吐息が、部屋の空気に溶けていく。  
 熱を帯びたそれは、  
「ひ、ぁ……っ」  
 まるで彼女の声ではないようで―――遠いできごとのように感じてしまう。  
 他人事のように、頭と身体が切り離された感覚。  
 熱で満たされる身体と、それを俯瞰する頭。見下ろす景色に、ただ漠然と感想を述べるような不思議な気分だった。  
 視線は彷徨って、けれど絶対に正面は直視できない。きっと、お互い様。  
 
―――目が合えば、恥ずかしさで死んでしまいそうで。  
 
 夜に快楽を重ねた音が、声と混同して響き渡っていた。  
 どちらも艶を帯びたもので、聞く者の感覚に浴びせ、染め、侵そうと満たしてくる。  
 月が消え入りそうになるくらいの淫靡な夜。  
 明るさなど、情事の中に介入を許されない。  
 窓を閉ざしてカーテンを引き、顔色だけ窺えるような最低限の灯りの下、溶けた暗闇の衣を纏って手探りで身体を擦り合わせていく。  
「ふぁ……、んぅっ」  
 体勢を変え、ベッドに手を突かせ、四つん這いの姿勢に。途中漏れた息にすぐさま口付ける。  
 愛撫を繰り返す指先。途中漏れた息にすぐさま口付ける。その強引ささえ、闇に溶け込んで夢中であることを疎通させた。  
 既に言葉なんて、ない。  
 言葉にさえならない「音」が、感情を吐露している。  
 それだけで十分だった。  
 繋がり合うだけで熱は行き渡り、互いの思考すら読めてしまう。  
 欲の世界に溺れれば、何もかもが余計で、計算高く思えて仕方ない。  
「っ、ぁう、ん……ぷぁ……」  
 撓る身体にぴったりと自分の身体を密着させ、何度も、何度も、何度も肩越しに口付けを続けた。舌を這わせ、絡める。柔らかい唇も隅々まで味わい尽くした。  
 愛おしいと、伝えたい。  
 舌を這わせ、絡める。唇も隅々まで味わい尽くした。  
 抱いていた腕を動かし、口はそのままで地を向く乳房を手で揺らす。  
「ひあぁっ!」  
 びくりと身体が反応を示し、膣の締め付けが一段ときつくなった。心地良い断続的な快感に、思わず全てをぶちまけてしまいたくなる。  
―――顔も、胸も、尻も、膣内も、身体全部を自分の吐き出す欲望の具現である白濁した液体で汚してしまいたい。  
 そんな衝動を何とか抑え込み、閉ざしていた声を耳元で吐き出す。指からの伝達で先程からわかっていたことを。  
 
「―――凄い、勃ってる」  
 言いながら円を描くように、指の腹で孤立した頂点の周りを攻め立てる。  
「やぁ……、っ、ぁ、ぅんっ……!」  
 漏れる声。恥辱の入り混じる音。明らかな恍惚を表現している。  
 応の言葉代わりに、舌で返答すれば、乗数効果のように波が押し寄せる。感情の導きに、堤防が決壊し、理性がその領域を侵されていく。  
 疎かになる唇から離れ、終始真っ赤に染まっている耳朶を甘く噛む。じわじわと味わうように集中的に攻めた。  
 熱を帯びたそこは、果実のように甘くは無いが、柔らかく舌触りが良い。  
「ふ、あっ……んっ!」  
 脈動が何度も来た。肉棒を攻めながら、言いようの無い快感に身体を震わせている。  
 言葉と身体は別なのだと言っている。  
 どんなに拒否をしようとも身体は受け入れるだけの器でしかなく、素直な表現しか出来ないもの。  
 彼女の方は、既に体勢を保つのも精一杯で、そのまま前のめりにベッドへと顔を押し付けている。  
 手と口を別個に動かし続けた状態で、細い体に覆いかぶさるように。更に、結合したまま止めていた腰を再び一突き。  
「んんっ、ぁ、あぁぁっ!」  
 反動で溢れる嬌声。歪んだ耳に心地良いその音を聞きたくて、出来る限りの愛撫と同時に腰を連続で叩きつける。  
 双方向から圧迫する肉壁を掻き分け、奥へ奥へと挿入を繰り返した。それだけの単純行為が快楽を脳天までじわじわと駆け上らせてくる。  
「んんっ! はっ、あっ! あぁっ!」  
 抗いは、大分前、砂中に楼閣と共に沈んだらしい。否、沈んだのは乾いた砂の中ではないのだろう。  
 腰を前後させる度に溢れてくる多量の蜜音。絶え間無く、零れ落ち、ベッドに水溜まりを作っていた。きっと、外へと押し出されたものの中に溶けていたのだろう。  
「く、ふぁっ! やっ、ぁ、っ、んっ、ぁ、んっ!」  
 だから、今では拒絶も微塵で、それも単なる身体の強張りにしか思えないほど微かだった。  
 身体の自衛機能ともとれるもの。心の求めに応じ切れない身体の自律。けれど、そんな小さくて見えないものは、要らない。  
「んっ、ぁ、やっ、んんぁ、ひぅっ!」  
 今この瞬間を感じさせてくれる。満たしてくれる。  
 まず余計な細かい愛撫は横に置いた。そして、柔らかい尻を掴んで挿入へと集中させる。  
 
 そんな夢を見たその日は、朝方からどうも嫌な予感がした。  
「時に弟よ。甲斐よ」  
 夜、リビングでソファーに寝転がって、ぼんやりとテレビを見つめていると、不意に声をかけられた。  
 姉貴は、最近立ち上げたという劇団での活動に追われ、家にいること自体が少なくなった気がする。夜も遅いことが増えたし、バイトも加えて、忙しい日々を送っているらしい。  
 それでも、夢中になって好きなことに取り組む姿は、昔と変わらず弟の自分から見ても楽しそうに思える。  
「なんだよ」  
 そんな姉貴と久々に交わした会話が、  
「もうキスしたー?」  
「ぶっ」  
 これだ。  
「な、なに言って―――」  
 慌てて起き上がり、応戦を試みる。ソファー越しにニヤニヤと顔を歪めている姉貴は、心底楽しそうだ。  
「あらー? 何よその反応。もしかして、まだってことなのかなー、かーいーくーん」  
 麻井麦。彼女と付き合っていることは、自然に、漠然に、当然に、周囲には認知されていった。  
 当然、誰から聞いたのか、この姉にも。  
 しかし、家で四六時中顔を合わせる人間に、知られているというのは何とも面倒なもので。  
「……姉貴には関係ないだろ」  
「関係あるわよー。大事な後輩と(多分)大事な弟のことじゃない。気になるわよ」  
 素っ気なく返しても、効果なし。それどころか、思ってもいないことまで全力演技で突き返されてしまう。  
「絶対面白半分だ」  
「んー、どっちかっていうと、面白全部かも……」  
 こいつ、血の繋がりを感じねぇ……っ!  
 
「で、どうなのよ。ホントのところ」  
 こほん、と一呼吸。  
 語尾に音符がついているような口調で、楽しそうにこちらを窺っている。激しく振っている尻尾が見えそうだ。  
「さあな。大体、そんなこと―――」  
「新歓公演が終わったある日のこと―――」  
 仰々しく、舞台で導入部分を語りだすように腕を振り、語りだす。  
「―――え」  
 それを聞いて、『ある日のこと』がフラッシュバックする。  
「夕陽の射しこむ美術室で、2人は初めての―――」  
「ちょっと待ったああぁぁっ!」  
 思わず手を伸ばし、制止を求めるが、素早い回避にその手を空振る。  
「あら、何」  
「何じゃねぇ! なんで知って……っ!」  
「大事な後輩って言ったでしょ。この間ね、野乃と美麗と麦ちゃんでちょっと飲み会を。その時、ちょっとねー」  
 未成年!未成年だろ!  
 そんなことを聞く我が姉ではないので、心の中で突っ込んでおく。というか桂木先輩は呼ばれてない!?  
「酔った麦ちゃん可愛かったなー、いや、押し倒したくなるアンタの気持ちもわからなくもないわ」  
 陶酔したような表情で宙を見つめ、その時の姿を思い出しているようで。  
 両手は、わきわきと何やら不穏な蠢きをして……ちょっと待て。  
「押し倒してねぇよ!」  
 思わず、叫んでしまった。  
 言ったあとで、はっとして、顔が紅潮していくのがわかる。  
 姉貴は、そんなこちらの姿をニヤリと見下ろしていた。  
「へー、『その先』はまだってこと……やっぱりね」  
 誘導された。  
 熱の冷めないまま、ソファーから立ちあがり、テレビを消す。  
「あら、もう寝るの?」  
「そうだよ」  
「はいはい、お休み〜」  
 変わらず陽気な声を背に、乱暴にリビングの扉を閉め、階段を上っていく。  
 
―――柔らかかった、よな。  
 馬鹿姉貴が変なこと言い出すから、思わず余計なことまで思い出してしまった。  
 あの時。  
 触れた唇の感触。  
 柔らかさ。  
 瑞々しさ。  
 温もり。  
 吐息。  
 熱。  
 思考が、止まる。  
 ベッドの上で、身じろぎし、枕元に置いてあった携帯に手を伸ばす。  
 携帯を開くと、そこには穏やかな笑顔を浮かべる彼女の姿。  
 普通に撮ろうとすると、緊張してぎこちない笑顔になってしまっていたところを、上手く気が逸れたのを狙って撮ったもの。  
 彼女の親友曰く、  
「隠し撮りね」  
 と変態宣告されたが、  
「まあ、いい顔してるんじゃない」  
 なんて少し不満そうに漏らしていた。去り際、私には負けるけどね、とも言っていたのはこの際置いておく。  
 突然、携帯の画面がメールの着信を告げた。  
 メールの主は、麻井麦。  
 
From 麻井麦  
件名 明日  
本文 こんばんは。  
    副部長ちさとちゃんからの連絡でーす。  
    明日、放課後に演劇部の打ち合わせあるんだけど、早めに来られる?  
    夏合宿に向けて、色々話し合うんだけど……。  
    美術部、遅れても平気かな?  
 
 合宿……もう、そんな時期か。  
 新入生歓迎公演が終わって、落ち着いたと思ったら次は合宿。それで、秋公演。  
 流れ流れて、日々が過ぎて。忙しく動き回って、やりたいことをやって、それできっと3年目の高校生活も終わっていくのだろう。  
 長いようで、短い。けれど充実した1年。  
 携帯を操作して、返信する。  
 
To  麻井麦  
件名 Re:明日  
本文 わかった。  
    明日は、演劇部にすぐ行くよ。  
    合宿か。もうそんな時期なんだよな。  
    合宿といえば、色々あった……いや、その話はもうやめておこうかな?  
    また明日。  
 
 メールを打ち終わると電気を消して、そのまま布団を被る。  
 その先、か。  
 自分でも顔に熱が宿るのを、感じた。  
 考えたことが無いわけじゃない。ただ、いつの話か、いつかの未来の出来事なんて遠く考えていた。  
 それが、この前のキスの一件で狂っている。  
 何気なく、身を寄せて、口付けを交わして。  
 触れてしまった。  
 あんなにも容易く、彼女に触れてしまえる距離に自分がいることを悟った。  
 『いつかの話』が、一気に現実感を帯びて、目の前にまで迫っている気がする。目前にぶら下がって、美味しそうな餌のように吊るされている。  
 飛びつけって、いうのか?  
 こればっかりは、簡単に済む話じゃない。  
 思考の海の中、メールの着信が告げられる。内容は、予想通りで、過去の合宿について慌てふためく彼女らしい、可愛い文章が並べられていた。  
 すぐさま、何気ない謝罪と返信をし、枕元に携帯を置く。  
 もう一度、携帯を開いて眺めてから、眠りについた。  
 

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