それでも、彼のことが忘れられない
彼は私の為にいるわけじゃないって、解ってるのに―――
レティーは立ちつくしていた。
手にした銀のトレイの上に乗ったポットは冷め、中のお茶はぬるくなっている。
ケーキも乾き、フォークの輝きさえくすんで見えた。
チェザーリの二階、厚ぼったいカーテンで仕切られたお得意様を通すサロンの奥で、
一人の男が泣いていた。ぽたぽたと透明な涙を流して、時にはその雫を拳でぬぐって。
男は金色の髪に端整な顔立ちをした、隣国の王子だった。
レティーの知り合いであり、また姉夫婦の友人でもある。
そして、彼は姉に焦がれていた。
涙のわけも、十中八九姉の関係であろう。彼は傍目から見ても滑稽なほど、
姉に傾倒していた。当の姉が、義兄だけをまっすぐに見つめているにもかかわらず。
『―――もともと、望みのない恋なのよ、泣く位なら、諦めたら良いじゃない』
そう言ってやりたかったけれど、そう言ったところで彼は泣き止まないだろう。
それ位、彼の恋は深くて純粋なのだ。自分に出来ることなんて、何もない。
"あなたの思いがもしも私に向いているなら、絶対にあなたにはそんな顔させないのに"
彼の透明な涙は、水晶のような涙は、とめどなく流れ続ける。
「………だけど、それもあたしの為にじゃないわ」
だから、レティーはただただ立ち尽くしていた。
ポットの中身が冷え切ろうとも、ケーキに乗った果物がかさかさに乾こうとも。
彼が泣き止み、顔を上げるまでは。
カブは急いでいた。ざわめく心を押し込めて、大股に道を行く。
寝る間を惜しんで書類を整理して、どうにか手に入れた時間は二時間。
一分たりとも無駄には出来ない。一秒だって長く、彼女といたい。
花屋の裏口の戸を叩くが、返事は返ってこなかった。鍵はかかっていなかったから、
不躾だとは思いながらも中に踏み込む。途端、つんとした臭いが鼻についた。
「ソフィー!」
床にうずくまるようにして、最愛の少女は倒れていた。脂汗の滲む顔は蒼白で、
口元は吐瀉物で汚れていた。
「どうしたんですか!?ソフィー、しっかりして下さい!」
カブは彼女を抱え上げて、寝室に運んだ。体は、頼りないくらいに軽かった。
「カブ……ごめんなさい。何でもないの、気分が悪かっただけ」
「嘘を言わないで下さい。そんなに具合が悪かったなら、言ってくれれば……」
彼女は弱弱しい微笑を浮かべて、カブを見上げた。
そんなにやつれた顔で、何でもない?
「ハウル殿は?話があります」
彼女をこんなにぼろぼろにさせるなんて、と思い思わず眉間に皺を寄せると、
彼女は信じられないくらいにつよい力で彼の腕を引き、首を振った。
「あの人にだけは言わないで!」
彼女の目は真剣だった。琥珀色の目は爛々と輝き、炎が灯ったようだった。
その声と目の力強さには勝てず、カブは睫を伏せ、足早に彼女の家を去った。
"もし、私が彼の立場なら、あなたをそこまで追い詰めたりしない"
彼女の思いは深い。ただ一途に、愛情を捧げ続ける。それしか知らない、愚かな子供のように。
「………だけど、それも私の為にではない」
だから、カブは急いでいた。ざわめく心を抑え、泣き叫びたくなる喉を押さえ、
傷ついた恋心を抱きながら、大股に歩いていく。太陽の化身のような、
明るい微笑を湛える、若い友人に会うために。
ソフィーは泣いていた。泣きながら、絶望していた。体調がもうずっと優れない。
食欲はなく、そのくせ吐き気はこみ上げてくる。けれども何も食べていないので、
胃液まじりの吐瀉物ばかりが出てきて、唇の端が焼けてしまっている。
ただでさえ美しくない顔が、余計に醜く見えた。彼は美しいものが好きだから、
きっと今の自分を嫌がるだろう。
月のものが来なくなって、もう二月になる。もしかして、という不安は
避け様のない確信に変わってしまった。妊娠している。
身に覚えがないといえば嘘になる。彼に求められたから、何もかも捧げて来たのだ。
身も、心も。それに、自分は彼の妻であるわけだから、それは自然の摂理だ。
何より、そうされる事は嫌いではなかった。彼は優しく、自分をとても愛してくれる。
そういうことが解るから、寝台を共にするはむしろ好ましかった。
だけれど、妊娠だけは想定外だった。いつか、本屋の娘が子供を生んだという話を
したとき、彼はどこか哀れんだような目をしていた。
戯れに、子供が生まれたらどうする?と尋ねると、彼は困ったように微笑んだ。
――――どうしようか?
その言葉に打ちのめされ、ソフィーは二度と子供の話を口にしたりはしなかった。
だから、今自分の体の中に宿った命は恐怖以外の何者でもない。
"傍にいたい、捨てられたくない、別れたくない。
でも、子供を殺めるのなんて、出来ない"
彼は優しい。だから、きっと子供の存在を告げれば、まじめに考えてくれるだろう。
でも、不意に子供のように戸惑った瞳で呟くのだ。どうしようか、と。
「………人々は幸せな恋を歌って、物語はハッピーエンドで終わる。
だけど、それは私の為にじゃない」
ソフィーは泣いていた。泣きながら、絶望していた。かすれた声で、青ざめた顔で、
ただひたすらに慕わしい人に捨てられるのが怖くて、ソフィーは泣いていた。
「君は、僕に何も言わないんだね」
深夜に目を覚ますと、ハウルが困ったような微笑を浮かべてソフィーの髪を
撫でていた。こんなに醜い顔を見せて、とソフィーは目を伏せる。
彼はひどく悲しそうだった。
「一人で死んでしまう気?僕らは夫婦だろう、頼ってくれてもいいじゃないか」
優しい囁きに、ソフィーがほろほろと涙を流した。彼の優しさは、今の自分に
とっては毒だ。彼は優しさという毒薬を使って、自分と子供をいたぶり殺す。
「ソフィー、何がそんなに悲しいの?」
あなたの優しさが悲しいのよ、とはいえなかった。ソフィーは知らず知らずのうちに
腹部に手を当てていた。
「―――あなたの血を引いた子供が、生まれて来るの」
ハウルが息を呑んだ。見開いた大きな目で、ソフィーを凝視している。
ソフィーは何かを諦めるように、そっと微笑んだ。
「……どうしましょうか?」