貴婦人の色とりどりのドレスのシルク、紳士たちの燕尾服の艶やかなベルベット。  
華やかな宮殿の中、国王陛下主催の宴舞会は大盛況だった。戦後初めての大掛かりな  
舞踏会は、ようやく平和を感じられるようになってきた貴族達や要人、そして手を  
結んだばかりの隣国の客達を楽しませている。その奥まった一角では、星よりも  
煌びやかな銀髪の少女が所在無さげに立っていた。胸元の大きく開いた白いドレスが  
彼女のほっそりとした体を浮き上がらせ、結い上げられた銀髪に散らされた  
ガラス球がきらきらと瞬く度、何とも言えない愛らしさが漂ってくる。  
少女が気だるげに視線を落としたり、もの言いた気に唇を開いたりする度に、彼女を  
遠巻きに見つめている男達からため息が漏れた。  
 
張り詰めた低い声での会話は進む。彼女は誰だろう、どこかの令嬢かな、だの  
ダンスに誘って大丈夫だろうか、だの恋人はいるのかな、だの。  
男達の話題の中心にいるとは知らないのか、少女が何気ない仕草で脚を軽く曲げた。  
その瞬間に覗いた足首の華奢さに、男達は一様に喉を鳴らした。  
 
「お嬢さん、お一人ですか?」  
不意に声を掛けられて、ソフィーははじかれた様に顔を上げた。  
目の前には、見知らぬ紳士が微笑んで立っている。  
「……いえ」  
「では、誰かを待っているのですか?」  
紳士は人懐こそうな笑顔で尋ねてきた。上等な服を着た、品のいい顔立ちの男だ。  
優雅な栗色の髪が軽く巻いていて、なかなか魅力的だとソフィーは考え、そう考えて  
しまった自分にうろたえた。  
「……ええ、そうです」  
「御連れの方は今どこに?」  
紳士の質問は止まない。ソフィーは居心地が悪くなって視線を外した。件の夫、  
ハウルは国王とマダム・サリマンに挨拶しに行ったきり帰って来ない。新たに  
王宮つき魔法使いの職についたばかりだから、いろいろ面倒があるらしい。  
「………国王陛下とマダム・サリマンの所に、挨拶に」  
「素晴らしい!なら今はお暇と言う事ですね!」  
紳士はソフィーの手をぎゅっと握って叫んだ。不幸な事に、ソフィーの左手の薬指に  
はめられた指輪は、レースがふんだんに使われた手袋の下で存在を隠されてしまっていた。  
彼女はただ呆然としたまま紳士の顔を見つめている。紳士がにやっと口元をゆがめる、  
気障な笑顔を作った。  
「私と踊ってくださいませんか?美しいお嬢さん」  
 
足が痛い。脚がしんどい。上手く動けない。  
履き慣れていないハイヒールはソフィーの足をぎゅうぎゅうと締め付け、細くて  
尖った踵のヒールは足首に負担をかける。ともすれば転びそうになるのを耐えるの  
だけでも精一杯なのに、その上踊るだなんて。  
「あなたのように素敵な人に巡り合えるだなんて、私は何て幸せなんでしょう」  
向かいの紳士は幸せそうな微笑を湛えてソフィーをくるくると振り回している。  
ソフィーも愛想笑いを口の端に浮かべながら、涙目になりそうなのを必死にこらえていた。  
ハウルの特訓(連日深夜にまでに及ぶ物で、ソフィーの脚はここ数日筋肉痛を訴えて  
いる)のおかげか、ソフィーのダンスは殆ど完璧だったが、ハイヒールだけは  
想定外だった。が、紳士が上手くリードしてくれているので、傍目から見れば、ソフィーは  
軽々と踊っているようにしか思えないだろう。  
「いえ、そんな……」  
「御連れの方は、どなたかと尋ねても?」  
オーケストラは優雅なワルツを奏で、周りでは美しい貴族の令嬢と気品ある紳士たちが  
踊りまわっている。それだけでも気後れしそうなのに、紳士は何を考えたのかソフィーを  
輪の中心に引っ張り出した。周囲の視線が一瞬険しくなる。しかし、中心に踊り出たのが  
見目麗しい紳士と小鳥のように軽やかに踊る美しい少女だとわかると、その目元を  
和らげた。少女は優雅な動きでステップを踏み、紳士は彼女を優しく支える。  
 
「……夫ですわ」  
腰に廻された手が熱っぽくなってきたのに気付き、ソフィーは僅かに身をひねった。  
先制攻撃を加えるように、夫、の発音に力をこめる。  
「結婚なさっていたんですか……」  
紳士の声は明らかな落胆を含んでいた。ソフィーはこの一言で彼が自分を離して  
くれますように、と祈るように言葉を続ける。  
「ええ。ご存知かしら?新しい王宮つき魔法使いのジェンキンスを」  
「あの、魔法使いのジェンキンス?」  
紳士の声は驚きに満ち、顔にはソフィーを哀れむような表情が浮かんだ。そんな顔を  
される意味が解らず、ソフィーは怪訝そうな表情をする。  
「ご存知なの?」  
「ええ、有名ですから」  
紳士が薄ら笑いを浮かべた。それから、ソフィーの腰をぐっと引き寄せ囁く。  
「お可愛そうなお嬢さん!あなたはあの悪名高い魔法使いに騙されてしまったのですね!」  
紳士の歌うような調子に、ソフィーの眉間に皺が寄った。思わず彼を睨むと、紳士は  
心外だと言うように目を瞠る。  
「みんな言っている事ですよ、お嬢さん。新しい王宮つき魔法使いはマダム・サリマンの  
愛人で、奴はマダム・サリマンを垂らし込んで位をもらったと」  
 
くすくすとおかしそうに笑う紳士に、ソフィーの肌が粟立つ。  
その時、びぃぃぃん、と耳障りな音を立てて朗々とソロパートを演奏していた  
第一ヴァイオリンの弦が切れた。ソリストの少女が慌てるのと同時にワルツが止まる。  
ソフィーと紳士もステップを踏むのをやめた。紳士はなおも笑いながら続ける。  
「すぐに別れるのがあなたのためです。あなたのように美しくたおやかな方が  
傷つくのには私が耐えられない!あぁ、お嬢さん。どうぞそんな顔をなさらないで」  
紳士が芝居がかった仕草で傷ついたように目を見開いているソフィーの肩を抱いた。びくりと銀色の頭が揺れ、細い肩が強張る。しかし、紳士はそんな様子を気にせず彼女を輪の外に連れ出そうとする。  
「……離してください」  
静かな、でも確実に怒りの滲んだ声でソフィーが言った。紳士が驚いたように歩みを止める。  
「お嬢さん?」  
「離して!もう結構よ、どうぞ放っておいて!」  
ソフィーが押し殺した声で叫んだ。双眸は怒りにぎらつき、頬が真っ赤に染まっている。  
赤い炎を纏ったように、彼女の姿は激しくて眩しかった。そして困った事に、  
そういった様子のソフィーは紳士の目にはひどく魅力的に映った。  
 
「お嬢さん、落ち着きましょう。大丈夫、あなたは私がお守りしますから。  
さあ、もうあんな薄汚い男娼のことなど忘れて一緒に―――」  
「黙りなさい!」  
ソフィーが紳士の手を振り払った。甲高い叫び声に、周囲の注目が集まる。  
しかし、怒りで頭に血が上ったソフィーにはそんなことどうでもよかった。  
彼女はきつくきつく紳士を睨みつけると、泣き出す寸前のように唇をわななかせながら言った。  
「彼は薄汚くなんかないわ!彼は……彼は素晴らしい人よ。優しくて、思いやりに  
満ちた人、あなたのように悪戯に人を傷つけない人よ……私を侮辱するのは構わないわ、  
でも、彼を辱めるのはやめて……!」  
ぽろり、と。ソフィーの頬に涙が一滴伝った。泣くのをこらえ、何度も唇をかみ締めるが  
効果はなく、涙はあとからあとから溢れてくる。途方にくれているソフィーの肩に、  
何か暖かい物が触れた。  
 
「妻が大変無礼を。伯爵殿」  
黒髪を優雅に撫でつけ、漆黒の燕尾服を身に纏ったハウルがソフィーを引き寄せた。  
目の前にいる紳士は一瞬呆けたように彼を見つめ、それからばつが悪そうに視線を  
反らした。  
「申し訳ございません。家内はこのような場に慣れていないのです。すぐに引き上げ  
ますので、どうぞご慈悲を。ソフィー、もういい。帰ろう?」  
ソフィーはどうしてハウルが謝るの、と口を開きかけたが、すぐにつぐんでしまった。  
自分を見つめているハウルの瞳があまりに頼りなく、悲しそうだったので口答え  
すら出来なかった。ソフィーは悔しそうに唇をとがらすと、かすかに顎を引いた。  
「……はい」  
「いい子だ……みなさん、大変お騒がせいたしました。どうぞ、パーティーの続きを  
お楽しみください」  
ハウルはふわりと礼をすると、胸に差していた白い薔薇を抜き取り、空へ投げた。  
その途端、天井付近から雪のように花びらが降ってくる。甘い匂いが場内を満たし、  
それが客人達の心を落ち着かせ、和ませた。  
「それでは伯爵殿も。大変失礼を致しました。ごきげんよう」  
ハウルはそれだけ言って礼をするとソフィーの腕を引っ張って会場を出て行った。  
残された紳士はぽかんとしたまま美しい銀髪の残像に見惚れていた。  
 
「どうして、あんなことをしたの?」  
ハウルは悲しげにそう言うと、ソフィーに向けて首を傾げた。荒地の花園に連れて  
こられたソフィーは後悔と自責に駆られ、啜り泣きを始めていた。  
「ごめん……な……さ、い」  
「謝らないで、ただ、理由を」  
ハウルが優しくそう言い、ソフィーの頬に伝う涙を拭った。  
「あの人……あな、たを………侮辱するから」  
しゃくりあげながらソフィーが答えた。ハウルが悲しそうな、嬉しそうな、腹立たし  
そうな微妙な表情を浮かべた。  
「そうか……でもねソフィー。世の中には人を辱めるのを厭わない人もいる。  
皆が皆、君のように清らかではないんだよ」  
ソフィーの肩を優しく抱き、ハウルが諭すように囁いた。彼の胸に顔を埋め、ソフィーが  
ただただ悲しげに泣きじゃくる。  
「僕は裕福でもないし、高貴な血筋でもない。そういう人間が王宮と関わるのを  
よく思わない人も多い。きっと、ひどい事もたくさん言われてるだろうね」  
他人事のような軽い口調で、ハウルが呟いた。ソフィーが顔をあげ、ひどく傷ついたような  
顔をする。ハウルは柔らかく苦笑すると、彼女の頬に手を当てた。  
「仕方がない事なんだ。でも、僕はたとえ100人の人間が僕を悪く言っても、たった  
1人でも僕を愛してくれる人がいるのなら、何も怖くない」  
そう言って勝気そうに微笑んだハウルの顔があまりに綺麗で、完璧で。  
ソフィーは泣くのをぴたりと止めた。彼はくしゃっと破顔すると、彼女の手を握った。  
「ソフィー、君がその1人になってくれないかい?」  
「……そう、よね。誰がなんと言おうと、私はあなたを愛してるし、信じてるわ。  
そうね、そうよね……それでよかったんだわ」  
ソフィーは白い顔にゆっくりと微笑を湛えた。シンプルすぎるほどにシンプルな解釈は、  
ソフィーの心を軽くさせ、気分を落ち着かせた。  
 
「さて、帰ろうか。夜風の中じゃ冷えてしまうよ」  
そんなドレスだしね、とハウルが口元をゆがめるように笑った。ソフィーが  
目を見開き、胸元まで真っ赤に染める。  
「そ、そうね………でも」  
ソフィーは悪戯を思いついた子供のように目を輝かせると、すらりと立ち上がって  
ハイヒールを脱ぎ捨てた。裸足の足で草の上に立つと、ドレスの裾を持ち上げて  
微笑む。  
「踊ってくださらない?私、まだハウルと踊ってないわ」  
闇夜からぽっかり浮き上がったようにソフィーの白い脚が覗く。ハウルもぱっと顔を  
輝かせると、立ち上がって腰を折った。  
「そうだね、せっかくだし、一曲踊ろうか」  
ソフィーは嬉しそうに笑うと腰紐をとき、コルセットを外した。そのままドレスを  
脱いでいく彼女に、ハウルは驚いて目を瞠る。  
「どうして?」  
「だって、着飾った所で、そんなの私じゃないもの。ね、ハウルは着飾った私じゃないと  
肯定してくれないの?」  
快活に笑うソフィーに、ハウルも楽しそうに笑った。それから彼女をぎゅっと抱き締めると、  
腰に腕を廻して彼女の手をとった。  
「どんなソフィーだって大歓迎さ!みんなみんな、僕の愛しい奥さんだよ」  
 
くるくると二組の足が花園を踊りまわる。少女の細い足首が背の高い草に絡めとられ、  
動きを止めた。男がとっさに庇うように少女を掻き抱き、二つの身体が草むらに  
倒れ込む。ぼすん、と軽い音が立って人影が消えた。  
 
真っ赤に上気した頬で、少女は幸せそうに微笑んだ。  
「あなたとだったら、一晩中だって踊っていられそうよ」  
その上に覆い被さっていた男が、極上の笑みを湛えると彼女の唇に口付ける。  
「じゃあ、今宵は踊り明かそうか」  
男が悪戯っぽく片目を閉じ、少女は楽しそうに笑い声を上げた。彼女の裸の腕が  
彼の優雅に長い首をとらえ、二つの身体が絡み合って一つに溶け合っていく。  
少女の足が、まるで踊り回るように宙をかいた。  
 

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