「ようこそ、ソフィー。今日からあんたのベッドはここだけだからね」  
 結婚して初めての夜の、約束。  
 
 
 結婚したばかりの魔法使いとその妻が、些細なことで喧嘩をして数日が経っていた。  
すぐに仲直りをするだろうと、高をくくっていた城の住人たちも、そろそろ呆れた様子や  
不安そうな様子を隠せなくなっていた。ハウルは不機嫌さを隠そうともしないし、ソフィーは  
ハウル以外には普通に接しているものの、普段は暖かな食卓も、どこか寒々しかった。  
 マイケルはハウルとソフィーの機嫌をびくびくと伺いながら、機会を見つけてなんとか  
雰囲気を和らげようとしては、空回りした。ここ数日、城の中は冷え切ったようだった。  
「お前が落ち込むことはないぜ、マイケル」  
 ため息を吐いたマイケルに、カルシファーは笑いながら声を掛けた。  
「――だって」  
 喧嘩した当人同士にも、他の人間にもわかっていた。小さなきっかけさえあれば、二人の  
喧嘩など、笑い話になるのだと。目を逸らし続ける二人が、まっすぐ向き合いさえすれば  
いいのだ。しかし、そのきっかけがつかめない。  
「この城の人間たちは、揃いも揃って不器用だなぁ」  
 ケケケと、意地悪そうに笑う。  
「マーサだって心配してるんだ。カルシファーは、こんなの、嫌にならない?」  
「あいつらまだ、お互いに慣れないだけだろ。それに、おいらは悪魔だから、人間の心配  
なんてしないよ。外に出られるようになったしな!」  
 カルシファーは、楽しそうにゆらゆらしながら、つい最近、遠出して見てきた雪山の話を  
している。マイケルは相槌を打ちながら、それを聞き流す。  
 
「空が真ーっ青で、山が真ーっ白なんだ。あたり一面、雪が積もってて、陽に照らされて  
きらきら輝いてるんだぜ!マイケルは見たことあるか?」  
「ないよ」  
 ため息を噛み殺しながら、なげやりに答える。  
「見たいか?」  
 別にいい、と返事をしようとして、マイケルは、カルシファーの声が急に真剣みを  
帯びたのに気付いた。ちゃんと聞かなくて怒らせてしまったのかと、後悔しかけて、  
そうではないらしいことに気付いた。  
「なあ、見たいだろ」  
「カルシファー?」  
「……見たいって言えよ」  
 なんだろう、とマイケルは思った。どこか、縋り付くような調子の声だった。  
さっきまで、気楽に喋っていたのに。  
「――み、見たい、かな……」  
 その途端、パッと火の粉が散って、  
「そっか!見たいか〜!マイケルは海は見慣れてるけど、山はあんまり見たことない  
だろうから、見たいよな!」  
 火の悪魔は急に、陽気な調子を取り戻した。  
「おいらは格別に優しい悪魔だし、マイケルはダメなハウルの替わりに、よくおいらの薪の  
面倒を見てくれたし、今は落ち込んでるみたいだしな!しょうがないなあ!」  
「カルシファー?一体……」  
 どうしたのといいかけた時、ギ…とどこかのドアが開く音がした。誰かが近づいてくる。  
「ハウルが来た。マイケルはもう寝ろよ。……ちゃんと、あったかくして寝るんだぜ!」  
 なんとなく釈然としないまま、マイケルはしぶしぶ自分の部屋に向かう。すれ違いざまに  
ハウルに「おやすみなさい」と声をかけ、階段を駆け上っていった。  
 
 
 ソフィーは、静かにベッドに入ると、端の方に寄って横たわった。大きく空いた方  
――ハウルが寝るのだ――には背を向けて。我ながら、いつまでも可愛げのない振舞い  
だと思う。今日こそは、ハウルと話しをしなければと思う。でも。  
(ダメ。絶対に、無理……)  
 昨夜もそうだった。ハウルが来たらきちんと話をして、仲直りしようと思っていたのに、  
寝室のドアが開いてハウルの気配が入って来ると、決心は簡単に挫けてしまったのだ。  
ソフィーは目を閉じて、眠ったふりをした。話し掛けないで、あたしに触れないで、このまま  
放っておいて、と強く強く念じながら。少し間を置いて、ハウルがふーっとため息を吐き、  
ごそごそとベッドにもぐり込んだ時も念じ続けていた。ハウルはベッドの真ん中を大きく  
あけて、ソフィーと反対側の端に横たわった。近づかないでと自分で願っていたくせに、  
ソフィーはその距離が無性に寂しかった。そんな風に、二人は喧嘩をして以来、同じベッドを  
使いながらも、離れて寝ている。  
(このベッドは、大きすぎるわ……)  
 喧嘩するまでは、そんなことは思わなかった。ソフィーは泣きたくなるような気持ちで  
ぎゅっと目を閉じた。いつまでも、こんなことじゃ、ダメに決まっている。  
 一夜ごとに、どんどん距離が広がるような気がした。「あんたみたいな可愛げのない  
娘さんなんかもう知らないよ」と彼に言われる夢を見た。仲直りしてと素直に言えなかった  
だけのはずが、謝っても許してもらえないかもしれないという怖れに変わっていた。もう  
この先、彼が自分に笑いかけてくれることはないのかも知れない、などと考えてしまう。  
彼と向きあうことが、どんどん怖くなってゆく。  
 当たり前のように包まれていたはずのぬくもりが、今は遠い。  
 
 
 階段を上って行ったマイケルを見送ったカルシファーは、パタンとドアの閉まる音を  
ゆらゆら揺れながら聞いた。  
「ずいぶん御機嫌じゃないか、何かいいことでもあったのかい?カルシファー」  
 ハウルは、食器棚の奥からブランデーを取り出しながら、言った。不機嫌なままなので、  
皮肉な口調になる。  
「別に!なんでもないさ。――それよりさ、ハウル」  
 どさっ、と乱暴に椅子に腰掛けたハウルは、眉間に皺を寄せて琥珀色の液体を舐める。  
「夜中に城を動かすけど、いいかい?」  
「何故?」  
「この間、見てきたんだけどさ、北の山に雪が積もっているんだ。マイケルに話したら、  
見たいってさ」  
 ほら、あいつ最近、沈みがちだろ。おいらは優しい悪魔だからさ。  
 ハウルは、不機嫌に目を細めてじっと炎を見つめた。沈みがちもなにも、その原因は  
ハウルたちにあるのだ。言外にソフィーとの喧嘩を責められているのかと思ったが、  
火の悪魔はいつもどおりの陽気な口調のままだった。  
 
 ハウルとて、いい加減、今の状態をどうにかしたいと思っていた。しかし、ソフィーは  
昼間はぎこちなくハウルを避けていたし、夜は目も合わせてくれない。ベッドに横たわり  
ながら、ほんの数十センチ先の、夜着につつまれた背中に摺り寄って、彼女を抱きしめたいと  
何度思ったことか。彼はあの背中の滑らかさとしなやかさを、思うままに味わうことが  
許された唯一の人間のはずなのだ。なのに、意を決して彼女の方を向くと、眠ったふりを  
してるくせに、ソフィーは可哀想なくらいにびくりと怯えて身をすくめた。今の彼女には、  
彼が何をしても暴力になってしまう。ハウルは、受け容れてもらえない悲しさを噛み締めながら、  
そこから動けずにいた。胸の中に生まれた重い塊が、切ないという感情なのだと何度も思った。  
「今からなら、明け方前には着くかなあ。静かにやるから、ソフィーが寝てるのを邪魔したり  
しないよ。ただ……」  
 カルシファーは言葉を切った。そして、意味ありげに窓の外を見やる。  
「すっごく、寒くなるかも」  
「…………」  
 ハウルはしばらく無言のままだった。ふいに、ガタンと音を立てて立ち上がる。そのまま、  
歩き出そうとし、コップを持ったままなのに気付いた。  
 飲み残しのブランデーが、頭の上から振って来るのを、カルシファーはありがたく頂戴した。  
世話の焼ける家族のために、今夜は明け方まで、働くと決めたのだ。  
(なあに)  
 カルシファーは青い炎を上げながら、陽気に一人ごちた。  
(夜は得意さ。だっておいらは星だったんだから)  
 明日の朝、目覚めたソフィーは、どんな顔をするのだろう。  
 寒さのせいで、心地よく体温を分け合って。  
(ハウルのことだから、まあ上手くやるだろう)  
 
 青空に突き刺さらんばかりに尖った雪山の峰の先端が、昇ったばかりの朝日に照らされて  
淡くピンクに染まって輝いていた。あかがね色の髪の新妻が、金髪の夫に肩を抱かれて  
それを見上げている。  
 輝く雪山と、数日ぶりに微笑みを交わし合う夫婦を交互に見ながら、マイケルは炉床で  
眠る火の悪魔を思った。  
『この城の人間たちは、揃いも揃って不器用だなぁ』  
(でもそれって人間だけかな、カルシファー?)  
 そして、暖かく幸せな気持ちで城に戻ると、扉をがやがや町に繋げた。まだシンとした  
町を駆け出す。余りにも幸せで、腹の底から笑いが込み上げてきた。  
 マーサはまだ目覚めてはいないだろう。マーサの部屋の窓に、軽く小石をぶつけてみて、  
気付かれなかったらすぐに帰ろう。でも、もしもマーサが気付いてくれたら。  
(あんなに素敵なもの、ぼくだって大事な人と見たいよ)  
 集会帰りの野良猫が、ナーウと低い鳴き声を上げている。遠くで一番列車の汽笛が鳴って  
いる。石畳の路地に弾む足音が高く響く。  
 
 薄紫に染まる夜明けの町を、少年は駆け抜けて行った。彼の大事な恋人の元へ。  
 
 
<了>  
 
 

テレワークならECナビ Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!
無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 海外旅行保険が無料! 海外ホテル