その感情(おもい)にいつ気が付いたのかは定かではない。けれどそれは確実に芽生えていて、いつしか彼の中で押さえ込むのに多大な努力を必要とするものに変化していた。  
「ねえさま、」  
そう呼ぶことを許されて美しい異母姉(あね)にまとわりついていた子どもの頃がいっそ懐かしまれる。幼く、利かん気の強かった子どもをいつもやさしく庇護してくれたたおやかな腕は、もうはるかに遠い記憶の中だ。  
 
「これからは私が異母姉様(ねえさま)をお守りします、」  
長い修行の果てに「燃燈道人」の仙号を得て誇らしげに挨拶に訪れた異母姉の洞府で、けれど彼を待っていたのはありきたりの祝辞と複雑な色を湛えた眼差しだった。  
 
「ーーーーーこれからも、日々修行に励むように、」  
そう締めくくられた言葉は何の感情も含んでおらず燃燈は、以前から漠然と感じ続けていた不安がじわじわと腹の底から染み出してくる感触にぞくりと背筋を震わせたことを覚えている。  
何を求めているのか、何を探し続けているのか。異母姉(あね)の思考は闇の中を灯りのないまま彷徨うように手探りで、その感情はあるはずのない声に惹かれて立ち止まる旅人のようにある一点で無に帰することがある。  
 
何か、を求めている。それは確かな希求として燃燈にも感じられた。  
けれど手探りのうにち触れた「何か」が確かな手応えでもって感情に揺さぶりをかけても、それは異母姉(あね)が認識する前に跡形もなく砕け散り、頬を掠めて通り過ぎる風のように彼女の元に留まることはないのだろう。  
そうして気がつくと異母姉(あね)は導き手のないままに踏み出す未来と、振り返ってももはや戻ることの出来ない過去とに挟まれて確かであるはずの今、この瞬間にさえ恐怖を感じているようだった。  
捜していたのは過去に失ったものだったのかもしれない。  
通り過ぎていったのは明日見るはずの夢だったのかもしれない。  
けれどそれを異母姉(あね)の答なのだと納得することは燃燈には出来なかった。  
「ーーーーー嫌ならば、そう仰って下さい」  
最初の切っ掛けがどんな感情の所為だったのかは思い出せない。  
理由は多分いくらでも付けられるのだろうけれど、そのどれひとつとして決定的なものには燃燈には思えなかった。  
 
触れる、と云うよりは押しつけると表現した方が良いような。そんな口吻けを幾度か繰り返した後に僅かに開かれた朱唇に気付くと燃燈は舌を潜り込ませた。  
次第に深くなる口吻けに頑なに閉ざされていた瞼が時折うっすらと開かれる。  
その僅かな瞬間でさえも自分を映すことのない瞳に何を思ったのかは覚えていない。  
何も考えなかったのだとも思い、そうしてまた何も考えたくなかったのだとも思う。  
燃燈の施す行為に戸惑いの表情を浮かべながらも彼女は何一つ抵抗することなく、ただ一度「許されることではない、」と幽かな呟きを発しただけだった。  
ーーーーーー決して否、とは云わなかった。  
「…名を、…呼んで下さい。私から貴女へ呼び掛けることは出来ません、」  
部屋は遠く離れているとはいえ洞府では幾人かの弟子を抱えている。  
ましてや真夜中の寝室から洩れる声の中には長いこと呼び慣れた彼女への呼称はあってはならないーーーーあることは許されないものだった。  
「…呼んで、下さい……」  
多分、確かめたかったのだと思う。腕の中の存在が確かに彼女であるのだと。  
けれどその形よく整えられた爪を持つ指が敷布に波を作り出し、時折堪え切れないように喉の奥から言葉にならない声を漏らしはしても彼女は一度として燃燈の名を呼ぶことはなかったのだ。  
 
「……、」  
こんなに間近に異母姉(あね)を見つめるのは本当に久しぶりのことで、ましてや異母姉の眠っている姿など見るのは初めてではないだろうかと燃燈は思った。  
幼い、まだ異母姉の下に引き取られたばかりの頃は幾度か一緒に寝すんだこともあったが、いつも自分の方が先に眠ってしまっていたようだ。  
額にかかる長い黒髪を指先で払いのけると異母姉の貌が薄闇の中に浮かび上がった。  
こんなふうに眠るひとだったのか、異母姉(このひと)は。普段の穏やかな笑みを絶やさぬ姿からは想像も出来ない、決して安らかとは云えない寝顔だった。  
「…ーー、」  
初めてと云えばあの一瞬にみせた自分に対する憎悪も初めて知ったものだった。そうして、あの声もーーー。  
「……さま…、」  
唇の隙間だけで幽かに呟かれた呼びかけを、再び口にすることは叶うのだろうかと燃燈は何かを確かめるようにそっと異母姉(あね)の頬に手を伸ばした。  
感情のままに激しく求めながらもいつ拒まれるのだろうかと思い、いっそ拒んで欲しいとすら考えた。  
拒まれたなら多少過ぎたものではあっても姉弟喧嘩で済まされたのかもしれない。  
もっとも。異母姉の中に隠されていた憎しみを知ってしまった以上は以前のままの関係に戻れるはずもないのだろうけれど。  
先刻までの激しい感情の波はもう穏やかに凪いでいたけれど、異母姉の表情(かお)を眺めていると胸に重く沈み込んでいた得体のしれない感覚がじわりと染み出すのを燃燈は感じずにはいられなかった。  
幼い頃から感じ続けていた異母姉に対する漠然とした不安はここから発していたのだろうか。  
敷布に波打つ髪と長い睫。闇の中で尚、紅みを際だたせている唇。触れただけで折れそうな細い首筋とそこから連なる背筋。手のひらから零れるような張りを持った胸。そうして美しく整えられた爪を持つ指。  
燃燈の視界を埋めつくして離さないそれらの全てがじわじわと染みを広げていく。  
異母姉は幼い自分をこうして眺めながら同じように感じていたのだろうか、西方の血を引いていた母と同じ色した髪を撫でながら何を考えていたのだろうかと燃燈は異母姉の漆黒の髪を一房手に取った。  
 
「…似たところなどひとつもないと思っていたが…そなたは時々、父上によく似た表情(かお)をするのじゃな…、」  
昔、一度だけ異母姉(あね)がそう口にしたことがある。  
あれは道士としての修行も半ばの頃だ。  
共通の話題など父のことしかなかったような出会ったばかりの頃ならばいざ知らず、その頃にはもう異母姉との間で父のことが話題になることなど殆どなくなっていたから燃燈は酷く驚いたことを、そうしてその時の異母姉の表情をよく覚えている。  
髪や瞳の色を除いても顔立ちが母に似ていることは自分でも気付いていたけれど、父に似ていると思ったことはなかった。  
どちらかと云えば異母姉の方が父の面影を色濃く受け継いでいると思う。だから。  
「そうですか…?自分では判りませんが…」  
どう返したら良いものか困って言葉を濁し振り返ると、異母姉は自分で発した言葉に驚いているようだった。  
言葉にしてしまったことに戸惑い、悔いているようだった。  
あの時も異母姉は燃燈を構成する遺伝子の半分だけを見つめていたのだろうか。  
出会った時からずっと疑いようもなく与えられていたと信じていた愛情は異母姉と同じ遺伝子の、燃燈の半分だけに対するものだったのだろうか。  
 
そうして燃燈の残り半分と、それをつくりだした母への憎しみはずっと異母姉を苛み続けていたと云うのだろうか。  
一度吹き出してしまった疑問は尽きることなく燃燈の中に沸き上がった。  
「…ーー、」  
この場で口にすることの叶わぬ呼びかけを封じるように燃燈はそっと異母姉の瞼に口吻ける。  
目を覚ましてしまうだろうかと思いながらも燃燈は次には額へと唇を寄せ、頬をなぞって朱唇へと羽のような口吻けを繰り返した。  
異母姉は僅かに身じろぎはしたが目を覚ますことはなく、燃燈はこんな形でしか互いの感情を伝えることが出来なかった自分たちの関係を思う。  
いっそまったくの他人であればと思ったことは幾度もあった。  
他人であったのならばいつしか芽生え日々大きくなっていったこの想いを伝えることなど容易かったのだろうと。  
けれど他人であったのならばこうまで側近くに寄ることなど叶わなかったとも思う。  
幾度も幾度も触れるだけの口吻けを繰り返し、幾度も異母姉の髪を撫で続ける燃燈の行為には意味などなく、ただそうしていることに救いを求めていたのかもしれない。  
「ーーーーーもう…、」  
沸き上がる疑問に重みを増す心を抱えながらも燃燈は異母姉に云ってやりたかった。  
もう自分の前では心を隠さなくても良いのだと。  
もう自分の前では高ぶる感情を必死で抑える必要はないのだと。  
もうこれ以上自分の前では笑みを作る必要などないのだと。  
そうして、もうこれからさ異母弟としてだけ接することなど出来ないのだと。  
多くの偽りが存在していたのだろう自分たちの間で、けれど今この瞬間に存在する罪だけは真実なのだと気付いて燃燈が小さく苦笑すると纏わり付く夜気は先刻よりも一層重みを増したように感じられた。  
 
 
 
 
 
 
 
ーー終ーー  

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