その夜は、涼やかな風が吹いていた。  
 
 窓際に腰をおろし、杯を傾ける男。小さく溜め息をつき、外を見やった。  
灯は消え失せ、闇のはびこる、街だけが見下ろせる。  
 もう何杯飲み干したのか、覚えが無い。酔いのせいではない。白色の酒  
に、歪んだ月が浮かぶ。  
 
「……賈氏、注いでくれ」  
 
 はい、飛虎。  
 
 そんな声がしないかと、どこかで思った。酔いが回れば、そんな夢が見  
られるのではないかという期待。ただの、期待。  
 懐に、そっと手を入れる。  
 小さな、貝殻の装飾の施された櫛。昔に行商から買ったものだったが、  
その日に限って着物に差したままで出ようとしていた。  
 鏡の前に置いておいて下さい、と武成王に手渡していった。  
 
 そして、帰らなかった。  
 
 何かの前触れだったのかも知れない。  
 あの時、もっと強く引きとめていれば良かったんでは?  
 これが、運命というのか?  
 
 子を産まねば、家長たりえぬ。  
 黄飛虎は父から縁談を告げられた。どうしても乗り気になどなれなかった。  
ひ弱な女、自分の性分には合わぬもの。話を聞けば貴家の娘。  
……抱いて子を孕ませた後、実家へ帰してやろう。そうひっそりと考え、縁  
談を承諾した。女とは長くいられぬであろう、という気持ちと、辛い目にあ  
わせたくない、という、黄飛虎なりの心遣いからだった。  
 女は、賈氏といった。見るからに力のなさそうな身体。並んで立っていて  
も、すっぽりと背に隠れてしまう。長い黒髪に、優しげな瞳。孕ませること  
すら、哀れに思う。  
 抱いた瞬間、壊れてしまうのでは、とさえ思った。  
 
「俺には、もったいない方です」  
 賈氏の父親にそう頭を下げたが、のち帰すことになることへの言葉でもあっ  
た。両親は末永く、と礼をしたのだった。  
 隣に座っていた賈氏が黄飛虎を見、目を細めて笑った。  
「……私、嬉しい」  
 思わず、微笑み返してしまった。  
 
 賈氏は、よく働く女だった。侍女の『喃』の仕事すらとってしまう程だった。  
 喃は黄飛虎に、  
 
「だんな様、奥様に休むように言ってくださいまし!」  
 
 と、嘆く始末だった。  
 黄飛虎は、賈氏に愛想をつかされればいいのでは、と考えていた。  
 何も子など、どの腹を借りても構うものではない。これだけ器量のいい娘な  
らば、どこぞの貴族にもらわれれば幸せであろう。喃の言葉を退け、ありった  
けの仕事を賈氏に言い渡した。  
 朝餉から部屋の掃除、黄飛虎の茶に至るまで、賈氏を休ませまいとし、挙句  
の果てには何かと難癖をつけようとした。だが賈氏は、  
 
「はい、だんな様」  
 
 と微笑み、完璧に仕事をこなした。悩みに悩んだ黄飛虎は、とっておきの仕  
事を言いつけた。  
 
 広い庭の見渡せる廊下、黄飛虎は後ろに仕えていた賈氏を見た。  
「賈氏、俺の『黒虎』を引け。外にでる」  
「はい、だんな様。ただ今!」  
 萌黄色の裳を揺らして、賈氏が厩へ向かっていった。  
 賈氏についていた喃が、飛虎を睨んでいる。  
「だんな様!黒虎を引けだなんて! ……こればっかりはひどすぎます!」  
「ばかやろう、馬一頭も引けない奴なんか、俺の嫁になれるか!」  
「黒虎を引ける男なんて、数人しかいないのに!」  
 
 一頭の黒い馬。  
 飛虎の馬だから、ということもあった。  
 だがあまりの荒くれに誰かが『黒い虎のようだ』といったのが、『黒虎』  
の由来だった。  
 飛虎ですら、一月もかかって鞍を乗せた程なのだから。  
 男三人を、振り落とした兵馬。黄飛虎に似合わぬはずも無かった。  
 
「もう御止めください、何かあってからでは遅いのです!」  
「うるせえ!お前は俺の臣下だ、嫁に何しようが、関係あるまい!」  
「だんな様は、奥様を何だと思っていらしてるのです?!  
 奥様に仕える私には、我慢なりませんわ!」  
 
 黄飛虎が喃の糾弾に言葉を失っていると、遠くから悲鳴が聞こえた。  
 か細い、女の声。  
「ひいっ、……奥様ぁっ?!」  
 慌てて喃が、着物の裾をめくりあげて走っていった。黄飛虎は、うつむき  
ながら溜め息をついた。庭から、鳥の声が聞こえる。  
 心が、ざわめく。  
……本当に、これで良かったのか?  
 
「……薬では、どうにもならぬと医者が申しておりました」  
 目を腫らした喃が、黄飛虎を睨んだ。寝台では賈氏が横たわっている。頭  
に布を巻き、所々に擦過傷がある。  
「……奥様に、何かあっては……私」  
「下がれ」  
 扉を、指差した。  
 喃はきゅっと唇を噛み、しずしずと下がっていった。喃は、黄飛虎の真意  
を分からないでいる。望んでもいない仕打ちを、賈氏に与えていることを。  
 寝台の脇にある椅子に座り、賈氏の震える手を取った。  
「……俺が悪かった」  
 賈氏の両親に告げれば、すぐにでも連れ戻されるだろう。自分の父親でも  
構わない。そうすれば、事は済む。だが、それを良しとしない黄飛虎が、そ  
こにいた。少し庭を歩いて考えようと、黄飛虎は賈氏の寝室を後にした。  
 
傷をつけてしまっては、嫁の貰い手もない。  
 黄飛虎は悔やんだ。もっと手はあったのではないだろうか。  
 何故、俺のような無粋者に尽くすのか……。  
「くそっ」  
 持っていた棍で、庭の木を思いっきり打ちつけた。  
 轟音と共に、幹に亀裂が走る。棍に傷はないものの、木は折れてしまいそうだ。  
 廊下を歩く侍女たちが、一斉に黄飛虎を見やった。  
 息を呑んでいる。  
「ええい!お前ら、とっとと行っちまえ!」地面を、棍で穿った。  
 
 黒虎を引け、と言わなければ良かった。  
 厩の前を歩きながら、ふと思った。当の黒虎は、藁の上で転寝をしている。  
「いい気なもんだ……、ん?」  
 黒虎の影に、誰かがいた。黒虎にへばりつき、もそもそと動くもの。  
 首を傾げ、厩を覗くと、そこには……賈氏がいた。  
「かっ、賈氏?!」  
「……あ」  
 ゆっくりと顔を上げ、黒虎の背によりかかる。  
 顔に生気は無く、今にも死んでしまいそうだ。  
「ばかっ、何やって……」  
 
 夢うつつのような、穏やかな表情の賈氏。  
 黒虎の毛に触れながら、赤子をあやす母の様に微笑んだ。黄飛虎は、その  
表情に何も言えなくなった。血のこびりついた唇が、少しほころぶ。  
 傷ついた姿。だが、その姿すら賈氏を美しいと思わせた。  
   
 喃に小言を言われつつ、寝巻きを替え、身体を拭いてから寝台に横たえた。  
 
「賈氏、夕餉を持ってきたぞ」  
「はい」  
 椅子に一旦盆を置き、賈氏をそっと起こしてやった。  
「……ちゃんと喰うのを見届けるぞ」  
「あら、ではちゃんと食さねば、だんな様に叱られてしまいそう」  
 くすくすと笑う賈氏の様子に、変な汗をかいてしまう。  
「その……『だんな様』はやめろ。 ……恥ずかしい」  
「では、何と御呼びいたしましょう?」  
「……飛虎、でいい」  
 会話をするだけで、息が上がってしまう。戦の時など、棍をいくら振るお  
うとも汗一つかかなかったというのに。女一つに何故こうも齷齪するのか。  
賈氏の双眸は、矢の様に黄飛虎を射抜く。  
「分かりました、……飛虎」  
 まだ震える手で、そっと汁椀を持とうとする。  
「危なっかしい。 ……喰えるのか?」  
「では、飛虎が食べさせて下さいますか?」  
 悪戯っぽく微笑む。黄飛虎は、ちぇっと舌打ちをしてそっぽ向くと、ころ  
ころと笑った。  
 
 
 遠くで、黒虎の嘶きが聞こえる。  
「……何だ?」  
「……謝っているのでしょう」  
 賈氏は、静かに答えた。もう一度、黒虎の嘶きが響く。  
「あの時、蜂がいたのです。それで、驚いてしまったのですよ」  
 稗飯を口に運んでいく。呆れ果てた黄飛虎は、溜め息をついて椅子にもた  
れた。たかが蜂一匹……。  
 謝った言葉を、賈氏が目覚めていない時に言って良かった、と少し思った。  
 
「……とても優しい子。でもちょっとだけ、臆病」  
 口元を隠しながら笑う。何が可笑しい、と黄飛虎が問うと、言えません、  
と言った。言え、と黄飛虎が寝台に手をついて、賈氏を覗き込んだ。  
 
「飛虎と、おんなじ」  
 
 こめかみの辺りが、痙攣を起こした。  
 寝台に置かれた手を握り締める。ふつふつと湧き上がってくる衝動。  
 黒虎に跨り、幼い頃から戦の中を突っ切ってきた。臆した兵士達を鼓舞  
し、喉が裂けんばかりに叫んだ。刃を恐れず、自分を信じて。  
 賈氏はそっと箸を盆に置き、黄飛虎の拳に手を重ねた。  
 
「私が傷つくのが、恐ろしいのでしょう?」  
 寂しそうに、笑う。  
「必要でないなら殺して下さいませ。意味のない情けなど不要です。私は、  
黄飛虎の妻です。傷も、死も、捧げたのです」  
「何を……」  
「愛してもいないのに、と?……愚問です。あなたは……」  
 そっと、黄飛虎の頬を撫でる。  
「強くて、寂しがりの優しい人なんです  
もの」  
 
 大きく開いた賈氏の瞳に、見つめている黄飛虎自身が映りこんだ。この女  
は、俺よりも強い。  
 傷のついた唇に唇を重ねる。軽く。  
 そっと、長い黒髪を梳くと、するすると指をくすぐる。  
 
「賈氏。……俺と共に、死ねるか?」  
「……もとより。飛虎と共に」  
 
 このつながりは、恐ろしい。そう黄飛虎は思った。  
 
 数日後、黄飛虎の家に聞仲が重臣を連れ、門まで出向いた。  
「もう少し早くに出向きたかったが、なかなかそうはいかぬ」  
「はっはっは、気にすんな。ま、やわな女じゃあねえ。何て言っても、俺の嫁に  
なった女なのだからな」  
 重臣達を玄関に残し、聞仲は黄飛虎に連れられて賈氏の寝室へいく。  
「奥方殿は、大事ないか?」  
「最近は飯も食うし。かってに散歩に行く始末さ」  
「それなら良いのだが……」  
 
 ふと、聞仲が足を止める。  
「お前、子はどうした?」  
 黄飛虎の顔が、少し曇る。へへ、と苦笑いをすると、聞仲は大きくため息をついた。  
「俺が言うのもなんだが、長引かせてはややこしくなるのではないか?お前のことだ、  
可哀想だと思っているのだろう?」  
「……」  
「子が男ならば、おそらく剣を握り、戦に向かうだろう……」  
 
 聞仲、と言葉を遮る。  
 
「俺は、子を護れる自信がねえ。出来ることなら、あいつを、悲しませたくない」  
「飛虎」  
「……まあ、こっちの問題だ。気にすんな」  
 
 聞仲は賈氏の寝室前で立ち止まる。  
 いきなり入っては失礼だ、と言った。  
 黄飛虎が入ると、賈氏は寝台の上でうとうとと眠っている。肌の傷はすっかり癒え、  
元の白い肌をしていた。  
 睫毛が振れる。  
 ゆっくりと瞼が開き、黄飛虎を捉えた。  
 
「……飛虎?」  
「おう。実は聞仲が来てな。……見舞いっつーことで」  
 え?と賈氏は、ぼんやりと聞き返した。  
「一応、個人的にってことでな。公務はおおかた片付けてきたってよ」  
 
「だめです」  
「へ?」  
「早くお帰りにならなければ。飛虎、喃をこれへ、……着替えねば」  
 賈氏は寝台から降り、着物を探し出す。  
「早くお帰りになって。何故家に入れたのです」  
 
 喃はおろおろしていたが、賈氏に一喝され、慌てて腰紐を取ってきた。  
 簡単に身を整えると、賈氏はふらつく足で扉を開け、聞仲の前に膝をついた。  
「……奥方殿?」  
「我が不始末、お許し下さいませ」  
 顔を上げる。  
 
「臣下の怪我一つで太師が出向くなど、黄家の恥でございます。どうぞ、お帰り  
願います。」  
 黄飛虎は、賈氏の様子に言葉を失った。  
「民は、それをなんと見るでしょう。禁城は臣下一人に動揺する、と噂するやも知  
れませぬ。私の不始末で朝歌が揺るぐなど、万死に値することでございます」  
 
 しん、と静まり返る部屋に、凛とした賈氏の声が響く。  
 まっすぐに聞仲を捉える双眸に、うっすらと光るものがあった。聞仲はその瞳を、  
おのの瞳に移しこむ。澄み切った水、そして触れれば断ち切ってしまうような剣を  
思わせる。  
   
 ふと、別の影が重なる。  
 
 賈氏はつと立ち上がり、黄飛虎の前に立った。顔を歪ませず、だが、隠さんとす  
る心の軋みは、男を震え上がらせるには十分だった。  
 華奢な手が舞い、頬を打つ。  
「父に対して、黄家に対して、これを恥だと思わずにおれるのですか?!  
 あなたは……、あなたは……」  
 一筋、頬を涙が伝った。  
「賈氏……」  
 
 聞仲は、くるりと向き直り、部屋を出て行った。  
 少しだけ、笑みを浮かべて。  
 
 
 飛虎の妻でなければ、惚れていたかも知れぬ。  
 
 数日、賈氏は黄飛虎と別離をして過ごした。  
 喃が二人を取り繕おうとも、賈氏は折れなかった。黄飛虎は仕方なく、ひっそり  
と離れの部屋で普段を過ごした。禁城の聞仲の元へ向かうことも多くなった。  
 
「まだ奥方殿は許さんのか?」  
「あんな頑固者とは思わんかったよ。閉じこもったまま、顔も合わせん。 ……冗  
談じゃねえよ。やれやれ……」  
 文書の束の上に凭れ、黄飛虎は溜め息をついた。それと向き合うように座る聞仲  
といえば、茶をすすりながら鼻で笑っていた。  
 
「まあ、俺のせいでもあるがな」  
「なあ聞仲よ、俺はどうすりゃいいんだ?」  
 茶を卓に置き、聞仲は窓を見やった。雲雀が、空を舞っていた。  
 
「知らん」  
「お前なあ!」  
「ならば聞くが、お前は奥方殿をどう考えている?」  
 う、と呻いた。聞仲が横目で睨むと、しおれたように俯いている。  
 
「飛虎よ。 ……お前は『男』であるが、『父』ではない。この意味が分かるか?」  
 黄飛虎は、首をかしげた。  
「お前は、家長となるのだろう? ……覚悟はあるのか?」  
「……そりゃあ」  
「ならば、奥方殿を抱けるか?」  
「なっ……そ、それは違うだろうが!」  
「違わん!!」  
 
 空気の圧力が、黄飛虎を擦り抜けていった。皮膚が、痺れるような気迫。  
 
「……子も護れぬ男が、家を支えられるものか。お前は、自分だけを護ればいいの  
だと思ってはいまいか?」  
「俺には護るものがある。犠牲もあった。 ……だが、逃げぬと誓った」  
 
 黄飛虎は、俯いたまま。  
 
「逃げるな。 ……共に死ぬる覚悟があるのだろう? 誓ったのだろう?」  
「俺は……」  
 す、と顔を上げた。  
 瞳は、澄んでいた。  
 
「迷うな、信じたままを行け」  
   
  黄飛虎は黒虎にまたがり、首を叩いた。あいつの元へ。すぐに。  
 黒虎に通じたのか、その脚は速かった。周囲など歪んでしまうと思う程。  
 
 昼を過ぎたころ、家には着いた。  
 黒虎を降り、庭にいた喃を見つけて賈氏は部屋か、と怒鳴った。  
「部屋で、お休みになっておられますが……」  
 ですが……と口篭もる。  
「誰も部屋に近づけるなよ、誰もだぞ!」  
 一瞬驚いた表情をしたが、頬を赤らめて頭を下げた。  
 
 ばたばたと走り、朱塗りの扉を開けようとする。だが、何かがつっかえているの  
か、動かない。  
「賈氏、開けろ」  
 無言。  
「俺が悪かった。だから開けろ」  
 無言。  
「おい、いつまでふくれてんだ!開けやがれ!」  
「何か御用ですか?」  
 ちょっと黙り、言った。  
「話がしたい」  
 私、眠たいのです。と言った。  
「顔が見たいのだが」  
 私は見たくありません。  
「……、手が握りたい」  
 私の手が折れてしまいます。  
 
 くそう、と悪態をついた。  
 
「お、お前を、今すぐ抱きたい!!」  
 くそう、眩暈がする。身体の奥がひどく軋む。喉がからからだ。  
「……だめか?」  
 
 扉が、ひとりでに開いた。隙間から、微笑む賈氏の顔が覗く。  
「湯に入ったらどうです?……飛虎」  
 その微笑みは、してやった、と言わんばかりの笑みだった。まるで、賈氏の策略  
にも思える。  
 敢えて考えるのを止めた。  
 
 喃は、湯の用意をしていた。  
 汗を流しましょう、と言って女達はくすくすと笑う。これから先、女達には頭が  
上がらなくなるな、と黄飛虎は思った。  
 さっと湯を浴び、新しい着物に袖を通す。ふわり、と賈氏の匂いがした。  
 すると、喃が手紙やら、書簡の束を持って来た。どうしましょう?と。  
「そんなものは、後でいい」  
「……夕餉も、後にいたしましょう」  
 ふふ、と含んだ笑みを浮かべる。好きにしてくれ、と呟いて溜め息をついた。  
   
 何もかもが、褪せていく。  
 視界は狭まり、身体の自由を奪われる。心は、飛んでいってしまったのか?  
 
 部屋は、障子から漏れる日の光だけしかなく、逆光にいる賈氏は、その小さな影  
だけしか分からない。部屋に香を焚いたのか、眩むような甘い匂いが立ち込めている。  
 黄飛虎は、己の感覚が支配される感にとらわれた。  
   
 触れる肌の滑らかさ。  
「飛虎」  
 その声しか聞こえない。それしか見えない。  
 その唇が、溶け合うように。  
 
 乳房に触れると、少しだけ眉が歪んだ。朱を引いた唇から、溜め息が漏れる。口  
をつけると、びくりと身体を震わせる。  
「飛虎……」  
 首にしがみつこうともがき、のけぞる。  
 そっと、奥に触れる。 ……ぴたり、と吸い付くようだった。壊れぬように進入  
させると、指が熱いほどの熱に包まれる。つ、つ、と軋ませると、賈氏の手が、何  
かにすがろうと彷徨った。  
「ううっ……はぁっ……」   
 少し躊躇い、手を引っ込める。  
 賈氏は震える手を伸ばし、黄飛虎の腕を掴んだ。  
「……どうした?」  
 悲しそうな顔をする。  
 おや?と思い、黄飛虎が抱きかかえると、胸の辺りに頬を寄せた。ああ、と黄飛  
虎はその頭を撫でた。  
 ちゃんと抱き締めたことなど、今まで無かったのだから。  
 
 賈氏の腰を支え、『それ』をあてがう。  
 飛虎、と賈氏が囁いた。  
「あなたが……欲しい」  
 きゅっとしがみついてくる。  
「……お前が、欲しい」  
 あざ黒い肌に重なる、透き通る白。  
 
 ゆっくりと飲み込まれていく。  
「ああっ!」  
 痛みからか、黄飛虎の背に爪を立て、叫んだ。それでも、黄飛虎は止めなかった。  
「……くっ」  
「はあっ……飛虎……!」  
 繋がり、溶け合う。  
「……賈……氏」  
 身体を重ねれば、情が移る。  
 だが、身体を重ねずとも、情は移っていただけのこと。  
 このつながりは、恐ろしい。  
 
 波は、二人を包んだ。  
   
 月日は、ものを変えていく。  
 
 戦の前に女に触れると、負けると言われていた。  
 だが黄飛虎は賈氏を抱いた。  
 子は増え、護るものが、増えた。  
 
 失うものもあった。だが、それでも傍にいる賈氏に、救われた。  
 だのに……。  
 
 
 櫛を懐に戻し、一気に酒を煽る。  
「……くそう」  
 
 酒に逃げるとは情けない、恥を知りなさい。  
「……?」  
 裳が、目の前で揺れた気がした。柔らかな香の匂い。  
 からん、と杯が乾いた音を立てた。  
 黄飛虎の脇に佇む、女。ゆっくりと微笑み、呆けた唇に唇を這わせる。  
「あなたの、傍にいます……」  
 
「賈氏!」  
 
 誰も、いない。  
「……酔ったか?」  
 顔に手を当て、溜め息をつく。ぽつり、と雫が着物に落ち、黒いシミ  
をつくった。弱くてもいい。情けなくてもいい。涙を垂れ流し、あらん  
限りの声で叫んでやる。  
 戻って来い。  
 お前が欲しい。  
 お前が抱きたい。もう一度だけ、幻が見たい……。  
 
 日が昇れば、棍を携えて向かうだろう。  
 
 その刻までは、涙を流していたい……。    
 
 

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