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「――つまり、女性というものは、愛する殿方にたくさんたくさん愛されると、
やがてそれが愛の結晶となって体内に宿るのですわ。おわかりですか? 姫様」
時は遡ること数日前。
初潮を迎えた末姫のために、普段は作法を教えている年配の女教師が、『特別授業』と
称する講義を行っていた。
「……はあ」
鈍い痛みを訴える下腹の辺りをさすりながら、アリィシアは気のない返事で答える。
講義の内容は聞こえているのだが頭に入らないのだ。
それよりも時折下半身に走る、何かが滑り落ちるような感覚だとか、内臓をじわじわと
締め付けられるような不快な痛みのことでアリィシアの頭はいっぱいだった。
女性の生理、というものは知識として知っていたし、アリィシアの体が二次成長を始めた
年頃あたりからは母親である王妃や侍女達がそれなりに気を配ってくれていたおかげで、
初潮を迎えたときもなんら慌てることなく対処することができた。
実際、朱に染まった寝台の敷布を最初に目にしたときのアリィシアの感想は、
(やったー! これであたしも一人前のオ・ト・ナ! これでガルディアにも『子どもだから』
なんて言い逃れさせないわよーっ! うふふふふ)
というものだった。
愛する人と一刻一秒でも長く一緒にいたい。
そのために早く結婚式を挙げて一緒に暮らしたかった。
なのにガルディアときたら、「お前はまだ子どもだろう」の一点張り。婚約披露の夜会以降は、
王室の公式行事にもめったに顔を出さない。ガルディアの方からアリィシアの元を訪れてくれ
るのは、アリィシアが危機的状況に陥ったときのみ、だ。
もちろんそれが嬉しくないわけはない。
どんな困難な状況に陥っても、必ず最後は愛する人が助けに来てくれる。そう信じていられる。
これほどの喜びが他にあるだろうか。
でも、だからといって年中トラブルに巻き込まれているわけにもいかない。
人よりはよほどトラブルに巻き込まれやすい――半分は自分で引き起こしている感もなきにしも
あらずだが――アリィシアといえども、普段は何の変哲もない王家の末姫としての退屈な日常を
送っているのだ。
だから、せっせと暇を見つけては会いに行った。
暇がなければ無理やり作り出して会いに行った。
だが、これでも一応、滅多な理由では外泊もできない身分である。婚約済みとはいえ嫁入り前の
それも王家の姫ともなれば、一緒に過ごせる時間にも限界があった。一緒に過ごすといっても
大概はアリィシアが一方的にガルディアにまとわりついているだけだったが――。
(ああ、早くガルディアと結婚したいわ。そうすれば、朝も昼も夜もずっと一緒にいられるのに……)
「――結婚の儀が終われば、姫様はめでたくガルディア殿の元へお輿入れされるわけでありま
すわね。そこでですわ! 次が本題なのですが、同衾の際の心構えについて――」
(そう、婚儀が終われば、どう……え?)
アリィシアはふと現実に返った。女教師の講義がいよいよ佳境に入ったのか、声のトーンが
一段と上がったのでびっくりしたのである。
顔を上げた拍子に教師と目が合ってしまい、アリィシアはあわてて取り繕う。
「え、えっと……『どうきん』って何かしら? 先生」
話などほとんど聞いてなかったに等しいアリィシアだったが、聞き慣れない言葉だったので
そこだけは耳に残ったのだ。
聞かれた女教師の方は、なぜか気恥ずかしそうに二、三度咳払いを繰り返した。
「こほん。……それはつまり、男女が寝所を共にするということですわ」
「ええっと……それはつまり、あたしとガルディアが一緒に寝るって事? ひとつの寝台で?」
「さようでございますわ、姫様」
女教師はかしこまって頷いて見せてから、淡々と言葉を続ける。
「まず、共に衣服を脱いで寝所に入ります。普通は殿方が――姫の場合はガルディア様です
わね、とにかくお相手のほうが衣服を脱がせて下さいますので、その場合はなるべくじっとして
なすがままにされます様に」
「服を脱いで、って、それって、ドレスとか下着も?」
「さようでございます」
「全部? お風呂に入るときみたいに? ホントに何にも着ないでってこと?」
「何もかもでございます」
「いやだぁ。あたしそんなの恥ずかしいわ」
「ごもっともですわ。ですから、初めてのときは部屋の明かりをあらかじめ消しておくのも
大切なポイントでございます。いざ行為に及んでからですと、殿方の場合は往々にしてそこ
まで気は回らないもの。寝台に入る前にさりげなく蜀台の炎を吹き消しておくとよろしいですわ」
「それって、ガルディアも、そのう……裸で一緒に入るのよね? 寝台に」
「さようでございます」
「風邪ひいちゃわないかしら?」
アリィシアは寝相が悪く、よく掛布を蹴飛ばしてしまう。小さい頃はそれでしょっちゅう腹痛を
起こしていたものだ。それを思い出してアリィシアは不安になる。
「それは、その……行為の後で寝巻きを身につければよろしいのですわ」
「行為って? 裸で一緒に寝台に入って、そのあと寝るんじゃないの? 何かあるの?」
「そこですわ姫様! 肝心なのはそれからでございます」
女教師がずいと身を乗り出して声を張り上げた。
その勢いに気圧され、アリィシアはごくりとつばを飲み込む。
「姫様はそのあと、殿方――ガルディア様が行うことに、逆らってはいけません」
「……は?」
「いつぞやお庭で毛虫をお踏み付けあそばされたときのように、『ぎええ〜』などとぼろ布を
つんざくような雄叫びを上げたりするのはもってのほか。よろしいですか。恥じらいや恐怖心に
苛まれてお声を上げたくなられますでしょうが、歯を食いしばってこらえるのです。
王家の姫としての気概をお忘れになってはいけません。どんな痛みも愛と気力で耐えうるのですわ!」
「は、恥じらい……はわかるけど……。恐怖? 痛み? 何なのそれ……?」
アリィシアは今までに読んだことのある少女小説のくだりの部分を思い返してみる。
いろいろな困難を乗り越えた二人は熱い口付けを交し合い、そして固く結ばれた、だとか。
彼の温もりを肌で感じながら最高の夜を迎えるのだった、とか。
朝焼けの光の中で目をさました二人の耳に鳥のさえずりが聞こえてきた、だとか。
(とにかく、結ばれた二人は一夜を共にするのよね。あら? 一夜を共にして二人は結ばれるん
だったかしら?)
だが、どう記憶を掘り起こしても、教師が言うような『恐怖』だとか『痛み』を伴う描写など
なかったような気がする。
そもそも、そのような恐怖や痛みを伴う行為をガルディアがアリィシアに対してするとは
とても思えない。
そう思ったままを告げると、教師は困ったように頬に手を当てて苦笑いを浮かべたものだった――。
☆☆☆
「あっ……」
首筋に添えられていたガルディアの手が、ふいに鎖骨をなぞって胸元にたどり着く。
襟元を結んでいたリボンは瞬く間に解かれ、もともと大きく開いていた胸元が、最近とみに
発達の目覚しい、だがまだ固さの残る乳房の中ほどまであらわになった。
「……あ、んっ……!」
ガルディアの手が寝巻きの中に忍び込んでくる。
アリィシアの体温より幾分低い、冷やりとしたガルディアの指先に触れられた箇所が、
まるで火をつけられたように熱く感じるのは何故だろう。
呼吸が苦しいのは、唇がガルディアのそれに塞がれている所為……それだけだろうか?
「ん……、……やぁっ」
ガルディアの指先が、ゆっくりと胸の稜線を辿っていく。一番敏感な頂上には触れることなく、
若い膨らみを愛でるように、掌でそっと包み込む。
いつもいつもアリィシアを支えてきたその大きな手は、これまで何度も抱きしめられるほどに
アリィシアに安心感を与えてくれた。愛されている実感をもたらしてくれた。
その同じ手が、今、アリィシアの肌に初めての悦びを刻みつけようとしている。
(ガルディア……大好きよ)
愛する人の手で大人になれる、その事がアリィシアは何よりもうれしかった。
「……ん、はぁっ……」
ふと呼吸が楽になった。ガルディアの口付けから開放されたのだ。
だが、息をつこうとした次の瞬間、アリィシアの全身に電流のような刺激が走った。
「ええっ……?」
アリィシアの胸に沈む、ガルディアの黒髪。
胸の頂を押し付けるように咥えられる。
小さな固く尖った先端が、熱く柔らかいものにねぶられ、絡めとられる。
反射的に、アリィシアはガルディアの頭を突き飛ばすように押しのけてしまった。
「っ、いやぁっ…………!」
まだ快感というには未分化のその熱い刺激に、アリィシアは胸を押さえて身を固くする。
濡らされた部分が外気に冷えて、与えられた感覚をその場所に閉じ込める。
「……あ……」
我に返ったアリィシアが見上げると、琥珀の瞳が優しく自分を見下ろしていた。
「ごめんなさい……。ガルディア……あたし……」
ガルディアは何も言わなかった。
ただ黙ってアリィシアを自身の胸元に引き寄せただけだ。
「……あたし、まだ、子どもなんだわ」
ガルディアの胸に頭を預けながら、アリィシアはポツリと呟く。
「あたしじゃ、ガルディアの相手にはまだ早い……?」
「だから、そういうことじゃないと言っている」
ガルディアが小さく息をつきながら、アリィシアの髪をそっと撫でた。
(……ガルディア……)
こうして抱かれているだけで安心してしまう。それこそが幼さの証明なのかもしれない。
そっけない優しさの裏で、多分、ガルディアは何もかもわかっているに違いない。
だけど、与えられているだけでは嫌なのだ。
アリィシアだって、ガルディアに安らぎを与えたい。幸せを感じて欲しい。
庇護されるだけの存在ではなく、共に生きる伴侶として隣にいたい。
身体の急な変化と新たな知識の訪れに一時期戸惑いはしたものの、ガルディアの姿を見た瞬間にそんな迷いもかき消えた。
大人になりたい、早くガルディアに近づきたいと、ずっとそう願ってきた想いが今叶えられる、そう思えたのに――。
「無理をすることはないんだ」
アリィシアの耳元で、ガルディアが静かに囁く。
「お前はそのままでいいんだ……私のために、無理することはない」
「無理してなんてっ……」
ガルディアの言葉に、アリィシアは思わず息を詰まらせる。
ガルディアが自分を気遣ってくれているのはわかる。
でも違う。違う。
違うのだ。
いったい、どう言えば――どうすればわかってもらえるというのか。
「ガルディアの馬鹿ぁ!」
気付けば、アリィシアは大きな瞳いっぱいに涙を浮かべて、ガルディアの胸を叩いていた。
「無理なんて! 愛する人のために無理することがどうしていけないの? あなただって、
今まで王国のために――ううん、あたしのために、さんざん無理な魔法も使ったはずだわ。
魔力だって寿命だって、あたしがいなければ今よりもっと強大なものだったはずだわ!
三百年もの間、記憶を封印して一人で生きていく事だってなかったはずなんだわ……!」
琥珀の瞳が揺れる。ガルディアが珍しく動揺していた。
「……アリィシア……」
アリィシアは思い出していた。
時を流され、三百年前の過去に出会った、漆黒の髪と琥珀の瞳を持つ魔法使いの少年――ライローグ。
アリィシアが置き去りにしてきた。一番残酷な方法で。
それは、愛するガルディアの、遠い過去の姿と名前だった。
アリィシアが出会ったのは、ガルディア。
ライローグが出会ったのは、アリィシア。
だが、アリィシアが愛していたのはガルディアだった。ライローグは未だ見ぬ未来の自分のために、自身の手でアリィシアを未来へと送り返さなければならなかった。
それをアリィシアが望んだから。
彼の望みは、同じ時代を共に生きてくれることだったのに。
「さようなら。三百年後に会おう」
それでも、彼は微笑んでくれた。
おまえがいいんだと言ってくれた。
「三百年の孤独ののちに、僕はおまえを得る。そして、きっと幸せになるよ」
彼の記憶を奪ったのは自分。
彼に三百年の孤独を与えたのは自分。
だけど、彼に幸せを与えられるのも自分しかいないのだ。
権利とか義務とかそういう言葉では説明できない、それは純粋な祈りであり願いであり――アリィシアとライローグの、確かな想いであったものだ。
それを、無理などという言葉で決め付けて欲しくない。
ガルディアのためにしたいと思うことに、無理なんてひとつもない。
なのに――どうすればガルディアはわかってくれるのだろう?
☆☆☆
ガルディアの想いもまた、複雑だった。
アリィシアが過去の自分と出会っていたのは、記憶はなくとも知識として知っていた。
アリィシアは多くを語ろうとしないが、過去の情景は何度か水鏡で見たことがある。
幼い頃の自分が、アリィシアの傍らにいたその光景を。
アリィシアを見つめる瞳に、今の自分と同じ光が宿っていたことを。
――ガルディアは知っているのだった。
だからこそ、とガルディアは思う。
過去の自分に対してひけめを、アリィシアには持って欲しくない。
確かにアリィシアは過去に飛ばされ、そこでかつての自分と出逢った。
しかしそれも、アリィシアが今のガルディアを愛していたからこそ、だ。
だが結局、アリィシアはライローグではなくガルディアを選んだ。だから今ここにいる。
ガルディアの傍らに。
そしてそれこそが、ガルディア――そしてライローグの望んだことなのだ。
アリィシアがここにいる。それ以上は何も望まない。それしか望まない。
「ガルディア……」
涙を湛えた瞳でアリィシアが見上げてくる。
この胸の小さなかけがえのない存在を護るために、ガルディアが引き換えにしてきたものは、
確かに、決して少なくはない。
だが、アリィシアの言うように、それらを無理なことだと思ったことは一度もない。
運命に流されたにしろそうでないにしろ、それを選び取ったのはガルディア自身の意志だ。
そうして、アリィシアは今、ここにいる。
彼の腕の中に。
アリィシアが責任を負うことなど何一つとしてないのだ。
なのに――どうすればアリィシアにそれが理解できるのだろう?
「アリィシア……」
知らず、抱きよせた腕に力がこもる。
「お前は、まだ子どもだ」
「でも、あなたを愛してるわ」
先ほど泣きわめいていたときとは別人のように、アリィシアの声は凛として揺るぎない。
「あなたを愛してるわ、ガルディア。……あなたが、あたしを愛してくれたように」
そう、はっきりと告げる。いつものように。
微塵の迷いもなく。
(――乱されるのは私、だ)
ふいにガルディアは立ち上がった。
「ガルディアっ?」
はだけた胸元を隠そうともせず、アリィシアが驚きの声を上げる。その姿からついと目を背けて、
ガルディアは歩き出す。
「邪魔をした。ゆっくり休むといい」
窓に向かうガルディアの耳に、するりと衣擦れの音が響いた。
(早く、ここを離れなければ)
予感めいた思いがガルディアを急き立てる。
窓枠に手をかけ、背なに純白の翼を出現させた。
「ガルディア。あたしを見て!」
ガルディアは無言で、ばさり、と大きく翼をはためかせる。
「どうしてあなたってそんなに頑固なのよ! ガルディア!」
アリィシアの張り詰めたような声が部屋に響いた。
同時に、ぐいっとものすごい力で後ろから翼を引っ張られる。
「引っ張るのはよしなさい。……アリィシア」
とうとうガルディアは、観念したように振り向いた。
☆☆☆
ガルディアの視線の先に、アリィシアが立っていた。
窓から洩れる淡い月光と、ほのかな蜀台の揺らめきのみをその身に纏って。
「…………」
目にしたのはほんの一瞬だけ。
それでも、白い残像がまぶたに焼き付いてしまう。
「どうしてあたしを見てくれないの? ガルディア」
「……早く服を着るんだ」
視線をそらすガルディアにかまわずアリィシアは歩み寄る。
「見てくれなきゃいやよ」
「……………………」
アリィシアはそっと、無言のままのガルディアの腕に触れた。
この腕に何度も助けられた。
どんな状況のときでも、いつだって最後はこの腕の中で安心していられた。
「あたしを見て。ガルディア」
アリィシアは寄り添うようにガルディアの胸に頬を埋めた。
ガルディアの腕が不器用な仕草で、そっとアリィシアの髪を撫でる。
「……誰よりも、あなただけを好きなあたしを見てよ……」
それは、かつて首都コルドの危機をガルディアが救ったときに、アリィシアが口にした台詞
そのままだった。
種族も、寿命も、運命も、何もかも違う二人が初めて心を通わせたあの瞬間に。
「そうだな。……お前も、いつまでも子どもではない」
どこかあきらめたようにガルディアが耳元で囁く。
「そうよ。やっと認めてくれたのね。ガルディア」
「そして、すぐに老いる。――私を残して、お前はいってしまうだろう」
それは、まごう事なきガルディアの本心だった。
アリィシアは驚いたようにガルディアを見上げ――ふわりと、優しく微笑んだ。
「あなたを一人にはしないわ。ガルディア」
ガルディアもまた、その視線をアリィシアに向けた。琥珀の瞳を、わずかに細めて。
白い裸身の少女を、そっと抱き上げた。
「……私は、怖かったのかもしれないな」
アリィシアをベッドに横たえながらガルディアは呟く。
それには答えず、アリィシアはそっと瞼を伏せ――ガルディアは深い口付けでそれに答えた。
いずれ散りゆく定めの花だと最初から知っている。
ならば少しでも長く蕾のまま愛でておきたいと思うのは、醜いエゴに過ぎない。
花は咲いてこそ華だというのに。
けれど、遥かな生を生きる翔翼人《リル・ディーン》は祈らずにいられない。
かけがえのないこの短い命を持つ少女と、少しでも長く共にありたいと。
そのために課せられた孤独さえ甘んじて受けよう。
ただ今はひたすらにその姿を、その存在を、この胸にとどめておきたかった。
それでも、咲かずにいられないのが花の定めだというのなら――。
(私の胸で咲くがいい。――アリィシア)
「あたし、あなたのあかちゃんを生むわ。なるべく早く、なるべくたくさん。そして、老後は
たくさんの孫たちに囲まれてにぎやかに過ごすのよ。寂しくなんてないわ」
ガルディアの腕の中で、アリィシアが無邪気に微笑む。
何も知らない童女のように。
何もかも受け入れた聖女のように。
そうして、ガルディアの首に腕を巻きつけて、囁いた。
「あなたと、あたしの家族よ。ガルディア」