喉が少しいがらっぽい気がする。
コンコンと数回咳き込んで、ソフィーは喉に手を当てた。
「ソフィー、風邪?」
机に腰掛けて、自分の顔より大きな魔法書とにらめっこを続けていたマルクルが、咳に反応して顔を上げた。
ハウルから出された課題をこなしている最中なので、テーブルの上にはよく分からない薬草や鉱石や実験道具のようなものが広げられている。
「どうかしら? 頭が痛いわけじゃないし……」
「風邪は引きはじめで手を打つのが大切だよ。今日は早めに休むのがいいんじゃないかね」
荒れ地の魔女が、ヒンを撫でる手を休めて言い、灰皿を引き寄せて煙草をもみ消した。ソフィーの喉を気遣ってのことらしい。
「カルちゃん、もうちょっと部屋を温かくしてくれるかね」
「分かった」
ボッと音を立てて、暖炉の炎が大きくなる。温かなオレンジがかった光が、部屋の中を明るく照らす。
「皆、心配しすぎよ。気持ちは嬉しいけど…」
眉を八の字にしてソフィーが抗議しても、魔女は知らぬ顔でヒンを撫でているし、カルシファーは火の勢いを弱めようとしない。
「昼間あれだけ働いて、夜も寝かせてもらえないんじゃ風邪のひとつもひいちまうよ。旦那にちゃんと言ってるのかい」
ぼそりと言われた魔女の言葉に、ソフィーはみるみるうちに顔を赤くした。
「おばあちゃん!ここにはマルクルだっているのに……!!」
引き合いに出されたマルクルはきょとんとしてソフィーの方を見ている。
ヒンが大儀そうに、ぱたりと一回耳を上下させた。
「あんた、最近は寝不足でふらふらしてたじゃないか。冬は風邪が寄ってきやすい季節だってのに。それじゃ、風邪引いたっておかしくないよ」
反論できずにソフィーは口をぱくぱくさせる。
何か誤解したマルクルが、ついに椅子から飛び降りて、せわしない足取りでソフィーのところに駆け寄ってきた。
「ソフィー、顔が赤いよ。熱があるんじゃないの?」
「ち、違うのマルクル、これは……」
素直に説明できるはずもなく、ソフィーはうろたえきって、助けを求めるように魔女を見る。
ふう、と深く息を吐き出して、魔女はちらりと階段の方に目をやった。
「……元凶の旦那はまだ風呂かい」
「もう三時間も入ってるよ。おいら、いい加減疲れた〜」
ハウルの長風呂で一番被害を被るのは、何を置いてもこの火の悪魔だろう。
不満の声を上げたカルシファーと、階段――正確に言うなら、階段の上にある、風呂場――を交互に見比べた後で、ソフィーとマルクルは顔を見合わせた。
「いくらなんでも長すぎない? 確かにハウルは長風呂だけど…」
「お師匠様、ひょっとしてのぼせてるんじゃないかな」
様子を見に行った方がいいだろうか。
ソフィーが足を踏み出しかけたその時、キィと浴室の扉が開く音がした。
階段を降りてくるハウルの足音は、心なしか荒々しい。
ようやく姿を現した夫を見て、ソフィーは目を丸くした。
髪の色が金色に染まっている。
そのひと房を不機嫌そうにいじっているので、髪の色が気に食わなくて不機嫌なのだとすぐに分かる。
師匠の不機嫌オーラに押され、マルクルがソフィーにしがみついて身をすくませた。
「……ソフィー、また棚の魔法めちゃくちゃにしちゃったの?」
小声で尋ねてくるマルクルに、ソフィーも小声で答える。
「まさか! 緑のねばねばを出されたら、居間も階段もねばねばだらけになっちゃうのよ! あの棚だけは、何があったっていじるものですか!」
妙な緊張感があたりに漂う。
ハウルはぶすっとした顔を取り繕おうともせずにソフィーとマルクルの前を素通りし、暖炉の前のいすにどかりと腰掛けた。
おそるおそるそれを見送って、二人はそっとハウルの様子を伺った。
「ハウル、髪の毛また染めたのね?」
そういえば、あれからハウルが髪を染めたのは初めてだ。
初めて出会った時のことを思い出し、ソフィーは目元を和ませて、静かにハウルに近づいた。
ハウルの両肩に、包みこむように手を添えて、上からその顔をのぞきこむ。
カルシファーが食べてしまったせいで短くなっていた髪も、だいぶ伸びてきた。
肩から滑り落ちた髪が、ハウルの頬を撫でる。
目の前に落ちた流れ星色の毛に手を伸ばし、それをしばらくいじった後で、ハウルが顔をソフィーの方に向けた。
「……ソフィー、どう。この色」
「とっても綺麗よ。よく似合ってる」
緑のねばねばや闇の精霊の出現を防ぎたい意味もあって口にした答えだが、その分を差し引いても、金色の髪はハウルによく似合っていた。
「ちょっと赤みが強いのね。まるでおひさまみたい」
心からの褒め言葉だったのに、それを聞いて、何故だかハウルは顔を曇らせた。
緑のねばねばこそ出さなかったものの、ハウルは夕食後もずっと不機嫌なままだった。
たかが髪の色ひとつで大げさなとソフィーは呆れる。
しかし不機嫌なハウルを放っておくとそのうち拗ねだすのも分かっていたので、適当なところで家事を切り上げ、早々に寝室に向かうことにする。
コンコン、と乾いた咳が廊下に響いて、ソフィーは眉をしかめた。
あの様子なら今日は特に何も言わなくてもゆっくり眠れそうだが…。
「ソフィー!」
寝室に続く廊下で呼び止められ、ソフィーは足を止めた。
廊下を歩いてくるマルクルの手に、小さな紙袋が握られている。ソフィーのすぐ前で立ち止まると、マルクルはそれをソフィーに差し出した。
しゃがんで視線を合わせ、紙袋を受け取る。見た目の印象そのままに、袋は軽かった。
「喉が痛いのをやわらげる魔法がかかってるんだ。おばあちゃんがちゃんと出来てるって保証してくれたから、効くと思う」
昼間、マルクルがハウルから課題を出されて作っていたものらしい。
そっと開くと、ふわりと甘い匂いが鼻をくすぐった。
紙袋の中には、マルクルの言葉どおりに、小指の先ほどの大きさの飴玉が数粒入っていた。
薄荷飴のようだが、魔法がかかっているせいだろうか。
白い砂糖衣が、光もないのにきらきらと淡く光っている。
口の中に飴を一粒放り込む。すっと清涼な空気が喉の中を通り抜け、爽やかな匂いが広がった。
ソフィーの顔に笑みが浮かぶ。喉の痛みが軽くなったのは勿論だが、小さな家族の気遣いが嬉しかった。
「本当。なんだか呼吸が楽になったみたい。マルクル、ありがとう」
「早く元気になってね?」
「うん。さ、おやすみなさい。マルクルも風邪引かないように、毛布をしっかり被ってね?」
「はーい。おやすみなさい」
聞き分けよく部屋に帰っていくマルクルを見送って、ソフィーは寝室の扉と向かい合った。
「…本物の子供はあんなにいい子なんだけど。大きい子供はどうかしらね」
飴玉の入った袋の口を閉めてから、ソフィーは寝室の扉を開いた。
小物を仕舞っておく棚にとりあえず残りの飴玉を置き、ソフィーはベッドを確認する。ふくらみが一つ、窓から差し込む月明かりの中で、静かに上下している。
夕食を終えるや否や早々に部屋に引き上げていったので、ふて寝でもしているのだろうと思ったが、案の定だったようだ。頭から毛布を被っているせいで、あの金色をめにすることは出来ない。
苦笑して、ソフィーはそっとそのふくらみに近づいた。
ベッドに腰掛け、ふくらみに手を伸ばすと、毛布の下から白い手がにゅっと突き出てきて、ソフィーの手首をとらえた。
「!?」
飴玉が口に入ったままなので、悲鳴を上げることが出来ない。
毛布ががばりとめくれ上がる。体を起こしたハウルが、やや強引にソフィーを自分の方に引き倒した。抗議する間もなく、あの金色が視界を埋める。
唇を唇でたどられ、いつものように温かな舌が口腔に忍び込んできて……飴玉に当たった瞬間に、動きが止まった。
「これ、風邪に効くまじない…? ソフィー、風邪ひいたの」
顔を離し、ハウルがまじまじとソフィーの顔をのぞきこんでくる。
驚いて固まっていたソフィーが我に帰る。
ぎこちなく首を縦に動かすと、ハウルは思い切り眉をしかめた。
「どうして言わないんだ」
「わざわざ言わなきゃいけないほど、ひどい風邪じゃないわ。それに、髪の色が気に食わなくて、ずーっと不機嫌だったのは誰?」
溜め息混じりに言うと、ハウルはばつの悪そうな顔をして頭をがりがりとかいた。
「最悪な日だ。髪はこんなになっちゃうし、ソフィーは風邪をひくし、おまけに僕はそれに気がつかなかった。夫としてあるまじき醜態だよ」
「だから、そんなにひどくはないんだってば。ゆっくり眠れば治るわ」
言外に、今日は勘弁してねという意味を含ませて言うと、ハウルはうなずいて体を横にずらした。
「ゆっくり休むといい。……そういえばあまり眠らせてなかったね」
最後の方の言葉は尻すぼみになっていた。顔が赤くなっているのが分かる。
何だかおかしくなる。
ソフィーはくすくす笑いながら、ハウルのとなりに体を滑り込ませた。
枕に頭を乗せるのを待って、毛布が肩まで引き上げられる。ふと横を見ると、自分の髪と、ハウルの金色の髪が混ざり合って、月光に淡く光っているのが目に入った。
「綺麗な色だと思うわよ? 前よりあたたかい感じがするわ」
出会った時の金色も、確かに綺麗でよく似合っていたけれど、どこか冷たい印象が拭えなかったのだ。遠くにいるような、自分なんかとは全然別の世界にいるような。
同じ金色ならソフィーはこちらの方が好きだ。どうしてハウルは気に食わないのだろう。
尋ねるように横で休んでいるハウルに目をやると、ハウルはソフィーの髪をつまみあげた。
「おひさまみたい、って言っただろう? ……僕は月の色にしたかったんだよ」
「どうして?」
「ソフィーの髪が綺麗だなあって思って。ほら、伸びてきただろう。動くたびにさらさら揺れて色が微妙に変わって、見ていて飽きないんだよ」
ソフィーはまばたきを繰り返した。ハウルの言わんとするところがよく分からない。
「星には月が似合うだろう。……太陽と星は嫌だったんだ。昼しか現れない太陽じゃ、夜空で星と一緒にいられないじゃないか。だから、この色が気に食わなくて」
「まあ」
あんまりといえばあんまりな理由に、ソフィーは違う意味で笑い出したくなった。
かみ殺しきれなかった笑いが漏れ、それにハウルが少しだけ不満げな顔をする。
けれど今はそれどころではないということに気づいたのだろう。神妙な顔をして、ソフィーを静かに抱き寄せた。
「僕の髪の色より、ソフィーの体の方がずっと大事だよ。ほら、目を閉じて。あったかくして眠らないと、良くなるものも良くならない」
「うん」
舌の上にわずかに残っていた砂糖のかけらが、溶けきってはかなく消えていく。
ことことと心地よい鼓動を伝えてくるハウルの胸に耳を当てて、ソフィーは穏やかな心地で目を閉じた。
(終)