最初で最後だから。そんな風に自分に言い訳をした。  
 予感はあった。彼が天幕を訪ねて来た時から。いや、武人としての最後の奉  
公として、この遠征への従軍を願い出た時から。  
 後宮に入ってしまえば、もう二度と戦場へ出ることはない。もし、そんな機  
会が訪れたとすれば……それは国の存亡が懸かった戦になるだろう。  
 王婦が戦場に立つことを許されるのは、王自身が親征する時のみ。  
 そして、今までは武人として仕え、これから妃として仕える王は、決して軍  
事の才に恵まれているとは言いがたいから。  
 この戦も明日には勝敗を決するだろう。戦場での最後の夜。  
 今まで、戦場で女として扱われたことは一度もなかった。今の自分の地位と  
実力であれば、それも当たり前のことだが、まだ力弱く、一将兵に過ぎなかっ  
た頃からずっとそうであったのは、考えてみれば、彼が守ってくれていたから  
だったのかもしれない。  
 その彼が、今、自分を女として扱おうとしている。  
「聞…仲君……」  
 急に思い立ったかのように唐突に朱氏の手首を捕らえたきり、ただじっと敷  
物に視線を落としていた聞仲が顔をあげる。  
「いいよ、君だったら」  
 朱氏は、自然に笑みを浮かべられる自分に、ああそうか、と思う。  
「朱氏……」  
 ためらい、切なそうに眉を寄せる聞仲がいとおしいのだ。  
「君だったら、きっと嬉しいよ」  
 だから、そんなに自分を責めないで。  
 そんなにまっすぐ見つめられて、幸せじゃない女なんていない。  
「聞……」  
 
 ふいに、きつく掴まれていた手首の感触が消えた。  
 気づけば、聞仲の胸に抱きしめられていた。  
「朱氏……」  
 名前を呼んだきり、続きを飲み込むようにして聞仲は朱氏の肩口に額を押し  
つけた。  
「……言えない。伝えずにこんなことをするのは卑怯だと分かっているが……  
言えないんだ」  
 聞いている方の胸が抉られるような声で、やっと絞り出された言葉の意味。  
「うん。止めない私も卑怯だから…さ」  
 ゆっくりと、体を押し倒される。将軍級のための質の良いものとはいえ、あ  
くまで質素な野営用の天幕だ。数枚の敷物の下は地面だが、草原地帯であるた  
め、不快さはなかった。  
 じっと見つめられて、自然に目を閉じる。  
 唇に吐息が触れて、次に心地よく乾いた感触が触れてくる。  
 触れて、すぐに離れて、そして確かめるようにゆっくりとまた触れて来る。  
 繰り返し、繰り返し。  
 熱を孕んで息苦しくなり、無意識に開いた唇に、温かい何かが滑り込んで  
来る。  
「……ん…っん…」  
 生なましさに体温が上がった気がした。  
 ちゅ…と濡れた音がする。  
「っふ……」  
 自分のものとは思えない鼻にかかった声。  
 ふいに、聞仲がくちづけを解く。  
「あ……」  
 驚いたような顔をした聞仲がそこにいて、朱氏はいつの間にかくちづけに  
流されていた自分たちに気付く。  
 
朱氏の声に我に返った己が逆に恥ずかしかったのだろう。聞仲は、ほんの少  
し目を細めて笑みを浮かべた。  
 そして、また真剣な表情で、今度は朱氏の着物の袷に手を伸ばした。  
 ゆっくりと寛げられていく襟もと。そっと解かれていく帯。  
 少しずつ、肌がさらされて行く。  
「や…やだっ」  
 ただただ真摯なまなざしに見つめられて、決めていたはずの覚悟が揺らぎ、  
朱氏は思わずうつぶせに体を返して、露にされた胸を隠そうとした。  
「逃げてもかまわない」  
 耳元でやさしい声がした。  
 背中に絡んでいた衣服を押し下げて、大きな手のひらがゆっくりと背中を  
撫で下ろしていく。  
「っくすぐった…い」  
 脊椎をたどるように、何度もくちづけを落とされる。  
 思わずにぎりしめた手を、男の手が上から包み込んだ。  
 はっとして、振り返ろうと体を浮かせた瞬間、もう一方の手が乳房にまわ  
される。  
「あっ」  
 下から包み込むように撫でられて、寒気に似た感覚が背中を這い上がる。  
 胸の突起を指がかすめて体が小さく跳ねる。  
「あん…っあぁっ!」  
 余計に、壊れ物を扱うようになっていく愛撫に理性を壊されていくみたい  
でたまらなくなる。  
 うなじを吸われて、胸の先を指先で何度も撫でられて。  
 重ねてくれていた手は、いつしか下肢に伸ばされていて…。  
   
「やっ…いやっ…」  
 驚いて体をよじるが、背中から覆いかぶさられて逃げられない。  
「やめない…」  
 擦れた声でささやかれて、力が入らない。  
「……っん……あっ…」  
 今までのどこへの触れ方よりもやさしく、触れて来る。触れられて、ぬめ  
りを引き出されて。  
 指を、差し入れられた。  
「あんっ」  
 異物感に息を飲む。  
 ゆっくりと中を探られて、体が熱を増してくる。  
「は…あん……んぅっ…あぁっ…」  
 指が抜かれる感触にも声がこぼれる。  
「はっ…はぁっ……はぁっ……」  
 乱れた息がおさまるまで、抱きしめる腕に身を任せざるを得ない。  
「……聞仲君……」  
 体を仰向けに返されて、見詰め合う。  
 切れ長の瞳に、欲情の色。  
 朱氏は、うなずいた。  
 いたわるように、額に、まぶたに落とされたくちづけ。  
 ゆっくりと重ねられた唇と唇。  
   
 下肢に、熱を感じた。  
 痛みと、熱だけしか感じなかった。  
 けれど……ただ、切なくて嬉しかった。  
   
     ※        ※       ※  
 たった一度だけ。それは、ただ、絆を確かめあうだけのような行為だった。  
 二人しかしらない儀式だった。  
   
 その後、無事に戦場から帰った朱氏はその戦果の祝いとともに後宮に入り、  
のちに一人の男児を出産する。  
 異民族の度重なる襲来により滅びかけた殷王家を、聞仲の養育と補佐を受  
けて建て直すことになる運命の男児であった。  
 
 朱氏が正妃になってすぐに仙人界に入り、そして、彼女が息を引き取る間際  
まで殷を離れていた聞仲には、彼だけが知らなかったことがある。  
 彼が朱氏からたくされた子が、当時の殷王のたった一人の子であったことで  
ある。  
 
                                =了=  
 
 
 

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