ソフィーはベッドの上で一人、暖かくまどろんだまま寝返りを打った。二人で使っても
ゆったりと眠れるベッドは、一人で使うには大きすぎる――心細くなるほどに。だから彼
女は、あたたかい上掛けにしがみついた。手探りに端を見つけて、内側に巻き来むように
引き寄せた。軽くてふかふかの布団は、肌触りも抱きつき心地もよかった。顔を押し付け
ると、甘くて爽やかな香りをほのかに感じる。うっとりするような香り。これは、あの人
の好きな香り。こうしているとまるで彼に抱きしめてもらっ……。
「――!」
ぱちっ、と音がするような勢いで、彼女は目を見開いた。自分は今、何を考えていたの
か。カーっと頬が熱くなるのがわかった。胸がドキドキする。
ソフィーは、布団から逃れるようにベッドを脱け出した。窓に近寄り、カーテンを開け
た。星の数を減らした濃紺の空の東の底に、夜明けの気配がうっすらと澱んでいる。かな
り早く目が覚めてしまったと分かったが、熱った頬をそのままに、寝なおす気にはなれな
かった。
ハウルとソフィーが数か月分の記憶をなくして(なくしたのではなく思い出せないだけ
だとハウルは言っていたが)、そろそろ半月が経とうとしていた。
ソフィーが空飛ぶ城での生活に馴染むのに時間はそうかからなかった。帽子屋に代わっ
て花屋をやるのも、楽しかった。店にも居間にも竃の前にもソフィーの居場所はきちんと
あって、彼女自身その場で過ごす時間に違和感はない。今の生活で唯一彼女が居心地を悪
く感じるのは、寝室であった。
城には、ソフィーのベッドはなかった。かわりにあったのは『二人の』ベッド。自分と
彼が『そういう関係』であるということは知っていたが、ソフィーは彼と一緒に眠ること
をためらった。例えそれが自分の日常で当たり前のことだったのだとしても。そして、記
憶の想起に鍵をかけてしまった魔法を解くために、何が必要なのかを知らされていても。
だから彼女はハウルをそのベッドのある寝室に寝かせ、自分は居間のソファーで眠るつ
もりであった。しかし、ソフィーが寝室から毛布を持ち出したとき、それをハウルに奪わ
れてしまった。彼は「きみはこっち」とソフィーに寝室を示すと、自分は毛布を持って居
間の方へ行ってしまった。
以来、ソフィーは寝室で、ハウルは居間で、それぞれ眠ることになってしまった。ソフ
ィーが寝場所を替わることを申し出ても、頑として聞かない。「女性に寝台を譲るくらい
の格好はつけさせてよ」などと言うのだ。そして、冗談めかして「一緒に寝てくれるのな
ら喜んでベッドを使うけどね」と続ける。ソフィーがその『冗談』に怒ってみせると、彼
は声を上げて笑うのだった。
おかげで、他愛のないふざけ合いばかりに慣れてしまった。ハウルが冗談に包みこんで
いるものには、触れないままに。
そして、一人きりの寝室は、どこか虚ろなまま。
(――だけど……)
ソフィーは寝室を出て、音を立てないように気をつけて階下に向かった。花畑に出て、
花の香りのする冷たい空気を吸いたかった。
玄関へと続く居間に入り、後ろ側からソファーに近づく。背もたれの向こうに毛布の塊
があった。その端には黒髪がのぞいている。ソファーの前側に廻ると、リネンのシャツに
被われた背中が毛布から大きくはみ出してしまっているのが見えた。やはり彼にはソファ
ーは窮屈なのだ。だから、ソフィーは寝場所を『交換』しようと言っているのに。
ソフィーはソファーの前で立ち止まった。彼の背中がひどく寒そうで、気になった。彼
の毛布を掛け直そうと思って――気付いた。
喉の奥に空気が引っかかるように、ゼイ…、と吐き出される息。苦しげな浅い呼吸。近
づいて彼の顔を覗き込む。顰められた眉と、汗ばんだ肌。掌で額に触れると熱かった。
ハウルがゆっくりと目を開けたので、ソフィーは彼の額に当てていた手を慌てて引っ込
めた。目を開けるだけの動作なのに、彼が本当につらそうなのがわかった。
「……ソフィー」
ハウルはソフィーを呼んだ。声は掠れてひどく聞き取りにくかった。
「……手、を……。さっき……」
唇の形がゆっくり『おねがい』と動く。『そばにいて』と。
ソフィーはおずおずと、先ほど熱を診たときと同じように掌を彼の額に当てた。
ハウルはほうっと息を吐いて目を閉じた。顰められた眉が、緩んだ。
(ああ……)
……胸が痛い。
寝室は静かで、まるで世界から切り取られたようだった。
記憶があるときもないときも、思うことは同じ。
行かないで、側にいて。お願い、嫌いにならないで。逃げないで、傍にいさせて。
「ハウル、食べなかったのか?」
カルシファーは、トレイをテーブルの上に置いたソフィーに声を掛けた。ハウルの食事
を持って寝室に行った彼女だが、持ちかえったトレイの上の器には、食事が盛られたまま
だった。
すでに陽は高く、家族の朝食は疾うに済んでいた。ソフィーは花屋を臨時休業にした。
マルクルは年齢の割にはしっかりしているが、それでも一日中店番をさせるのは躊躇われ
た。ハウルを寝室へ運ぶ手伝いをするために早朝に起こされた彼は、今はヒンと一緒に中
庭で昼寝をしている。元荒地の魔女も中庭にいて、日影で読書をしているが、多分マルク
ルを見ているつもりなのだろう。
ソフィーはゆっくり息を吸うと、
「眠ってたの。よく眠ってるみたいだから、起こさなかったのよ。……水だけ置いてきたわ」
手付かずの食事を片付けながら答えた。
「熱は下がったみたい。カルシファーのおかげね」
カルシファーは高い峰に雪の残っている山を見つけて、城ごとそこに昇らせたのだった。
その雪を掻き集めて、ソフィーはハウルの看病に使った。今は低地に城を降ろしているが、
頼めばまた昇らせてくれるだろう。
「あいつ、あんまり寝てないみたいだったからな。……おいらがソフィーを呼びに行くっ
て言ってもさ、駄目だって言うんだ」
カルシファーはゆらゆら揺れながら言った。ソフィーは手を動かし続けている。カルシ
ファーは、ソフィーをじっと見ながら続けた。
「あいつ馬鹿なんだ。格好つけたいんだ。本当は弱虫で臆病者のくせに」
そう言って、ソフィーの視線を誘うように、大げさに揺れてみせた。しかし、ソフィー
はカルシファーに背を向けたまま、片付けを続けている。
(……何かあったのかな?)
いつもソフィーは、どうしようもなく忙しい時でない限り、何かの作業中ではあっても、
話している相手の方を、相槌を打ちながらちらりと振り向く。そうやって、面と向かって
はいなくても、ちゃんと聞いているということを伝える。
(でも、ハウルは寝てたっていうし)
なのに、この部屋に戻って来てから、ソフィーはカルシファーと目を合わせていない。
話は聞いているようなのに。
「――悪口じゃないよ、本当のことだから。ソフィーはそれでも嫌ったり見捨てたりしな
かったって、おいら教えてやったのに、あいつはまだ格好つけたがってる。――ソフィー
は今でも、ハウルが情けないやつでも嫌いになったりしないだろう?」
大きな薪を抱える火の悪魔は、人間よりも人の心に敏い。
ソフィーは手を止めた。前を見つめる。視線の先には壁しかないが、彼女が今、見てい
るものは。
眠る彼の整った顔が、作り物のように見えた。瞳は閉じられたままで、何も映さない。
彼の感情も覗けない。
ソフィーは彼が人形じみた顔のまま眠り続けているのが嫌だと思った。そのくせ、目を
覚ました彼が自分を見るのも怖かった。
魔法が解けなくても、彼のソフィーに寄せる想いは、動じず、迷いなく。ソフィーが何
気なく額に手を当てただけで、あんな風に安らぐ人。自分は無力でちっぽけでみすぼらし
い小娘なのに。
寝室は静かで、まるで世界から切り取られたようだった。薄く開いた彼の唇は、熱のせ
いで乾いていた。
(目を覚まして。微笑んでわたしを見て)
ソフィーはコップを手に取った。
(目を覚まさないで。わたしに気付かないで)
水を少量、口に含んだ。
カルシファーの抱えた薪が、ぱちりと音を立てて爆ぜた。
「――そうね。嫌ったりしないわ」
そう答えて、ソフィーは振り返った。やわらかな微笑をカルシファーに向けた。そして
すぐに睫毛を伏せた。
「ハウルは、気遣ってくれていたのね」
一人で過ごす夜。一人きりで迎える朝。
(わたしが不安にさせていたの?)
そこにいないからこそ、はっきりと意識されるもの。
「ただの格好つけさ」
ゆらゆら揺れながらカルシファーは答えた。言葉の上では否定していたが、冗談めかし
たその口調は、ソフィーの質問を肯定していた。
(わたし、伝えなきゃ)
彼はずっと伝え続けていてくれた。言葉で。笑顔で。まなざしで。表情で。やわらかな
空気で。冗談に包みこんで上手に隠して。
ソフィーはそれを受け取っていたくせに、そのことを彼に示すことすらしなかった。
居心地の悪い寝室。その原因は、彼の不在。彼は、誰よりも優しい人なのに――。
(わたしが、言わなきゃ)
怖いのは、彼が好きだから。
目を覚ますと、何かが額の上に置いてあることに気づいた。ハウルが手を伸ばして確か
めてみると、それは濡れタオルで、半分ずれて顔から落ちかかっていた。身体が、暖かく
柔らかい寝具に受け止められている。見まわしてみると、そこは自分の――というか本来
は自分『たち』の――寝室で、そこに一人で寝かされていた。
ハウルはベッド脇のチェストの上にタオルを置いた。水差しとコップが置いてあったが、
それを用意したであろう人物は部屋の中には居なかった。
(格好悪いなあ……)
眠りに落ちる前に感じていた頭痛と寒気は治まっていた。今は喉に少しの違和感がある
だけだった。つまり、自分は風邪を引いてしまったのだ。そして、彼女にここに連れて来
られ、寝かしつけられたのだ。彼女に譲ったベッドなのに。
ハウルはもそりと身体を横向きにして、水が少量入ったコップを見つめた。そのコップ
は、飾り気はないが暖かみのある吹きガラスのコップで、以前はなかったものだ。多分、
ソフィーが一緒に暮らすようになってから揃えたのだろう。
ハウルは、コップに手を伸ばしかけて、止めた。ため息をついて、自分をふんわりと包
んでいる上掛けの端を引き寄せた。彼は知らなかったが、それはその日の明け方、ソフィー
がしたのと同じ仕草だった。
(ああもう……)
いい匂いがする。甘い香りが。ハウルのコロンと似た香りだが、少しだけ違う。香水の
香りは、人間の体臭と混ざって変化するからだ。つまり、この香りはソフィーの……。
ハウルは上掛けに顔を押し付けて、目を閉じると、溜息を一つ吐いた。すっきりと片付
いた寝室。花瓶に形良く生けられた花。行儀良く並べられたぬいぐるみたち。そこら中に
彼女の存在を感じる。自分はそれに鈍感にはなれない。
瞼の裏の暗闇を、星の色が通り過ぎた。
ドアの向こうでは、ソフィーが扉を開こうとしていた。
彼がそれを知るまで、もうあと、ほんの少し。