疲れきって城に帰ったハウルがまず目にしたものは、暖炉の前に置いた椅子に座った
おさげ髪の少女だった。暖炉の火は炭化した薪の奥に隠れてほの暗い部屋を暖かく揺らし、
少女はその火に向ったまま背を丸めて顔を俯けていた。
彼は足音を立てないように注意しながら、ゆっくりと少女に近づいた。顔を覗き込み、
深い寝息を確認すると、ふっと息をついた。
さっきまで鳥の姿に変身して飛び回っていた夜空は、ハウルの気分を酷く落ち込ませた。
空は煙に汚されて月星の清浄な輝きをかき消し、もしも消されなかったとしても、
焔に呑みこまれた大地にはその輝きを見上げる人はいない。めらめら燃える焔とそれに煽られた大気は、
不気味な生き物のようにゆらめき、その場を恐怖と苦痛と憎悪と悲哀で満たしていた。
(ここは、静かだ)
ハウルは、自分に確認するように、強く思った。火焔が空気を巻き込んで燃えるときの、
ごうごうと鳴る音がまだ耳の奥に残っている。けれどここには、戦場に満ちあふれていたような狂気はない。
(ソフィー)
声には出さずに彼女の名を呼んだ。
(ソフィー。…ソフィー)
目覚めている間は老婆の姿をしている少女は、今は眠りの中で、本来の姿を取り戻している。
彼女がいてくれれば、落ち込んだ自分をどこに引き上げればいいのか、迷わなくて済む。
ハウルは彼女の肩に軽く右手を置き、その前髪にそっと唇を寄せた。吐息が額を掠めると、
ソフィーの眉がわずかに動いた。ハウルが見守るその前で、彼女の目が薄く開かれた。
『……ハウ、ル』
唇が小さく動いて彼を呼んだ。その言葉は声にならずに、吐息に溶けた。ソフィーはまだ
夢うつつを彷徨っているらしい。はっきりと覚醒に至らない彼女の姿は、少女のまま。
ハウルは、そんな彼女にだけ聞こえるように、小さく囁いた。
「やあ、ソフィー。夢できみに逢えるなんて」
ハウルは空いている左手でソフィーの前髪を優しく掻きあげ、彼女に微笑みかけた。
「ゆ…、め…?」
かすれた声で小さく聞きかえしたソフィーの額に唇を落とす。
きみに魔力を使わない魔法をかけよう。今だけ、僕がきみの夢の中にもぐりこめるように。
「そうだよ――」
老婆の姿は、ソフィーが自分を守るためにその身に固めた鎧。そうして世界から自分を隔離して、
ようやくソフィーは安心してソフィーでいられる。
「――これは、夢だ」
囁きながら、眉間に、目蓋に、キスを繰り返した。夢うつつの中、ハウルの言葉を信じたらしいソフィーは、
目蓋を時々うっとりと閉じては、薄く開く。
肩に置いた右手をそっと滑らせ、ハウルは彼女の肘をつかまえた。
(だから、安心して)
左手の指先に髪を絡ませながら彼女の頭を撫でた。唇は、こめかみから、耳へ、
そして、頬に、触れるだけ。ソフィーの吐息に微かに湿った熱が混じり込んだのを目聡く見つける。
肘を掴まえていた手をさらに滑らせて、今度はソフィーの手のひらを優しくくすぐる。
(せめて夢の中だけでも――)
世界から自分を隔離してしまうなんて。まるで、世界に自分が存在することを
許せないとでも言うようだ。そこにはハウルもいるのに。
(――僕を、拒まないで)
ハウルは、頬をたどった左手でソフィーの顔を軽くすくい上げた。右手の親指と人差し指で、
ソフィーの小指をきゅっと握る。そして唇をソフィーの口元に寄せた。――が。
ハウルは、近づけた唇を離した。
口づけで、ソフィーの身を鎧う魔法が解ければいいけれど。先に解けるのは、ハウルがかけた夢の魔法だろう。
何かをふり切るように静かにため息を一つつくと、ハウルはソフィーの口元に肩を寄せ、
包み込むようにやんわりと彼女を抱いた。
そして、夢の狭間からソフィーが本当の眠りに落ちるまで、そうしていた。
ソフィーが寝台がわりに使っているソファの上に、ハウルは彼女をそっと横たえて毛布をかけた。
中指の背で彼女の唇に軽く触れ、耳元で小さく「おやすみ」と呟く。屈めていた身を起こし、
その場を離れかけて、ふと思いついて上着を脱いだ。
(まあ、このくらいの悪戯ならいいかな…)
目を覚ました彼女は、ハウルの上着を見つけて何を思うだろう。『夢』でのキスを思い出すだろうか。
ハウルは、音を立てないように、そっとその場を離れた。
彼が置いていった夢の名残は、毛布の上からソフィーにかけられている。彼の代わりに彼女を抱きしめるように。