愚かであることがすなわち過ちであるなど、誰にも言わせはすまい――。  
そう言ったのは、倣岸なまでに気高く美しい男だった。  
誰かを思い出して薄く笑った。  
妄執さえも綺麗な人だった。  
 
月の明るい夜だ。  
そして、しんしんと染み込むように寒い夜である。  
蘭英は壁に作り付けの炉の前で、椅子に腰掛けて夫を待っていた。  
炉の火が弱くなる。炭を取りに行ったところで、ガチャリと扉が開く音がした。  
「蘭英。起きてたのか」  
遅くなるだろうから先に寝ていろと伝えていた。妻は炭を足しながら呟く様に言う。  
「一人では寒くて眠れないわ」  
僕は湯たんぽ代わりかよ、と苦笑いするが、その実、待っているだろうことは想像していた。  
だから、宴もたけなわの頃、「妻帯者は大変だね〜」などと冷やかされながらも、さっさと  
「蓬莱島も軌道に乗ってようやく一周年ご苦労様パーティ THE・二次会」とやらを辞してきたのだ。  
張奎の秘書的存在である蘭英も、一次会には参加していたが二次会は辞退した。  
共に帰ろうとする夫を「あなたはお付き合いがあるでしょう」と残してきた。  
この状況が、数千年後に人間界でのお決まりのシチュエーションになるなど、彼らにも想像できまい。  
閑話休題。  
まあ二次会くらいなら、と思っていたが、酒が絡むとくどくなるヨウゼン(絡んでくるのは百歩譲って  
許そう。しかし、感極まって押し倒すのだけはやめてくれ)に、蓬莱島の空気とハイなテクノロジーで  
なんとか健康を取り戻した竜吉公主にベッタリシスコン丸出しの燃燈道人(……竜吉公主には悪いが、  
彼女以外には無害だから、まあいいだろう)、他人の服の中にまでカメラを探し出す太乙真人(おまえ、  
本当は酔ってないだろ?)、人の酒に怪しげな薬を垂らしまくっている雲中子(家庭内害虫にしか見えない  
コウモリになるのは御免だ)etc.etc.に、付き合いきれんわ、と逃げてきたというのが、  
まあ一番正しいところだ。  
「お風呂が沸いてるわ。背中を流します」  
夫の上着を脱がそうと近づいて、顔を顰める。匂う。眼の下もなんだか赤い。  
「あら嫌だ。結構深酒したの?」  
「あんまり飲んでないつもりだけど……。でも、ヨウゼンにやたらと絡まれたからな……」  
「お湯の温度を少し下げてくるわ。お水を飲んで待っていて」  
妻の背中を見送りながら、ああこれが内助の功というヤツなんだなあ、とにへらと笑う。  
やっぱり酔っている。  
 
内助の功どころではない。  
ここのところ張奎は蘭英に頼りっぱなしだ。  
というのも、彼は極度の機械音痴らしく、太乙真人プロデュースの蓬莱島管理システムがまったく  
使いこなせない。要領を得ない説明書と思ったとおりに動かないコンピュータに、イライラして禁鞭を  
取り出したところを太乙に見つかり、ナタクに取り押さえられ、九竜神火罩に三日間閉じ込められた。  
「いいかい、張奎くん。プログラムってのは思ったとおりには動かないんだよ。書いたとおりに動くんだ」  
太乙はそう言って説教するが、むしろそれはあんたの問題じゃないのか? と隣にいた雲中子は  
思ったとか思わなかったとか。  
それ以来、鍵板を叩いてシステムを扱うのはもっぱら蘭英の仕事だ。  
ここで彼の名誉のために補足しておくが、聞仲の元で培った政治的手腕はやはり秀逸で、ヨウゼンも  
燃燈も一目置いている。特にその人事管理能力は高く、ただでさえ人間と妖怪が揉め事を起こして  
捗らぬ諸々の作業工程を迅速にすることに大いに貢献していた。  
はぁ、聞仲様ならきっと、こんなものもあっという間に使いこなしてしまうんだろうなぁ、と思うと  
やはり悲しい。事実、聞仲は金鰲島の中枢システムを手足のごとく扱った。  
人間少しは不得手なものがあった方が可愛げがあるというのに、その完璧超人ぶりは一体なんなのか。  
 
そして、こんな寒い夜は、張奎に彼を思い出させる。  
影を追いかけているつもりはない。しかし、ふとした折に強い郷愁と微かな寂寥感を伴って、  
彼の後姿が脳裏に浮かぶ。神界に行けばいつでも会えるのは判っている。それでも、会いに行く  
踏ん切りがつかない。  
――もう少し僕も飲んでくればよかったかもしれない……。  
蘭英が部屋に戻ると、脱いだ服を握り締めたまま月を眺めている夫の姿があった。  
凍える夜の冴えた月の光を見ていると、蘭英も彼の人を思い出す。  
「お風呂、もういいわよ」  
こちらを向いた夫の、ほんの少しだけ無理な笑顔が寂しかった。  
 
蘭英が初めて聞仲にまみえたのは、秋の終わりだった。  
四ヶ月以上音沙汰のなかった太師が、朝歌に帰ってきたその日だった。  
四聖と黒麒麟を従え、門をくぐった聞仲を目ざとく見つけた張奎は、慌てて烏煙の首を回らせた。  
堂々とした長躯には確かな威厳があり、整った顔立ちには厳しさが前面に表れていた。  
凍える冬が似合う人だと思った。  
「聞仲様、今日はどうかゆっくり休んでください。僕が太師府に行って言付けてきますね!」  
太師直々に「私の代わりが務まる」と太鼓判を押されたにも関わらず、夫はそんな雑用を自ら買って出る。  
嬉しさに飛び跳ねるように駆けていく夫の後を烏煙を曳いて追う。  
数歩進んだところで、錆を含んだ声に呼び止められた。  
「高氏。張奎には世話をかけて済まぬ。貴女も何かと大変だったろう」  
振り返った欄英は、即座に膝を折って頭を下げる。  
「いえ。夫に目をかけて頂いていることこそ光栄至極。拙は我が夫に従うまで。太師直々にお言葉を頂くなど、  
勿体なく存じますわ」  
「そんなに畏まるな。張奎もあのとおりだ」  
敬意を表してやまない相手に、それでも夫は砕けた丁寧語で接していた。  
必要以上に慇懃にならずとも、強く結びついた縦の関係を彼女も好ましく思う。  
「夫を立てるか。良い夫婦だな。……羨ましい限りだ」  
仮面に隠れた横顔は、自分には見えない遠景を見つめているようで、微かに胸が痛んだ。  
差し出された手を丁重に辞退して立ち上がる。  
殷の現状に関する会話を二言三言交わすうちに、その人となりが尊敬に値するものだと言うことが判った。  
部下の妻の内助の功にも敬意を払う。この方になら、自分も自然と付いていこうと思うだろう。  
 
「……私を愚かと思うだろうか?」  
不意に投げかけられた静かな疑問に、意味を掴みかねて首を傾げる。  
「民は新たな器を求めている。殷はもう古いのだそうだ。それでも拘り続ける私は、やはり愚かなのだろうか」  
「……」  
ああ、これは独白なのだ、と勘付いた。  
だからこそ、是とも非とも応えるのが憚られ、口を噤む。  
「……すまんな。聞き流してくれ。少々真面目すぎるきらいがあるゆえ、張奎に問うことはできなかった。  
貴女ならば忌憚のない意見を聞かせてくれるかと思ったのだ」  
「……申し訳ございません」  
これは言い訳だ。直感的にそう思う。  
この太師は、夫が自分に心酔していることを判りすぎるほど判っている。  
だから言えなかったのだ。内に芽生えた惑いの言葉を。  
 
――優しい、人ではないか。  
「それでも――」  
冷たくなり始めた風が、聞仲の固い髪を揺らしていた。  
「愚かであることがすなわち過ちであるなど、誰にも言わせはすまい――。  
私は私の道を進み、殷を再び甦らせることでそれを証明しよう。とうに、袂は分かたれている。  
力を、借りるぞ」  
無言で叩頭する。  
――あの男が横にいた頃は、誰を敵に回しても怖くはなかったのにな……。  
悄然とした夫の姿が思い出された。  
夫が信頼されているのはよく判っていた。  
しかし、未だ彼は、武成王には及ばない。少なくともこの太師の心に占める比率では。  
それを何より不甲斐無く思っているのは夫自身なのだ。  
――どうか、あの人を追い詰めないでください……。  
祈るように願って見上げた顔はそれでも毅然としていて、過去への妄執まで美しい人だと思った。  
 
それが、蘭英の見た聞仲の最後の姿であった。  
 
大きな岩風呂は大人四人が入っても、ゆったり体を伸ばすことができる。  
蘭英は背中を流す、と言ったが、正直寒すぎてそれどころではなかった。  
ざっと体を洗って、普段よりはいくばくかぬるい湯に浸かる。  
自分も体を洗い流した蘭英が隣に滑り込んできた。  
ふっと笑って、岩の陰から銚子と猪口の乗った盆を取り出す。  
「迎い酒には少し早いけど、飲みたい気分なんでしょう?」  
「……ありがと。飲むだろ?」  
「ええ。飲ませてくださる?」  
驚くほどしっかりした女なのに、たまに甘える姿が可愛い。  
酒を口に含んで、その肩を抱き寄せた。  
口移しに飲ませながら、もう片方の指で嚥下する喉の動きを楽しむ。  
顔を仰け反らせた蘭英の目に、窓の外に煌々と輝く月が見える。過去を思って自分を抱く夫は、  
いつもより少しだけ強引になる。そして、そんな夫に自分もどこか耐え難い衝動に駆られ、  
わざと煽るように激しく応じてしまう。  
明日に残らなければいいけど……。  
そんなことを思いながら、張奎の顔を両手で包んだ。  
酒と同時に雪崩れ込んでくる夫の舌を絡め取り、吸い上げる。  
舌の中央の窪みを、自身の舌で軽く擦る。  
んっと鼻を鳴らす夫の息までも吸い上げながら、もっと彼の傍に寄った。  
夫の指先が湯船の中で自分の髪を弄んでいる。髪にまで神経が行き渡っているかのように、  
その動きは心地よく体に響く。  
絡めた舌を解き、そのまま夫の首筋に唇を落とす。掠るように唇を動かし、少しだけ出した舌で  
ちろりと舐め上げる。うんっと眉を顰める顔が愛らしくて、もっともっと虐めたくなる。  
耳朶を舐め、尖らせた舌を耳孔に差し込み蹂躙する。  
張奎の息が荒くなる。髪を弄る指に力が入り、上ずった声で抗議する。  
「……酷いよ、蘭英。ここでするつもりなんてなかったのに……」  
唾液で濡れた耳に、わざと息を当てるようにしてクスリと笑う。  
腿に当たる彼自身がムクリと起き上がってきた。それを脚を動かして悪戯する。  
 
不意に張奎が彼女の肩を掴み、岩に押し付ける。反らされた喉に唇を這わせ、鎖骨の窪みに移動する。  
どこへの愛撫が効果的なのか、抱き慣れたこの体に関しては知り尽くしている。  
「あぁ……ん」  
窪みを舌先でちろちろと舐めると、蘭英の体が竦み、窪みがさらに深くなる。  
体をさらに密着させるように夫の頭を抱え込む動きは、張奎の劣情を煽った。  
もう片方の鎖骨を背中越しに廻した指で愛撫すると、微かに外に向いた我儘な乳房が彼の肩に当たって  
潰れた。  
おもむろに彼は妻の手首を取り、頭の上で一つにまとめた。片手でそれを抑えつけ、もう片方の手で  
危ういほど括れたわき腹を撫でる。  
「あなた……?」  
顔を離して妻の体に視線を這わせた。欲を塗りこめたまなざしは、静かで真剣だが、稚い顔立ちゆえに  
余計に蘭英に羞恥心を抱かせ、カッと体を熱くする。  
朱が走った顔から細い首。まなざしを逃れようと微かに身じろぎするたびに白い喉がひくつくのが判る。  
ゆるくウェーブのかかった金糸のような髪は、言い知れない熱を持った視線に呼応するように流れ、  
しどけなくうなじを晒し、耳に触れては吐息をつかせる。  
儚げに薄い耳朶は敏感な部位のひとつだ。視線で舐めあげると長い睫毛が震えた。  
無防備に露わにされた脇は、透き通って繊細な静脈が浮かび、しなやかな二の腕に吸い込まれて消えた。  
すべらかな肌をなぞると、押さえつけられたせいで赤くなった長い指に辿り付く。  
湯船に浮かぶ形よい乳房の先端は、その視線だけで既に充血して固く尖っていた。誘うように揺れる。  
「蘭英、感じてるの? 触ってもいないのに……」  
紅く染まった顔を背け、蘭英は目を伏せる。  
「黙ってたら判らないよ……」  
ピンッと鴇色の突起を弾いて、その眼を覗き込む。  
「ひゃんっ」  
太腿を撫で上げ、膝を抱え上げる。腕を解放すると、その手はすぐに張奎の首に巻きついた。  
「そんな目で見られたら、すぐにおかしくなってしまうわ……」  
「今更? 相手は僕なのに?」  
あなただからこそ、と答える代わりに細い指が門渡りをくすぐった。  
フッと浴室の灯りが消えた。  
 
「……暗いわ」  
「月が充分明るいよ」  
胸の谷間に顔を埋めるようにして、両の乳房に吸い付く。紅い花びらが舞った。  
蘭英の指が彼の乳首を捉えた。薄く小さなそれを指の腹で撫でるように愛撫すると、ほんの少しだけ  
主張をするように立ち上がる  
お返しとばかりに、妻の乳首を口に含む。それを舌先で転がしながら、彼女の腰を抱いて引き寄せた。  
「はぁんっ、んっ……」  
蘭英の手は力なく彼を引き離そうとするが、軽く歯を立てられダラリと垂れ下がった。  
月明かりに照らされたその顔を見て張奎は、本当に綺麗な女だと思う。細部まで大げさなほど  
作りこまれた造形は、素顔の美しさもかくや、ほんの僅かな化粧で艶やかに咲き誇る。  
蘭英自身は薄化粧でも厚化粧に見えて嫌だ、とぼやくが、言いたい奴には言わせておけ、と張奎は  
思っている。彼女の真の美しさなど、自分以外の誰も知らなくて良い。  
美人で、気が利いて、仕事も家事も完璧で、なおかつ強い。もったいないくらいできた妻だ。  
「……どうしたの? あなた」  
見惚れていると、蘭英が体を沈めて彼を覗き込んだ。  
「綺麗だよ、蘭英」  
こんなときでもないと照れて言えない。逆に言えば、不器用な自分がこんな台詞を言える今のような  
瞬間が不思議であった。  
ふわりと笑った蘭英は、夫に縋りつくようにして、その胸板の窪みに舌を這わせる。  
片手は、湯の中ですでに屹立した彼自身をゆっくりと扱いていた。  
――ちょっと気を抜くとコレだもんな……。  
どうやら彼はこの妻には勝てそうにない。  
絡み付いてくる細い指先に、駆け上る快楽が絶頂が近いことを教えてきた。  
蘭英の腕を退け、背中から指を伸ばして襞をまさぐった。湯船の中で、湯とは違うとろりとした  
感触が彼の指に纏わり付いた。  
準備はできている。  
抱え上げていた膝裏を肩に乗せると、蘭英が彼自身をそっと導いた。  
その指に促されるまま、一気に突き入れる。  
 
「あ……っ!」  
「んっ……」  
包みこむようないつもの感覚に加え、水圧のせいで狭まった内壁が、想像以上の強さで彼を咥え込む。  
ゆっくりと動き出し、内襞を肉棒で掻き回しだすと、背に回されている妻の腕が切なさを訴えるかの  
ように力を込めた。動きに合わせてチャプチャプと揺れる水音、ねだるように動かされる蘭英の腰、  
さらに硬く、大きさを増す自分自身が、彼の脳裏を痺れさせる。  
「はぅ……あっ、いい……ッ」  
背を仰け反らせる蘭英の格好は、必然的にツンと上を向いた乳房を夫の目前に晒すことになる。  
優しく誘うそれを片手で揉み、先端を舌を出して舐める。唾液を絡ませ、わざと音を立てて  
ぴちゃぴちゃとやっていると、焦れた様に彼女の腰がグラインドし始めた。  
「はぁ……んっ、あなた、お願い……っ」  
乳房から手を離し、腰を抱えなおす。強く突き、こねくり、中を抉るように回し、動きを合わせて  
挿入を激しくする。腰を動かすたびに飛沫を立てるようになった湯は、2人の交合を  
さらに円滑にしていく。  
甘い吐息が叫ぶような嬌声に変わる。  
「ひゃっ……! ああっ……!」  
間断なく声を上げる妻の口を塞ぐ。くぐもった喘ぎ声すら喉の奥から直接的に快楽神経を刺激する。  
彼女の内部は彼を融かしてしまいそうに熱く、体を沈めるときつく締めつけ、腰を引くと内襞が  
留めるように絡み付いてくる。  
糸を引きながら唇を離すと、長い髪を振り乱し、濡れた瞳で強請る。  
「もっと深く……っ!もっと奥までください……!」  
貪欲に重なり合いを求める彼女の両脚を肩に担ぎ上げ、深さと激しさをさらに増す。  
肉棒の切っ先が最奥に突き刺さる感触に、蘭英は喉を仰け反らして喘いだ。  
限界だった。  
「蘭英……、もうっ……!」  
「いいわっ……! 来て――」  
しなやかな両脚がピンと伸びる。彼女の秘所が痙攣するように男根を締め付けた瞬間、彼もまた  
夥しい自身の欲望を放出した。生々しい感触に突き抜けるような絶頂感を味わうと同時に、  
背筋を走るゾクリとした心地良さを感じた。  
未だ繋がったまま、縁に背中を預けて荒い息を繰り返す妻の体にしがみ付く様にしながら、  
のろのろと目を上げた。  
寒さは既に感じない。それでも、冴え冴えとした月の光は、肌に冷たかった。  
 
朝歌に向かう魂魄を見送ったあの日の夜も、今夜のような美しい月夜だった。  
 
途切れることのない悪夢の中、彼の偶像をいくつもいくつも叩き割った。  
欲しいのはこんな形骸ではなかった。  
己でも解せぬ叫びをあげながら、拳が破れても半狂乱になって壊し続ける。  
血まみれの手を大地に付いて崩れ落ちた。  
置いて行かないでください。  
こんな僕を笑ってください、窘めてください、叱ってください、許してください  
――認めてください……!  
それはすべて、あなたでなければ意味がなかった。  
いつか、あなたの隣で、誰よりもあなたに信頼されるものとして存在したかった。  
焦がれるほどに惹かれていた。  
敬虔な狂信者である自分にとって、神とは真実あなたのことだった。  
あなたでなければ意味がないと思うこの自分の意味など、もはやどこにもないのだ。  
……あなたがいなければ――!  
 
 
その日、きっと自分は泣くと思っていた。しかし、心とは裏腹にからからと乾いた眼球は、  
ついに一滴の涙も流すことはなかった。  
 
 
濡れたままの髪が牀榻に広がる。  
終わる頃には乾いているだろうか?  
ぼんやりそんなことを考えながら、羽織っただけの夜着の胸元を合わせる。  
完全に肌蹴られた下半身は、ぽっと熱を持っていた。  
足の指を三本同時に頬張った夫が、指の間を舐めている。  
「はぁ……ん」  
じわりと背筋を伝ってせり上がってくる快楽を感じて身を捩ると、敷布の染みが広がった。  
足の裏を唇が這う感触に、湿った吐息が漏れる。  
熱に浮かされるような夜の終わりは、まだ遠い。  
 
 
封神台の上でこちらを振り返った影に、忘れていた何かを思い出した。  
驚いたように目を瞠った影は、ゆっくりと彼の名を呼んだ。  
口元に浮かぶ柔らかい笑みに、絶えて久しかった涙が零れた。  
心臓と脳に急速に血が集まり、駆け出す手足の鈍さがもどかしかった。  
「聞仲様ぁっ!!」  
目の前に立つ聞仲は、霞に遮られて穏やかに眩しい夕陽を背負っていた。  
それは、奇しくも彼が封神されたあの日の、あの夕陽に酷似していた。  
ぜいぜいと息を切らせ聞仲の前に立った時には、もはや彼の顔は涙でまともに見えなかった。  
ゴシゴシと拳で眼を擦り、なんとか見上げようとするが、うまくいかない。  
嗚咽混じりの声で何度も何度も名前を呼ぶ。  
目の前にいるのに叫ぶようなそれを、しかし聞仲は何も言わずに待った。  
言いたいことはいっぱいあったはずだった。伝えたいことが、訴えたかったことが、訊きたいことが、  
導いてもらいたいことが、山ほどあったはずなのに何一つ思い出せない、言葉にならない。  
 
しばらくしてやっと眼を上げると、禍々しいくらい赤い太陽が視界いっぱいに広がり、聞仲を呑み込んだ。  
紅く、爛れ落ちる蒼穹の錯覚――。  
流れる涙が思い知らせる。  
彼はもう自分と同じ世界にはおらず、自分の前を征く導はもういない。  
喪失は過去へと流れ、胸の痛みだけを残して去っていく。  
進んでいるはずなのに自分だけ取り残されたような気分は、歩む力を緩慢に殺いでいく。  
人はそれを絶望と呼ぶ。死に至る病だという。  
それでも自分は生きている。血を流し、涙を流し、こんなにも、こんなにも生きているというのに!  
 
「僕の前に、あなたがいないのが許せない……! あなたを殺した太公望が許せない!  
そのうえ、今度は聞仲様が何を棄てても守ろうとした殷を滅ぼすだって!? 許せない! 許せない!  
何様のつもりだ、ちくしょうッ!!」  
搾り出した言葉は、自分でも悲しくなるほど子供の駄々めいていた。  
「ああ、でも! 会ったらその場で八つ裂きにしてやるって思っていたのに! あなたに会えると  
言われたらそれもできなくなった! もうどうすればいいのかわからない! あなたのために何をすれば  
いいのか判らない!! 聞仲様が守れなかったなら、僕が聞仲様の大事なものを守りたかった!  
でも、もうそれが何なのかも判らない! だって、あいつはッ! 太公望は! 僕が聞仲様のことを何も  
判っていないと言う! 教えてください! 僕はどうしたらいい!? 僕はあなたのために何ができますか!?  
あなたのために……!」  
再び嗚咽が漏れる。  
そんな自分自身を、どこか客観的に眺める自分がいる。  
馬鹿みたいだ。何故僕はこんなに泣いている?  
この人はこんな穏やかな顔をしているのに、何のために僕はこんなに泣いている?   
一体誰のために?  
思考が袋小路に入って、ぐるぐると回る。誰のために? 誰のために?  
……否。  
本当は知っていた。  
僕は、僕のために……、泣きたかったのだ。  
「私のために戦うな」  
低い声に、握った掌から血が流れているのに気づいた。  
「私は私の守りたいものを必死になって守っただけだ。それが、何かに縋る愚かな行為だったとしても、  
私は後悔していない。私は私のために生きた」  
聞仲の強さは、何よりもその強靭な意志だったのだ。  
何かを守ろうとする狂おしい想い。  
喪った際には総てが脆くも崩れ落ちる諸刃の剣。それを恐れもせずに握り締め、死なば諸共と猛進した。  
鮮烈なまでに美しかった。そんな彼に憬れていた。そんな彼になりたかった。  
「できうる限りのことをした。だが、民心はすでに殷を向いてはおらず、私は歴史の狭間の徒花と消えた。  
気に病む必要はない。おまえは自分のためにどこへでも行くといい」  
「……」  
 
「おまえは、自分のために戦え……!」  
指から力が抜けた。突き放すような言葉なのに、不思議と暖かさを感じた。  
泣いていると思っていたが、いつしか涙は止まっていた。  
「僕は……」  
自分が恥ずかしい。  
自分の意志で何も守ろうとせず、総ての指揮をあなたに任せていた。  
あなたと共にあなたの大事なものを守ることが、自分の目的だと錯覚して。  
総ての責任をあなたに負わせていた。自分が痛むことすらせずに。  
だから僕は弱い。こんなにも、弱い。  
「聞仲様になりたいと思っていました……」  
どうすることが、あなたになることなのか知りもせずに。  
「今、やっと判った気がします」  
劣悪な猿真似にどれだけの価値があるというのか――。  
嗚咽が止まっても、しゃくりあげる息とあきれるほど流れた鼻水が止まらない。  
「かっこわる……」  
「落ち着くまでここにいろ。そんな顔を奥方殿には見せられまい」  
「はい……」  
勧められたのは聞仲らしい、質素だが品のある籐の椅子。ぽんっと大きな手巾を投げられる。  
心遣いが嬉しかった。  
滅多に見れないその表情が、その眼が、優しくて優しくて、優しすぎて胸が詰まって苦しかった。  
 
 
 
振り向くな。  
 
強い想いが背中を押す。  
振り向きたいという欲望がないわけではなかった。  
それでも視線は前方の地に張り付き、自らと共に進み、引き剥がすことができなかった。  
振り向けば、あらゆるものがものすごいスピードで自分だけを残して過去に去っていきそうで、  
どうしても振り返ることができなかった。  
ごちゃまぜになった感情の中、真に必要なものを拾い出すことができなかった。  
ただ、時間が欲しい、と願った。  
 
 
ちゅぷ、と音を立てて指が粘る糸を引く。そこから手を離し、次は顔を近づける。  
「はぁっ……」  
夫の息遣いを感じ、蘭英が敷布を摘んだ。  
一枚一枚襞を舐め、舌がクレヴァスを目指す。  
寒さのためにすぐに閉まってしまうそこを、丁寧にほぐしながら舌を差し込んでいく。  
途端に溢れ出す透明な蜜を、舌を筒状にして啜り上げた。少しだけ苦い彼自身の残滓すら  
飲み下しながら、派手に嫌らしい音を立てると、その舌がきつく締め付けられた。  
指を使って薄い皮を剥き、鼻先で真珠のような小さな花芽をつついた。  
「いやぁあっ……!」  
腿が彼の頭を強く挟み込む。  
湿っているせいで跳ねのなくなっている髪を掴んで、絶頂が近いことを伝える。  
今度はぷっくりと勃起している陰核を巻き込むように舌で包む。  
「ひゃんっ!」  
蘭英の体が弓なりに仰け反った。  
強弱をつけて舐めると、小刻みに震えていた声がどんどん大きくなり、強く押しつぶした瞬間に  
高い悲鳴となり、引き攣れたように強張っていた体が弛緩した。  
 
 
髪を切った。  
気分転換だよ、と笑う夫の髪に鋏を入れる。  
切った瞬間パラパラと外側に跳ねる髪は、色質が違えど、どこか聞仲のそれに似ていた。  
それでも、恐ろしく眦の切れ上がった聞仲と、キリッとしてみてもどこか愛らしさの抜けない  
大きな眼を持つ夫とでは、まったく違って見える。  
その違いは、蘭英をホッとさせた。  
 
 
全身を舐めようと体を上げてくる夫を押しとどめる。  
「私にも、あなたを食べさせて……」  
頷いた彼は牀榻の上に座った。  
こちらはきっちりと着込んだ白い夜着を脱がせていく。  
彼の脚を広げて、中心に顔を近づける。半ば大きくなっていたものを取り出すと、  
ぱくりと咥えた。口の中で、どんどん大きくなっていくのが楽しい。  
「もっと吸って……、少しだけ歯を立てて……」  
夫の要求に忠実に応えていく。その口の端から唾液が漏れる。  
「顔を見せて……」  
喉の奥で鈴口を締め付けながら、上目遣いで蘭英が張奎の顔を覗き込む。  
眉根を寄せ、悦楽に嘘のつけない真摯な眼で彼女を見る夫が堪らなく愛しかった。  
舌を張り付かせて、顔を上下させる。  
「うぁっ……」  
奥歯を噛み締めてこらえる張奎だったが、何度も繰り返されるうちに腰椎から背骨に向かって  
電気が走った。固く眼を閉じて天井に顔を向ける。  
――やばいかも……。  
体を捻って彼を咥え込む妻は、未だ離れる様子がない。  
痛いくらい張り詰めた欲望が律動を始める。  
「蘭英……。そろそろ――」  
先走りを口元から垂らした妻が、綺麗に微笑んだ。  
 
牀榻に脚を投げ出して座る張奎の上に、蘭英が跨った。  
屹立したものを指で支えて、体を沈めていく。  
お互いの体に腕を廻し、視線を絡めあう。柔らかく、しかし今にも泣き出しそうなそれは、  
なんとも言えない切なさを呼び起こした。どちらからともなく唇を重ねる。  
 
 
それでも――。  
と張奎は思う。  
禁鞭は、禁鞭だけは、自分の手元に置いておきたかった。  
彼の気高さと誇りの象徴でもあった宝貝を誰か他の者が使うのは、考えただけでも耐えられなかった。  
ならば、自分が使う。  
彼の誇りを最もよく知る自分が使うことが、彼の誇りを守ることにもなるはずだ。  
愚かなだけの妄執と後ろ指差されるなら、きっとそのとおりなのだろう。  
それでも、譲れない。  
聞仲の影を追っている証拠と見做されても致し方ない。  
今は追っているだけでも構わない。  
いずれは追いつき、追い越し、彼を越える。禁鞭を使いこなすことが、その最初の一歩になるはずだ。  
 
仙人界が落ちた跡で泥に塗れた禁鞭を拾い上げたとき、体の力を根こそぎ持っていかれそうなほど  
強い波動に震えるような感慨が奔った。  
丁寧に汚れを払い、その柄を強く掴む。  
自分は弱くなどない。今、覚悟を掴んだ。  
 
 
褥の中の声は密やかに、しかし間断なく続く。  
絡み合うのはむしろ体ではなくて、境界をなくした心の方だ。  
自分という形骸が激しくしぼんでいき、代わりに空気の密度が極限まで高まっていく。  
それはあたかも自分という膜を隔てて、空気という溶質の中に自らの内部が溶媒として溶け込んでいくか  
のようだ。  
変化した浸透圧は、容赦なく形骸を破壊してゆき、空気はすでにあらゆるものを取り込んでいる。  
自分であったもの、彼女であったものが混在し、そこには自我やら想いやら妄執やらも含まれているようだ。  
阿頼耶の闇と同じく、森羅万象すべての無意識が集まり、自らだけが微かに意識を再構築している気がする。  
実体を持たない意識だけの存在。  
その闇の中、小さな光を宿す瞳が瞬いた。  
「ああ……っ! 張奎――」  
「……蘭英!」  
互いを確認するために名前を呼び合う。  
それは、別の物であることを認識するために、二人でいることを知るために必要な儀式。  
このまま溶け合ってしまうのは容易だ。でも、それでは一人でいるのと変わりはしない。  
別々に生きているからこそ、寄り添うことができるのだ。  
絶妙な距離をとって暖め合うヤマアラシの姿が普段の二人だとしたら、褥の二人は鋭い針に血を流すと  
しても、極限まで近くにいたいと願っている。  
固く肌を重ねて、腰を動かす。  
苦しいほどの悦楽が牙を剥く。その苦痛すらも分け合いながら忘我の境地を目指す。  
二人で一つのような錯覚にさえ陥るというのに、交じり合いながらも遺恨なく再び別のものとして  
存在できる。そんな相手は二人といない。  
もがくように足掻き続ける現世とはまったく違った次元で、なくてはならない存在。  
感じるのはほんの微かな光。それでも、真闇の中ではこの上ない灯びであった。  
昏い絶望の最中、自分でも気づかぬ間に縋りついた蜘蛛の糸はこれではなかったのか?  
 
 
「あの人は必ず……、必ず禁鞭を使いこなして、勝つわ!!」  
それは確信だった。  
自分が信じなくて、誰が信じるというのか。  
震える心を握りつぶしながら、蘭英は立っていた。睨むように闘技場の土を見つめる。  
夫は何も言わなかった。それでも、自分には判る。  
自ら痛む覚悟を手に入れた以上、進めなくなった者には死しか待っていない。  
ならば、ここは勝つしかないのだ。  
あの人を乗り越えるためにも――。  
 
深く繋がった体が、びくんと跳ねる。  
――蘭英!  
濡れた瞳が甘い煌めきを溢す。  
最奥まで突き上げて、固く抱き締める。絶頂に悲鳴を上げた体の重みが圧し掛かる。  
 
 
ヒュンッ、ヒュンッと禁鞭が風を切った。  
伸縮自在の身を蛇のようにくねらせて張奎の周りをのたくる。  
「禁鞭の真の力もってすれば、これしきの土をはじき飛ばすなんて楽勝なんだ……」  
敵が何かをわめくのが判った。だが、耳に入らない。  
素晴らしく高揚した気分が、彼の血を沸騰させていた。  
禁鞭が彼に応えた。彼の思いを受け入れてくれた。  
前の主と同じく気位の高かったそれが認めてくれたことは、張奎にとっては彼の人が認めてくれたのと  
同意だった。  
ズラズラと身を起こす奇怪な植物の妖怪が見える。  
手の中で禁鞭が身を捩った。彼を拒否したときとは異なり、今度の動きは優しかった。  
――大丈夫だよ……。まだ戦える……。  
怒りに震える呼気がビリビリと鼓膜を振動させる。大きく吸って、止まった。  
来る!  
「行こう、禁鞭!!」  
ぐっと腰を落として地を踏みしめる。  
手首の捻りを利かせて大上段から振り下ろし、遠心力を殺さぬまま、返す腕で内から外へと  
斜め上に振り切った。  
その動きが激しい縦波と横波に分散され、前方・後方、上下左右から高覚を襲う。  
一撃一撃が岩山を粉砕する破壊力。  
激しい土埃の中、最後に跳ねた舌が、真正面から高覚の顔面を貫いた。  
 
するすると体から力が抜けていくのを感じながら眼を閉じる。  
「さようなら。聞仲様……」  
 
最後の偶像が砕け散った。  
 
「――!」  
声にならぬ叫びをあげて、総てを解き放った。  
絡み合って牀榻の上に倒れる。  
荒い息を整えつつ、腕の中で恍惚として笑みを浮かべる妻の額に唇を落とす。  
どんなときも常に傍らにあったぬくもりを手放したくなかった。  
しなやかな体を自分の上に乗せたまま、朝まで泥のように眠ろう、と眼を閉じる。  
月はいつの間にか窓から消えていた。  
 
 
斜めに差し込んでくる朝日を受けて、張奎は眼を覚ました。  
牀榻には誰もいない。  
脱ぎ散らかした夜着などは綺麗に片付けられ、汗だくだったはずの体もやたらとさっぱりしている。  
女というのは怖いものだ、とこういうときに思う。  
完全に気をやっていたはずなのに、しばらく後には、何もなかったように起きだして、  
総ての後始末をしてしまっている。その頃に男は完全に夢の中だ。  
そして、翌日の朝は平然といつもどおりに振舞うのだ。  
朝餉の匂いがする。  
はぁ、と溜め息をついて体を起こす。少しだけ昨日の酒が残っており、頭が痛んだ。  
さすがに夜着は着ていなかったが、厚い上掛のおかげで寒さはない。  
牀榻の横にすでに今日着る服が一式吊り下げてある。  
それを布団の中に引っ張り込んで、中でもぞもぞと着ていると蘭英が顔を出した。  
「ご飯できたわよ。あら。少しお酒が残ってる?」  
「うん……。食べる前に鍼うってくれる?」  
「了解。起きるときについでに敷布を換えてくださる? 椅子の上に新しいの置いてあるから」  
完璧な妻は、人を使うこともうまい。うまく夫を操って、彼でできることは大抵やらせてしまう。  
そのせいか張奎の淹れる茶は美味だ、という噂もあるが、それはまた別の話。  
「わかった……。あふ……」  
大きく欠伸をしながら、張奎は言われたとおりに敷布を替えるべく、牀榻から降りた。  
 
宿酔いもすっきりで出勤した張奎は、教主の執務室から見える園林を見て絶句した。  
「……なんじゃこりゃ〜!!」  
ややあって発せられたあまりにもベタな叫びに、半死半生の顔をした教主殿は耳を塞いで抗議した。  
「張奎くん、……響くからあんまり大きな声をださないでくれないかな?」  
「いや、アレ見たら誰でも叫ぶって。つーか、どういうこと!?」  
「……多分、武吉くんだと思うんだけど……」  
「……締め上げて、全部元に戻すように言ってくる」  
「お手柔らかに……、ってちゃんと事実確認してからね」  
「判ってるよ、そんなこと」  
足裏を床に叩きつけるようにして去っていく張奎と、入れ違いに蘭英が姿を現した。  
「今日の執務の確認ですけど……、あら、教主も宿酔い?」  
「昨日は記憶がないんだよ、情けないことに。ああ、燃燈様は今日は休みだから。あらかじめ休暇を  
取っとく辺りが、あの方の凄いとこだね」  
教主って呼ばれるの、まだ慣れないなあ……、と机に突っ伏しそうになるのを必死で抑えるヨウゼンを見て、  
クスクスと蘭英が笑う。背後に回って、何も言わずに太陽針を放った。  
「!」  
驚いて振り返ったヨウゼンが、もう一度驚いて頭を振った。  
「……凄い。張奎くんが元気なのはこのせいか」  
「スッキリされてようございましたわ。まずはこちらの確認からよろしくお願いします。張奎は  
それどころじゃなかったでしょう?」  
「……貴女にはかなわないね」  
 
窓から見える園林の木々は、片っ端から逆さまに植えなおされ、広がった根が空を向いていた。  
 
太陽は高く眩しいのに、陽光にはさほど熱を感じない。  
肌をなぶる風は、未だ突き刺さるほどに冷たい。  
ふと高い木の枝に眼を留めて、蘭英は少し笑った。  
傍らでは、疲れた顔をした張奎が、四肢を伸ばして寝転んでいる。  
「今日は仕事になんないね……。僕は一日、昨日の乱痴気騒ぎの後始末になりそうだ」  
例の件は、武吉が真っ青になって、あっさり自分の罪を認めた。  
「ごめんなさい! ごめんなさい! 全部自分で責任もって直します!」  
と疾風のように走り去り、本当に一刻もしないうちに総ての木が元に戻っていた。  
唖然とする張奎の前に土下座して謝り続ける彼を見て、張奎もまあいいか、という気分になってくる。  
本来ならしかるべき罰則を与えるべきなのだろうが、竜脈の上にある木々のこと、元に戻った以上  
大事もないだろうし、武吉をやんやの歓声で煽り立てた連中が多数いた、ということが判明したので、  
そいつらを見つけて扇動罪に処す苦労を考えると、無罪放免にしておいた方が、彼にとっても楽だった。  
それはそれで済んだのだが、結局、酔った勢いで痛んだ動産・不動産は数知れず、下手人を洗い出しては  
復旧に当たらせる、という作業は難航を極めた。  
それで様々な業務に支障が出るのはもはや避けられず、その遅れの概算を責任者と協議し、報告書を  
教主に提出するのは彼の仕事だ。  
すでに蘭英に言付けた分は、彼女がシュミレートした上で報告書を作成済みだ。  
その合間に、日常の業務も片付けているのだから、本当に有能な秘書である。  
「助かったよ、感謝してる」  
とはいえ、ここが無事でよかった、と上体を起こして庭院に眼をやる夫が、何を考えているのかは  
すぐ判った。ここは、禁城のそれにどこか似ているのだ。  
そこで彼は、太師が王達に剣術の稽古を付けるのをよく見ていたという。  
「……会いに行きますか?」  
意外なほどあっさり首を振る。  
「いや、いいんだ。僕はもう、あの方を追いかけているわけじゃない。それに、今行っても  
追い返されるよ。未だ落ち着いたわけではなかろうってね」  
会いたくないわけじゃないけどさ――。  
脚を振って飛び上がる。つんと高い蒼穹が迫った。  
 
にしてもっ、と体を捻って背骨をぼきぼき言わせながら、張奎はぶうたれた。  
「今日走り回って気づいたんだけど、体がなまってるね。一発こう、スカッと暴れてみたいな……  
ってオイ!」  
「?」  
真っ赤になって、必死で何かを摘んで胸から喉に上げる仕草をする。  
「ジッパー! もっと上げろって!」  
「え?」  
覗き込んだ豊かな胸の上部には、くっきりと紅い痣が二つほど。  
「あらまあ。気づかなかったわ」  
「あらまあっておまえ……。鏡くらい見ろよ! 派手な顔して全然身なりとか気にしないよな」  
「派手な顔って……。これは生まれつきです! 身なりもあなたに言われたくありませんわ」  
プイッと横を向く。  
あ、マズい。怒らせたかも……。  
今度は少し青くなって、先ほどの発言を修正しようと頭をめぐらせる。  
しかし、生来の性分からなかなか気の利いた言葉など思い付けるはずもなく、こんなとき誰ならうまく  
場を収めるかなどと考えてしまう。  
赤くなったり青くなったり、夫の百面相にさすがに気の毒になって、蘭英はクスッと笑った。  
それを見て、張奎もほっと息をつく。よかった。なんだかよく判らないが、妻の機嫌は直ったようだ。  
あいつら、だから今日はお疲れですね〜、なんて意味深に言ってきやがったのか。てっきり、騒ぎの  
後始末のことだと思ってたよ。疲れてんのはいつもだっつーの。夫婦だからいいだろ、まったく……。  
腕を組んでブツブツ文句を垂れる張奎を、蘭英は眼を細めて見つめていた。  
「相変わらず仲良くていいことだね」  
 
突然闖入してきた第三者の声に、弾かれたように二人がそちらを向く。  
御神酒徳利みたいだ、とヨウゼンは声に出して笑う。  
「いつからいた?」  
「さあ? 体がなまってる、辺りかな」  
……全部聞いてやがったな!  
再び真っ赤になってヨウゼンを睨み付ける。  
先ほど少しだけ彼の顔を思い浮かべたなんて、口が裂けても言えない。  
「宿酔いじゃなかったのか?」  
「君の優秀な秘書殿が治してくれたよ。おかげで助かった」  
なるほど、と少し恨めしげに蘭英を見る。  
手にしたノート型のコンピュータを吹きさらしの廊下に置いて、ヨウゼンは庭院に下りてきた。  
「体がなまるというのには僕も同感だ。どうだい? ちょっと手合わせしてみないか?」  
「お! いいな。相手にとって不足はない」  
「およしなさいな。ここで禁鞭を振り回すつもりなの?」  
「え……、でも、さすがに今外に出るのは職務放棄だろ」  
「ダメよ。あなたと教主じゃ『ちょっと』では済まないわね。特にあなたよ。武吉くんのことを  
どうこう言えないような、とんでもないことになるのは間違いなくてよ。二人を止められるだけの  
ツッコミ役はここにいないもの」  
これにはヨウゼンも、うっと詰まって苦笑いした。彼女にとっては二人ともボケらしい。  
「それに、ほら」  
ここを壊すわけにはいかないでしょう?と、蘭英が指差す方向を見ると、大きな梅の木の高い枝に  
ほんの二つ三つ、小さな白い花があった。  
砂を含んだ一際強い風が吹き、花が揺れた。三者三様に目を細める。  
 
冬はもう、終わろうとしていた。  
 
 
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