入浴を終えて寝室に行くと、彼女はベッドに横たわっていた。  
むきだしの二の腕やめくれ上がった夜着から覗く白い腿が発光するように白くて、  
綺麗だなと思った。でも、体が無防備でどことなく淫らな雰囲気を醸している  
割には、顔は強張り、思いつめているように見える。  
「ソフィー?」  
名前を呼ぶと、彼女はあきらかにびくりと体を跳ねさせた。それからぎゅっと  
目を瞑り、ゆっくりと僕を振り向いた。  
「……ハウル……」  
ふわり、とソフィーは微笑み、体を動かした。桃色の唇が、今日はいやに赤く見える。  
「なに?」   
ベッドに腰掛けると、彼女は僕の腕をとり、掌を頬に当てた。あったかい、と  
小さく呟く。その調子は甘く、どこか作り物のようだ。  
「……こっちに……ね、来て」  
請われるがままに彼女の傍らに横たわると、彼女は笑いながらすがりついてきた。  
首に腕が回され、足が絡めとられる。胸板に押し付けられる彼女の胸の膨らみ、  
肩に置かれた小さい顔。  
「キス、して……?」  
上目遣いに僕を伺い、彼女は可愛らしく首を傾げた。魅力的だとは思うけど、  
何故だろう、どこかうそ臭い。  
「どうしたの?」  
気になって尋ねると、彼女は焦れたのか自分から唇を重ねてきた。かつて教えた  
とおりのやり方で、彼女は僕を愛撫していく。上唇、下唇、両方に重ね、  
ゆるゆると舌先で探り、僕の唇をこじあける。  
こうされてしまえば拒否するのも悪いし面倒なので、されるがままにしておく。  
そこでぴんと来る。こういう事は以前にも経験している、と。  
一番嫌な形の交わりとして。  
 
そうしている合間にも、彼女の細い指が僕のシャツにかかった。  
くすぐるように首筋を撫でながら、ボタンをはずしていく。ぷつん、ぷつんという  
音には現実味がなくて、まるで夢でも見ているかのよう。  
耳朶が食まれ、ぴちゃ、という水音が聞こえた。彼女はいっぱしの娼婦のような  
顔で僕を翻弄しようとしている。でも、なぜだか温度差を感じてしまう。  
開かれた胸元にキスが送られ、ぽつ、ぽつとキスマークがつけられる。  
いくつかをつけて満足したのか、彼女は自分の胸元をくつろげた。  
日に焼けたことのない、真白い乳房が現れて僕が目を瞠ると、彼女はまたふわりと  
微笑んだ。僕の手を取り、そこにあてる。  
「………どうしたの?」  
思わず呟いた一言に、彼女はかちこちに固まった。  
自分から誘っておいたくせに、無理やり裸にひん剥かれた生娘みたいな顔をして。  
 
何か、悪夢でも見ているような気がした。  
半裸の彼と半裸の私。しかも私は自分から彼の服を脱がせて自分の胸に手を  
当てさせた。こんなに明らかに誘っているのに、目の前の彼は子供のいたずらを  
みつけた親のような顔で、深いため息をついている。  
「どうしたの、って言われても……」  
どうしたの、と聞かれても困る。ただしたいだけなのだから。以前にも何度か、  
自分から誘いをかけた事はあったけど、殆どは成功していたと言うのに。  
「……したいの………ダメ?」  
自分で言葉にした瞬間に、これじゃあ駄目だと思ってしまった。当たり前だけど  
彼も訝しげにこっちをみている。  
「ねぇソフィー、正直に言って。何があった?」  
彼は自分の脱いだシャツを羽織り、私の服のボタンを留めながら聞いてきた。  
最悪だ、と口の中だけで呟く。  
 
今日が最悪の一日だというのは解っていた。昼間、レティーに呼び出され、  
その時にある人に引き合わされた瞬間から。  
 
「……ふーん。それであなたが、あの人の家の家政婦なの?」  
「恋人、よ」  
真向かいに座ったのは、医者の末娘だという自己紹介に違わず、  
裕福そうな身なりをして聡明そうな顔立ちをした女性だった。  
彼女は値踏みするように私を見ると、完璧な微笑を浮かべた。彼女の横に座った  
レティーがカップの中身をすすりながら訂正する。  
女性は長い、熱鏝で巻いたと思しき黄色い髪を耳にかけながら、ころころと笑った。レティーの眉間の皺はどんどん深くなるのに、私にはそれが絵空事にしか見えなかった。  
「ソニアさんでしたっけ?」  
「ソフィーよ」  
レティーがいらいらと訂正した。髪をかき上げ、ほとんど目の前の女性を  
にらみつけている。彼女は失礼、とおどけるように目を見開いて、  
またころころ笑った。  
「面白い冗談よねぇ……だってレティー、こんなおとなしそうな子が?」  
「ちょっと、お姉ちゃんに失礼よ!」  
「だってそうでしょ?家に居座って、妻みたいな顔して振舞って?それが……」  
彼女はそこまでいうともう一度私を舐め回すように見た。そして微笑む。  
「こんな純朴そうな顔の子なんてね」  
そこで頭にカッと血が上った。彼女は、あきらかに自分と彼との関係を示唆して  
言ったのだ。体を使って、彼をたらし込んだのだと。  
「……失礼いたします」  
「待ちなさいな。そんなに慌てることないじゃない?」  
 先ほどまで聡明そうだと思っていた顔立ちが、今は蛇のように見える。  
自分より三つ年上だという彼女は、妙に大人びた仕草で私の腕を捕まえた。  
「そんなに可愛いんだもの、彼が夢中になるのも解るわ。でも、それも  
いつまで持つかしらね……?」  
「あなた!いい加減にしてください!」  
「生娘の寿命は短いのよ?」  
真っ赤になった私の顔を見て、彼女はかわいい、と呟いた。そしてころころと  
鈴の鳴るような、甲高い笑い声を上げて優雅に席を立った。  
伝票を掴み上げた指を払おうとすると、彼女はまた大人びた仕草で手を上げた。  
「結構です!自分の分は、自分で支払います」  
「……あたしだったら、あの人のお金でお茶を飲もうなんて思わないけれどね」  
お金は、お店で稼いだものだけれどもともとはハウルのものだ。  
私が真っ赤になって黙ると、彼女はひらひらと手を振って出て行った。  
黄色い髪の残像だけ残して。私のプライドはもうずたずただった。  
 
「……お姉ちゃん、ごめんね」  
レティーが心底申し訳なさそうに言った。私は彼女を伺い、一応首を振った。  
「いいえ。私こそごめんなさい……仲のいい、お友達なの?」  
訊ねるとレティーは鼻に皺を寄せ、肩をすくめた。知り合い程度よ、と吐き捨てる。  
「そう……よかった」  
思わず漏れた一言に、私はうろたえてしまった。レティーはくすり、と笑い、  
席を立った。  
「いいの、どうせその程度の人だもの……お姉ちゃん、ハウルが好きなのは  
お姉ちゃんなんだから、彼女のこと、気にしちゃだめよ」  
「解ってるわ」  
呟きが、思いのほか頼りなく響いて私は狼狽してしまった。レティーは柔らかい  
微笑を浮かべ、こっちをみている。  
「解ってるわ。私が、あの人の傍にいるのを、赦されていることくらい」  
 
「……今日ね」  
彼が私の目を覗き込んできた。途端に怖くなって本当のことがいえなくなる。  
だからだろうか、唇はまったく別の言葉を紡いだ。  
「……街に行って来たわ。カブに会ったの」  
彼の顔が引きつった。おかしな事だけれど私はその顔に安心して、  
口元が緩むのを止められなかった。  
 
夢見るようにうっとりとした調子で、彼は“僕の”恋人を褒め称えた。  
「彼女の素晴らしいところは、美しいところもそうですし、優しいところも、  
凛としているところも、聡明で公平なところもそうです……でも、何より、  
あの清らかさ!」  
彼は感極まったのかあぁ、と小さくうめき、それから幸せそうに笑った。  
「何者にも染まらず、何の穢れもない。あの清らかさは、彼女の最大の  
美徳だと、僕は思いますけれどね」  
確かに、彼の周りにいる権力にひれ伏す女たちに比べ、彼女はまっさらな心を  
持っている。でも、それを清らかというのは違う気がして、僕は口をつぐんでいた。  
彼はそれを嫉妬しているととでも取ったのだろう、へらりと薄っぺらい笑いを  
浮かべて、肩をすくめた。  
「そんな怖い顔しないで下さい……あなたが彼女を、彼女があなたを  
愛しているのは、僕だって痛いくらいに解っていますから」  
さて、仕事の続きをしましょう、と隣国の王子は金の巻き毛を揺らしながら、  
和平のための協定書に目を落とした。それでも彼女が穢れていない訳じゃないのを  
知っている僕は、黙っていた。  
 
彼女を汚した張本人である僕は、気のきいた言葉一つかけられなかった。  
 
おとうさん、悪魔がいるよ。  
 
悪魔と取引したのはファウスト博士、魅入られたのは、数が多すぎて解らない。  
だとしたら、この有名な文句は、一体何からの出典だっただろうか。  
そうやってぼんやりと考え事をしている間にも、彼女は大きな目で僕の目を  
射抜き、険しい顔をしていた。  
「……へぇ」  
彼女のついた大嘘にどういう反応をとって言いかが解らず、僕は気の抜けた  
返事しか出来なったか。彼女は驚いたように目を瞠り、焦ったのか視線を逸らした。  
「………興味、ないの?」  
「なくは、ないけど……」  
「じゃあなんで?なんで、何も聞かないの?」  
畳み掛けるように彼女が尋ねてきた。身を乗り出した途端にゆれる髪と乳房。  
ちょっと魅力的な光景。でも、本能で解る、これが危険な事だと。  
「……あのさ、ソフィー」  
僕は何だか馬鹿馬鹿しくなって、ソフィーを抱きこんだ。彼女がいやいやと  
身じろぐ。  
「……今日ね、隣国の王子殿下と一緒に仕事していたんだよ」  
彼女は雷に打たれたように固まり、ぽかんと口をあけた。  
「本当は、誰と会っていたの?」  
その問いに、ソフィーは傷ついたような顔をした。軽く目を伏せ、唇を尖らせる。  
「………言いたくないわ」  
自分からこの話を振っておいて、どういうオチだ。  
 
そう思った瞬間僕の頭にカーッと血が上り、頬に熱を感じた。心臓が煩い音を  
立てて動いている。お父さん、悪魔がいるよ。頭の奥で、男装した若い歌手が  
そう叫ぶ場面が、何度も何度も繰り返される。鳴り響く、甲高いソプラノ。  
劇場の硬い椅子、繋いだままの彼女の手、真剣に舞台を見ている、彼女の横顔。  
「自分から話し出して、勝手に終わらせるの?」  
冷静でいなきゃ、と思うのに、喉からは勝手な言葉ばかりが飛び出てくる。  
いつのまにか腕は彼女の両手を押さえつけ、体は彼女を逃がすまいと覆い  
被さっていた。  
「……今日はもう寝ましょう」  
「自分から誘っておいて、何言ってるんだか」  
「したくないの!」  
むずがる子供のような仕草で、彼女は体をねじった。しかし、僕の体はいとも  
簡単に彼女の動きを封じる。彼女は困ったように眉根を下げた。  
「君は一体何がしたいの?自分から誘ったり、嘘をついたり、黙り込んだり。何があったの?」  
僕の声はひどくしゃがれていた。激情を押さえようとして、無意識に喉を  
押さえたせいだろうけど。彼女は泣きそうな顔をしていて、それは僕の情欲を  
駆り立てるのに充分だった。  
「ここで本当のことを言わないなら―――」  
そこまで言うと、僕は勿体つけるように彼女を見た。彼女は目を伏せて口を  
真一文字に引き結んでいる。それが無性に気に障る。僕は怒りに任せて口を開いた。  
「手加減は、なしだよ」  
 
あがる声はまるで自分のものではないみたい。いやらしくて、高くて。  
聞こえてくる獣じみた喘ぎ声に、私はぼんやりと思いを馳せた。  
彼は私の両手首を押さえつけたまま腰を振っている。  
「あぁ…アッ……あ、っあ!」  
彼に貫かれ、体の芯から火照っている感じが全身を包んでいる。  
気持ちよくて、脳みそが茹ってしまいそう。なのに、なぜだろう。どこか冷静に  
この状況を把握し、観察している自分がいる。  
彼は顔をしかめ、本当に苦しそうな顔をしている。もっと気持ちよさそうな顔を  
してくれればいいのにな、と思った。  
でも、その余裕のない顔が私はものすごく好き。  
「やぁっ……も、だめ、いっちゃ……」  
「ダメ」  
彼の顔が私の首筋に埋まった。さらさらの髪が頬に当たる。シャンプーの匂いと、  
汗の匂いが混じってる。いい匂いだな、と思って私は細く呼吸をした。  
私を惑わす、麻薬みたいな匂い。激しかった動きは緩くなり、皮膚がざわざわした。  
「だめ……ソフィーはもっと、もっともっと僕を感じてて………」  
彼の囁きは砂糖菓子くらい甘い。自分とするこの行為に夢中になっているのが、  
簡単に見て取れた。彼の背中越しに、あの黄色い髪の女の顔が見えた。  
今のわたし達を見せてやりたい。ケダモノみたいに貪りあって、激しく絡み合って  
求め合っている姿を。  
生娘の寿命は瞬きする間に終わる。あとは、娼婦になるか淑女になるかだ。  
それだけ。  
「あぁっ!だって、こんなの……やぁぁっ!!」  
おそらく、二択のうち人々がより嫌悪を催すほうになれ果てた私は、それでも  
恥ずかしそうな声をあげ、目を瞑った。指は彼の指にしっかりと絡められ、  
腰は彼の動きに合わせてゆれているのに。  
「あぁ、ハウル……好きっ……すきっ……!」  
 
「ソフィー……」  
彼の目が歓喜に潤んでいる。つぶされるんじゃないかと怯えてしまうほど  
きつく抱きしめられ、それから優しい、でもありったけの情熱が込められた  
声で囁かれた。  
「僕もだよ……ソフィー…君だけを、愛している」  
 
勝った。  
 
――――その瞬間、私は笑っていた。  
 
あの黄色い髪の、医者の末娘の、大人ぶった仕草の女に勝った。彼の愛で  
勝ち負けを推し量るなんていけない、と良心がとがめたがそんなの  
おかまいなしだった。私は、あの女に勝ったのが嬉しくて笑っていた。  
ハウルに貫かれながら、あの女の悔しそうなぼろぼろな顔を想像し続けていた。  
そして、空想の彼女が悔しそうに地団太を踏んだ瞬間に、絶頂を迎えた。  
 
はぁ、とため息をつくと僕はそのまま力を抜いた。彼女の上にのしかかる。  
重くないかな、と頭の中を心配がちょっと掠めたけど、疲れていたので  
そのままにしておく。彼女は思っていたより落ち着いた顔で僕を  
受け止めていてくれる。  
「ソフィー」  
名前を呼ぶと、彼女は虚ろな目で僕を見上げた。悲しそうな顔で、  
ぼんやりとしている。  
「………ごめん」  
その顔に妙な罪悪感を覚えてしまい、僕は反射的に謝っていた。彼女は  
びっくりしたように目を瞠り、それから首を振った。  
「……私こそ、ごめんなさい……」  
彼女の声は震えていた。それどころか、ぽろぽろと泣き出している。  
「ソフィー、どうしたの?」  
「っく…ひ………ぃっく」  
彼女は無言でしゃくりあげていた。僕は彼女の上からどき、横にずれた。  
そのまま彼女を抱きこみ、子供にするみたいに背中を叩いてやる。  
「何で泣いてるの?」  
彼女は答えない。ただしゃくる声が大きくなるだけ。  
「……無理やりして、ごめん。痛かった?」  
思い当たる節は一つしかなかったので、それについて謝った。なのに、彼女は  
うんともすんとも言わなかった。そんなにまで、深く傷ついたというのだろうか。  
「……本当に、ごめん」   
ソフィーが首を振った。そのいじらしさに心が痛む。  
「何で泣いてるか、教えて?」  
「…………何でもないの」  
彼女はあふれ出る涙をぐいとぬぐい、鼻声で答えた。それから、自己嫌悪よ、と  
低く吐き出した。  
 
「自己嫌悪?何で?」  
彼女は答えなかった。代わりに無理やりな微笑みを浮かべて、口をつぐんだ。  
「………ね、今晩は、ずーっとこうしていて」  
僕の肩のあたりに頭をちょこん、と乗せて彼女は甘えるように囁いた。  
片手で彼女の髪を撫でながら、僕は頷く。  
「いいよ。ずっとこうしてる」  
「……ずーっとよ、眠っても、ずっとよ」  
そこで彼女は言葉を区切り、またふわりと微笑んだ。どこかはかない印象の  
笑顔が悲しくて、僕は彼女を抱き寄せた。  
「ずっとこうしてるよ。約束する。愛してる、愛してるよ、ソフィー」  
むきになって言った僕に、彼女は呆れたように微笑んだ。  
引き結んだ僕の唇に軽くキスを落とし、こてん、と首を預けてくる。  
その体温が気持ちよくて、僕はようやく固かった表情が緩むのを感じた。  
「一晩中よ、お願い……それで、もう大丈夫だから。そうしたら、  
また明日の朝には笑っておはようって言えるから、だから、今は、まだ」  
そこで彼女の言葉は終わった。彼女はただ静かに微笑むと、目を伏せた。  
そしてすぅ、と細い呼吸を一つ残して眠りについた。  
きっと、今日は彼女にとっても僕にとってもどうしようもなく面白くなかった  
1日だった。だから、僕らはこうやって馬鹿みたいな真似をして、さらに  
面白くない思いをした。だけど、ここに二人でいるなら、それでいい。  
きっと、僕らはそれだけでやってける。  
例え、今は傷つきぼろぼろでも、きっと、明日には上手くいく。  
だから、今は、まだ。  
 
覚めない悪夢の名残は重たいけれど、僕はもう何も怖くはなかった。  
 
 

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