息を潜めて身を固くして、暗がりの中に横たわっていた。耳を打つのは女の声。高く、  
細く、途切れ途切れに、あるいは長く。  
 ふいに、白い手が目の前に落ちてきて、息を呑む。額に汗が吹き出て、胸の中心で心臓が  
奇妙な生き物のように暴れる。  
『――カブ』  
 この手は彼女の手。訪れると暖かく迎え入れ、お茶を淹れてくれる手。家族のために  
家事をこなし、幼い少年の頭を撫で、老婆の食事を手助けし、時には犬を抱き上げ、  
毎日優しく花を摘む手。  
 
 
 
 パーティ会場は華やかな喧騒に包まれていた。  
 戦争終結の条約がようやく締結されることとなり、その記念式典の前夜であった。  
条約締結は、仲介役を務める第三国で行われる。各国貴賓と戦争終結に携わった人々と  
新聞記者たちを招待し、愛と平和を謳った盛大なものになる予定である。招待客のために  
設けられた、離宮での『ささやかな』宴も、結局は式典のためのパフォーマンスの一環で  
あった。ジャスティン王子は皮肉に笑った。しかし、彼の隣でその笑みを見た人間には、  
凪いだ海のような穏やかな微笑みに見えたことであろう。  
 調印を行うのは宰相の役目であり、王たちは国を離れない。ただ、その代わりに、  
王族の人間が式典に出席することとなっていた。「国の顔として、皆をよくもてなしてくれ」と  
王に言われ、権威を肩に背負わされて王子は送り出されたのだ。そのおかげで、知り合いを  
招待する枠がもらえたことは、有難かったが。  
(まったく、誰をもてなせというのか……)  
 王子はちらりと、自分の隣に目をやった。そこには、ツンと澄ました顔の若い女性が  
立っている。  
 
 ふいに、喧騒が一層ざわめいた。ほう…とため息の漏れるのが聞こえる。ホールに溢れた  
人々の間に、ちらりと銀色の髪が見え隠れする。その髪の持ち主には、濡れたような黒髪の  
持ち主が常に寄り添っている。確かめなくても王子にはそれがわかった。  
 彼らが会場に姿を現してから、人々の関心が二人から離れることはなかった。  
まるで絵画の世界から脱け出して来たような、見目麗しい美男美女のカップルである。  
どこに居ても人目を惹く。少女をエスコートする黒髪の青年は、すらりとした肢体を持ち、  
物腰の一つ一つが優雅であり、熱っぽい眼差しを少女に向け、自分が彼女の崇拝者であることを  
隠そうともしない。青年にエスコートされる銀髪の少女は、やわらかで控えめな物腰ながらも  
その清楚な可憐さは隠し様もなく、彼に手を取られるが恥ずかしくも嬉しくて仕方ないと  
いった様子が、傍目にも見て取れたであろう。  
「ソフィー、ハウル」  
 人ごみの中から、やっと彼女が姿を表す。  
「カ…いえ、ジャスティン王子」  
 ソフィーは王子を見て微笑んだ。銀糸を織り込んだ白のドレス。おそらく、彼女の髪色に  
合わせて用意したのだろう。レースや宝石などの仰々しい飾りはついていなかったが、  
その分際立つ上等な素材がみすぼらしさを感じさせない。むしろ、贅を凝らしたドレスを  
身に纏う周囲の女性たちの方が、却って安っぽく見えたくらいである。  
 ソフィーが身を屈めて王子に挨拶をすると、耳飾と首飾りが小さく光を弾いた。少女の  
耳朶と首元を飾るシンプルなデザインのそれらは、揃いで誂えた青い石が付いていた。石は、  
少女の不思議な色合いの銀髪と銀色のドレス姿に品のいいアクセントを加えており、少女に  
寄り添う黒髪の青年の瞳の色とよく似た色合いだった。それは明らかに、彼の瞳に合わせて  
選ばれていた。  
 
 王子は彼女の挨拶を受け、胸に手を当て会釈する。本当は、跪き、その手に口付けを  
したかったが。  
「お元気でしたか、ソフィー」  
 それでも王子はその日初めて、心からの笑みをその顔に浮かべた。しかし、その笑みも、  
少女の指を飾るものを見て、作り笑いに取って代わる。わかってはいたものの、目の当たりに  
すると胸に迫るものがある。青年と少女の指にはお揃いのリングが光っていた。  
「お招き頂いて光栄に存じます、王子」  
 少女に続き、青年も挨拶の言葉を口にする。二人とも人目を憚ってか王子の立場を慮ってか、  
ごく丁寧な口調であった。王子は、僅かの寂しさを噛み殺し、握手を求めた青年の手を握る。  
「その節は大変お世話になりました」  
 挨拶が済むと、王子は隣に立つ一人の女性を振り向いた。彼女は、宝石を散りばめた  
豪奢なドレスを身に纏っていた。  
「――姫。こちらはソフィー・ハッター嬢とハウエル・ジェンキンス氏です。お二人とも  
私の恩人であり、友人です」  
 ハウルとソフィーは揃って恭しく礼をとる。ささいな仕草もぴったりと呼吸を合わせ、  
二人の睦まじさを示す。  
「ハウル殿、ソフィー、こちらの姫は――」  
 王子は仲介国のとある貴族の名を挙げて、そのご息女である、とその女性を二人に紹介  
した。その晩、王子は彼女のエスコート役を務めていた。  
 自分たちは『丁度いい年頃』の男女である。周囲にどんな目で見られるのかは明らかだった。  
しかし、王子の父親である国王から「(自分たちに都合のいい)和平のためにも、とれる  
ご機嫌はなるべくとってこい」と申し付けられては、従わざるを得ない。それでなくても、  
王子は行方不明になることで、戦争の遠因となったのだ。これも外交の内と割り切り、気が  
乗らなくても引き受けたのだった。  
 
 王子から紹介を受けた姫君は、ソフィーは無視し、ハウルに向かって無言のまま手袋に  
包まれた手を伸ばした。指先にキスをさせてあげる、とでも言うようだった。王子を内心  
うんざりさせたのは、姫のこういった振る舞いであった。姫の身分を考えれば気位の高さは  
仕方のないことかもしれないが、加えて彼女は場の雰囲気を読もうとしないのだ。そのくせ、  
彼女は他人の粗を探すときには、ひどく敏感だった。  
 ハウルは姫の手をとった。僅かに額を傾けた。それだけだった。姫は小さく眉を顰めたが、  
ハウルはただ微笑んでいる。一瞬、緊張しかけた空気を、ソフィーの涼やかな声が和らげた。  
「それでは、姫君様はこちらの王様のお孫さんでもいらっしゃるのね?」  
 姫の母親は、この国の老王の愛娘である。  
「ええ、そうです。よくご存知ですね」  
「王子に招待状を頂いてから、ハウルに教えてもらって一生懸命覚えました。わたしは  
田舎の下町育ちですから、何か失礼をしでかす前に覚えられることは覚えておいたほうが  
いいと思って」  
 彼女は一旦言葉を切り、にこりと微笑む。王子の目にその笑顔は、どんな身分の人間よりも  
高貴に映った。  
「わたし、王族のお姫様にお目にかかるのは初めてです。ジャスティン王子と並んでいらっ  
しゃるのを見ると、まるでお伽噺の中から脱け出してきたみたい」  
 そう言って、まず姫に、そして王子に笑顔を向ける。その曇りのない笑顔は、かえって  
王子の胸をえぐった。王子は胸の痛みを微笑みに隠す。そしてその痛みを自ら抉る。  
「ところでお二人の、その指輪ですが――」  
 ソフィーはパッと顔を赤らめ、はにかんでハウルをちらりと見上げた。大切そうに  
指輪をした手を別の手で包む。祈るような仕草だった。  
「ご婚約なさったんですね」  
 
「はい」と答えたのはハウルだった。  
「結婚式は来年の予定ですが、その前に、彼女の薬指だけでも独占したくて」  
 本当は、一日でも早く結婚してしまいたいのだろう。王子にはそれが分かった。しかし、  
まだ焼けた街は復興の途中である。ハウルはともかく、ソフィーには縁者がいる。  
 ハウルに続いてソフィーが口を開く。  
「でもあまり実感がないんです。あのままずっと、その……」  
 ソフィーは言いよどんで、ハウルと一緒に暮らしていると明確に口にするのを避けた。  
しかし、二人が親しげに視線を交わすのを見れば、彼女が何を隠したのかは明らかであった。  
「……あれから変わったことといえば、ハウルが花屋のお店を手伝ってくれることくらいかしら」  
「あなた、花を売ってらっしゃるの?」  
 それまでむすりとして黙っていた姫が、そこで初めて会話に入った。  
「はい、先日開店したばかりです」  
 ソフィーは笑顔で姫の参入を受けいれる。しかし、姫の口から続けて紡がれた一言は。  
「――売っているのは花だけかしら、可愛らしい花売り娘さん?」  
 王子は、一瞬、呆気にとられた。次にカーッと頭に血を昇らせる。何と、いうことを。  
よりによって彼女に。  
 それは貴婦人らしからぬ物言いであった。もちろん、姫は相手が町娘であることを分か  
って、わざとそうしたのだ。花売りを売春になぞらえて、ソフィーを辱めたのである。  
――しかし。  
「こちらでは他に何か売っているんですか?」  
 ソフィーは瞳を好奇心にきらめかせて答えた。そして、こう続けた。  
「姫君様は、何かお求めになったことが?」  
 その笑顔に邪気はない。姫は言葉につまる。ハウルがソフィーの肩を抱き、顔を覗き込んだ。  
 
「住むところが違うと、些細な慣習も違うんだよ、ソフィー。僕たちの店は花だけで充分さ。  
そうだろう?」  
 ソフィーは恋人の仕草に顔を赤らめる。そうね、と同意して微笑んでハウルを見上げる。  
今は同じ場所にいながらも、姫とソフィーは明確に違う世界を生きていた。蔑みも嘲笑も  
邪な気持ちも優越感も、ソフィーを穢せないのだと、王子は思った。そのことは、権力の  
中心に近い場所で、泥濘に足を取られて生きるしかない王子を彼女から遠く遠く隔てた。  
そしてそれを自覚するたびに、王子は思ってしまうのだ。――何故、と。  
 強い力を持つ魔法使いであるハウルは、身分こそ持たないが、王子の側の人間であるはず  
なのだ。先程の姫の言葉に込められたものにも、きちんと気付いていた。人の悪意や欲望や  
愚かしさに晒され、それを真正面から見つめて生きてきたがゆえに、彼と王子はある部分で  
世界を共有していた。それなのに何故、彼は彼女のそばに在ることを許されるのだろう。  
何故彼が、彼だけが、彼女を独占することを許されているのだろう。  
 王子は魔法使いハウルを嫌っているわけではなかった。案山子の王子を家族と呼んだのは、  
ハウルなのだから。彼はソフィーを欲しただけであった。日照り続きで萎れた草木が、  
切実に雨水を欲するように。王子はそれを得られなかったが、ハウルは得た。だから、羨ましい、  
妬ましい。  
 挨拶を終えたハウルとソフィーが、去ってゆくのを、王子はやるせない気持ちで見つめた。  
そんな彼に、姫が囁く。  
「あの二人、もう一緒に暮らしてらっしゃるのね。まだ結婚もしていないのに。いくら  
恩人とはいえ、あんなふしだらな女がジャスティンさまに――」  
「姫」  
 強い口調で王子は姫の言葉を制した。姫は眉根を寄せて、不機嫌に口をつぐむ。彼女は  
美しい娘に対して殆ど全員に、粗を見つけては否定的なコメントを付けた。不機嫌なのは  
自分の方だと王子は思いながら、努めて口調を和らげて続けた。  
 
「貴女は色々なことに興味をお持ちになるのですね」  
 曖昧な物言いをしたのはわざとだ。嫌味ととるか誉め言葉ととるか、姫の表情を、冷め切った  
気持ちのまま、意地悪くも興味深く伺う。――姫は、自分に都合のいいように王子の言葉を  
受け止めたようだった。おそらくは自分が非難されることなど、考えたこともないのだろう。  
(王族とは、なんて高慢なのだろう……)  
 王子は内心、ため息をつく。案山子になる前の自分を見ているような気がした。本当は  
怒鳴りつけたかった。しかし、先程のソフィーを思い出す。こんな中傷では、彼女を穢す  
ことはできない、そう自分に言い聞かせる。  
(ふしだらなんて、ソフィーには一番似合わない言葉だ……)  
 
 
 
 挨拶も一通り済み、姫がパウダールームに立ったとき、王子は気疲れから解かれて心底  
ほっとした。待ちわびていたように銀色の髪を捜す自分に、心の中で苦笑する。あの姫は  
数十分で戻ってくるはずだが、その間だけでもソフィーを見つめていたかった。  
 ホールの中央ではダンスが始まっていた。楽隊の奏でる音楽が、軽快に鳴り響く。  
(――いた)  
 小柄な彼女だが、珍しい色の髪のせいで見つけやすかった。ソフィーは、一人で壁際の  
ソファーに腰掛けていた。ハウルは側にいない。ダンスに誘いたいらしい男たちが、  
彼女を遠巻きにしてお互い様子を覗っているが、彼女は気付いていない。意を決して  
声を掛けた一人の男性に、ソフィーは困ったように微笑んで何かを言い、首を横に振る。  
 王子は、近くを通りかかったボーイから飲み物のグラスを二つ受け取ると、ソフィーの  
方に向かって歩き出した。ダンスを断わられた男性と入れ替わりに、彼女の側に近寄ると  
声を掛けた。  
 
「お隣、よろしいですか、ソフィー?」  
「まあ、カブ」  
 ソフィーは花が開くような笑顔を見せた。その表情は、先程の男性の誘いを断わったときの  
弱々しい笑顔とははっきり違っていて、まだ遠巻きに彼女を眺めているであろう男たちに  
対して、王子はささやかな優越感を持つ。  
「お一人なんですか?」  
 王子はグラスを渡しながら、何気ない口調で尋ねた。ソフィーは礼を言ってグラスを受け  
取る。ふふ、と笑って目線をダンスをする人々に向けた。  
「ハウルは、あそこよ」  
 ドレスの裾をひらめかせてくるくるまわる群集の中から、スラリとした肢体を持つ黒髪の  
青年が踊りながら現れる。王子は思わず苦笑した。ハウルは余程ソフィーが心配らしい。  
パートナーの女性の頭越しに、視線をソフィーに向けている。王子に気付くと、物言いたげ  
な表情をした。恋仇が恋人の側にいることが面白くないのか、どこの誰だかわからない男に  
ソフィーが言い寄られるよりは知り合いの彼がいる方がいいと思っているのか。おそらくは  
両方であるのだろう。  
「彼があなたを置いて、他の女性とダンスを?」  
 ソフィーはふっとため息を吐いた。  
「わたしが、踊って来てって言ったの。わたしは踊れないし、二人揃って断わり続けるのも  
失礼でしょう?」  
 ソフィーは、踊る人々を眩しそうな目で見た。王子はその横顔にドキリとした。そして  
次に、微かに憤りを感じた。何故、彼女がこんな表情をしなければならないのか――彼女  
こそが、王子にとっては何よりも眩い光なのに。  
 
「わたしね、踊れなくてもかまわないって思ってたの。でも――」  
 彼女はふっと、王子を見上げ、  
「ちょっと寂しいかしら」  
 上目づかいに微笑んだ。  
「ステップなんてわからなくても、いいんですよ」  
 王子は、務めて明るくさり気ない口調で言う。恋人を想って愁うソフィーの気持ちから、  
今だけでもハウルを切り離したかった。  
「男性のリードに合わせればいいんです。手を取り合って音楽に合わせて、それだけでも  
きっと楽しいですよ」  
「本当に?ハウルも同じことを言ったわ。でも、つい断わってしまったの」  
 王子は大袈裟に顔をしかめた。  
「では、私が同じことをお誘いしたら、彼は怒ってしまうでしょうね」  
「そうかしら?……そうかも。あの人、ちょっと子どもっぽいところがあるから」  
 ソフィーはクスクス笑う。楽しそうに話す自分たちを見て、ハウルはどう思っているの  
だろう、と王子は微笑みながら考える。今も、踊りながらもソフィーから目を離さない  
ハウルの視線を感じる。  
「子どもっぽいのではなくて、焼きもちですよ。ご存知ですか?男は嫉妬深いんですよ」  
「あら、女だって嫉妬深いわ」  
 そう言うとソフィーは目を大きく見開いて、可愛らしくおどけてみせた。  
「怖いんだから」  
 王子は思わず吹き出した。それはまるで、小さな子どもにお化けの話をする時のような  
口調だった。曲が終わる。目の端で近づいて来るハウルの姿をとらえながら、王子は声を  
上げて笑った。  
 
 
 
 ハウルがソフィーの元に戻ってくると、王子は二人の側から離れた。  
『酔ってしまったようです。少し外の風に当たってきます』  
 そんなことを言ってはみたものの、酒に酔ったわけではなかった。冷ます必要があったのは  
自分の感情。要は睦まじい二人の側にいたくなかったのである。  
 王子は庭園へ続くテラスから、外へでた。大窓を閉めると喧騒が遠ざかった。月が照らす  
庭を一人で歩いて行く。夜風はひんやりと心地よかった。しかし、報われない恋心と、空回る  
ばかりの嫉妬心と、逃れようのない王子という立場への苛立に逆上せた頭は、それでも冷える  
ことはない。そのくせ、何もかもが虚しく冷めていた。  
 夜風が庭園を吹き抜け、そよそよと葉を揺らす。広大な庭に植えられているのはバラであった。  
この庭のほかには王宮の庭にしか咲かない種類なのだと、昼間、姫の散歩に付き合わされた時に  
聞かされた。小振りながらも優美な佇まいの花が咲くそうである。芳香に優れるため珍重  
されているが、非常に繊細な種のため、専門の知識のある者でなければ香りよく咲かせ  
られない。今は花の時期ではないが、来年の初夏には楚々とした佇まいの美しいバラが、  
えもいわれぬ芳香とともに花を開くそうであった。この国の王族の婚礼は、このバラの  
咲く時期を選んで執り行われるのだと。  
 それを聞いたとき、王子はソフィーの笑顔を思い浮かべた。彼女の手を引いて、一面の  
バラの花の中を歩きたいと思った。彼女は花に負けないくらいに美しく顔を輝かせ、バラを  
愛でるだろう。蜜蜂のように軽やかに、白い鼻先を花に近づけてバラの香りを楽しむだろう。  
――しかし。  
 
『結婚式は……』  
 ハウルの言葉が頭に響く。この庭園のバラの花の咲く頃には、ソフィーは既に人妻である。  
ハウルの腕の中で蕾を開かされ、ハウルの手に摘まれるのだ。彼女はあの細い腕をベッドに  
縫い止められても、もがくことすらしないだろう。祭壇に捧げられた生贄のように従順に  
彼に己を捧げ、その身にありとあらゆる蹂躙を許し、破瓜の痛みすらも歓喜として崇高に  
受け止めるのだ。身体の奥を刺し貫かれ抉られ揺すぶられても、それも妻の務めと健気に  
耐え、いずれはそこから本当に悦びを感じるように――。  
 ざわり、と風が鳴った。王子ははっとして辺りを見まわした。一瞬、自分が世界の中に  
ただ一人で存在しているかのような錯覚にとらわれる。目前に白い大きな建物を認めて、  
自分がずいぶん歩いてしまったことを知った。  
 その建物は、離宮の中の一角にあり、招待客たちが泊まれるように設えられたものである。  
最賓客のためのものよりは一段劣るが、王都の高級ホテル並の調度に彩られた寝室が連なって  
いる。ハウルとソフィーにも、まだ夫婦ではないためそれぞれに、部屋が用意されている  
はずであった。王子はその建物の各部屋の窓から張り出したバルコニーを見上げながら、  
ある部屋の窓を目指してふらふらと歩いていった。  
 昼間、王子は姫との散歩の最中に、視界の端に銀色に輝くものを捉えたような気がしたのだ。  
ソフィーの不思議な色合いの銀髪に似ていると思い、はっとして振り向いた。とある部屋の  
バルコニーから人影が室内に消え、バルコニーに続く大きな窓でカーテンがふんわりと揺れた。  
王子はしばらくその窓を気にしていたが、姫に促されてその場を後にするまで、再び人影が  
現れることはなかった。あの窓は――たしか。  
 
 王子は足を止めて、その部屋のバルコニーを見上げた。月光を映す窓は閉まっており、  
中の様子は覗えない。覗えたところで、その部屋がソフィーの寝室とは限らない。そもそも  
彼女はまだホールにいるはずだ。ハウルと一緒に。しかし。  
 王子は、操られるようにその部屋のバルコニーに登った。多少の魔術の心得がある彼には、  
造作もないことだった。頭の奥でぼんやりと、自分は何をしているんだろう、何がしたい  
のだろうと考えるが、身体は止まらなかった。閉じた窓に手を掛けると、内側の鍵が外れた。  
静かに窓を開き、室内に入った。そこがソフィーの寝室であることを否定する材料を探す  
ような気持ちで、王子は月明かりの差し込む部屋を見回した。庭園にちなんで、バラを  
あしらったデザインの調度が目に付く。バスルームの扉には真鍮製の小さなバラの飾りが  
ついていたし、コート掛けと兼用の帽子掛けは、ツルバラが絡みついたデザインだ。そして、  
鏡台に置いてある化粧品や帽子掛けのつば広の帽子から、ここが女性客の部屋だということ  
がわかる。  
(もう、戻ろう)  
 冷静になれ、と自分に言い聞かせる。こんな所が誰かに見つかったら、どう取り繕えば  
いいのか。踵を返そうとしたそのとき、人の声が聞こえたような気がして王子はぎくりと身を  
強張らせた。ドアの向こう、廊下に誰かいるらしかった。息を殺して、通り過ぎるのを  
待とうとすると、あろうことか王子の潜むその部屋のドアから鍵を差し込む音がした。  
あわてて身を隠す場を探すと、大きめのベッドが目に入った。ヘッドボードに繊細なバラの  
彫刻が施されている。王子はベッド下の暗がりにすばやく身を滑り込ませた。  
 ギ……と部屋のドアが開いた。二人分の足音。ランプを灯したのだろう、すぐに部屋が  
ほの明るくなった。  
 
 
 ベッド下に横たわって、王子は、走った後のように息が上がる口元を掌で抑えた。  
ドキン、ドキンと心臓が暴れる。  
「大丈夫?ソフィー。座ったほうがいいよ」  
 足音が一つ、部屋を横切り、窓とカーテンを閉める音がした。  
「お酒は飲んでないよね?人ごみに酔っただけだと思うから、少し休めばよくなるよ」  
 足音はすぐに戻る。座るように言われたもう一人の人物は、その場に立ち尽くしている。  
「横になった方が楽かな?服を緩めた方がいいよね。自分で緩められる?」  
 しきりに気遣う声に対する応えはない。  
「ソフィー?」  
 沈黙。  
「……ドレスとコルセット。ごめんね、ちょっと、緩めるだけだから」  
 しゅ、と衣擦れの音がした。ハウルがソフィーの服を緩めているのだろう。しばらくして、  
「……ハウル」  
 ちいさな声が彼を呼んだ。衣擦れの音――おそらく、ドレスの背中だけ開けてその中の、  
編み上げるようにきつく締められたコルセットの紐を緩めているのだ――は止まない。  
「ん?」  
「……ごめんなさい」  
「何が?」  
 優しく、柔らかな声でハウルは訊いた。  
「わたし、嘘を吐いたわ」  
「どんな?」  
 穏やかな声音は崩れない。  
「……気分が悪いって……嘘なの……」  
 紐を緩める音が止まった。  
 
「ごめんなさい……」  
 繰り返し謝るソフィーの声が、くぐもる。ハウルが彼女の頭を自分の胸に抱き寄せたのだろう。  
「ソフィー」  
 しばらくそうして、彼女が落ち着くのを待って、ハウルが声を掛けた。  
「招待してくれた王子への挨拶は済ませたし、ぼくたちは有名人というわけでもないから、  
途中でいなくなっても気付かれない。ぼくは魔法使いだから、本当は顔が知られてないほうが  
何かと都合いいしね。だからね、その……」  
「……」  
「……どうやって、きみをあそこから連れ出そうかって考えてた。ねえ、ソフィー」  
 緩めた服、脱がしちゃってもいいかな?  
 その言葉にソフィーが何と答えたのか、王子には聞こえなかった。答えは声に出されなかった  
のかもしれない。ばさりと音がして、王子の顔にふわりと空気が当たった。部屋は掃除が  
行き届いており、埃は立たなかった。風の立った方を見やると、床の上に何か白いものが  
落ちていた。王子の見ている前で、男の手がそれを拾い上げる。それは、ソフィーのドレス  
だった。ベッドのスプリングが軽く軋んだ音で気付くと、王子の目の前に彼女の足が  
現れていた。ベッドに腰掛けたソフィーの前にハウルが跪き、彼女の片足を手で掬う。  
靴。靴下止め。絹のストッキング。器用に動く指先が、彼女の肌を露わにしていく。  
 ハウルは立ち上がって、片方の膝をベッドの上に突いた。スプリングが沈む音がした。  
ばさっと音がすると、ベッドの中央あたりのスプリングが軽く揺れる音がした。おそらく、  
彼が彼女を押し倒したのだ。ちゅ、ちゅと肌を吸う音が聞こえてくる。ドロワーズが床に  
投げ捨てられた。ソフィーの足がベッドの上に消え、それを追いかけるようにハウルの足も  
王子の視界から去った。  
 
 
 ――これは、何かの間違いではないかと王子は何度も思った。彼らはまだ婚約者で、  
結婚は来年で、と思ってみたところで、現実が消えうせるわけではない。互いに想い合う  
男女が生活をともにしているのだから、既にこういうことになっていてもおかしくはない。  
何故そう思わなかったのか。相手はあのハウルなのに、王子は欠片も疑っていなかったのだ。  
ソフィーは、結婚まで乙女のままであると。  
 『カブ』と王子を柔らかく呼ぶ彼女の声は、今は苦しみとも悦びともつかぬ呻き声だ。  
その声がだんだん追い詰められて、悲鳴のような高い声にに変わるのを何度も聞いた。  
喘ぎながら恋人の名を呼ぶ少女の声が、切ない響きを強めてゆく。そしてそれは、男の方も  
同じであった。暗がりに身を潜める王子は、耳を塞ぐこともできずに、ただ呆然として  
それらを聞いていた。くちゅくちゅと聞こえるか細い水音が、何であるのかなど、理解したくない。  
 視界の端を何かが動いて、王子はぎくりした。ランプの灯りのぶん、光が当たらない場所の  
陰は濃かったが、それでも注意してベッド下から顔を出さないように覗き上げると、それは  
鏡台であった。鏡にハウルの姿が映っている。殆ど後ろ側に近い斜め後ろからの角度で、  
シャツを着たままの彼の背が見える。映っているのは、ハウルの上半身だけであった。  
ベッドの上までは、角度のせいか見えなかった。  
「あっ、あっ、あっ…………ぁん、んっ、んっ、……ん」  
 ベッドが軋む音に合わせて、鏡の中のハウルが揺れる。と、白い足が鏡の下から現れる。  
ハウルの手が少女の片足を捉えていた。揺れる身体にあわせて、ほっそりとした白い足も  
揺れる。小刻みに動いて攻め立てていた男の背が、労わるようなゆっくりとした動きに  
切り替わる。いや、労わると言うよりはむしろ、  
(弄んで、いる……)  
 
 少女の悲鳴は面白いくらいに男の動きに翻弄されていた。男は、上半身を起こしている。  
視界には少女の全身が収まっているのだろう。おそらく、男がねじ込まれている部分まで。  
「ソフィー」  
 荒い息をつきながら、ハウルが彼女を呼んだ。  
「ひとつ、聞き忘れてた。――どうして、気分が悪いなんて、言ったの?」  
 気を逸らすためにか、そんな質問をする。  
「……っや、ん……っ」  
「おしえ、て?」  
 ベッドが軋む音は、止まらない。焦らすように、ゆるく、ゆるく音を立てる。  
「……おんなの、人たちが……」  
 少女が途切れ途切れに語りだす。  
「着飾って、きれいで……っ」  
「ソフィーがいちばん、きれいだったよ」  
 恋人の誉め言葉には反応せず(できないのかもしれないが)、ハァハァと喘ぎながら、  
少女は舌足らずに言葉を紡いだ。  
「……みんな、ハウルを、見て……、嫌ぁ……」  
 突然、ベッドが大きく軋んだ。ギシッギシッと止まらない。少女のか細い高い声がそれに  
重なる。鏡の中ではハウルの背が丸まって蠢いていた。少女の白い手が鏡の下から生え、  
男を引き寄せた。引き寄せられるままに、鏡の中から消えるかと思いきや、男の背は再び  
起き上がった。ただし、今度は、少女も一緒であった。  
「んっ、あっ、あっ、あっ、あっ、ん!」  
 
 少女の身体は、男の陰に隠れて見えない。ただ、首と背に強く抱きついた腕と、男の  
頭の隣から覗いた顔が鏡に映っている。苦しげに眉根をぎゅっと寄せて泣き出しそうな顔。  
少女は男の思うが侭に、荒々しく揺さぶられていた。そのあまりの痛々しさを目の当たり  
にした王子が、たまらずにベッド下から出て行こうとした瞬間。  
「あ、あ、あ、ああっ、ああア!あっ、あっ、あっ、ぁああああ!!」  
 一際大きな声を上げた少女が、喉の白さを見せつけるように仰け反り、次いでふっと  
体の力を抜いた。先程までの苦しそうな表情が嘘のように、ゆるりと脱力して、口元には  
淡い笑みさえ浮かぶ。男の背中が、ぶるりと震え、クッと声が漏れる。  
「ああ……、ハウル……」  
 少女が、男の頭に頬擦りをしながら、呟いた。上気した頬が瑞々しい。  
「ソフィー……わかる?」  
 男が喘ぎながら訊いた。少女は、うっとりとして肯く。――その表情が語るものは。  
『この人はわたしのもの』  
 言葉もなく、荒い息遣いが部屋を満たした。  
 
 
 
 しばらく抱き合った後、ソフィーがもそもそと動いた。  
「くすぐったいよ……どうしたの?」  
 蕩けきったような声音でハウルが言った。  
「……だってハウル、着たままなんだもの」  
 白い指が首筋をなぞりながら襟元に差し込まれ、シャツが背から落ちる。細い腕が裸の背中に回る。  
「脱ぐ隙(ひま)がなかったんだ」  
 すぐに夢中になっちゃったからね。ハウルが囁いた。  
 
「嘘よ。ハウルは余裕で、いつもわたしばかり、わけがわからなくなっちゃって……」  
 拗ねたような少女の声に被さるように、男はクスクスと笑った。  
「嘘じゃないよ。余裕なんかまったくないんだ。余裕がありそうに見えるなら、それは  
そう見せかけてるだけだよ。いつも、落ち着かなきゃって思ってるから」  
 もそり、とシーツの上を動く音がする。  
「――あ」  
「ソフィー、髪の毛、柔らかいね。気持ちいい」  
 ハウルは言葉を切って、  
「もっとたくさん、全部に触りたい……」  
 ソフィーはしばらく無言だった。甘い吐息が、王子の耳に聞こえる。肌をまさぐる音とともに。  
「……ね、ソフィー?」  
 吐息が熱を増してゆく。やがて彼女は小さな声で応えた。  
「――ぁ、わたし、も……」  
 ハウルの返事は、甘ったるい囁き声だった。大げさな甘い声は、冗談めいて聞こえる。  
「大歓迎。いつでもどうぞ、ソフィー」  
 
 
 
 白いシーツが幕のように、王子の目の前に降ろされていた。それは、ハウルがベッドに  
腰掛けるような形で座りなおした拍子に降りてきたものである。下の部分が少し開いている。  
少し前にはその隙間から、床に敷かれた絨毯の上に少女の足が降りてきたのが見えた。  
それから少し経った今は、そこに膝立ちした少女の膝頭がちらりと覗いている。さっきから  
ずっと、ちゅっ、ちゅっと、何かに吸いつくような音が聞こえているが、何が行われて  
いるのかはわからない。――いや、正確にいうなら、王子は考えまいとしていた。自分は  
空っぽの箱か何かだと言い聞かせる。だから、何もわからないのだと。  
 
 その王子の目の前、手を伸ばせば触れられるほど近くに、愛しい彼女の足がある。だから、  
空っぽの箱の王子も気付いてしまった。少女の膝の内側に、何かが伝い降りている。トロリと、  
白い……。王子は魔法がかけられたように身動きができず、目をそらすこともできない。  
「……ん」  
 小さく呻き、ソフィーはシーツをぎゅっと握り締めた。シーツの幕が少し上がった。  
少女がシーツを掴むたびに王子の前で、彼女の腿が少しずつ露わになってゆく。  
「もう、いいよ……っ、離して、ソフィー」  
 注ぎ込まれた男の精を内腿に滴らせたまま、彼女は何をしているのだろう。返事の代わりに、  
ヂュ、と何かを啜る音は。  
(考えるな!)  
 だから、「きゃ」という小さな悲鳴とともに、ソフィーの膝がシーツの幕の向こうから  
消えたとき、王子は心底ほっとした。  
「ハウル!まだ……っん」  
 ソフィーの言葉が何かに遮られる。垂れ下がったシーツがぱっと引き上げられた。  
「……口でしてもらうのもすっごく気持ちいいんだけどね、見下ろしてるよりもっとくっつきたい」  
 鏡には、もそもそと動くシーツの塊が映っている。  
「この部屋は広すぎるよ。こうして包(くる)まっていると、狭いところに閉じ込められてる  
みたいで、わくわくしない?」  
「わくわくって……あっ、だめっ、……また、ハウルばっかり、余裕で……」  
 ばたばたと暴れるシーツの塊が、徐々におとなしくなってゆく。  
「……ずるいわ」  
 ハウルはまた、クスクスと笑った。彼がこういう笑い方をするのは、何かいたずらめいたことを  
思いついたときの前触れだ。  
 
「じゃあさ、落ち着くようにちょっと気を逸らしてみようか?そうだな……王族や政治家の  
名前を覚えてきただろう?」  
「ん……、な、に……?」  
「ぼくが問題を出すから、答えてごらん」  
 ああっ、と少女が熱く潤んだ息をついた。もう、彼女は捕らわれているのだ。なのに。  
「最初は簡単なのがいいね。……ぼくたちの国の王室付き魔法使いの名前は?」  
 ちゅっ、ちゅっ肌を啄むような音を立てながら、男が聞く。  
「ん、やだ、ハウル、歯が当たって……」  
「答えて」  
「…………。マダム、サリマ…ン?」  
「うん。じゃあ、次は……」  
 ハウルは、愛撫の手を休める気はないらしい。自国の国王の名、王子の国の宰相の名。  
ソフィーは各国の重鎮とされる人物の名を、問われるままに答えていく。その声は、途切れ  
途切れでひどく苦しげで、それでいて艶めいている。喘ぐ吐息には切なげな呻き声が混じり、  
どうやら、ハウルの言う『落ち着くための方法』は功を奏していないようだった。  
「っん、あ…んっ、や、ハウル……」  
 鏡の中のシーツの塊はもそもそ動きつづけている。彼らは、白く柔らかな闇の中に、  
二人きりで閉じ込められている。  
「おねが……やめて……、も…だめ…ぇ……」  
「ん……、じゃ、次で、最後……」  
 最後だから、また、簡単なのにするね。そう言った男が少女に問うたのは。  
「ぼくたちに招待状をくれた、隣の国の王子さまの名前は?」  
 王子はベッド下で息を飲む。同時にベッドが強く、ギシッと音を立てた。  
 
「あ!」  
 少女が悲鳴をあげる。今まで堪えていたのを解禁したかのように、ベッドが軋みだす。  
「ソフィー、ほら、簡単だろう?ぼくたちにとっては、友人でもあるよね」  
「あ……ん、カ、ブ……」  
「それは、ぼくたちだけの、呼び方」  
 ギシッ、ギシッと鳴る音が、激しさを増してゆく。翻弄されきった少女の快楽の証たる  
その声が、一層甘く艶めいて大きくなる。  
「あっあっあっ、あ……ジャ…ぁ、んっく……ジャス、…ティ、ン……ん、ぁあ、あ、ああっ!」  
 少女は高みに追い立てられながら、喘ぎ混じりに、王子の名を呼んだ。シーツの塊が  
大きく揺れ、その拍子にはらりと、落ちた。すっきりとした白い背中が露わになる。王子は、  
男が少女をまたがらせて、下から突き上げていたのだと初めて知った。男が刻み付けたのだろう、  
その肌には所々に赤い花弁が散っていた。彼女が苦しげに身をよじり、上半身がちらりと  
こちらを向く。と、男の腕が下から現れ、少女をすばやく引き寄せた。ばさっと音がして、  
再びシーツがかぶせられた。――王子の目に、少女の肌の白さと何か小さなばら色が、  
残像として残る。  
(あれは……)  
 何か、蕾のような。先端がばら色に萌えて――。あれは、何だったのだろう?  
「力、抜いていいよ。……そう、ぴったり、くっついて。ああ…柔らかい……。  
ソフィー……、もう…このまま……」  
 ギシ、とベッドが揺れる。ふいに、少女の白い手が、王子の目の前に落ちてきた。それは  
だらりと垂れ下がって揺れている。おそらくは、男に突き上げられる動きに合わせて。  
 王子はぎゅっと目を瞑った。そして、部屋中に響き渡る濡れた艶声を耳から追い出す。  
かわりに、彼女の笑顔を目蓋に思い浮かべ、耳の奥から聞こえてくる、いつも少女が王子を  
呼ぶ声に意識を凝らす。  
 
『カブ』  
 不意の訪問に目を丸くして呼ぶ声。紅茶のおかわりを尋ねる時の声。戯れに花屋の  
店員まがいのことをした際の些細な用事で呼ぶ声。それから……。  
『ジャス…ティ、ン』  
(――!)  
 ぞくり、として王子は目を開けた。退路を絶たれたような気分だった。ソフィーの手は  
揺れ続けている。女が男の名を呼び、男が女の名を呼ぶ。二人が絶頂を迎えるまで、その  
手は揺れていた。そして揺れが止まると、男の手がそっと降りてきて、少女の手を捕えて  
引き上げていった。まるで、自分のものを取り返すような仕種だった。  
 
 
 
「……ソフィー」  
 息を吐きながら、少女を呼ぶ声がした。シーツの塊が下から突き上げられて山になり、  
もそもそと動く。そこから顔を出したのは黒髪の青年であった。  
「ソフィー?」  
 少女の答えはない。青年はほうっと大きく息をついた。彼の足がベッドの上から下りて  
来ると同時に、鏡の中にぬっと裸のままの上半身が現れる。  
「大盤振る舞いがすぎたかなあ……」  
 そう呟くと、鏡の中の青年が立ち上がった。全身が現れる。王子の視線は、自然と彼の  
中心に向く。少女の愛液にたっぷりと濡れた男根。つい先程まで、王子の想い人たる少女を  
弄んでいたそれは、滴るほどに濡れたまま、今はおとなしく頭(こうべ)を垂れていた。  
「まあ、いいか。これはね、言わば――」  
 青年は鏡に背を向けると、気を失った少女をシーツに包(くる)んだまま抱え上げた。  
その銀の髪に唇を寄せる。誰にも渡さないと宣言するように。  
「――餞だよ、王子サマ。きみの行く末に幸多からんことを」  
 
(――!)  
 ショックに息が詰まる。バスルームのドアが閉まる音を、王子は呆然としたまま聞いた。  
つまり、ハウルは気付いていたのだ。王子がベッド下に潜んでいることに。気付いていて  
わざと彼女の声を聞かせ、彼女の表情を見せ、彼女に王子の名を呼ばせたのだ。  
 王子には、王子の進むべき道があった。いつまでも、居心地のいいあの場所に、心を  
留まらせておくべきではないことは、王子にも分かっていた。分かっていても想い切ることが  
できなかった。ハウルは王子の背を押したのだ。友人としてあの城を訪ねれば、暖かく迎え  
入れてくれるだろう。だが、王子の人生にソフィーが寄り添うことはない。  
 
 
 
「――ジャスティンさま?」  
 どうやってベッドの下を這い出て、あの部屋を脱したのか覚えていない。なのに、  
ぱたぱたと服についた埃を払った感触が、いつまでも掌に残っていた。声を掛けられて  
気が付くと、パーティー会場へと続く廊下を歩いていた。  
「どちらにいらしてたの?」  
 そう言われて、王子は自分がエスコート相手の姫をほっぽり出していたことに思い至った。  
紅いルージュに彩られたつややかな唇がやけに目に付く。この唇が、ソフィーを、あの、  
ソフィーをふしだらと罵ったのだと、ぼんやりしながらも妙に覚めた頭の片隅で思い出した。  
 王子は、ふっと彼女の腰を掴むように乱暴に抱き寄せると、その唇を自分の唇で戯れに  
塞いでみた。――しばらくして唇を離す。姫の手が、王子の背中に回る。淑女であるなら  
慎ましく彼を押しのけるべきであり、あるいは誇り高く彼の頬を打つべき手が。  
「……どうなさったの、ジャスティンさま。こんな――」  
 キンキンと煩いばかりだった姫の声が、甘やかに和らぐ。  
 
(なんだ、簡単じゃないか)  
 自分の胸に頬を押し付ける姫を、ひどく冷めた気持ちで見下ろしながら、王子は思った。  
自分はもう、純粋な恋はできない。それは多分、悲しいことなのだと麻痺した心で他人事の  
ように判断した。それでもかまわない。王子の恋はソフィーに捧げられたのだから。彼女が  
全て持って行ってしまったと思えばいい。何も残らないほうがいいのだ。彼の想う相手は  
銀の髪の少女。それは、変わらない。王子は未だに彼女の幸せを願う一人の崇拝者であった。  
 ふいに王子は、大声で笑い出したいような気分になった。姫を抱き寄せて、  
肩が震えそうになるのを押さえ込んだ。今、振りかえってみると、自分はなんと純情だった  
ことだろう。知ることのつらさも知らず、事実を受け容れることの哀しさも知らぬまま、  
ただ、あきらめられることを大人だと思っていた自分は、なんと子どもだったのだろう。  
「何でもありません。何でも――ないんですよ」  
 王子はひっそりと囁いた。その声音は、優しく、哀しかった。しかし、王子の哀しみに  
気付く人はいない。  
 
 彼は心を隠して、ただ穏やかな微笑みを、その口元に乗せた。  
 
 
 
 
<了>  
 

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