ねぇ、一緒に住まない?  
家賃に1,000回のキスをくれるなら  
あなたを守り、支えてあげる  
 
カブ頭の案山子は金髪の王子様へと戻り、恐ろしい火の悪魔は心優しき星の子へと  
変わった。90歳の老女は星色の髪を持つ少女へと戻り、心をなくした黒い鳥は  
温かい心を持つ魔法使いへと変わっていった。  
「お城、ごめんなさい……」  
遠ざかる金色の髪を見つめながら、ソフィーが傍らの青年に向けて呟いた。  
彼は目を見張り、小さく微笑む。  
「気にしなくていいよ」  
「でも……きっと、直すのにとても苦労するわ」  
「そうだね―――ソフィーにも手伝ってもらわないといけないかな?」  
驚いたソフィーに、ハウルはぱちんと片目を瞑って見せる。  
彼女は頬を赤らめ、彼の指先を握った。  
 
「これで、おしまい!」  
軽く声を上げ、ソフィーは満足気に台所を見回した。  
お城の引越しはハウルとカルシファーがさっそく行ってくれ、  
今度は空を飛ぶ城になっていた。確かに、動く城よりも移動はしやすいだろうが、  
ソフィーはそれ以上にその眺めのよさが気に入っていた。  
もっとも、ヒンはベランダに出るなり怯えて部屋にとんぼ返りしてきたけれども。  
 
部屋の中も殆ど元通りだったが、やはり細かいところは人の手でないと  
どうにもならないようで、今日は一日大掃除だった。  
特にソフィーは忙しく、実を言えば朝から一度もハウルとまともに  
顔をあわせていない。  
「終わりかー?」  
暖炉の中でうつらうつらしていたカルシファーがそう尋ねてきた。  
自由になったにもかかわらず、彼は相変わらずこの城の暖炉を住居としている。  
 
「ええ!見て、きれいになったと思わない?」  
ソフィーは明るく言い、カルシファーを振り返った。  
短い髪が、頬を撫でる。そのことになんとなく照れて、彼女は髪を耳に掛けた。  
「これでまともなメシが食えるぜ」  
「そうよ!もう何もかもすっかり」  
元通り、と言おうとしてソフィーははたと気付いた。  
自分はもう90歳ではないのだ。ここには、呪いを解きたかったから掃除婦として  
居座ったわけで、でも呪いが解けたならもうここにいる理由がなくて。  
90歳のおばあちゃんならいざ知らず、こんな自分が周りをちょろちょろしては、  
ハウルの心証も悪くなってしまうだろう。  
 
「ソフィー?」  
呆然と黙り込んだソフィーに、カルシファーが心配そうに声をかけた。  
彼女ははっと顔を上げると、小さく首を振った。  
「何でもないの……疲れちゃったのかもしれないわね。カルシファーも  
 疲れているでしょう?今日はもう休んだら?」  
ソフィーは微笑んで首をかしげ、カルシファーは何となく釈然としないものを  
感じながらも頷いた。  
「ソフィー」  
「ん?」  
「ずっと、ここにいるよな?」  
ぽつんと独り言のように、カルシファーが問いかけた。いつもの傲慢なまでの  
強気さは影を潜め、今は弱弱しく不安げだ。  
「……おやすみなさい」  
質問には答えず、ソフィーは微笑んだ。  
 
窓に映る外の風景を眺めながら、ソフィーはまるで死刑宣告を待つような気持ちで  
ハウルを待ち続けていた。彼は浴室にこもったきりで出てこない。  
 
出て行ってくれ、と言われる前に出て行くつもりだった。  
本当はずっとここにいたいけれど、それが出来ないことは知っている。  
引き止められればもう一生ここで過ごしてもいいのだけれど、そうでなければ  
職を探して住む場所を探そう。とりあえずは、母の再婚先に身を寄せるのが  
いいのかもしれない。  
「あれ、ソフィーまだ起きてるの?」  
風呂上りで上気した頬のハウルが、驚いたように声をかけてきた。  
ソフィーは微笑み、首をかしげる。  
「ええ……ねぇ、ちょっとお話できない?」  
ハウルは小さく目を見張り、それから笑った。  
「いいよ―――僕も、君に言いたいことがある」  
 
とりあえず静かな所へとハウルに誘われ、ソフィーはあの花園へとやってきていた。  
入り口から少し歩いたところにある小高い丘からは、満月というには  
少しかける位の、それでもとろりとした黄金色の光を放つ月が見える。  
「綺麗………」  
眼下に広がる青白く輝いて見える花園に、ソフィーは息を呑んだ。  
隣のハウルは、どこか得意げな顔をしている。  
「ハウル、ここ、すごく綺麗!」  
感嘆するソフィーに、ハウルはにっこりと微笑んだ。彼はさり気ない仕草で  
少女の肩を抱き、大きな木の幹の辺りに腰を落とすように勧める。  
「この場所はね、この花園の中でも僕のとっておきなんだ。秘密の場所」  
子供みたいな顔でそういうハウルに、ソフィーは目元をほころばせた。  
ほんの少しだけ彼に近づき、顔を覗き込む。  
「秘密なの?」  
「そう。僕と、ソフィーしか知らない」  
その言葉に、ソフィーが頬を染めた。しかし、すぐに顔を曇らせてしまう。  
 
「……あのね」  
「あのさ」  
二人の声が重なった。ソフィーもハウルも気まずげに互いを見、うつむいてしまう。  
彼女はどうぞ、と手のひらを差し出した。  
「今、こうしてても不思議なんだ。ずっと欲しい、欲しいと願っていたものが  
 目の前にあって、手を伸ばせば届くなんて――――信じられないな」  
そう言って、ハウルは空を仰いだ。静かな横顔に、ソフィーは胸が  
かき乱されるのを感じた。心臓が暴れまわっている。  
彼の些細な仕草にさえ息が詰まってしまうほど、激しく恋をしている。  
「そう……」  
「両親なんて、もう本当に小さい頃に亡くしていて、叔父も……いなくて。  
 ずっと、支えてくれる家族が欲しかった」  
伏せられた睫毛が光って見えて、ソフィーはいたたまれなくなって視線をそらした。  
それでも、ハウルは淡々とした口調を崩さない。  
「それが手に入るなんて……幸福で、胸が張り裂けそうだよ」  
 
ハウルが、初めて微笑んだ。ソフィーも微笑み返そうとして、失敗した。  
崩れた表情のまま、彼女がまた俯く。  
「ソフィーは、これからどうするの?」  
質問に、ソフィーははじかれたように顔を上げた。つらそうに視線をそらし、  
唇をかみ締める。  
「どこか、行くあてでも―――」  
「あのね」  
ソフィーがハウルの言葉をさえぎった。泣き出しそうな大きな目に射抜かれ、  
青年は身構える。  
「お願い―――お願い、掃除婦でも家政婦でも構わないの、あの家に  
 置いて欲しいの……あなたが私のこと何とも思っていないのは分かってる、  
 でも、お願い……傍にいさせてくれるだけでいいから……」  
告白の途中から、ソフィーは涙があふれかえってくるのを止められなかった。  
ぽろぽろと流れるそれに、ハウルは呆然と見入っている。  
「お願い………離れたくないの……」  
 
「それで、いいの?」  
ソフィーの涙を指先でぬぐい、ハウルがそう問うた。  
彼女は唖然として目を見開く。  
「掃除婦のままでいいの?」  
眉根を寄せて、ハウルがもう一度続ける。ソフィーは真意を図り損ねて目を伏せた。  
彼は苦笑すると、少女を引き寄せた。  
「っ!」  
「僕としては―――家には掃除婦よりも可愛い恋人にいて欲しいんだけど」  
「じゃあ、尚更……」  
「あー、もう!」  
ハウルがじれったそうにはき捨てると、ソフィーの唇を塞いだ。  
びくりと体をすくませ、彼女は青年の胸をたたいた。  
「まだ分からない?」  
いきなりのキスに目を白黒させているソフィーに、ハウルが囁きかけた。  
全身を真っ赤に染めて硬直している少女が、不安げに青年を見上げる。  
 
「え……」  
「ソフィーが恋人になって、家にいてくれれば言いなって言ったんだよ」  
そういうと、今度はハウルの方が不安そうにソフィーの目をのぞきこんだ。  
ようやく止まったはずの涙が、再びあふれてくる。  
「泣かないで、ソフィー。せっかくの可愛い顔が台無しだよ?」  
「……だって、だって………」  
ソフィーはもう泣き止むことが出来ず、ひくひくとしゃくりあげた。  
ハウルは苦笑いを浮かべると、彼女を抱きしめ背中を撫でてやる。  
「ごめんね、僕がきちんと言わなかったからだね―――僕も、ソフィーが大好きだよ。  
 ソフィーと一緒にいたい」  
ソフィーは何も言わずに頷いた。ぎゅうっと縋り付いてくる小さい体を、  
ハウルは穏やかな表情で抱きとめる。  
「ソフィー、僕と一緒に暮らそう?」  
ソフィーがまた頷く。それを確認して、ハウルはようやっと息を吐いた。  
その微かな音に、彼女が顔を上げる。  
 
「ハウル……?」  
「僕もね、正直心臓がつぶれるかと思った」  
そういうと、ハウルが顔をくしゃくしゃにして笑った。  
いつもより幼く見える顔に、ソフィーはどぎまぎしてしまう。  
「断られたら、どうしようって」  
「まさか!」  
間髪いれずにソフィーが答え、ハウルがふいと横を向いた。耳が赤く染まっている。  
どうやら照れたらしい。  
「私も、出て行ってって言われたらどうしようかと思っちゃったわ」  
「まさか!」  
同じように、ハウルも間髪いれずに答えた。ソフィーは目を丸くし、それから  
くすくすと笑う。青年も相好を崩し、二人はしばらくの間、笑いあった。  
 
「ね、一緒に住むなら一個だけ条件があるんだけど」  
どこか悪戯めいた口調に、ソフィーは不思議そうな顔をした。  
ハウルは笑うと、彼女に口付けた。  
 
「家賃には、1000回のキスが欲しいな」  
「……欲張り」  
「そう?もしそれだけキスしてくれるなら、僕は一生ソフィーのこと守ってあげる」  
「あら」  
その言葉に、ソフィーは悪戯っぽく目を見開いた。  
桃色の唇を、無防備になったハウルのそれに押し付ける。  
「違うわ――私が、あなたを守ってあげるの」  
あと999回ね、とソフィーがにっこり笑った。ハウルは呆然として  
唇を指でなぞると、にやりと笑って彼女に覆いかぶさった。  
 
「………あなたにかかっちゃ、1000回なんてすぐにじゃない?」  
「……やっぱり、それだけじゃ足りないかも」  
呆れた、というソフィーの声も、ハウルの唇に柔らかく塞がれた。  
 
(確かに……)  
1000回なんて言わず、もっとたくさんキスしてくれてもいいな、と  
ソフィーはぼんやりと考えた。抱きしめてくれる腕の温かさとキスの甘さに、  
すっかり心をとろかしながら。  
 

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