」  
「そうですか?」  
自嘲するように言われた言葉に、カブが意外だというように眉を上げた。目の前に  
いる少女は、ソフィーの妹にも拘らず、非常に勝気で高飛車な印象を受けた。しかし  
そうして翳りのある面を見せると、やはり遺伝の趣を感じないでもない。  
「昔からそう。あたし、不器用なのよね」  
レティーが肩をすくめた。あっけらかんとした言い方だったが、どこか寂しげだった。  
その仕草はソフィーのそれにも似ていて、彼女には非常に不釣合いだった。  
どこか、演技をしているように見えなくもなくて、カブはぴんとくる。  
「……似合いませんよ、そういうの」  
 
ぴしゃりとカブに言い放たれ、レティーがばっと顔を上げた。普段は強気で通しているだけに  
大体の人間は弱音を吐けば落ちてきた。この男もそうだろう、と踏んでいたのだが  
そうでもないらしい。  
「似合わ、ない?」  
カブが厳かに頷いた。レティーが顔を突き出して唇を引きつらせる。  
「そう。あなたは人と自分を比べるような人じゃない。自分でも解ってるはずです  
そんなの無駄だって。そうでしょ?」  
「………さっきのが、嘘だと言いたいの?」  
レティーの顔はひきつっていた。美人店員で通っているレティーには合ってはならない  
表情だった。カブがあっさりと頷く。  
「さすがに嘘とは言いませんがね。でも、言うほどには気にしてないはず」  
にやり、とカブが笑った。失態に天を仰ぎたくなる。そういえば、この男はさっき  
あの食わせ物の義兄とやりあっていたじゃないか!レティーが真っ赤になりながら  
彼を睨む。  
「じゃあ言わせて貰いますけどね、王子様。あなただってあんな風に笑ってるの、  
まったくもって不似合いだわ!あんな風に分別臭い顔したって変よ!お姉ちゃんの  
こと、まだあきらめてないくせに!」  
子供っぽい喚き声に、カブが目を見開き、ややあって笑い出した。感情を剥き出しに  
した素の彼女は、毛を逆立てた猫みたいだと思った。ぞくぞくする。  
 
「手厳しいですね、いやぁ本当に。妹さん、あなたの審美眼はなかなかの物だ!」  
「まぁね。目に見えるものを信じて、そうして生きてきたから」  
いくらか落ち着きを取り戻したレティーが、ふふんと肩をそびやかした。  
今まで自分の周りにいなかったタイプの人間だと思った。いや、一人だけいた。  
彼女は、どこかあの性悪魔法使いに似ている。  
「ところで王子様、あたしの名前はレティー・ハッター。チェザーリというお菓子屋に  
勤めているの。担当の売り場はチョコレートと焼き菓子」  
レティーがカブを強い視線で見据えながら手を差し出した。彼が不思議そうに首を  
傾げて、審議を探るように彼女の目を覗き込む。  
「何です?」  
「自己紹介よ。あなた、あたしのことを『ソフィーの妹』としてしか見てないんだもの」  
勝気そうな笑顔に、合点してカブが唇を持ち上げた。自分にここまで挑戦的な態度を  
とった娘は初めてだった。あぁ、なんて刺激的なお嬢さんだろう!  
「私は隣国の王子で、名前を言うならジャスティン。でもその名前はそんなに好きじゃ  
ありません。気にいっている呼び名はカブ、嫌いな呼び方はカブ頭」  
差し出された手をしっかり握って、カブは晴れやかに微笑んだ。  
「はじめまして、レティー。僕と友人になってくれませんか?」  
「えぇ、構わないわ」   
レティーが貴婦人とも小悪魔とも無垢な少女とも取れる微笑を浮かべた。手ごわそうな  
笑顔に、カブが声を上げて笑った。レティーもころころと鈴の鳴るような笑い声を上げ、  
二人はいつまでも笑い合っていた。  
 
しばらくして、晴れやかな表情のハウルと林檎のように真っ赤な頬のソフィーが帰ってきた。  
何故だかは知らないが、ソフィーの目は虚ろで銀のトレイもハウルが持っている。  
「待たせて悪かったね。服は大丈夫かい?」  
ハウルがお茶を新しいカップに注ぎながら訊ねた。カブが頷き、カップを受け取る。  
「ええ。もともと大してこぼれてなかったですし、レティーがきちんとしてくれたので」  
そう言うと、カブがレティーを覗った。彼女も彼を見上げている。急に親しさが増した  
二人に、ハウルが目を瞠る。  
「……なんです?」  
妙に嬉しそうなハウルに、カブが怪訝そうな表情を浮かべた。しかし、彼は答えずに  
自分の王子と義妹に向けて優雅に微笑んだ。  
「いや、仲良くなったんだなぁって思ってね。よかったね」  
その言葉にレティーが赤くなり、カブがはっとする。なんだ、そういうことだったのか。  
卑怯だと言いたかったけれども、やめておいた。愛しい彼女との時間をこの男に  
与えたのは腹立たしいのだが、新たに得たこの友人もなかなか気にいっているので、  
今回ばかりは黙っておく。ハウルはこらえきれないのかくすくす笑い、レティーも  
照れ笑いをしていた。ソフィーだけがどういうこと?と彼女の夫と妹を交互に見ている。  
「おかげさまで。いい友人です」  
そう言った声がカブの声が物凄く綺麗で、かっこよくて。レティーは極上の笑顔を  
浮かべた。それこそ、店にやって来る信望者たちが見たら卒倒してしまう位に。  
それをまともに食らったカブも頬を染めた。  
「まだ、ここにいたいのですが……私はそろそろお暇します。ソフィー、ご馳走様でした」  
「あら、もう帰ってしまうの?」  
「ええ、そろそろ帰らないと心配かけてしまうので」  
カブが立ち上がり、帽子とステッキを手にとった。レティーも立ち上がる。  
「レティーもなの?」  
「ええ。そろそろ戻らないと。午後休んだ代わりに、掃除を引き受けたのよ」  
レティーがカブをじぃっと見上げる。もの言いたげな瞳に、カブは微笑むと優雅に  
手を差し出した。  
「それではお送りいたしますよ、お嬢さん」  
「ありがとう」  
ふわりと微笑んで、レティーが手をとった。そうしていると二人は仲のいい恋人同士にも、  
気の置けない親友同士にも、ともに生きてきた兄妹にも見えた。  
 
寄り添って出て行く二人を見ながら、ソフィーは小さくため息をつく。  
「どうしたの?」  
見送りを終えて扉を閉めながらハウルが訊ねた。ソフィーが背の高い彼を見上げる  
ように視線を動かす。  
「んー……なんだかヤキモチ焼いちゃったみたい」  
な、とハウルの顔が一気に青ざめた。思わずソフィーの肩を掴み、がっくんがっくん  
揺さぶる。  
「な、な、な、ななななんで!ソフィー!なんでレティーにヤキモチ焼くの!」  
「うわ!きゃ、も、ちょっと!やめてよ!」  
ソフィーが慌ててハウルの手を振り払い、体勢を整えた。彼の顔は死人のように  
青ざめ、瞳からは今にも涙がこぼれ落ちそうになっている。その様相を見て、彼女は  
けらけらと笑い声を上げた。  
「違うわよ!私は、レティーがとられちゃったみたいでカブにヤキモチ焼いちゃったの」  
目尻に滲んだ涙を拭いながら、ソフィーが答えた。ハウルが唖然とした表情になる。  
「………」  
「そりゃあ、カブも好きよ。だって大切なお友達だもの。でも、カブに恋人が出来たって  
私にはヤキモチ焼く権利がないじゃない?何より、その恋人がレティーだとしたら  
私も嬉しいし」  
あっさりと言い切られ、ハウルは嬉しいと思う以前に悲しい気持ちになった。  
カブにものすごーーーく同情してしまった。可愛い奥さんに浮気心がないのは結構だが、  
ここまで相手にされていないと哀れになってしまう。  
「レティーは男の子に人気だったけど、そうそう靡いたりしなかったし。ああ見えて  
あの子、凄いまじめなの。まだ一対一できちんとお付き合いもした事ないし。  
だからね、なんかレティーとカブが仲良くしてるの見たら、なんだか悔しくって」  
「………二人が、上手くいくといいね」  
「そうね!でも、そうなったらカブは私の弟になるの?」  
変なの、といってソフィーがころころ笑う。ハウルはなんだか泣き出しそうに  
なりながら、乾いた笑いを浮かべた。  
 

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