血のにおいが頭から離れない――
朦朧とする意識の中に赤い血のイメージだけが浮かぶ。
「早く効いてくれ…」
うずくまり襲い来る悪寒と頭痛に必死に耐える。
―― 俺は誰のために生きているんだろう
千砂との会話を思い出し、そんなことを心の中でつぶやいた。
そのとき、不意に美術室のドアが開いた。
「高城くん…?」
聞き慣れた声 ―― しまった!
「八重樫…」
八重樫と目が合う。最初はほうけた表情をしていた八重樫も、俺の顔色を見て普通じゃないと感じたのか、険しい顔つきで俺に駆け寄ってくる。
「ど…どうしたの!高城く…」
「来るな!」
大声で八重樫の問い掛けをさえぎる。
「たいした事ないから…ただちょっと眩暈がしただけなんだ。」
朦朧とする意識の中で必死に返事をする。
「…何言ってんの? 顔真っ青だよ…」
苦しそうな俺の返事に、八重樫はさらに不安の色を濃くしていく。
「いいんだ…じきに治るから。」
無理があるのはわかっている。でもなんでもいい。とにかく八重樫を俺から遠ざけなければならない。
でなければ…
「高城くん…何があったの?」
少し間を空け、やや落ち着いた調子で八重樫が問いかけてくる。
「ごめん…こんなこと聞く権利があたしにはないって事はわかってるよ……でも」
潤んだ瞳から涙が零れ落ちた。
「ごめん…でも、あたしどうしていいかわからないよ……」
また、あの眼だ…
そう思った瞬間、頭が割れるような頭痛が襲ってきた。
「高城くん!」
八重樫があわてて俺の前にしゃがみこみ、顔を覗き込んだ。
―― 血が欲しい
収まりつつあった渇きが怒涛の勢いで頭の中を埋め尽くしていく。
そんなことは知らず、八重樫は俺の急変に声を硬くする。
「とにかく保健室に行こう。」
八重樫が俺の脇に手を入れたとき、首筋が目の前に迫る。
そこは夢で見たように鮮血で染まって見えた。
その瞬間、わずかに残された理性は真赤の血に飲み込まれた。
俺は八重樫の両手を掴んで思い切り押し倒した。
「きゃあ!」
八重樫が思わず悲鳴をあげる。
俺はそんなことお構いなしに、両手首を押さえつけ馬乗りになる。
強く押し倒したためか、八重樫は小さくうめいた。
俺は八重樫の首に目を落とす。
滑らかな線を描いた、やや細身の首筋。千砂ほどではないが透き通るような透明感のある肌。
衝動に駆られるまま、首に唇を落とす。
「ひゃ!…た、高城くん!どうしたの!?や…やめ…」
思いもよらない俺の行動にパニックになっているようだ。
俺はその間も八重樫の首筋に唇を当て、その柔らかな感触を感じていた。
この柔らかな皮膚の下には赤い血が流れている。この首に深く噛み付いて、血を味わいたい―― 俺はゆっくりと歯を立てる。
「い、痛いよ!高城くん!!」
八重樫は苦痛に顔を歪め必死に抵抗するも、指が食い込むほど強く両手を押さえつけられている上、大の男にのしかかられては、どうすることもできなかった。
「高城くん、しっかりして!高城くん!」
恐怖で声を震わせながら、必死に呼びかける声に、わずかに残った理性が反応する。
だめだ、このままじゃ…!
とっさに右手で八重樫の襟を掴み、思い切り引き千切った。
胸のボタンがはじけ飛んで、右肩から胸までがあらわになる。
「た、高城くん…」
恐怖で唇を震わせながら、涙でぬれた瞳を俺に向ける。
好きな人が恐怖で震える姿に頭の中がゆだったように熱くなる。わずかに残っていた理性もついに飲み込まれてしまった。
俺は彼女の方に唇を落とし、歯をたてた。
「い……痛い!!」
先ほどよりも深く歯をたてられ、たまらず八重樫が叫ぶ。
俺は左手で八重樫の口を押さえつけた。
自由を奪われ声を出すことすら阻まれた八重樫は、唯一自由な右手で必死に俺の体を押し返そうとする。だが、それも無駄な抵抗に過ぎなかった。
八重樫の右肩に歯をたてたままいくらかの時間がたつにつれ、口の中には徐々に苦くて鉄臭い血のにおいが広がっていく。それに従って俺の気狂いじみた興奮も収まってきた。
唇をそっと離し、八重樫を押さえつけていた手から力を抜く。
八重樫はもう抵抗する様子もなく、涙を流しながら荒い息を押し殺していた。
首筋と肩には、生々しい歯形が残っていた。
放心状態の八重樫を見下ろしながら、少しづつ冷静さを取り戻してきた俺は理解した。
最も恐れていたことをしてしまった、ということを。