早朝のひそやかな空気の中を、一国の王子―――ここでの呼び名はもっぱら案山子のカブだが―――
が歩いていく。きちんと片付けられた、でも暖かみのあるキッチンの中では、
星色の髪が忙しく揺れている。
「おはようございます」
「あらおはよう、よく眠れた?」
声をかけると、朝食の用意をしていたソフィーが振り返った。微笑んだ目元が、わずかに赤い。
「おかげさまで……雪、止みましたね」
「そうね。もう降らないとは思うんだけど……」
そういうと、ソフィーは窓から空を覗いた。
立ちこめた雲は動く気配もないが、泣き出しそうな様子もない。
「でも寒いわね。カルシファーに頼んで、部屋をもっと温めてもらいましょうか」
小さく身震いすると、ソフィーが襟元を直した。
ちらりと覗いた白い喉元に、カブが思わず目を逸らす。
「……襟の低い服を着たのは、得策ではありませんね」
「え?」
「赤くなってますよ」
カブが苦笑いを浮かべながら、喉元を手で示した。ソフィーがばっと赤くなり、慌てて首を押さえる。
「……冗談ですよ」
かすかに見えた素肌があんまりにも色っぽかったのでからかっただけだったのだが、
彼女はおろおろと首に手をまわしている。カブがいたたまれなくなってそう言うと、
ソフィーがなんとも言えない表情を浮かべて、手を離した。
「そんなに慌てるなんて、何か思い当たるふしでもあるんですか?」
その一言に、またソフィーが赤くなった。つんと唇をとがらせて、視線を逸らす。
「……今日のカブはなんだか意地悪ね」
小さな声で、ソフィーが呟くように言った。彼女の態度に、カブは心がささくれ立つのを
感じて眉間に皺を寄せる。
「そうでしょうか?」
「そうよ。そんな冗談、私聞きたくないわ」
頑ななソフィーの態度に、ますます心が乱れた。
残酷な気持ちを隠すことなく、カブはソフィーを追い詰めていく。
「それなら、そう言った行為を自粛したらいかがですか?あんな声を聞かせられて、
僕がなんとも思わないとでも?」
「嘘!だって、ハウルがちゃんと魔法を……」
「やっぱり」
カブが冷え切った声で言った。ソフィーがはっとする。
「あなた、騙したのね!」
「勝手にひっかかったのはそっちでしょう?」
「どうしてそんな事言うの?」
今にも泣き出しそうな顔のソフィーに、カブが薄笑いを浮かべて訊ねる。
「………彼のこと、好きなんですか?」
カブの問いに、ソフィーが途惑ったように視線を揺らした。
それでも、カブの目を真っ直ぐ見据えて応える。
「ええ、愛してるわ」
「私の事は?」
間髪入れずに返された言葉に、ソフィーが狼狽した。
重苦しい沈黙の後、ソフィーが言を選びながらも紡ぎだす。
「好きよ。あなたも大切な私の家族だもの」
ソフィーの言葉の惨忍さに、カブが息を詰めた。それから彼女の腕を掴み、自分の元へ引き寄せる。
「カブ!」
なにするの、という言葉を奪うようにその口をふさいだ。
目を見開き、身をよじる彼女の頭を押さえ込み、舌で唇をこじ開ける。
「いやっ!」
ぱしん、という乾いた音と共にソフィーがカブをひっぱたいた。
赤くなったカブの頬に、ソフィーが気まずそうな表情になる。
「あの、カブ……?」
「……愛しています」
カブにぎゅっと抱き締められ、ソフィーは全身をこわばらせた。耳元で囁かれた言葉に、
怯えたように首を振り、身体を放す。
「…………どういう意味でいったの?それとも、私の聞き間違い?」
あぁ、とカブが大仰にうめいた。ソフィーは無理やりに笑顔を貼り付け、首を傾げる。
「カブ、教えてくれない……?」
かさかさに乾いた声で、ソフィーがもう一度問うた。カブが浅く息を吐くと、穏やかに語りだす。
「愛してる、と言いました。ソフィー、あなたが好きです。あなたの傍にいたい、
あなたを支えたい、あなたと幸せになりたい」
「いやぁっ!!」
ソフィーが金切り声を上げてへたり込んだ。耳を塞ぎ、狂ったように頭を振る。
「ソフィー」
「いや!聞きたくない!!」
ソフィーの悲鳴に、暖炉にいた炎の悪魔がゆらゆらと悲しげに揺れた。
長いすにもたれていた年老いた魔女は眠ったふりを続け、カブは何をするでもなくソフィーを見つめている。
「……なら、私もあなたに好きなんて言って欲しくなかった……」
カブが震えた声で放った言葉は、うずくまり、肩を震わせて泣いている
ソフィーの耳には届いていなかった。
「今朝は随分とにぎやかだね」
重苦しい沈黙を破ったのは、よく響く涼やかな声だった。
「ハウル………」
ソフィーが、か細い声で声の主の名前を呼んだ。ハウルは小さく微笑むと、
彼女を立たせて自分にもたせかけてやる。
「ソフィー、涙を拭きなさい。人の告白をそういう風に突っぱねるだなんて、
君もなかなか残酷な事をするんだね」
ハウルはその長い指でソフィーの涙を拭うと、髪を撫でてやった。その仕草に安心したのか、
ソフィーがハウルの胸に顔を埋めてまた泣き出す。
「そして高貴なる案山子くん。朝から随分情熱的な告白を見せてくれたね。
でも、僕の愛しい奥さんを泣かせるだなんて、感心できないな」
静かな、だからこそ畏れを感じずに入られない調子でハウルが言った。
カブがぐっとハウルを睨みつける。
「宣戦布告ならば、受けて立つよ。人のものに手を出そうとしたんだ、
それくらいの覚悟は出来てるだろうね」
「………もちろんですよ」
二人の間に流れた不穏な空気に、ソフィーがはじかれた様に顔をあげた。
震える声で、カブに向けて訊ねる。
「どう、して………今までのままじゃ、駄目なの……?
私もあなた、が、好きだわ……それじゃあ…だめ、なの……?」
かわいそうな位に青ざめたソフィーに向け、カブは柔らかな微笑を浮かべた。
ここで、彼女を肯定すればよかったのだ。
そうだと頷いて、何事もなかったかのように振舞えばよかったのだ。
そうすれば温かな家族に囲まれることも、彼女の愛情を甘受する事も出来た。
それでも。
「だめです……過去にはもう戻れないし、もう引き返すことは出来ない。戻りたいとも思わない」
「そんな……」
「言っておきますが後悔など、ひとつもしていませんよ……さて、そろそろ御暇致します。
さようなら、ソフィー。私がいなくなる事で、あなたの涙が乾きますように。
私の愛で、もうあなたが傷つきませんように」
晴れやかな笑顔で口上を述べると、カブは扉を開いて出て行った。
金糸の様な髪が太陽に反射してきらめいた
ぱたぱたぱたと軽やかな足音で、マルクルが階段を下ってきた。
呆然としているソフィーを見、場違いなほどの明るい声で訊ねる。
「あれ、ソフィー!どうしたの?ハウルさん、ソフィーと喧嘩したんですか?!」
火の悪魔がごぉっと音を立てて爆ぜた。マルクルが思わず身をすくめるが、
ソフィーは気にせずに目元をぐいと拭った。
「おはようマルクル。気にしないで、なんでもないのよ」
そう言ったソフィーの表情は複雑で、傍で見つめていたハウルにもその真意は汲み取れなかった。
しかし、この告白を境に二人の関係が変わってしまった事は痛いくらいに感じていた。
「ソフィー」
カルシファーにまきをくべ始めたソフィーに向けて、ハウルが声をかけた。
振り返らないソフィーの背中にも届くように、はっきりとした声で言う。
「愛してるよ」
ハウルの言葉にもソフィーは振り返らず、わずかに頷いただけだった。
ハウルはため息をつくと、部屋へと引き返していった。
過ぎた日々には帰れない
過去にはもう戻れない。
この受難劇の幕が、遂に上げられてしまった。