『姫君と婚約者』高遠砂夜・著(コバルト文庫)  
 
あらすじ:奇姫と異名をとるディアゴール王家三姉妹の末姫アリィシア(14歳)が、  
王国の危機を救うために母親の元カレである大魔法使いの元へ政略結婚で  
無理やり嫁がされそうになるもあっさり陥落。  
当の魔法使いガルディア(385歳。でも人間じゃないので若くて美形)も、  
なんだかんだうだうだいいつつ実は末姫が運命の相手だったり  
それから何度も王国の危機を救ったりとかで、今では名実ともに立派な婚約者に。  
原作は12巻+外伝1巻が出てます。……放置され中ですが(TДT)  
 
 
『花をあなたに・前編』 
 
 
早く大人になりたいと思っていた。  
 
大人になって、愛する人の元に嫁いで、たくさんの子供たちに囲まれて暮らす幸せな未来  
像を胸に描いていた。いつも。  
種族も寿命も、考えていることさえも何もかも違う人だけど、それは確かな未来だった。  
時を超えて行き着いた過去に置き去りにしてきた、若かりし頃の愛しい人と約束したのだ。  
三百年の孤独と引き換えに、ともに幸せな未来を得よう、と。  
違う時間を生きる彼の人は遠い昔に大人になり、自分がこの世に生を受けるのを待っていて  
くれた。  
そう、たとえ記憶を封じ込めていたのだとしても、彼は待っていてくれたのだ。  
だって、こうして出会えたのだから。  
待たせた分、彼が抱えた孤独の分も、補って余りあるほど愛したかった。  
そのために早く大人になりたかった。  
誓われた『未来』が『現在』となる日は、そう遠いことではないように思われた。  
 
   ☆☆☆  
 
ガルディアは困惑していた。  
――いや、正確に言うならば、困惑している自分自身に困惑していた。  
原因なら思い当たる。  
アリィシアの不在、である。  
理由がわからない。  
アリィシアがそばにいなくて困ることなどひとつも無いはずだった。  
少なくとも、ガルディアにとっては。  
読書も古代魔法の研究も薬草採集の旅も、邪魔の入らない今なら望むだけできるのだ。  
婚約して以来、味わうことの無かった開放感である。  
 
アリィシアがその姿を見せなくなって、七日が経とうとしていた。  
 
一日と間をおかず頻繁に訪ねてくる幼い婚約者を持て余していたガルディアにとって、  
それは降ってわいたような休息とも呼べる日々だった。  
『お茶の時間』と称して無理やり読書を中断されることもなければ、水鏡を覗き込んでいる  
最中に背後で『かまってかまって』とわめきちらされることもなく、旅支度を始めるそぶりを  
見せただけで『ガルディアったら可愛い婚約者であるあたしを置いていったいどこへ行こうって  
いうのよ! きいいっ』と部屋中のカーテンを引きちぎって暴れ出されることもない。  
これでしばらくは平穏な日々が送れる――そう安堵したのはつい数日前のことだ。  
そして事実、ガルディアは久方ぶりに取り戻した静寂の中で、充実した日々を送っていたのだ。  
つい先程まで。  
「…………」  
ガルディアは手にしたものを無表情に見下ろした。  
それは、一輪の枯れかけた花だった。  
ガルディアは困惑していた。  
――理由は、わからない。  
 
   ☆☆☆  
 
アリィシアが魔法使いの館に訪れなくなって数日が経過していた。  
風邪で体調を崩したので二、三日の間訪ねて行けないかもしれないが心配しないように、  
との旨を記した末姫からの手紙を王城から鳩が運んできたのが七日前のことである。  
婚約したばかりの最初の頃は、館に訪れるにもいちいち鳩だの使者だのと仰々しく知らせて  
きたアリィシアであったが、館へと通じる魔法陣をなかば無理やりに設置させられてからは、  
何の前触れもなしに訪ねてくるようになった。  
通ってくる日数も、最初の頃こそ週に数日としおらしい頻度であったものが、やがてそれも  
一日おきへとかわり、今ではほぼ毎日といっていいほど顔を見せるのが当たり前のように  
なっている。  
だが、はっきりいえば、ガルディアにとってアリィシアの訪問は迷惑と言い切っても  
いいようなものだった。  
もともと何事にも無関心なガルディアに対して、アリィシアはガルディアに無関心ではいられない。  
というより何にでも首を突っ込んでくる。  
構わないとすねる。  
甘やかすと際限が無い。  
自分の時間の大半を取られる。  
今回のアリィシアからの知らせは、だからガルディアにとってはまさに朗報といえた。  
その事を婚約者の姫が知ったら地団駄を踏んで激怒するところだろうが。  
 
一日目は読書にいそしんだ。  
清閑に包まれた書斎に、書物をめくる音だけが時折はらりと響く。  
やれ少しは目を休めろだの体に悪いから食事を取れだのいいかげんあたしを見てだのと  
いった外野の声に邪魔されることもない。  
ガルディアは心置きなく書斎にこもってまる一日を費やし、手に入れて以来埃をかぶって  
いたままだった本の一山を崩すことに成功した。  
実に有意義な一日だった。  
 
二日目は書庫の整理に手を付けた。  
昨日目を通した魔法書を棚に並べているうちに、ものはついでと入手順に並べてあった  
魔法書の半分ほどを魔法学的体系的に並べ替えることにしたのである。  
量が量だったので蝋人形たちに手伝わせてもその作業は終日を労した。  
アリィシアがいれば『あたしも手伝うわ!』と余計な親切心を発揮してめちゃめちゃに  
引っ掻き回されたところだろうが、今日はその心配もないのだ。  
まったくもって有意義な一日だった。  
 
三日目は古代魔法書の解読に費やした。  
今は失われた言語で記された失われた知識をひも解くとき、ガルディアの胸にふとかすかな  
郷愁がよぎる。  
彼の一族もまた失われた歴史の中にしか存在しえない遠い記憶であったから。  
だが、感傷に浸るのはガルディアの趣味ではなかった。いくつかの必要な事柄だけを  
羊皮紙に書きとめると、用の済んだ古文書を紐でまとめて書庫の棚の奥に戻す。  
念のため、さほど貴重でない本を古文書の前に積み上げてカムフラージュしておくのも忘れない。  
重要なものはアリィシアの目の届かないところに隠せ、というのがいつしかガルディアの館での  
鉄則になっていた。  
――かつてアリィシアの怒りの矛先が『ガルディアがあたしより大事にしているもの』に向けられた  
結果、二度と手に入らないような貴重な資料を失ったという苦い経験に基づいた賢明な処置である。  
ともあれ、これでしばらくの間研究に没頭するだけの材料ができたことになる。  
なかなか有意義な一日だった。  
 
四日目は古代魔法の再現に心を砕いた。  
アリィシアに見つからないよう、隠し棚に厳重に保管しておいた貴重な魔法石のいくつかを  
取り出す。  
研ぎ澄まされた精神を水鏡に向かって集中し、幾重にも強化した結界の中で古文書から  
復元した呪文を詠唱する。  
厳然たる静寂の中、この身を包む心地よい緊張感を味わったのはいつ以来のことだろうか。  
またもや有意義な一日だった。  
 
五日目は薬草の採集に出かけた。  
遠出をするつもりで館を出たガルディアだったが、飛翔している最中にふと眼下に広がる森を  
目にして気が変わった。  
森の中ほどに位置する泉のそばに、貴重というほどではないが、珍しい部類には入る薬草が  
群生しているのを思い出したのだ。  
泉のほとりで翼を休めながら、ガルディアはふと騒々しいくらいにはしゃぐ婚約者の姿を  
思い浮かべる。  
周辺には薬草だけでなく、いかにも少女の目を引きそうな色とりどりの花々が咲き乱れている。  
アリィシアのことだ。もし館に来ていれば自分も連れて行ってくれと騒ぎ出していたに違いない。  
二人で食べきることなど考えていない量の食料をバスケットに詰め込み、ピクニック気分で  
嬉々として敷物を広げている姿が目に浮かぶようだ。  
ガルディアは何気なく花々に手を伸ばし――自分が取ろうとしていた行動の意味のなさに気づく。  
疲れているのだろうか?  
いや、単に見誤ったに過ぎない。  
可憐な薄黄色の花びらとは似ても似つかない、毒々しい赤紫の花弁を持つ薬草を摘み取りながら  
ガルディアは小さく息をつく。  
持参してきた小さな籠はすぐにいっぱいになった。  
太古に失われた種族――翔翼人《リル・ディーン》の証である純白の翼を大きく広げると、  
大地を一蹴してガルディアは大空へと浮かび上がる。  
この森から王城は程近い、ということをふとガルディアは思い出した。  
だが、それがどうしたというのだろう。  
ガルディアはまっすぐに館へ舞い戻った。予定を変更して、書斎へこもって薬草の分類学にでも  
手を付けてみる気になっていた。もともとは気まぐれな性質なのである。  
今日もアリィシアは訪ねてこなかった。おかげで研究は思った以上にはかどった。  
これもまた有意義な一日だったといえよう。  
 
六日目は、再び読書に精を出すことに決めた。  
元より『あたしより本のほうが大事なのね! ひどいわ!』と婚約者を嘆かせるほどの  
読書家である。  
幸い、手を付けていない蔵書なら書斎にも書庫にも山のように積まれている。事欠くには  
あたらない。  
ガルディアはそばにあった本の山から一冊を手に取り、表紙を見て眉をひそめた。  
それは、いかにも年若い少女が好みそうな、甘いロマンスを題材にした恋愛小説だった。  
何故こんなものがここにあるのか、といえば犯人は決まっている。  
『乙女心を理解してもらうため』と称して、アリィシアはしょっちゅうガルディアの目を盗んでは  
この手の類の少女小説を書物の山に紛れ込ませるのだ。  
最初の頃は見つけるたびに燃やすか捨てるかして、それを見咎めたアリィシアと喧嘩も  
絶えなかったものだが、やがてそれらの小説を木箱にしまって隔離する、という比較的平和な  
手段を学習したおかげで、ガルディアの読書傾向に限って言えば、ここのところ平穏な状態が  
続いている。  
ガルディアは趣味の悪い乙女チックな表紙が見えないようにその本を裏返して机の上に置き、  
読みかけだった別の本を手に取った。  
夜になっても、アリィシア本人はもちろん彼女からの知らせも城からの使者も訪ねては  
来なかった。  
これだけ静かな日々が続くのも珍しい。ガルディアは深夜まで読書にふけっていた。  
すこぶる有意義な一日だった。  
 
7日目も読書に費やすことに決めたガルディアは、日がな一日書斎に引きこもっていた。  
すでにここ数日で読了済みの書物が、机の脇に新たな山を築こうとしていた。  
(読書はいい。……余計なことを考えずにすむ)  
『余計なこと』として婚約者の姫の姿が脳裏に浮かんでくるのを、魔法使い自身が  
不思議とも思ってないのが一番不思議といえるのだが、無論本人にその自覚はない。  
その夜の簡単な夕食を終えてガルディアが書斎に戻ろうとすると、ちょうど蝋人形の一人が  
何かを抱えて廊下を歩いてくるところだった。  
すれ違ったはずみで、何かが床に落ちる。  
いつもなら気にもかけないガルディアだが、その時はどういう魔がさしたのか、  
つと手を伸ばして床に落ちたものを拾い上げた。  
それは、しおれかけて色あせた一輪の花だった。  
「これはどうした?」  
「枯れたので処分するところです」  
ガルディアの魔法で偽りの生を吹き込まれた蝋人形が、事実のみを簡潔に、  
無機質な声で答える。  
蝋人形が運んでいたのは、一抱えもある大量の枯れかけた花だった。  
ガルディアの館が殺風景だといって、そこら中に花を飾りたがるのは、ガルディアが最も  
迷惑にしているアリィシアの趣味のうちのひとつだ。  
壁紙から絨毯から調度品ひとつまですっかりアリィシア好みに改装されてしまった  
今となっては、心落ち着ける場所はなんとか死守した書斎と魔法部屋、それに寝室くらいな  
ものなのだが、アリィシアは残された聖域とも呼べるそれらの部屋にまで花を飾りたがった。  
古い調度品と黒を基調とした重々しい雰囲気が立ちこめる部屋に、可憐な花々はどうみても  
そぐわない。  
そんな事は気にもとめないアリィシアは、ガルディアの迷惑顔もよそに、まめに水を替えたり  
花を変えたりとかいがいしく世話をしていたものだったが――。  
 
(切花にも寿命があるのだな)  
ガルディアはぼんやりとそんな事を思った。  
アリィシアが手をかけていたおかげか、いつもそこにあるのは瑞々しい花達ばかりだった。  
世話をするものが無ければ寿命は短い。当たり前のことだが、今まで忘れていた。  
「ガルディア様、いかがなさいましたか」  
抑揚の無い声で蝋人形が機械的に尋ねる。  
「何でもない。行け」  
蝋人形に劣らぬ無表情でそう告げると、やがてガルディアは向きを変えて魔法部屋へと  
歩き出した。  
 
 
何となく、薬草を煎じてみようという気になった。  
特に深い理由はない。摘んできた薬草が良い干し具合だったり、めったに使うことの無い  
所為で傷んだ常備薬のいくつかを新しいものと交換するためだったり、つい先ほど読んだ  
ばかりの書物に書かれていた調合を試してみようというのもある。  
薬物の調合はガルディアの数多い得意分野のひとつでもあった。  
魔法部屋で、ぐつぐつ煮えたぎる鍋の中身を攪拌棒でかき混ぜながら、ガルディアは  
退屈しのぎに机の上に広げておいてあった紙片を手にとってみる。  
それは七日前に鳩によってアリィシアから届けられた手紙だった。  
花柄にレース模様で縁取られたなんとも少女趣味なその便せんに、お世辞にも上手とは  
いえない筆跡でこうしたためてある。  
 
『愛するガルディアへ。  
体調をくずしたのでしばらくそちらへはいけないと思うわ。  
しばらくといっても二、三日のことだから、あたしがいなくて寂しいと思うけどガマンしてね。  
きっと心配してくれるとは思うけど、ええと、そうそう、ただの風邪だから気にしないでね!  
くれぐれもあたしがいない間、食事も忘れて読書に没頭したり、  
ついでだからって遠くに旅に出たりしちゃだめよ!  
あたしは元気になったらすぐそっちへ行くんですからね。  
本当にどこにも行ったりしちゃいやよ?  
じゃあね、愛してるわ。あなたの愛しい婚約者より』  
 
ずいぶんと長い二、三日もあるものだ、とガルディアは思う。  
それにしても今回のこれは長すぎではないだろうか。   
アリィシアのことだ。病床が長引けば退屈が高じてやれ声が聞きたいだの顔が見たいだの  
せめて見舞いの便りでもよこせだのと言ってきてもよさそうなものである。  
それができないというのはよっぽど……いや、もしそうなら城のほうから直々に何か知らせが  
あってもいいはずだ。  
だが、城には王家直属の医師団が控えている。多少風邪が悪化したくらいで、諸国にその名を  
轟かせる大魔法使いガルディアの手を煩わせるわけにはいかないと、気を使っていることも  
考えられる。  
考え込んでいるうちに異臭が鼻をついた。  
噴きこぼれた煎じ薬が鍋の底に焦げ付いてしまっている。ガルディアは特に慌てた風でもなく  
火を止めて鍋を下ろすと、少し考えて薬品棚から取り出した白っぽい粉をさらさらと鍋の中に  
混ぜ込んだ。  
鍋の中の濃い緑色をした液体が、見る見るうちに薄桃色のとろりとしたゼリー状に変化する。  
と同時に、液体から漂っていたなんともいえない苦味をかもし出す臭気が、いかにも子供の喜びそうな甘露のそれに変わった。  
ガルディアは液体をそっと小瓶に移し変えると、しっかりと封をした。  
四百年に届こうかという長き生を歩んできたガルディアであったが、このようなものを煎じたのは初めてのことである。  
何事も経験というから、これもまたひとつの有意義な一日の過ごし方といえるかもしれない。  
 
だが、ガルディアにとって今日という日はこれで終わりではなかったのだ。  
 
   ☆☆☆  
 
それから数刻とも経たぬ頃、首都コルドにおける王城の一室にて。  
 
「珍しい客人もあったものね」  
突如、外に響いた大きな羽音に何事かと窓を開けてみれば、予想通り翼を持つ魔法使いの  
姿をそこに見つけてレイ・レナ姫はそう呟く。  
夜を思わせる漆黒の髪と、黒曜石の瞳を持つ世継ぎの姫。  
鬼姫と名高いレイ・レナ姫は、ガルディアの婚約者である末姫アリィシアが最も敬愛して  
止まない長姉である。  
「で? 何故アリィシアでなく姉の私の所へくるのかしらあなたは?」  
「今が夜だからだ」  
「…………それで?」  
「若い娘のところへいきなり訪ねてゆく時間ではない」  
レイ・レナ姫は内心頭を抱えた。この男は自分のことをなんと考えているのか。  
ようはアリィシアの元へ取り次げということらしいが、変なところで紳士振りを発揮するくせに、  
婚約者の姉である自分に対してはまったく気が回らない、というよりは回す気がないらしい。  
何のかのといいつつ、アリィシアの事以外考えていないのだ。この男は。  
「……こんなところを誰かに見られたら誤解されてしまうわよ?」  
馬鹿馬鹿しいと思いつつもレイ・レナ姫はガルディアを部屋に招き入れる。  
それでも、この鉄面皮の裏で少しはアリィシアの事を考えてくれていたのだと思うと、  
妹の気持ちを誰よりも知っている姉としてはうれしい反面複雑な思いでもある。  
何しろ、今のアリィシアの状態ときたら――――。  
「言っとくけど、今のアリィシアには」  
あまり近寄らないほうがいいわよ、といいかけてレイ・レナ姫は口をつぐむ。  
『あれ』以来、自分はもとより次姉のミルレーユ姫にも母親である王妃にも会おうとしない。  
一番親しい侍女のアルミラだけは身の回りの世話をするためにアリィシアの自室への  
出入りを許されているが、他のものに対しては固く扉を閉ざされたままなのだ。  
もちろん、自分をはじめ周囲のものはその『原因』を知っているが……はたしてガルディアに  
それが理解できるだろうか?  
 
素直に会わせていいものなのか――逡巡するレイ・レナ姫をどう思ったのか、ガルディアが  
問いかけてきた。  
「……なにがあった?」  
「病気よ」  
何気なく口にしてから、レイ・レナ姫はしまったと思った。  
月の光を思わせるような、見るものによっては冷たい印象を受ける琥珀の瞳に、  
しかし微かな動揺を確かに見たような気がしたのだ。  
他のものなら誰も気づかないだろう。しかし、同じ者を愛しいと思う者同士だからこそわかる。  
多分この不器用な男は自分でも気づいていないのだ――自分がどれだけアリィシアを  
心配しているのかを。  
「嘘よ。病気じゃないわね。でも、知恵熱みたいなものかしら。私の口からは説明しにくいわね。  
……たぶんアリィシアも言わないと思うわ」  
歯切れの悪い台詞を口にしながら、レイ・レナ姫は蜀台を手に自室を出た。  
侍女も付けずに自ら先導してアリィシア姫の自室へと向かう。  
ガルディアに会わせる会わせないは自分が決めることではないと思った。  
それはアリィシアが自分で決めることなのだ。  
幼いと思っていた末の妹姫――だが、彼女ももう子供ではないのだから。  
 
アリィシア姫の部屋の前につくと、お付の侍女もすでに下がらせた後なのだろう、  
扉の前はしんと静まり返っている。  
レイ・レナ姫はこんこん、と扉を叩いて妹を呼んだ。  
「アリィシア? 起きてる?」  
「お姉様?」  
意外と元気そうな声が返ってきてレイ・レナ姫は安心した。後ろに佇む黒衣の魔法使いを  
ちらりと見上げてうなずいてみせる。  
それから、婚約者の来訪を告げた。  
 
「ガルディアが来てるの? 本当?」  
ぱたぱた、と足音が響いたかと思うと、かちゃりと鍵を開ける音がして、アリィシア姫の  
自室に通じる扉がわずかに開かれた。  
隙間から、どことなく恥ずかしそうな表情を浮かべてアリィシア姫がこちらの様子を伺っている。  
「ガルディア! 会いに来てくれたのね、嬉しいわ! どうぞ入ってちょうだい」  
てっきり拒否するものと思っていたのが、あっさりと婚約者を招きいれようとするアリィシアの  
嬉しげな様子に、レイ・レナ姫は拍子抜けする。  
自分や母親に会うのさえあれほど嫌がっていたのに――それともこれが恋の力という  
やつなのかしら?  
様々な事情があって、恋という感情を育んだことが無いレイ・レナ姫はそんな風に思った。  
「お姉様」  
ガルディアに続いて部屋に入ろうとしたレイ・レナ姫をアリィシアはやんわりと押しとどめた。  
「あたし、ガルディアと二人きりで話がしてみたいの。……いけない?」  
「アリィシア?」  
妹姫の真剣な表情がやけに大人びて見え、レイ・レナ姫は一瞬戸惑いを覚えた。  
それでも姉としての威厳は崩さずに言葉を続ける。  
「でも、無理することはないのよアリィシア。よければ私から事情を話して、ガルディアに  
会うのはもう少し落ち着いてからでも――」  
「ガルディアと二人で話がしたいの、お姉様」  
幼いばかりだと思っていた末の妹姫の瞳に決意にも似た輝きを認めて、レイ・レナ姫はふ、と  
表情をやわらげる。  
(そう、こんな表情もするようになったのね)  
ずっと手のひらでえさを求めて鳴いていた雛が、空へ巣立つのを見守るような気分だ。  
「頼んだわよ。ガルディア」  
こちらに背を向けたままの魔法使いにそんな言葉をかけながら、姉姫はそっと後ろへ下がった。  
静かに扉が閉まる。  
(…………あなたに、アリィシアを託すわね)  
 
   ☆☆☆  
 
「……元気そうだな」  
何から声をかければいいのか。  
薄い寝巻きの上にガウンをまとっただけの姿のアリィシアは、気恥ずかしそうに胸のあわせを  
両手で押さえながら、それでも心底嬉しそうにガルディアに向かって微笑んだ。  
「会いたかったわ、愛しいあなた! ガルディアからこんな風に会いに来てくれるなんて  
夢みたい! あたしに会えなくて寂しかった? あたしは寂しかったわー。毎日ガルディアの  
夢を見ちゃったくらいよ。そうだわ! 昨日の夢なんて、うふふ、ガルディアったらあたしに  
向かって……」  
「元気なら、用は無い。今日はこれを届けに来ただけだ」  
放っておけば延々と夢の話を続けそうなアリィシアの勢いを低い声でそっけなく押しとどめ、  
ガルディアは懐から小瓶を取り出して寝台のそばの脇机にそれを置いた。  
それは、先程ガルディアが魔法部屋で調合していた液体――子供用の風邪薬、だった。  
アリィシアが不思議そうに小瓶を取り上げる。  
「ガルディアが、これを? あたしに?」  
「風邪に良く効くという薬草がたまたま手に入ったんでな」  
言いながら、ガルディアの胸にふと奇妙な感覚がよぎる。  
自分は本当にこれを届けに来るだけのつもりだったろうか。  
アリィシアの顔を見るために、風邪薬という大義名分を作り出したのではないだろうか。  
 
一瞬浮かんだ馬鹿げた考えを頭を振るって打ち消すと、ガルディアはおもむろに純白の翼を  
出現させた。  
アリィシアが驚いて駆け寄る。  
「待って! ……どうしてたかってあたしに聞かないの? ガルディア」  
「風邪なのだろう?」  
用は済んだから帰る、と言わんばかりに翼をはためかせる魔法使いの腕に、アリィシアは  
思わずひっしとしがみついた。  
「ちがうの! えっと、手紙には風邪って書いたんだけど実はそうじゃなかったのよ」  
「どういうことだ?」  
ガルディアは訝しげに少女を見下ろした。  
が、合わせていたガウンの前がはだけて、大きく開いた襟ぐりの隙間から白い谷間が顔を  
のぞかせているのに気がつき、ついと目線をそらす。  
そんなガルディアの表情の変化に気づくことも無く、アリィシアはくぐもりがちな小声で  
うつむきながら何事かを呟いた。  
「…………の」  
「何を言っている?」  
ガルディアは首を傾げた。アリィシアは顔を上げない。  
「……が、来ちゃったの」  
「なるほど、客人が来ていたのか。それならそうと」  
「ちがーう! もうっガルディアったら! そうじゃないのよ!」  
アリィシアは意を決したようにがばっと首を上げた。  
青い目を見開いて、ヤケになったように叫ぶ。  
「来たのよ! 初潮が! あたし生理になったの! 大人の女になったのよ!」  
 
「………………」  
「………………」  
ガルディアは天井を振り仰いだ。  
派手過ぎない装飾のシャンデリアが蜀台の明かりを受けて煌いている。  
「………………」  
「……ガ、ガルディア?」  
ガルディアは部屋の壁にかけられた肖像画に視線をとめる。  
額の中で、黒髪に琥珀の瞳を持つ黒衣の男が無表情にこちらを見ている。  
呑気なものだ、となんだか腹立たしく感じてしまったが、絵の中の自分に当たるわけにもいくまい。  
「………………」  
「ガルディアったら! 何とか言ってよー、もうっ」  
ガルディアは腕にしがみついたままの少女に目を向けた。  
赤茶けた金髪の巻き毛を腰まで垂らし、印象的な青い瞳を大きく見開いて、  
不安げにガルディアの様子を伺っている。  
「――――――――良かったな」  
他になんと言ったらいいかわからなかったので、とりあえずガルディアは思いついた無難な  
台詞を口にしてみる。  
地方によっては家族を上げて祝いの席を設けたり、初潮の訪れを成人の目安にしている国も  
あると聞くから、めでたいことには違いないと思ったのだ。  
「本当に? 本当にそう思う? ガルディア!」  
「ああ」  
他にどういえばいいというのか。  
ガルディアの当惑をよそに、アリィシアは瞳を輝かせて無邪気に声をあげた。  
「嬉しい! じゃああたしと結婚式を挙げてくれるのねっ!」  
「……どうしてそうなるんだ?」  
 
腕にしがみついたアリィシアをなんとか引き剥がして寝台の端に腰掛けさせ、  
ガルディアはその傍らに佇んだ。翼はとうに体内に収納してある。  
アリィシアが恨めしげにガルディアを見上げてきた。  
「……どこからそういう話になるんだ? アリィシア」  
「だって、アレ……がきたのもびっくりしたけど、これでも一応知識はあったのよ?   
それは、突然で驚いたっていうのもあったけど……ううん、あたしが一番びっくりしたのは、  
そう………………なの…………」  
再びアリィシアの語尾が小さくなる。  
ガルディアは小さく息をついて、アリィシアの隣に静かに腰を下ろした。  
いつもならここで、喜んでガルディアの首にしがみついてくるか胸に飛びついてくるかする  
アリィシアなのだが、今日はそれもない。  
そればかりか、ガルディアと触れた肩先をぴくんと震わせて身を固くする。  
アリィシアらしくないその反応にガルディアもどう対応していいかわからず、  
しばらく二人の間に沈黙が続いた。  
ふと、ガルディアがアリィシアの頭に手を伸ばす。  
そうして、赤茶けた金色の巻き毛に指を絡めながら優しく撫でた。  
もう一方の腕をまわして、そっとアリィシアの頬に触れる。  
これは、ガルディアがアリィシアの話を真剣に聞くときの癖だった。  
アリィシアも、力が抜けたのか、ほっとガルディアの肩に頭を預ける。  
「なにがあった? アリィシア」  
「ディアゴール王家ではね、代々、姫が初潮を迎えたときに、『その事』を教える風習になってる  
んですって。だからあたしが今まで知らなかったのも無理はないと思わない?   
そりゃあ、あたしだって赤ちゃんがキャベツとか木の股から生まれるのってなんとなく変だな  
とは思ってたけど、でも、いきなりそんなこと言われてもびっくりしない方が無理だと思うのよ」  
「……ちょっと待ちなさい、アリィシア」  
 
「最初の二、三日はショックで本当に熱を出しちゃったくらいだわ。ううん、もちろん、  
おなかの痛いのもあったんだけど。ああでも、知ってしまったからには今までのようには  
すまされないんだわ! これが大人になるってことなのね。でもまだあたし信じられないの!  
だって、ガルディアがあたしにあんなことやそんなことするだなんて、考えただけで……」  
言葉に出しているうちに興奮してきたのか、アリィシアの声が上ずってくる。  
「アリィシア」  
「ううん、痛いのなんて我慢できるわ! だって愛するガルディアのためですもの。  
でも違うの、痛いのが怖いんじゃなくて、ほらなんていうのかしら? ああやっぱり怖いのかも。  
でもあたし」  
「……なんの話をしている?」  
ガルディアがわずかに力を込めてアリィシアの顔を上向かせる。  
アリィシアはきょとんとガルディアの顔を見上げ、そうして頬を染めてうつむいた。  
「いやーね、赤ちゃんの作り方に決まってるじゃない」  
「……………………」  
ガルディアの沈黙をどう受け取ったのか、アリィシアはにわかに元気付いてまくしたてる。  
「あ、もしかしてガルディアも知らなかったのかしら? それなら大丈夫、あたしにまかせておいて!   
なんたって侍女頭や作法の先生にばっちり教え込まれたばっかりだし、  
そんなに難しいことじゃないと思うわ。なんならガルディアは何もしなくてもいいのよ。  
あたしがちゃんとリードしてあげるわ。大丈夫、きっとうまくいくわよ!」  
ガルディアはディアゴール王家の性教育方針とやらに本気で疑いを持った。  
 
「……ガルディア?」  
黙り込んでしまったガルディアを、アリィシアは上目遣いで不思議そうにのぞき込む。  
自然と胸の谷間が強調されるようなポーズになってしまうが、アリィシア自身にその自覚は  
ない――はずである。  
とにかくガルディアはそう思うことにした。  
(余計に始末が悪い……)  
髪をすいていた手をそっと肩にずらすと、アリィシアは何かを期待するようにそっと瞼を伏せる。  
誘うような、だが色香よりはまだあどけなさがそれに勝るアリィシアの表情をなるべく  
見ないようにしながら、ガルディアはそっと少女を自身の胸に引き寄せ、羽織っていたガウンを  
肩から滑らせた。  
アリィシアは瞳を閉じたまま、ガルディアに身をまかせている。  
ガルディアはアリィシアの腰に手をまわし、そのまま横抱きに抱え上げた。  
先程までアリィシアが横になっていたのだろう、やや乱れた寝台の上掛けをめくると、  
アリィシアの体をそっと中央に横たえる。  
アリィシアは何かを覚悟するように、胸の上できゅっと両手を組み合わせた。  
その姿は祈りをささげる聖女のようにも見えた。  
自分がリードするとかなんとか威勢のいい事を言ってはみたものの、やはりどこか怖いのだろう。  
閉じられた瞼が緊張のためかぴくりと震えた。  
安心させるように、黒衣の魔法使いは低い声で幼い婚約者の名を呟く。  
「アリィシア……」  
 
ガルディアはアリィシアの上にかがみ込むように身を落とすと、めくり上げていた幾層もの  
掛布をきちんとアリィシアの肩まで隠れるように掛け直した。  
そして立ち上がる。何事もなかったように。  
「もう寝なさい」  
途端に、アリィシアが寝台からガバッと跳ね起きた。  
「ガルディアったら! ちょっと待ちなさいよーっ!」  
大人しく震えていたたおやかな少女の面影はどこへやら、という勢いである。  
今まさに翼を出さんとする魔法使いの上着のすそを、逃がすものかとはっしと掴む。  
「ひどいわひどいわガルディアったら! この期に及んであたしを捨てる気なのねっ?   
あんまりだわ!」  
この期とはどのあたりを指すのか深く考えないようにしながら、ガルディアはすそを掴む  
小さな指先を優しく外す。  
「お前は、まだそんなことを考えなくていいんだ。……早すぎる」  
「そんな事ないわ! だってあたしもう大人になったんだものっ。先生だって言ってたわ、  
初潮が来たということはすなわち女性としての成長の節目であり、愛する男性と結ばれて  
その児を胎内に宿すための――」  
「それはもういい」  
揚々と性教育の授業を再現し始めたアリィシアをそっけなく制し、ガルディアは深く息をついた。  
婚約して以来、この三七〇歳余りも年の離れた幼い姫には振り回されっぱなしの  
ガルディアである。  
ディアゴールの地にその人ありと恐れられた、伝説の魔法使いも形無しというものだ。  
邪魔で煩くてはた迷惑な、無邪気で幼い存在。  
だが、誰よりも自分を必要だと、何者にも恥じることなく毅然と言い放つ姫君。  
そして、そのアリィシアを必要としている自分がいるのも、また確かな事実だった。  
 
「アリィシア」  
「何? ガルディア」  
恨めしげな目線をガルディアに向けながら、アリィシアは幼い子供のように頬を膨らませている。  
なだめるために頭を撫でてやると、いつもなら喜んで抱きついてくるところが  
「子ども扱いしないでって言ってるのにーっ!」と枕を抱きかかえてわめきだした。  
逆効果だったらしい。  
ガルディアは仕方なく、寝台の端に腰を下ろした。  
ガルディアの存在を身近に感じて安心したのか、アリィシアがぴたりと泣き止む。  
その様子にかすかに目を細めながら、アリィシアの肩を抱き寄せてそっとガルディアは囁いた。  
「お前は、まだ幼い」  
「だからっ、もう子供じゃ……!」  
「そういうことじゃないんだ」  
もう一方の手でアリィシアの頬を撫で、そのまま指先をそっと首筋に這わせる。  
アリィシアの肩がぴくんと震えたのが触れ合う箇所からガルディアにも伝わった。  
「……ガルディア……?」  
けげんな表情を浮かべて魔法使いを見上げるアリィシアの唇に、ガルディアはそっと  
口付けを落とす。  
最初は優しく、触れるだけの。  
いつもなら瞬きするほどもなく離してしまうその温もりを、しかし今夜のガルディアは  
手放そうとはしなかった。  
何度も角度を変えて啄ばむように繰り返し、舌先を這わせて唇のふっくらとした感触を楽しむ。  
微かに開いた隙間からアリィシアの口腔内へと進入したガルディアの舌が、  
アリィシアのそれに柔らかく絡みつく。  
「……んっ」  
滅多なことではしてもらえないガルディアの『大人のキス』に、アリィシアはうっとりと息を漏らす。  
そう、ここまでなら、アリィシアにしても初めての経験ではなった。  
だが、その先は――。  
 

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