帽子屋として針と糸を布地を握り締めていたころは、指先は乾燥し薄皮一  
枚の切り傷なんて当たり前だったような気がする。花屋に宗旨替えしたあ  
とでも、水に濡れてふやけた指で葉をむしったり急いで薔薇のトゲを抜い  
たりで、お世辞にもきれいな手とは言えなかった。  
そして年月は過ぎて、仕事を減らしまめに手入れしたとしても、どう頑張  
ったってきれいな手にはならないような年齢になってしまった。  
男のくせになんで女の自分よりずっときれいな手をしてる相手に言われた  
くない、と嫌味のひとつも言いたくなったことだってあるけれど、彼はそ  
れでもソフィーの手はいつもとてもきれいだねと微笑んでくれる。  
荒地のはずれの、いつもの花園の真ん中へ椅子とクッションを出して、た  
った二人きり何を話すでもなく時間をすごした。  
この時期なら街では毎年恒例の祭がひらかれているはずだ。すっかり老舗  
になったチェザーリの店にもきっと新作のケーキかタルトが出ているだろ  
う。果物のたくさん出回る季節になっているから、きっとフルーツをたく  
さん使っているに違いない……。  
 
おだやかな光、やわらかな風。  
このまま吸い込まれるように眠りこんでゆけたら、どんなに幸せな夢が見  
られるだろう。  
しかし重ねられた手の重みが、まどろみのぎりぎりの淵でソフィーを引き  
とめている。お互い皺のふえた痩せた指と手をしていて、年月を経るうち  
微妙に感触も重みも変わったけれど、そこから注がれるぬくもりだけはい  
つまでも変わらない。  
そう、祭に沸く街の宙空を彼に手を取られ歩いた、あのときのぬくもりの  
ままだ。  
花園を渡ってゆく風がそよそよと葉擦れの音を運んでくる。  
ここで眠りこんでしまえたらどんなに幸せな夢が見られるだろう。でも、  
その夢には目覚めという終わりがこないことをソフィーは本能にも似た勘  
で悟っていた。  
夢とは、覚醒したあと思い返し幸福感に浸ることができるからこそ、美し  
い。終わりのない迷宮と化した夢など、現実に戻れないという時点ですで  
にどれだけ心楽しく幸福であってもただの悪夢だ。非現実は決して現実を  
代価とするだけの価値はない。  
 
だから、どんなに幸せな「夢」に落ちてゆけるとわかっていても、ソフィー  
はこの手の重みを感じていられるかぎりは「夢」の中には落ちては行け  
ない。  
それとも夢の主が力任せにソフィーを引きずりこみに来るのが先だろうか。  
「ハウル」  
軽くソフィーの手の上へ乗せられたままだった指へ、わずかに力がこもっ  
たのがわかる。  
「とても、幸せだわ」  
暗い裏路地からあかるい空へと連れ出されたあの瞬間のことは、今でも鮮  
明に思い出せる。湿った空気をつきやぶりまぶしい太陽の真下へ踊り出て、  
羽毛でも踏むようにして宙を歩いた。  
荒地の魔女に呪いをかけられ、雨露をしのげる場所をとひたすらに願い夢  
中でころがりこんだ動く城の中の暖炉の、涙が出そうなほどに暖かかった  
こと。  
ぶつかりあったりもしたけれど、自分にだけは嘘はつけなかった。臆病だ  
けど死にゆくさだめの流れ星に心臓を捧げてしまうほど心優しい、そんな  
彼に惹かれた。いつも地面や床しか見えていなかったソフィーに、彼は空  
の青さや太陽のまぶしさを、手を引いて示して見せてくれた。  
 
生きることとは、なんて驚きと波乱に満ちていて幸せなことなのか。  
ソフィーはそれを彼に教えてもらった。  
とても幸せだった。  
愛する喜び。生きることの幸福。  
重ねられた手がそっと包みこまれ、それだけでは満足できなかったのか、  
彼は淡い色をしたショールごとソフィーの肩を抱きよせた。  
「とても幸せ」  
彼の腕の中はとても暖かだった。  
ひとりごとのような呟きへ返る言葉はない。  
彼は時としてソフィー自身よりもソフィーの願いや気持ちを理解している  
ことがある。そしてそういう時はおおむね、彼は沈黙を守る。  
 
ふと伏せたまぶたの裏に、流れ星をおいかける黒髪の少年の背中をソフィー  
は見た。  
そしてその一瞬にすべてを知った。  
 
彼が、痛いほどにソフィーの手を握る。  
それと同時にみじかく漏れた溜め息が頬にかかるが、なぜだかおそろしく  
熱かった。唇を噛みしめているのが見える。  
「ハウル」  
なんだかとても眠くなってきたな、とソフィーは考えた。  
でもこんな幕引きであれば悪くない。ほんの少し彼には申し訳ない気もす  
るけれど。  
光の砂をふりまいたように、彼と過ごした思い出は輝きに満ちていた。  
もう充分。そんな言葉が何のためらいもなく脳裏に浮かぶ。  
「ああ、……君はいつもとても暖かいね、ソフィー」  
言葉の最後でなぜか彼は少しだけ笑ったようだった。でも雨粒がソフィー  
の頬に最初に落ちてきたので、ついてないなあ、と他人ごとのように考える。  
「城へ戻ろうか」  
「ううん、もう少しこのままで」  
「ソフィー」  
 
でも暖かい雨が降ってくるくらいだから、きっと好天はしばらく続くだろ  
う。そう考えると、最初の雨粒にあたってしまった不運もなんだか喜ばし  
いことのように思えた。  
「ねえハウル」  
手を握られているので腕一本で抱き寄せられているはずなのに、息が苦し  
くなるほど強く抱きしめられていた。でも今はその息苦しさを感じて痛かった。  
この腕がほどかれてしまうくらいなら、今すぐにでもみずから夢に落ちて  
いきたい。そんな気分だった。  
「あなたとの最初の約束を覚えている?」  
「もちろん」  
「よかった」  
こすりあわせるようにして頬を寄せる。  
眠くて、なんだか自分が彼の目をちゃんと見ているのかどうか自信がない。  
でも彼が微笑んでくれているのがわかる。  
 
もう見えない目を懸命に開いて、ソフィーは最高の笑顔で呟いた。いつも  
ハウルが、自分にとってどんな宝物よりも輝かしく大切で貴重なものだと  
表現してくれた笑顔。  
「あの約束が完全に履行されることはないわ」  
なぜか息を吸うことができない。吐き出すばかりで。  
「だって私は、またあなたを探しにいかなきゃいけないんだもの」  
「……ソフィー?」  
「未来で待ってて」  
「……ばかだなあ。今度ばかりは君が待つんじゃないか。君のほうが先に  
未来に行くんだろう?」  
「あ、そうかも。でも野暮な人ね、たまにはかっこつけさせてよ」  
悲しくはないはずなのに涙が流れた。でもすぐに、涙が流れている感触も  
わからなくなった。強く握られているはずの手の感触も遠い。  
ただ彼のぬくもりばかりが意識に残る。  
「生まれ変わってもきっと、あなたを見つけに行くから待ってて」  
是とも否とも彼は言わなかった。  
 
「ソフィー」  
ただひたすらにソフィーを抱きしめたまま名前を呟くばかり。  
ゆっくりと意識が白濁してくる。とても暖かい。  
「ソフィー……」  
ぱたりぱたりと音を立てて雨が落ちてくる。どうして彼は雨が降っている  
のに雨よけのまじないをしないのだろう、とソフィーは思った。  
もしかして、冷たくなく暖かいから濡れても平気なのかしら?  
「…ソ、…ィー……」  
声さえも遠くなる。  
ああ、暖かい。  
きっと明日もよい天気になるだろう。  
 
声が完全に聞こえなくなってから、ソフィーはやっと、雨が彼の顔のあっ  
た所の下にしか落ちてきていなかったことに気付いた。  
 
 
春を祝う祭で、町の中はおそろしくごった返していた。  
人ごみはあまり得意ではない。できれば一人きりになれる自室が一番いい。  
人が多いとそれだけ、いかに自分に華がないのかを思い知らされるからみじ  
めになる。  
ならば最初から人目をひかない格好をして、急ぎ足で通りすぎたほうが絶  
対にいい。帽子を目深におろして目立たない灰色のいつもの服を着て、人が  
少ない通りを選ぶ。  
だから酔漢らしき若い男が声をかけてきた時も、無視して急いでふりきろうと  
した。後ろから突然誰かに肩を抱かれるまでは。  
「すまないね。僕の連れなんだ」  
音楽的な声音が耳元に降ってきて、何かに射抜かれでもしたかのように  
酔漢が不自然な姿勢で硬直する。  
「……歩いて」  
 
低い声で囁かれる。若い男の声だ。もしかしたら自分よりやや若いくらい  
かもしれない。……年下かも、と思った瞬間になぜだか少しげんなりした。  
これでも一応自分は大人の年齢だ。法的にも数的にも。それにも関わら  
ず年下の男に助けられるなんてどうなんだろう、と思うとさすがに気分が  
萎える。  
「……ねえ。聞いてる?」  
「なんですか」  
「ごめんね。ちょっと君を巻き込んだみたいだ」  
「は?」  
「実はちょっと追われていてね」  
悪戯な笑顔で顔をのぞきこむ男の瞳はヒヤシンスのような青だった。  
なぜだろう、その瞳の色をどこかで見たことがあるかもしれない、と思った。  
「でも不思議だね、なぜか君と今日はじめて会う気がしないんだ」  
「な、な、なにを突然」  
やっぱりどこからどう見ても自分よりたぶん年下で、でもそれを感じさせない  
余裕と身長と肩にまわされた腕の確かさにどきどきした。  
「こんなに珍しい色の銀の髪をしているのに、なぜだかどこかで見たような  
気がするせいかな」  
 
そう笑みを含んだ声で言った若い男の髪は、夜空を切り取ったような、つ  
やのある漆黒。  
背後から複数の足音が聞こえる。追われているというのは伊達ではない  
ようだ。いったい何者に追われているのかと考えようとした瞬間、わきあが  
るような力に運ばれて宙へ躍り出ていた。  
彼女と彼は、祭に湧く街の空へと飛び出していた。落ちる、と反射的に彼の  
手を握るが、線の細い指とはいえやはりそれは男の手だった。しっかりと  
彼女を支え前へ導いてゆく。  
「ねえ」  
ふわふわと正体のない羽毛の上を歩いているようだ。なにしろ足元は素通し  
の空間しかない。頼りない足元とは裏腹に、彼の手はびくともしない。  
「あなた誰!?魔法使い?」  
「そうかもね。僕の名前は、」  
彼の名前を耳にして彼女は思わず振り返る。胸の中で誰かが、みつけた、と  
小声で幸せそうに呟いたのを聞いたような気がした。  
 
END  
 

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