「玄武さま!玄武さまはおわしますか!」  
護玄の住まう洞窟の入り口に、甲高い声が響いた。  
玄武といえば、亀と蛇とが合体したような、想像上の神獣だ。  
この洞窟は、人の足では辿り着くのも困難な深山にある。  
それに、声の主は若い女性らしい。尋常な事情ではないに違いない。  
 
出て行こうとして、ふと、護玄は躊躇した。  
声の主が呼ばわるのは、玄武である。人の姿で出て行っていいものか?  
護玄は、仙術を極めるための修行を積み、人の形を得ていた。  
だが、今この場においては、古来より描かれた玄武の姿で  
出て行ったほうが、納得が得られるのではないかとゆう気もする。  
だが、正体を偽る愚を避けると共に、  
姿を変える手間を惜しみ、このまま出て行くことにした。  
今の彼にとり、外見を変える術は容易ではなかったのだ。  
 
「お嬢さん、ここには、玄武はおりません」  
なるべく脅かさないよう、充分注意して声を掛けたつもりだったが、  
女は腰を抜かさんばかりに驚いた。  
「玄武さま!わたくしは、麓の村に暮らす紫薇(しみ)と申します!  
今年は雨が無く、作物の実る気配がございません。  
私は遣わされて、雨乞いの贄として参りました。  
どうか、どうか、村に雨を賜りとう御座います!」  
驚きながらも、女は、土下座しながら一気に叫んだ。  
 
護玄は、自分の言う事をまったく聞かない紫薇(百日紅:さるすべり)  
と名乗る女性を観察した。  
贄として来たとゆうだけあって、白装束に身をつつんでいる。  
絶世の美女とはいかないが、美しい女性ではあった。  
だが、「人身御供といえば、未婚の娘がなるものではなかったかな?」  
と、内心で首をひねった。  
若く美しいことには違いないが、紫薇には何とはなしに、  
妻となり子を成した女性の持つ落ち着きが感じられた。  
 
「玄武さま!どうか、雨を、水を、わたくし共に賜り下さいませ!」  
悲痛な声で、再び紫薇が叫んだ。  
護玄も我に返って、彼女の訴えに心を戻した。  
だが、雨を降らせろと言われても、そう簡単に天候を左右できはしない。  
そもそも、彼は玄武ではない。彼の本性は亀であった。  
もっとも、神仙の秘術を学ぶ、齢数百年になろうかとゆう亀ではあったが。  
 
「紫薇さん、落ち着きなさい。繰り返すが、ここには玄武はおりません。  
雨を乞われても、如雨露で水をまくように雨を降らせられる訳でもない。  
とりあえず、天候を占うので、そこで待っていなさい」  
護玄は、紫薇を洞窟の奥の曲がりなりにも暮らしている部屋に案内し、  
自分は、洞窟の外に出た。  
 
無用心なようだが、彼の洞窟には、秘宝が隠されているわけでもなし、  
万一彼女が物取りの類であっても、持ち去る値打物など無かったのだ。  
それに、このところの気候については、彼にも思い当たる節があった。  
確かに、ここ数ヶ月雨が降っていないのは事実だった。  
 
身軽な動作で、小高い岩の上に立つと、四方の空を見やり、  
空を往く鳶に聞き、地に生える草に尋ね、峰を渡る風に問うた。  
結果、西から雨雲の大群が寄せてきており、明後日ごろには、  
この一帯を覆うであろうという予想がついた。  
 
だが、遠隔の大気の様子など、容易く判るものではない。  
護玄が、紫薇を待たせている洞窟に戻ってくるのに、  
ニ刻ほど(約4時間)の時間がかかった。  
驚いたことに、紫薇は護玄が案内した時の姿勢のまま、  
思いつめた表情で立ち尽くしていた。  
 
「喜びなさい。今日、明日は無理だが、明後日には雨が降るようだ。  
早く戻って、村の皆に知らせてやりなさい」  
すがるような表情で自分を見つめる紫薇に、護玄は言った。  
「玄武さま!ありがとうございます!ありがとうございますっ!!」  
紫薇は、泣きながら床に頭を擦り付けるように土下座した。  
「と、とにかく、頭を上げなさい。雨は私が降らせるものではない。  
それに、私は玄武ではない」  
護玄の言葉に、紫薇はふ と顔を上げた。  
 
真正面から護玄の顔を見据え、今気付いたとゆう風情で呟いた。  
「玄武さまは、人のお姿をしてらっしゃるのですね」  
そのまま、ふわりと立ち上がると、帯を解き始めた。  
「な、何をしているのです!」  
あわてて叫ぶ護玄に、恥かしげに微笑みながら紫薇が答えた。  
 
「謹んで、贄の勤めを果たさせていただきます。  
古老から教えていただきました。この山には聖獣玄武さまがおわすと。  
玄武さまであれば、この気候に雨を降らせるのもた易いとも。  
命に代えても、村々に雨を賜れ。代償に、身体を求められれば身体を捧げよ、  
食われるのであれば、自ら口の中に身を投じよ、と命じられてきました。  
わたくしは、玄武さまが人の男の姿をしておられて、嬉しゅうございます」  
 
あっと言う間に、紫薇は全裸になってしまった。  
彼女は下着を身に付けず、直に白装束を纏っていたのだった。  
身体を求められたら、なるべく早く応じる為の用意かも知れないが、  
そもそも、私は身体を求めてなぞいない、と、護玄は思った。  
思ったのだが、薄暗い洞窟の中で、白く光を放つような女の裸に、  
つい目を奪われてしまった。  
 
胸と股間をそれぞれ片手で覆い、伏目がちに立ち尽くしている。  
護玄は、我知らず、紫薇を寝床にいざなった。  
身体を横たえさせ、胸と股間を覆う手を外させる。  
恥かしさに僅かに躊躇いを見せたものの、顔を上気させつつ素直に従った。  
形の良い胸と、陰部が露になる。  
 
吸い寄せられるように、乳首に口付けると、紫薇は艶っぽい声をあげた。  
二度、三度と繰り返すうち、声はだんだん大きく、激しくなり、  
護玄の官能を刺激する。乳首を口に含んだまま、股間に手を伸ばす。  
そこは既に、指先にねっとりと絡みつくほどの湿り気を帯びていた。  
湿り気を指に取り、陰核をこねまわすと、  
すすり泣くような声を立てながら、激しく腰を振りはじめた。  
 
たまりかねた様子で、護玄の衣服に手を掛ける。  
護玄自らも、もどかしげに服を脱ぎ捨て、紫薇の上に身体を重ねた。  
何の抗いも無く、吸い込むように護玄の男根は受け入れられた。  
いきなり燃え上がった欲情に突き動かされた激しい交わりの果てに、  
何度かの射精と絶頂を味わった二人は、身体を重ねたまま、失神した。  
 
・・・  
 
護玄は、なにやら美味そうな料理の匂いに、目を覚ました。  
ありあわせの布をどうにか身にまとい、粗末ながらも  
服らしく着こなす紫薇が竈の前で、かいがいしく料理をしていた。  
何故、自分の洞窟に女性が居るのか?一瞬、護玄は混乱をきたした。  
が、すぐに先程のことを思い出し、なんともばつが悪く、  
どのように声をかけるべきか躊躇していたら、紫薇のほうが気がついた。  
 
「玄武さま、お目覚めでございますか?」  
「いったい、何をしているのです」  
「夕餉の支度をしております。もうしばらく、お待ちくださいませ」  
護玄の問いに、さも当然といった態度で紫薇が答える。  
料理といっても、碌な食材の蓄えも、料理道具も無いはずなのだが、  
彼女は在るものだけを工夫して用い、まともな料理に仕立て上げていた。  
 
豪華ではないが、美味な夕餉の後、護玄は紫薇から仔細な事情を聞いた。  
今年は、長瀬の雨が降らなかったことに始まり、村の水源の河も枯れた。  
作物が立ち枯れる田畑が続出し、例年の水不足とは格が違うと思われた。  
近郷の村々から、古老、長老が寄り集い対策が話し合われ、  
この山に玄武が住まっており、人身御供を差し出すことで  
雨乞いができるやも知れぬとゆう話が、持ち出された。  
ここまでの事情を、彼女は解り易く述べ立てた。  
 
護玄がその先を促すと、紫薇はさすがに声の調子を落とした。  
「ですが、未だ嫁いでおらぬ若い娘が、居なかったのでございます。  
年頃な女は既に嫁いでおり、さもなくば、幼い子供しかおらず・・・  
亭主も子供もあれど、女房(既婚女性のこと)連中の中で  
比較的年の若いわたくしに話が回って来た訳でして・・・」  
 
その言葉を聞いた護玄が、さすがに義憤に駆られて顔色を変えると、  
紫薇はあわてて、とりなすように続けた。  
「あ、でも、ちゃんと立派なお葬式も出して頂いて、お墓も作ってもらって  
きちんと死んだことになっておりますので、大丈夫でございます」  
 
全然、大丈夫ではないと憤る護玄に、彼女は言った。  
「でも、玄武さまが明後日には雨を降らして下さいますので、  
終わりよければ、全て良しなのでございます。  
もし、雨が降らなければ、わたくしが贄として至らなかったことになり、  
より年嵩の女房(既婚女性)や、未だ幼い子供が、  
贄としてこの山に遣わされることになっておりましたので。  
わたくしが贄の役を果たすことが出来て、めでたしめでたしでございます」  
 
明るく話す紫薇の言葉を、暗然たる思いで受け止める護玄だったが、  
此処が女の足で辿り着けるような場所で無い事に思い至り、  
どうやって来たのかを尋ねた。  
 
「贄を運ぶ用の籠を誂えたのでございます。  
丈夫な樽のような籠で、中からでないと開けられない仕掛けがしてあります。  
中のわたくし、とゆうか贄は、薬で眠らされて、勝手には出られない仕組です。  
籠かきの若い衆は、山のなるべく高いところで籠を置いて帰ります。  
わたくしは、眠り薬が切れると、籠を出て、玄武さまの住処を求めて  
一日ほど山中を訪ね歩いたのでございます」  
 
さらっと言ってのけるが、もし自分の住処を見つけられなかったら、  
どうする積りだったのか。護玄は、憮然とした表情を崩せずにいた。  
更に追い討ちを掛けるように、紫薇が言い放った。  
「そのような訳ですので、村に戻る道も判らないのでございます。  
ですからわたくしは、今日からここに住まわしていただき、  
玄武さまのお世話をさせていただきます」  
 
夜になっていたので、山中に追い出すわけにもいかず、  
護玄は紫薇を洞窟に泊めた。  
夜伽を勤めると言い出す紫薇だったが、さすがに疲れていたのか、  
寝床に押し込まれると、そのまま眠りに落ちた。  
只一つの寝床に彼女を押し込んでしまった護玄は、床の上に茣蓙をしき、  
何でこんな事になったのだろうと、盛大なため息をつきつつ横になった。  
 
***  
 
ごぞごぞと、荷物を動かす気配に、護玄は目を覚ました。  
紫薇がなにやら、洞窟内の片付けを行っていた。  
「あ、玄武さま。お目覚めでございますか。  
そこに朝餉の用意ができております。どうぞお召し上がりください」  
彼女は、溌剌とした様子で声を掛けた。  
昨夜の夕餉といい、碌な食材の蓄えも道具も無いところで、どうすれば  
こんな事ができるものか、卓の上には質素ながらも見事な朝食が用意されていた。  
 
とりあえず、働きつづける紫薇を無理矢理卓につかせ、共に朝食を摂った。  
その後、食器の片づけを始めた彼女を残し、洞窟の外に出た。  
上空には薄雲が散見されたものの、よく晴れた朝だった。  
手早く片付けを済ませた紫薇が、護玄の傍らに立った。  
 
「明日には、雨が降るのでしょうか?」  
不安を隠し切れない問い掛けに、護玄は答えた。  
「西からの風に乗って雲が流れています。  
近づく雨雲の外縁がそろそろこの辺りまで辿り着いたのでしょう。  
今日の夕刻には曇り始める筈です」  
護玄の言葉に納得したのか、それとも理解しかねたのか、  
紫薇は黙って一礼して洞窟に戻っていった。  
 
その日の日中、護玄は仙術の修行もせず、天候の変化する兆しを探していた。  
言いたい事もあったが、ともかく紫薇の身体に手をつけてしまった以上、  
雨が降らなければ悪いとゆう想いや、一種の罪悪感があった。  
せめても、「ああ、雨が降るんだな」と思える兆しを見せて、  
彼女に納得とか、安心をもたらしてやりたかった。  
 
しかし並みの人間より、仙人に近い存在である護玄の感覚には、  
雨が近いことが感じられても、人に分るような兆しはなかなか無いのだった。  
夕刻になり、辛うじて、薄いながらも雲が全天を覆った事で、  
雨が近いのだと納得してもらうことにして、自分の洞窟に戻ることにした。  
 
「紫薇さん」一緒に空模様を見てみようと誘う為に、洞窟の奥に呼びかけた。  
すると、何の偶然か、たった今、一瞬に掻き曇った雲天から、雷鳴が轟いた。  
山地では、気候があっという間に急変することがある。  
先ほどの薄雲が、一気に雷雲と化したらしかった。  
 
数瞬の後、紫薇が姿を見せた。  
彼女は、両目をまん丸に見開き、護玄と、護玄の背後の洞窟の入り口を見つめた。  
洞窟の外は、あれほど渇望して止まなかった雨が降り始めていた。  
「あ・・・雨、雨が降ってる!」  
止める間も有らばこそ、紫薇は外に飛び出した。  
瞬く間に雨はその勢いを増し、彼女は全身に雨を浴びていた。  
 
「雨が降ってる!!」  
歌うように繰り返しながら、雨の中を飛び跳ねるようにして喜んでいた。  
護玄は、初めて紫薇の屈託のない笑顔を見た。輝くような笑顔だった。  
紫薇の笑顔に見とれて突っ立っていた護玄に、紫薇は涙を流しながら、  
しがみ付くようにして礼を言った。  
 
「玄武さま!ありがとうございます!ありがとうございます!!」  
贄の勤めなどといった官能のかけらもない彼女の抱擁は、  
だが、それゆえに、清涼な心地よさに満ちたものだった。  
「うん、良かった、良かった。  
紫薇達の真情が神仙をも動かし、この雨をもたらしたに違いない」  
心底、本心から語る護玄の言葉を、紫薇がさえぎった。  
 
「お隠しになるのは、やめてくださいまし。わたくしは存じております。  
今日一日、玄武さまがこの雨をもたらすために、  
加持祈祷に勤めておられたのでございましょう?」  
誤解を解く必要を感じた護玄は、とりあえず雨から逃れる為に  
洞窟の中に紫薇をいざなった。  
だが、紫薇のほうにはこれから護玄と理屈を語り合うつもりは無かった。  
居室に戻ると、濡れた服を脱ぎ去り、贄として伽を勤めると言った。  
 
正直な所、護玄は紫薇を抱きたくは無かった。  
ついさっきの、雨の中での抱擁を得られたら、いや彼女の体に触れずとも、  
あの笑顔を自分に向けてくれたなら、その方が、余程彼には望ましかった。  
しかし、あの笑顔も抱擁も、本来の彼女の夫や子供に対して  
向けられるべきものなのだろう。それを思うと、急に嫉妬心が湧き上がった。  
 
嫉妬心に突き動かされるようにして、紫薇に手を伸ばしてしまった。  
常時は温和な護玄らしくも無く、情交は執拗なものとなった。  
乳房を握り、耳を噛んだ。力の限りに腰を振った。  
だが、力づくで彼女を追い求めようとすればするほど、  
求めるものは、自分の手をすり抜けて、失われるように思われた。  
徒労と困憊の果てに、護玄は紫薇の体の上で眠りに落ちた。  
 
翌朝は、早くから激しい雨が降っていた。  
目が醒めると、護玄は昨夜の乱暴な情交を、紫薇に詫びた。  
彼女は、屈託無く「大丈夫ですよ」と答え、  
むしろ護玄に詫びられる事に恐縮すらしているようだった。  
 
その日は、洞窟の外に出ることすら憚られる雨のために、  
自然と二人して洞窟内で過ごすこととなった。  
いずれこの雨が止むにせよ、険しい山道を紫薇に行かせるのは気が引けた。  
護玄は、彼女と共に暮らすことを決めた。  
 
そうと決めたら、まずは、彼女に自分のことは護玄と呼ぶようにと言った。  
これは、彼が護玄という名の玄武だとゆう形で理解を得たようだった。  
次に、この雨は天然自然の現象であって、護玄に由来する物ではないと  
納得させようと試みた。が、この事は、遂に理解を得られなかった。  
ここまで話して、ふと、会話が途切れた。  
 
話の接ぎ穂を求めてぐるりと見回してみると、洞窟の中は昨日のうちに  
綺麗に整頓されていた。その時、見慣れぬものに気がついた。  
「紫薇さん?この碁盤はどうしたのですか?」  
「がらくたの中で、埃にまみれておりました。埃を払ってみれば、  
立派な碁盤でしたので、こちらに移させていただきました。  
護玄さまのお持ち物ではないのですか?」  
 
逆に問われて、護玄は記憶を浚った。  
この洞窟の前の主であった先輩道師が、碁を嗜んでいた覚えがあった。  
その旨を紫薇に言うと、「護玄さまは、碁はなさらないのですか?」と聞いた。  
打ちかたすら分らないと答えると、  
「では、わたくしが教えて差し上げましょう」と言った。  
 
紫薇は、碁が上手かった。上手な人にかかると、教わるほうも上達が早い。  
その日の午後には、護玄は紫薇に拮抗するほどに打てるようになった。  
だが、護玄の勝率は上がらなかった。  
紫薇は、護玄に勝つと、実に屈託無く喜んだ。  
その喜ぶ顔の中に、護玄は、昨日の雨の中の笑顔の片鱗を見た。  
 
無論、露骨な悪手を打たれて喜ぶような、愚かな女性では無かった。  
彼女の笑顔を見るためには、一見、至極まっとうな手でありながら、  
最終的に僅差で敗れる手を打たねばならなかった。  
護玄の碁は、歪んだ上達を遂げてしまった。  
それは、わざと負けているのか、本当に真面目に考えた結果なのか、  
護玄自身にすら判断のつかない、実に微妙な歪み方だった。  
 
「うふふっ、まだまだですね。スジはよろしいのですが」  
紫薇は嬉しげに語った。  
「初歩のことをお教えした時のことを差し引いて勘定しましても、  
わたくしの圧勝ですね。ならば、ご褒美を賜りとうございます」  
 
褒美として、情けを掛けてくれと、紫薇は言った。  
試しに、護玄は尋ねた。もし、自分が勝てばどうなるのか、と。  
彼女は、如何にも当然、といった風情で答えた。  
「その時は、勝った特権として、わたくしに伽を命じることができます」  
 
ふと、疑問を感じて、護玄は再び尋ねた。  
当然のように伽を受け入れているが、もし私が絵に描かれた玄武のような、  
異形の姿で紫薇の身体を求めてきたら、どうする積りだったのかと。  
紫薇は、少し表情を曇らせながら、答えた。  
「贄の役を仰せつかった時から、備えはしておりましたので」  
 
聞けば、夫や子供との別れを済ませ、生きながらの葬儀も終えた後、  
村長(むらおさ)宅の蔵に閉じ込められたらしい。  
生贄の役は、古来乙女が勤める物だったので、せめても、  
贄となる事が定まった後は、男から遠ざける為だった。  
 
玄武がどのような姿をしていても、伽の勤めが果たせるよう、  
食事、飲み水には媚薬が混ぜられた。  
媚薬で高まった性感を自ら慰めてしまわぬよう、常時後ろ手に縛られた。  
下の世話、食事の世話などは、村の老婆達が受け持った。  
老婆達は、また、服を脱がせ、縛り上げて自由を奪った紫薇の身体に、  
媚薬を擦り込むようなことも行った。  
 
語りながら、紫薇は衣服を脱ぎ去った。  
「その時は、たいへん苦しゅうございました。  
思い起こすと、未だに、身体の奥底がうずく思いが致します。  
ですから、護玄さまがお情けをかけて下さると、  
その分、わたくしの気持ちも身体も、楽になるのでございます」  
 
護玄は、昨日とは変わって、躊躇無く紫薇の身体に手を伸ばした。  
今日一日紫薇と共に過ごしたことで、護玄にも気持ちの変化があった。  
昨日の笑顔と抱擁を、常に自分の元に向けさせたい。  
贄としての服従ではなく、互いの尊敬と友愛を持って、  
自分に向き合ってもらいたい。  
 
そして、彼女から、夫と子供の記憶を消し去り、  
自分への思いを、その位置に占めさせたい。  
紫薇の薬の影響と、護玄の恋慕が絡み合う情交は、夜半にまで及んだ。  
 
雨が止むまでに、数日を要した。  
雨が止むと、護玄は真っ先に自分の暮らす一帯に結界を設けた。  
これまでは、来る物は拒まずという考えでいたが、人間達の視点からは、  
今回の雨乞いが成功したように見えることは配慮せざるを得なかった。  
なにかにつけ、人身御供の集団が押し寄せてくる可能性すらあるからだ。  
 
その後、普段の日々が再開された。  
紫薇が傍らに居るため、いろいろな事が変化した。  
食料調達は、紫薇の役目となった。人の足の入らぬ深山だけに、  
何かと不便も多かったが、それゆえに手に入る食材もあった。  
器用に釣り道具を拵え、流れの蘇った川で、川魚を釣ることまでこなした。  
 
護玄は、食料の調達に割いていた時間を、仙術の修行に加えた。  
さしあたりの用事の無い、空いた時間ができると、二人して碁盤を囲んだ。  
今や護玄の負けっぷりは、名人の域に達しつつあった。  
 
紫薇の、贄としての立ち居振舞いも目に付かなくなってきた。  
残してきた夫や子供のことは、想う素振りさえ見せなかった。  
護玄は、己の浅はかさ、愚かさを自覚しながらも、  
そのことを嬉しく思わずにはいられなかった。  
紫薇はかいがいしく護玄に尽くし、伽を求められれば、悦んで身体を開いた。  
 
森に住まう小鳥達は、「あの朴念仁の護玄が、自分の洞に女を連れこんだ」  
と言っては、囃し立てた。  
その声にすら、かすかに笑みを浮かべてしまう護玄だった。  
 
だが、幸せな日々は早々に終わりを迎えた。  
数ヶ月の後、紫薇は体調を崩した。彼女の病は、急速に進んだ。  
護玄には、思い当たる節があった。  
贄として躾られた時期に、大量に摂らされた媚薬が、  
彼女の身体を蝕んでいる可能性があった。  
 
人間の用いる媚薬には、時には命を失いかねぬほどの成分が  
含まれていることを、護玄は知っていた。  
そして、そのような成分は往々にして、人体に害を為す以外の効き目を  
持っていないのだった。  
 
紫薇には、家事にせよ何にせよ身体を動かす事を固く禁じ、  
役に立ちそうな薬草を求めて、山野を駆けた。  
入用とあらば躊躇無く、花をむしり、枝を割き、虫を捕らえ、獣を殺めた。  
集めた薬を紫薇に用いる為、汗もぬぐわず洞窟に戻った護玄が見たものは、  
竈の前で倒れている紫薇の姿だった。  
 
「あぁ、護玄さま。おかえりなさいませ」  
床につかされ、ようやく意識を取り戻した紫薇は、  
護玄を認めると、嬉しげに呟いた。  
護玄が、いいつけを守らなかった紫薇を叱ると、  
「護玄さまに、お食事を作って差し上げたかったもので・・・」と、詫びた。  
 
途切れそうになる意識を、必死に繋ぎとめながら、紫薇は言葉を続けた。  
「護玄さま、わたくしどもに雨を賜りまして、本当に有難うございました。  
贄として捧げられたはずのわたくしに、優しくして頂いて、  
何と言ってお礼申し上げればいいのか分りません。  
この数ヶ月、紫薇は本当に楽しく過ごさせていただきました」  
 
気付かぬうちに、涙を流しながら「もう喋らないでくれ、休んでくれ」と、  
かきくどく護玄に向かい、優しく微笑みながら紫薇は呟いた。  
「護玄さま、ありがとうございました。護玄さ・・ま・・」  
 
護玄は、途切れた言葉に、紫薇の死の覚悟をした。  
だが、彼女は意識が混濁している様子だった。未だ、息はある。  
集めた薬草類を床にぶちまけ、今の状態に最も相応しい薬を選び出し、  
必死の形相で看病を始めた。  
 
護玄の看病は三日三晩に及んだ。  
与え得る限りの薬を与え、為し得る限りの処置を施した。  
だが意識は戻らず、このまま生命の火が消えるかと思われた。  
床の傍ら、肩を落とす護玄の眼前で、紫薇がふと目を開いた。  
意識の混濁を感じさせない、まっすぐ前を見つめるしっかりした目線だった。  
 
驚きの余り、息も止めたままの護玄が見つめていると、  
紫薇は、護玄の初めて聞く人名を、男の名前と女の名前を一人づつ呼びかけた。  
そして、たちまち呼吸を止めた。  
護玄は、今の名前が紫薇の夫と子供のものであることを悟った。  
護玄は号泣した。  
 
 
 
「はははっ、まだまだだな。スジはいいんだがな」  
龍華の声に、護玄は回想から引き戻された。  
あのあと修行を重ねて仙界に至り、更に修行を積んで仙人となり、  
このやっかいな友人と友誼を結んだのだった。  
 
そして今日も、龍華と碁盤を囲んでいるのだった。  
「うん、碁の勝負だけは、龍華に手も足も出せないな」  
「その態度がいけない。負けたくせにニヤつくんじゃない。  
ま、護玄の碁が上達するまで、この龍華様が胸を貸してやろうじゃないか」  
 
護玄の微笑みに含まれる微かな蔭に、気付いた素振りも見せずにこきおろし、  
まるで、男同士のような快活な態度で、龍華は護玄の部屋を辞そうとした。  
龍華が、ふと振り向いた時、殺風景な部屋の片隅に、  
百日紅(さるすべり)を生けてあるのが目に入った。  
その刹那、表情に切なげな憂いがかぶさった。  
あわてて護玄に背を向け、元気そうな声音を装って別れの挨拶を口にする。  
 
「じゃあ、今度はこっちに碁を打ちに来なよ」  
「ああ、また寄らして貰うよ」  
護玄の声を背中で聞きながら、屋敷を出る。  
立ち止まり、一度鼻を大きくすすり上げると、  
龍華は、元気一杯という風情で、ずかずかと家路を歩き始めた。  
 
龍華が赤ん坊の和穂と出会う数年前、  
ごくありきたりな仙界の一日の、夕刻の情景であった。  
 

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