玄関に向かう足音。  
靴を履く気配。  
ドアが開きそして閉まる。  
 
『出かけたか。早いな』  
高野は自室で身支度を始めようとしたところだった。  
今日は高野と蛍は初めて二人で外食をする予定なのだ。  
 
事の発端は数週間前、二ツ木と呑んだ時だった。  
山田早智子との付き合いについて愚痴とも惚気ともつかない  
話を聞かされたあとに、「おまえ雨宮とデートとかしないの?」  
と言われた。  
考えてみれば、同居してから始まった関係であったので  
二人で外出しようと思ったことすらなかった。  
「いや、以前と同じような生活だからな。」  
「おまえはそれでよくても雨宮はまだ若いんだから  
恋人とデートしたいとか思ってるんじゃないの?」  
「あいつは家が一番ってタイプだから、一般論は当てはまらん。」  
「そうは言っても夢見るお年頃だろ、20代半ばだもんなあ。  
ウチの姐さんなんて、外食でも何度も同じ店連れて行ったら、それをちくりちくりと  
うるさいぞー」  
以下はまた愚痴とも惚気ともつかない話になっていったため、高野は聞き流しているだけ。  
 
『外でデートか』  
折りしも、蛍がメインになって企画した案件がクライアントにも大変な評価を受けて  
納期を迎えたばかりだったのを思い出し、帰宅して早々に高野は蛍に外食デートを  
提案したのだった。  
 
「ぶちょおとデートなんて、照れますね。でも嬉しいです!」  
蛍は大いに喜んで、読んでいた雑誌をパラパラめくり始めた。  
「ここ、良いなあって思ってたんですよね。」  
「ああ、最近出来たホテルの…。よし、じゃあそこで良いだろう。」  
「うーんとお洒落していきますから、腰を抜かしたりしないでくださいよ!」  
…まさか、あの奇抜な趣味のワンピースではあるまいな…と思い少々引きつった笑顔で  
「まあ、無理するな。」と返す高野であった。  
 
一緒に住んではいるが、折角のお外デートなので現地で待ち合わせにして欲しいと  
蛍に言われたのが5日前。  
それもそうかと承諾したが、やはり当日の蛍の扮装、もとい服装に一抹の不安を感じる  
高野は、店ではなくロビーで待ち合わせることにしたのだった。  
 
そして今日がデート当日。  
待ち合わせの時間からもう10分過ぎている。  
高野は、その性格ゆえに待ち合わせ10分前にはホテルのロビーに到着していた。  
『ま、想定の範囲内だ』  
とはいえ、家を出たのは随分早かったのにどういうことか。  
そのとき高野の携帯が蛍からのメールを受信した。  
 
 遅れてすみません。  
 タクシーでそちらに向かっています。  
 もうすぐ着きます。  
 ホタル  
 
ロビーもかなり混み合ってきたことだし、車寄せで待っていようと自動ドアを出ると、  
目の前に一台の黒いタクシーが到着した。  
後ろの座席に座っているのは蛍によく似た女性。いや、蛍本人だった。  
どこかがいつもと違う。  
高野に気が付いた蛍は穏やかにしかし輝くような微笑で高野を見つめていた。  
『綺麗だ』  
正直にこの気持ちを伝えれば、蛍はどんなに喜ぶことか。  
しかし高野はその気持ちを平常心の仮面に隠してしまう。  
いやいや、実は隠しきれていなかったのだが…。  
 
タクシーの扉が開き、蛍が降りてきた。  
服装は、シンプルにブラウスとプリーツスカートという落ち着いた  
いでたちであったが、若い女性の輝きを控えめに引き立てていた。  
そして蛍の表情。  
自分を見てこんなに嬉しそうに笑ってくれている。  
それは決して自惚れではないと高野は思った。  
『こんなに綺麗だったか?』  
惚れ直すと言う言葉があるが、これがそういう気持ちなのだろうと思ったりした。  
 
蛍も、高野の表情から自分に見とれているらしいことを感じていた。  
それを口に出してくれないことも分かっている。  
だが、今日は表情から感情がちょっと読み取れたことに満足していて、  
その気持ちがさらに蛍の微笑を美しいものにしていた。  
 
「お待たせいたしました。」  
「ああ」  
高野と蛍は並んで歩き始めた。  
すぐに、このように並んで歩くのはこれが初めてだと二人とも気づいた。  
高野は蛍のためにやや歩調を緩めた。  
蛍は高野の腕にドキドキしながら手を掛けた。  
「は、初めてですよね。こんな、腕なんか組んじゃって歩くの。」  
「ああ、そうだな。」  
会話が続かない。  
蛍も、会社及びその通勤途上と家以外の場所に高野と居ることで胸がドキドキしっぱなしだった。  
すれ違いざまに、高野のことを目で追う女性の多いことに気が付いた。  
『やっぱ、ぶちょおってカッコイイんだよなー』  
実は、自分のことをチラチラと見ている男性もかなりいることには気づいていない蛍であった。  
高野はそんな男性どもの視線に、イラつく自分に少し驚いていた。  
『いい歳して、しかも男の嫉妬は見苦しいんだが…』  
 
店に到着し、着席したあとも会話はあまり弾まない。  
メニューを見ているつもりが、無意識に蛍の顔を眺めてしまう高野。  
蛍もその視線に気づいて高野を見た。  
「どうかしましたか?」  
「何でもないよ」  
「さっきからずっと見てる… 何か言ってください。」  
「…だよ」  
「え?」  
「きれいだよ…」  
蛍ははにかんだようにやや俯いてそれから花のような笑顔を高野に見せた。  
いつもだったら、嬉しかったのでもう一回言ってくださいとお願いしたくなるところだが、  
今日は素敵大人女性を目指しているのでぐっと我慢してみた。  
「だって、初めてのデートですから。」  
「…雨宮、君は…」  
「もう恥ずかしいから、そのくらいにしてください。」  
「そうじゃない。君は、メニューが逆さまだ。」  
「あ」  
こういうところが、蛍らしくていいじゃないかと高野は思うのだが、当の本人はばっちり  
キメているつもりだったので、眉根を寄せて悲しそうな顔をしている。  
『こいつの百面相はいつ見ても飽きんな』  
いつもの蛍らしさを垣間見て、高野の口元が少しほころんだ。  
 
結局、オーダーは高野にすっかり任せ、しばらくするとワインがグラスに注がれた。  
ワイングラスを片手に高野が「今回の仕事は、いい経験だったな。」と声をかけた。  
「ありがとうございます。さらに精進いたします。」  
「じゃあ、乾杯」  
「それと、初めてのデートに乾杯!」  
グラスを軽く合わせて、ほんの一口ワインを口にする蛍。  
本当はグーッと一気飲みしたいところだったのだが。  
その後は、食事が進むに連れて仕事のことや今までの同居生活の出来事などを楽しく語らい、  
いつもの二人らしい会話になってきた。  
蛍は『ああ、これだよ。恋人してるって感じ。ビバ!デート!』と思っていた。  
会計を済ませて、店を出るとやや言いにくそうに蛍が口を開く。  
「あの、トイ…いえお化粧室に行きたいのですが。」  
「じゃあ、ロビーで待っているから」  
「ラッ…じゃない。はい、分かりました。」  
化粧室に向かいながら、『ああ、もうすぐ家に帰っちゃうんだな』と  
なんとなく12時目前のシンデレラのような心境の蛍であった。  
 
ロビーにたどり着いた蛍の手を、高野は無言で握りしめ出口とは違う方向へと歩き出した。  
エレベーターホールに連れてこられた蛍は「あの、何処に行くのでしょうか?」と質問した。  
「ここ」とカードキーを見せる高野。  
「へ?」  
「ついて来なさい。」  
思わぬ展開に動揺する蛍であったが、すぐに嬉しさがこみ上げて来た。  
『外食&お泊りデート!すごーい、なんて恋人っぽい展開』  
エレベーターの中で、なお握られたままの手を蛍は見つめていた。  
手を繋いで歩くなんてことも、初めてだなと思いながら。  
 
 
その頃、他のホテルのバーでこの二人を話題にしている男女がいた。  
「あの二人、今日は上手くいったのかなー。」  
「ばっちりだと思うわよ。蛍には変身プロジェクトを伝授しておいたから。」  
「変身?」  
「そう。私の行きつけのエステを紹介してあげたの。メイクもちゃんと綺麗に  
仕上げてくれるところだから、きっと部長もみとれちゃってるんじゃない?」  
「俺たちが仕向けたって気付くかな。」  
「大丈夫よ。二ツ木さんはきっかけを作っただけ、私は相談に乗っただけって  
感じになってるもの。  
だってねー。二人の仲を隠す必要も無くなったんだから、外でデートさせて  
あげたかったのよ。蛍が大きい仕事を終えたところで絶妙のタイミングだと思ったし。」  
「君は、本当に面倒見がいいよね。」  
「じゃ、そろそろあなたの面倒も見てあげようかしらね、場所を変えて。」  
ルームキーを二ツ木に見せる山田姐さん。  
「うん、うん」  
こちらも、大人の時間が始まるようである。  
 
一方、高野と蛍は  
 
先にシャワーを済ませた高野がソファに座っていると、浴室から蛍がうなだれて  
出てきたところだった。  
顔を上げないまま、高野の正面のソファに腰掛けた。  
「どうした?」  
「私、やっぱりアホ宮です。」  
「何をいまさら」  
「魔法が解けちゃいました。お風呂でついいつもどおりお化粧落としちゃったー」  
「普通、寝る前には化粧落とすだろ?それに君の素顔なんていつも見てるじゃないか。」  
「うー。だってー。今日は特別なのに。」  
「特別綺麗な蛍さんはもう十分見させてもらったから。ほら、顔を上げなさい。」  
顔を上げると悲しそうな顔をしていた。しかし、高野にとっては愛着のある蛍の顔であった。  
「化粧を落としても十分綺麗だから、そんな眉間にしわを寄せるんじゃない。」  
「…嬉しかったので、もう一度言ってください。」  
「しわを寄せるな。」  
「その前のところを」  
「…化粧を落としても十分綺麗(やや棒読み風)」  
「ちょっと元気になりました。」元からタレ気味の目尻がさらに下がる。  
蛍の表情の移り変わりが可愛らしくて、高野の表情も柔らかになる。  
もう少し、この顔で遊びたいなーなどと意地悪な気持ちが芽生えた高野は  
「じゃあ、おやすみ」と言うと一人でベッドの中へと入ってしまった。  
「へ?」  
この状況でこの展開に驚いた蛍はベッドに駆け寄る。  
「あの、ぶちょお?」  
本当に目を閉じてしまっている。  
「起きてくださいよ。起きないとチューしちゃいますよ。」  
高野は微動だにしない。  
蛍はチューしてしまうべきか、寝かせてあげるべきか悩んでいた。  
その思案中の自分の顔を、薄目を開けてみている高野のことなど蛍は気付いていない。  
高野の口元を見ると、先程よりもチューをしたそうな唇をしているように感じたので、  
蛍は「本当にしちゃいますからね。」と顔を近づけていった。  
そして、蛍の唇が高野のそれに触れた瞬間、蛍の身体は高野の腕に捕まえられた。  
唇がふさがれたまま「んー?ん?」と何かを喋っている蛍の言葉は高野の口中に  
飲まれていく。そして僅かな唇のすき間から高野の舌が侵入してきた。  
高野と深い口付けを交わすたびに、蛍は自分が溶けてしまうような感覚を覚える。  
身体のもっとも深いところまで熱で溶かされ、ほぐされていくような感覚。  
高野は蛍の頬に手を当てた。そしてその頬の柔らかな感触で、蛍がデート前に  
行っていたのはエステなのだろうと推測した。  
『まだまだ魔法は解けてないよ、お姫様』  
唇を開放し、蛍の顔をじっと見つめた。  
「何なんですか?もう!」  
「チューしてきたのは君のほうだもん。」  
「だって、こんなシチュエーションでおやすみって…」  
「本当に寝ると思ったか。だいたい同居している二人が、わざわざホテルの部屋で  
することといったら…しかもダブルルームなのに、説明しなくたって分かるだろうが。」  
「あぁ?ホントだ。ベッド大きいですね。」  
「今気付いたのかよ!さ、君もこっち来なさい。」  
 
ベッドの中で固く抱き合い、唇を重ねる二人。  
高野の指が首筋から胸へと滑っていく。  
唇が蛍の胸の頂を弄ぶ。  
「あの、電気消してもらってもいいでしょうか?」  
高野はスイッチに手を伸ばしたが、部屋はほんの少し暗くなっただけだった。  
「あのー、もっと暗く…」  
「ダメ。特別綺麗な蛍さんをじっくり見たいもん。」  
蛍に次の言葉を喋らせまいとするかのように、高野の口付けが落ちてきた。  
蛍は高野にどんどん攻められて、高野の指が秘所を捉えたときには  
部屋の明るさなど気にすることも出来なくなっていた。  
そして、高野を受け入れた。  
強く激しく自分の中を駆け抜けていく感覚。  
掴まっていないとどこかに飛んでいってしまいそうな快感が襲ってきて  
高野の背中に腕を回した。  
高野は、自分に貫かれて艶やかな女の顔になる蛍が好きだった。  
頬は紅潮し、軽く開かれた唇から耳に心地よい泣き声が聞こえてくる。  
その声がさらに高野を駆り立てる。  
「ぶちょ…、もう…ィ…あ、あぁ」  
 
二人の動きが一瞬とまり、そして高野は蛍の身体の上に崩れていった。  
 
 
翌朝、高野が目を覚ますと隣に蛍の姿が無かった。  
部屋の中を見回すと、蛍は高野のシャツを羽織って窓辺に立ち外を見ていた。  
高野はさっと下着だけ身に着けて窓辺に向かい、背後から蛍を抱きしめた。  
「もう起きたのか?」  
「あ、ぶちょお。おはようございます。」  
「何を見ている?」  
「東京って本当にたくさんの人がいるなーって。それなのに私はぶちょおに  
出会えたんだなーって。」  
「そうだな。」  
「昨日だって、ここに来たときぶちょおのこと見てる女の人たくさん居たんですよ。  
そんなひとがたくさん居るのに、ぶちょおと一緒に居るのはわたしなんだなって。  
ちょっと不思議だけど嬉しくなっちゃいました。」  
「君も…。ま、いいか。」  
「何ですか?」  
「何でもない。」  
高野は、そう言って背後から抱いたまま蛍の頬に自分の頬を寄せた。  
 
「あ、そうだ。」  
何かひらめいたのか、蛍は高野の腕を解いてテーブルの上にあるメモ用紙に何かを書きだした。  
「はい!」と高野に手渡されたメモにはこう書いてあった。  
 
 
    ケーヤク書  
 
  一緒にいようね(はぁと)  
      ホタル  
 
 
高野も承諾したのかケーヤクする。  
 
  いーよ(はぁと・はぁと)  
      タカノ  
 
 
蛍はそのメモ用紙を嬉しそうに受け取り、もう一文追加した。  
 
  ず〜っとね(はぁと・はぁと)  
      ホタル  
 
高野は一瞬考えた。  
自分はいい。蛍には言わないが、おそらくずっと蛍を想っていけるだろう。  
だが、蛍はまだ若い。  
40歳に手が届きそうな離婚歴のある男よりも、もっと相応しい男が現れないとも  
限らないのではないか。  
昨夜のロビーで蛍に視線を送る男たちを思い出す。  
そのときは、自分はどうしたらよいのだろうか。  
 
とりあえず、ケーヤク書にはこう書いた。  
 
 
  ずーーーーーーーーーっとだぞ(はぁと・はぁと)  
        セイイチ  
 
 
もし蛍が心変わりしたら、このケーヤク書をたてに契約不履行で訴えてやるか、  
蛍のために以前のように破棄してやるか…  
まあ、そうは言っても蛍が心変わりしない自信もかなりある。  
それに、あの干物っぷりを容認できる男はそうそう居ない。  
 
きっとこのケーヤク書はきっちり履行されることであろう。  
 
   (了)  
 

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