「…は、ふぅ」  
がたん。あらかたの問題を解き終わり、気が抜けて机に突っ伏した。  
漏れる呻き声が、我ながらなんとも情けない。  
「もう音を上げているの?そんなじゃ、いつまでも苦手を克服できないわよ」  
「う、うるさいわね…」  
頭の上から降る、涼しい声。苛付く。思わず悪態をついた。  
まったく、この子はいつも、得意分野には自信たっぷりな態度をとるんだから…。  
とはいえ、野乃に苦手科目なんてあるのかしら?  
…なんだか、ますます劣等感が膨れ上がってきたので、このくらいにしとこう。  
放課後の図書室。秋も深まり、日が暮れるのも早くなった所為か、  
だいぶ生徒の姿もまばらになってきている。  
演劇部部長も引退した今、私は、目の前に迫った大学受験に備えるため、  
残された高校生活の大半を勉強に注ぎ込んでいた。  
今までが部活、部活で忙しかったためか、他にすることがあるわけでも無いし、  
それに、一応目標もあるのだ。それは、他でもない、目の前の…  
「そ、それにしても、野乃……」  
「何?」  
目の前の彼女は、呻くように声を絞り出した私に、なおも涼しげに笑顔を向ける。  
「…あんた、私に毎日付き合ってくれてるけど…その、自分のことは、いいの?」  
「今更勉強なんてするはずないじゃない。充分間に合っているわ」  
く、くぬぅ…余裕しゃくしゃくな態度を。  
私が、そんなあんたに追いつくために、どれだけ努力していると、思っているのよ……。  
「それに、ね」  
暇潰しをしていたのか、ぺらぺらとめくっていた文庫本をぱたりと閉じると、  
彼女はさらりと流し目をこちらに向けて。  
「…貴女と同じ大学に行けなければ、意味が無いでしょう。  
 だから、貴女に頑張ってもらわなければ、困るのよ」  
…そうだ。私がこんなにも頑張っている、他でも無い目標。  
来年も、彼女と同じキャンバスを、並んで歩きたいから。だから。  
「……、〜っ」  
でも、それを当の本人から言われてしまうと……恥ずかしい。頬が紅く染まるのを自覚する。  
「…照れてるの?」  
「う、うるさいわねっ!ちょっと…疲れた、だけよ」  
彼女に表情を見られないように、突っ伏して顔を隠す。  
「そうね…頑張っている、ものね、美麗」  
そっと、頭の脇あたりに、柔らかく触れる感触。  
野乃は、何かとこうしてくる。顔面の温度が更に上がるから、やめてほしいのに。  
「…別に、あんたのためじゃ…」  
「そうね。単純に、志望校が被ってるだけよね。  
 ……でも、私は、来年も、貴女と一緒に」  
「うるさい、ってば」  
精一杯強がる。…あぁ、いつから私、野乃にこういう態度しか取れなくなったんだろう。  
絶対、可愛く、無いよね……。  
「……本当、美麗って、可愛いわ」  
可愛くない。絶対、可愛くない。  
 
「…そういえば」  
野乃が話題を変えてきた。頬の紅潮も落ち着いてきたので、応じて顔を上げる。  
「…何よ」  
「さっきの、クリスマスパーティーの件…なんだけど?」  
「わ、私は、まだ出るって決めたわけじゃ……」  
放課後、図書室に来る前に、1年の…麻井麦さんに切り出された話題だ。  
…神奈さんが提案したらしいとはいえ、元・演劇研究会の部員が中心となって催すパーティーだろう。  
それに私が出るなんて、場違いも良いところ…とも、思っているのだけど。  
「さっきも言ったけど、息抜きも必要だと思うわよ?  
 ただでさえ、美麗は毎日、根を詰めているし。それに」  
「それに?」  
「…私は、美麗も一緒にいてくれた方が…楽しい、と思うわ」  
楽しい……か。  
1年前の野乃から、「他人と一緒にいて、楽しい」そんな言葉が出てきた例はなかった。  
それを思うと…やっぱり、放っては置けないと、そう思うのだ。  
「仕方ないわね。一日ぐらい息抜きしても、問題ないかしら」  
「決まりね。…まぁ、断られても、強制連行するつもりだったけどね」  
「ちょ、ま、待て!!」  
私の抗議の声に、ふふふっ、と笑う野乃。釣られて私も、笑みを浮かべる。  
……今だから思う。このひとときが、かけがえのない一瞬だと。  
いちど……失いかけた、絆だからこそ。  
今度こそ、大切にしたい。…もう二度と、あんな荒んだ気持ちに戻るのは…嫌だ。  
「…さて。そろそろ日も落ちてきたし、帰る支度をしましょう」  
「え…あ、そ、そうね」  
野乃の言葉で我に帰り、わたわたと勉強道具を片付け始めた。  
 
カバンを閉めたころ、すでに野乃はカウンターの前に歩を進めていた。  
「ちょっと、野乃、待ってよ」  
「もう司書さんは帰ったわ。施錠、お願いって」  
ちりりん。人差し指で鍵を回して鳴らす野乃。  
あたりを見渡すと、いつのまにか室内には、生徒の姿は皆無で。  
すっかり時間を忘れていたことを思い知らされる。  
手もとの腕時計を見やると、もう6時近く。  
演劇部にいた頃はこのくらいまで部室や講堂にいたことはしばしばあったけど、  
誰もいない図書室は、実感したことのない、奇妙な静けさがあった。  
「日暮れ、ほんとに早くなったわね。とっとと帰ろうか、野乃」  
「……」  
呼びかけ、図書室の出口に足早に向かう。…しかし。  
野乃は、窓の外、一点を見つめたまま、微動だにしなかった。  
視線の先は……あの秋の日、私たちがお互いの情熱をぶつけ合った、講堂。  
「…野乃」  
「……」  
彼女が舞台に立つ機会は、あの日を境に失われた。  
もとからそういう約束だったし、これ以上野乃に無茶をさせるわけに行かない、という気持ちは  
今でも全く変わっていないけど。  
…でも、彼女があの程度で、これまですべてを…その後の人生さえも、賭けようとした演劇を  
捨ててしまえるとも、微塵も思っていないわけで。  
「……未練、残ってないはず、無いわよね、どうせ」  
「当たり前でしょ」  
即答。…それはそうだ。そんなこと、今更聞くまでも無いではないか。私は自嘲気味に笑った。  
彼女は他の何を失ってでも、これからどうにかして、情熱を貫く術を探ろうとするだろう。  
そして、それを止めることなど、私には……  
「……」  
それでも、時は戻らない。あの頃に…戻ることは出来ない。  
未練、無念、悔しさ…それらを抱えて、私たちはこれからも生きていく。  
…野乃。貴女のその視線の先には、何があるの?  
 
陽はすでに落ち、照明の消された図書室の中にも、夜の暗闇が広がりつつあった。  
訪れた沈黙に耐えられず、扉に手をかけると、背後から声がかかって。  
「…美麗」  
…ふわっ。背中に、暖かい感触が、伝わった。  
「……っ」  
「…み、れい」  
掠れた声。…泣いてるの、野乃…?  
振り返り、震える両肩にそっと手を当てた。  
彼女は顔を伏せたまま。表情をうかがい知ることは出来ず。  
「ちょっと…どうしたの?らしくないわねぇ。  
 あんたでも、おセンチになることってあるのかしら」  
「…そうね」  
「やけに、素直じゃない」  
「そうね」  
か細い肩。この一年、事あるごとに威勢を張ってきた彼女とは、全く違う。  
…私たちが初めて出会った、あの頃の野乃の姿が、不意にダブった。  
「…野乃」  
彼女が顔を上げた。目尻に浮かぶ涙を、親指で拭ってやる。  
身じろぎするその肩を、両腕で挟み込む。  
「…くすぐったいわ」  
「じっとして」  
「…キスでも、したくなったの?」  
「うるさいわよ」  
減らず口をたたく、その口を……唇で、塞いでやる。  
ふわりとした、みずみずしい感触。…思えば、私から求めたのは…ずいぶん久しぶりだった。  
丁度、一年ぐらい前…『プリマヴェーラ』の衣装が出来、それを初めて彼女に着せた、あの日…以来だったかも知れない。  
それから数日後、私たちは……  
「…今度は、貴女が泣いてるの?」  
いつの間にか互いの唇は離れていて。それでも離れているかどうか、という間近で、  
彼女が私の顔を覗き込んでいた。…頬が、濡れているのに気づかされる。  
慌てて拭おうとすると…野乃の指が、それを拭った。  
「お互いで涙を拭いあうなんて、なんだか滑稽ね」  
「そうかしら?美しい、とは思わない?」  
「変なところでロマンチックね、あんた」  
「そうね」  
…そうだ。あの日から…離れていたと思った、二人の距離。  
今は、こんなにも、近くにある。  
それが、たまらなく嬉しくて。  
「…の、の」  
…目の前で微笑みを浮かべる彼女が、たまらなく愛しくて。  
背中に手を回し、ぎゅう、と抱いて、その温もりを確かめた。  
「……みれ、い」  
しがみつかれ、今度は彼女のほうから、接吻を求められる。  
唇を重ね、身体を重ね……心まで重なれと、強く、願った。  
 

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