夜半、胸騒ぎがして目が覚めた。飛び起き、階段を下っていくと濃い血の匂いがした。  
むわりとした春の夜風に乗り、鉄臭いとでもいいのだろうか不快な空気が広がっていく。  
暖炉の中に、カルシファーはいなかった。彼は昼間出かけたまま帰って来ていない。  
遊び呆けているのだろうか、とため息をつくとつま先に何かが触れた。  
「とり……?」  
柔らかい何かを摘み上げると、それはふわりとした羽毛だった。悪寒が走り、慌てて  
カンテラに火をともす。ぼんやりと浮かび上がった床には、血だるまの男が。  
「ハウル……!」  
ソフィーが彼に駆け寄り、抱き寄せた。首筋がぱっくりと割れていて、血があとから  
あとから溢れてくる。  
「どうしたの!ねえ、何があったの!」  
ハウルの顔は血の気が無く真っ青で、薄く開いた瞳の青は闇よりも暗かった。  
彼の白くなってしまった唇がかすかに動き、散漫な動きで腕がソフィーに差し伸べられる。  
「そ……ふぃー」  
 
「ハウル!」  
ソフィーが軋るような悲鳴をあげてハウルにしがみ付いた。彼は僅かに微笑むと、  
血で濡れた手を彼女の頬に当てた。  
「ソフィー……ごめん……ね」  
「ハウル!口を利いてはだめ!」  
「大丈夫だから……大丈夫だから……泣かないで」  
ハウルの指がソフィーの涙を拭った。彼女は彼を掻き抱くと、ぐっと喉をならした。  
「愛してるよ……一生……永遠に……だから、忘れないで」  
「そんな事言わないで!すぐにどうにかするから!」  
「ソフィー……ありがとう」  
彼の青い瞳が細められ、瞼が下ろされた。すぅ、と呼吸を一つ残して、彼の唇は  
固く閉ざされる。そのまま、その身体は冷たく固くなっていくだけだった。  
ソフィーが闇夜を劈くような絶叫をあげた。  
 
気付くと寝汗で夜着がぐっしょり濡れていた。気持ち悪さにわずかに身じろぎすると  
右手に鈍い痛みが走り、慌てて手を引き寄せた。見ると、痩せた手首には血の滲んだ  
包帯が巻かれている。  
「ハウル……」  
ぼんやりとした頭で愛する夫の名を呼んだ。なに?というあの魅力的なテノールは  
聞こえず、ただ沈黙のみが。訝しがってもう一度口を開こうとした時に、はたと気付く。  
「………もう、いないんだわ……」  
そう言ったときにじわりと涙が滲んだ。彼は死んだのだ。戦争に巻き込まれて、  
血だるまになって、無残に死に絶えたのだ。それを目の当たりにしたソフィーは  
意識を失い、三日巻眠り続けた。その間に彼の遺体は処理され、国が立派な墓を  
作ったそうだ。そうだ、というのはソフィーは直接それを見に行ったわけではないので  
その墓がどんな物なのか知らない。恐ろしくて、そんなもの見にいけない。  
 
眠りから目覚めたソフィーは半狂乱になり、すぐに手首を掻き切った。鮮血に包まれた  
彼女をマルクルが見つけ、彼女はカルシファーと荒地の魔女によって眠らされてしまった。  
ソフィーはもう正気に戻らないかもしれない、と残された家族達は悲しみにくれた。  
 
今、こうして目覚めていても空虚さが全身を包んでいる。彼のいない世界には、  
もう何も残っていない事を知った。唯一つ願う事は、一刻も早く彼の元に行く事だけ。  
ソフィーは静かに目を閉じると、耳をすませた。頭の奥底に聞こえる、彼の囁き。  
おいで、と自分を呼ぶ優しい声。ソフィーはふらふらと立ち上がると、ベッドサイドに  
あるチェストの底から小さなナイフを取り出した。何があるか解らないから、と  
過保護な彼がよこした宝石のついた小刀。縁に散らされたルビーやサファイアが  
ちらちら瞬く。  
「ハウル……今いくわ……だから、早く、迎えに……」  
ソフィーは幸せそうな微笑みを浮かべると、その小刀を手首に押し当てた。  
冷たいはずのそれは、驚くべき事に温かかった。心を和ます温度に、彼女はため息をつく。  
彼の声が聞こえる、自分を呼んでいる。そふぃー、そふぃー、そふぃー……。  
 
「ソフィー」  
手首を掴んでいたのは、ハウルの手だった。慌てて飛び起きたソフィーを、彼は  
不思議そうに見つめている。  
「どうしたの?」  
「どうして……」  
ここにいるの、と言いかけてソフィーは口をつぐんだ。考えてみれば簡単な事。  
今までの出来事は全て夢だったのだ。そう思うと、全身に安堵と疲労感が走った。  
「うなされていたよ。何かあった?体調が悪いとか……」  
「……何でもないわ。悪い夢をみてたの」  
そう口にした自分の声があまりにか細く頼りなくて。ソフィーは身体が震えるのを  
止められなかった。ハウルが彼女の華奢な体を抱き寄せ、その首を胸にもたせてやる。  
「悪い夢?どんな?」  
ハウルが冗談めかすような、でもどこか真剣味を帯びた声音で訊ねた。ソフィーが  
慌てて首を振る。  
「何でもないの。本当に、しょうもない夢よ」  
そう言ってからソフィーは笑おうとし、失敗してしまった。細まった目から、涙が  
ぼろぼろ溢れてくる。  
 
「ソフィー」  
ぎゅ、とソフィーを抱き締め、ハウルが囁いた。彼女が弱々しい泣き声を上げて  
彼に縋りつく。  
「怖かった?でも大丈夫、全部夢だ。もう終わったよ」  
ハウルの広い背中に腕を廻し、ソフィーは何度も嗚咽を漏らした。浅い呼吸を  
繰り返しながら、無我夢中で彼の唇に自分のそれを押し当てる。彼女の小さな頭を  
抱え込むようにしながら、ハウルはその柔らかい唇にキスを落とした。  
「ソフィー、大丈夫。ここにいる、ここにいるから」  
キスの合間に、ハウルがソフィーを安心させるように囁く。彼女は涙で真っ赤に  
なった目で彼を見つめながら、その存在を確かめるように何度も何度も唇で顔や首筋を辿る。  
「ここにいるよ、ソフィー。傍にいる」  
ソフィーが泣くのをやめ、ハウルを真っ直ぐ見据えた。ぴたりと二人の動きが止まり、  
それから磁石が吸い寄せられるように唇を重ねる。口付けは次第に深くなり、彼が軽く  
体重をかけると彼女の身体がベッドに沈んだ。彼女が驚く間もなく自分よりも大きな  
身体が覆い被さってくる。  
熱に浮かされたように、互いの夜着を剥ぎ取る。現れた素肌に唇を這わす。手も足も、  
二度とはなさないとでも言うように絡ませあう。ただ衝動に突き動かされながら、  
彼女は彼を、彼は彼女を求めた。  
 
口を塞ぐ、舌を絡める、唾液を混ぜあう。首筋をなぞる、肌に吸い付く、痣をつける。  
指で、掌で、舌先で互いの身体を愛撫しあう度にあがる嬌声がたまらなく心地いい。  
   
どこにも行かないでね、と行為の狭間から子供のように頼りない声が聞こえた。  
頬を真っ赤に上気させながらも、寂しそうな瞳のソフィーがハウルに縋りつく。  
そうして抱き締めるだけで、頬を摺り寄せるだけで、囁きを交し合うだけで達して  
しまいそうになる。  
約束するよ、と囁いた彼の声があまりに優しくて、それが自分の心を掻き乱す。  
きゅうっと切なく痛む胸を彼の胸板に押し当てて、彼の首筋に無我夢中で噛み付く。  
赤いキスマークが残って、今この瞬間の彼を所有しているのは自分だと思えて、  
それだけに慰められる。ソフィーは指先で涙を拭いながら、もう一度彼の首に腕を廻した。  
 
灼熱を自分の身体の芯に感じ、ソフィーが甲高い鳴き声を上げた。否、泣いていたの  
かもしれない。ハウルも快楽や悲しみや苦しみをこらえるように眉根を寄せ、  
彼女の中を突き続ける。声を呼吸ごと唇で絡めとっても、二人の間にある暗いものは消えない。  
どんなに身体を重ねても、一つになる事は無い。その事実から目を背けるかのように、  
二人はただ互いの身体を貪りあった。白々と開け始めた闇夜に、悲しげな声だけが残った。  
 
「……どんな夢だったの?」  
「………言いたくないわ。口に出すと、本当になりそうで」  
「言ってよ」  
情事の後にくるりと背を向けたソフィーの首筋に顔を埋めながら、ハウルが囁いた。  
彼女がわずかにみじろぐ。  
「……あなたが、いなくなる夢よ。私のついていけない、遠い所へ行ってしまったの」  
そういう夢、と呟いてソフィーが肩をすくめた。素っ気無く言った割には、肩が  
小刻みに震えている。ハウルが彼女を包みこむ様に腕を廻した。  
「……悪夢は終わったよ、僕はここにいる」  
ここにいるよ、とハウルが何度も何度も繰り返した。ソフィーが声を押し殺して  
泣き出す。彼がその腕を引き、自分の方を向かせる。  
「一晩中こうしてるから。大丈夫、すぐによくなるよ」  
ソフィーをきつくきつく抱き締め、ハウルが何度も囁きかける。彼女もそれに  
応えながら、何度も彼の名前を呼んだ。  
「………約束して、逝ってしまう時には私を連れて行くって」  
「そっ……」  
思いつめたような、ソフィーのあまりに真剣な声音に、ハウルが目をむく。  
彼女は彼の胸に顔を押し付けると、何度も何度も辛抱強く繰り返した。  
「置いていかないで……お願い、私も連れて行って。置き去りはいや……」  
 
ソフィーの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。まるきり子供が泣いているような  
泣き声が闇夜に響く。ハウルは静かに微笑むと、彼女の髪をかき上げ、熱くなった  
額に口付けを落とした。  
「解った。約束する。もしも僕が逝ってしまう時には、君も連れて行く」  
「……ぜったい?」  
しゃくりあげながら、ソフィーが訊ねた。ひくっひくっと唇と肩が小刻みに痙攣して  
いて、それが彼女を余計に幼く、いたいけに見せた。  
「……もしも、それが出来ないなら。君が寂しくないように、何か証を残してから行くよ」  
「あかし……?」  
「………例えば、僕達の子供とか」  
ぽかんとしているソフィーに対し、ハウルは妙に照れたような口調で唇をとがらせた。  
子供、の一言で彼女の頬に朱がさす。  
「本当?約束してくれる?」  
あまりに嬉しそうに顔を輝かすソフィーに、ハウルが苦笑した。それから、彼女の唇を  
そっと塞いで、もう一度にっこり笑う。  
「あのね。それは僕の努力よりも夫婦の協力が必要だと思うけど?」  
ソフィーが泣くのをぴたりと止め、全身を真っ赤に染めた。何か反論しようとした  
様だが言葉が上手く紡げないのか、口をしきりにぱくぱくさせている。  
ハウルはあはは、と笑い声を上げると、もう一度彼女を抱き締めた。  
 
「さぁ、そろそろ寝よう。怖い夢は終わった。もう眠れるよ、大丈夫」  
まるで子供をあやすように、ハウルがソフィーの背中をぽんぽんと叩いた。子ども  
扱いされて、彼女は一瞬憮然としたが、すぐに彼の首筋に顔を埋める。  
「おやすみ、僕のソフィー」  
「おやすみなさい、私のハウル」  
くすくすくす、と軽やかな笑い声を残してソフィーは穏やかな眠りについた。  
ハウルはその清らかな寝顔に口付けを一つ落とすと、満ち足りた気持ちで瞼を下ろした。  
「死が二人を分かつ時まで。僕は、君のものだよ」  
優しい囁きに応えるように、眠りの中を彷徨っているソフィーが、ハウルの指を握った。  
 
それでも、まだ  
今でも信じている  
 
生きていく間は、信じていられる  
生きてゆく限り、愛は死なないと  
この愛が、君を包むと  
 

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