「幸せなの?」  
その声が思いのほか弱弱しく響いた事に、彼女は内心狼狽していた。  
青年はきょとんとしたように目を瞠り、それからゆっくりと笑った。  
「幸せですよ?」  
どうして、そんな当たり前の事を聞くのですか、と青年は明るく尋ねる。  
その微笑のまぶしさに、彼女はさっと目を伏せた。  
「―――ただ、気になったから」  
小娘みたいに髪を撫で付けながら、彼女が答えた。常とは違い落ち着きを  
欠いた様子の彼女に、青年は驚く。  
「面白い事を聞きましたねぇ――――そうですね、生きてきた中で一番幸せです」  
青年が淀みなく言った。彼女は視線を下げたまま、そう、とだけ呟いた。  
「……幸せです。そして、幸せになります」  
幾分柔らかい調子で、青年が言った。彼女は自分の爪を見つめながら、小さく頷いた。  
「おめでとう」  
 
それが、やっと言えた台詞だった。  
 
夜半、喉の渇きを覚えて目を覚ますと、リビングのソファーに座っている人影を  
見つけた。青年はゆったりと微笑んだまま、窓越しに月を眺めているようだった。  
「ねぇ―――」  
声をかけようとした瞬間、青年が首をめぐらせた。純白の夜着を着た少女が、  
しずしずと歩いてくるのが見えた。  
「おまたせ」  
少女は微笑み、手にしていたカップを青年に差し出した。その笑みを見た瞬間、  
青年の顔が信じられない位に甘く崩れる。  
彼女は立ちすくんだまま、二人の様子を観察していた。少女は青年に身体を  
寄せるようにして座り、甘えるように見上げている。青年はそれが嬉しくて  
仕方がないといった感じで、少女の髪をゆっくりと梳いていた。  
二人は、時に唇を寄せ合ったり、ささやきあったりして、幸せそうに笑い合っていた。  
時が経つに連れて、彼女は平衡感覚を失うような気がしていた。  
足腰はもう強くないから、それも当たり前だと思っていたのだが、それとは違う、  
冷たくて物悲しい感覚が足先を駆け抜けていくようだった。  
 
もう、この恋は過去のものだと思っていた。  
その前に、本気で彼を愛しているだなんて、思っていなかった。  
   
自分は百戦錬磨で鳴らした女だ。泣かした男も女も数が知れない。  
それを、自分の歳の半分も生きていないような子供にのぼせ上がるだなんて  
――――――ありえないことだ。  
 
それでも、目の前で繰り広げられる光景には涙が出るほどの悲しさ、羨望を感じ、  
同時に青年に対する強い愛情と少女に対する烈しい嫉妬に駆られた。  
二人はいよいよ盛り上がってきた様子で、同様にカップをテーブルに移した。  
少女は青年の胸にしなだれかかり、青年は熱に浮かされたような顔で  
キスを繰り返している。  
ややあって、少女の肌がさらされた。月光をはじき返すほどに白い肌は、彼女が  
もう失ってしまった若さを湛えていて、いっそ憎らしいほどだった。  
青年のはだけた胸も似たようなもので、二人の行為には淫靡さはなく、  
それよりも一種神々しい、純粋な美しさだけが際立っていた。  
「あぁっ……や、っ……あ……」  
少女が艶めいた声で喘ぎだす。青年の頭に巻きつけられた腕が、恥じらいに染まった  
赤い頬が、泣き出しそうに潤んだ大きな目が、羨ましくて羨ましくて仕方ない。  
「あぁ……いい……可愛いよ」  
 
やめて。  
 
耳をふさぎたい衝動をどうにか押さえ、彼女は唇を噛み締めた。  
彼女にしたのと同じように、彼は少女にキスをするのだろうか。少女に名を  
呼ばれるたびに、彼女が名を呼んだ時と同じような顔をするのだろうか。  
「あぁ……ハウル………」  
頼りなさげに呼ばれた名前に、青年はとてもとても優しい顔をした。  
彼女と面しているときには、人形のような冷たい微笑ばかり浮かべていたというのに。  
青年はそっと少女の頬にキスをすると、折れそうに細い身体をきつく抱きしめた。  
高く追い詰められていく声を、彼女は呆然としながら聞いていた。  
少女は美しかった。彼女は、もう醜かった。  
彼女は溢れ出る涙を拭いながら、くるりと二人から背を向けた。  
ゲームは終わった。サイは投げられた。彼女に、もう打つ手はなかった。  
「幸せに、なりなさい」  
せめてもの強がりと餞の言葉を呟き、彼女はのろのろと歩き出した。  
溢れ出る涙が、稀代の魔女の頬を伝って落ちた。その顔は、傲慢なほどに  
自信に満ちたいつもの彼女のものではなく、初恋に敗れた少女のものに等しかった。  
 

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