その朝、昨晩は研究室で午前様だったにも拘らず早めに目が覚めたしきみは、ひまわりの部屋を訪れてみた。ここ数日はずっとそんな感じだ、深く眠れない。
「ひまわり…入るわよ…」
鍵の掛かっていないドアを開け、いつものように声を掛けると、ひまわりがベッドから半身を起して精気の無い目線をしきみに向けた。
「・・・しきみさん・・・おはようございます・・・」
「具合はどう? 今日は授業に出られそう?」
「すみません・・・私・・・」
「・・・・」
起き上がって背中を丸めた格好で布団の上に正座したひまわり。しきみの眼をみる…。
「私、学校を辞めようかと・・・」
微かに聞き取れる微細い声でひまわりが告げた…。
一瞬、(甘ったれんじゃないわよ!)そう怒鳴りそうになるのを堪えてしきみは口を開いた。
「ひまわり…、あなたにとって此処で学ぶということは、そんなに簡単に諦めたり捨てちゃったりできるような、その程度のことだったの?」
「で、でも、ハヤト殿が居なくなった今…」
「悲しいのは解る(そう、私だって痛いほど解るワ)、でも、それで辞めて何になるの?」
「あなた、言ってたじゃない『誰にも負けない立派なくノ一になって見せる』って!」
そこまで言うとしきみの眼から涙が頬を伝って落ちた。
しきみはベッドに腰を掛けてひまわりの肩を抱いた。ひまわりは申し訳なさそうに頭を彼女の胸に預けた。
「しっかりしなきゃ、ハヤトだってアザミだってひまわりがそんな風になるのを望んでないわよ…」
しきみは強い調子で自分にも言い聞かせるかのように言った。
霞の森、つきよ姫の東屋。いつものように朝食の御前を前に味噌汁を啜る。
「 ふ む 、 こ の 味 ・・・ 」
次の瞬間、椀の中に映る映像を見て(ハッ)と表情が強張るつきよ姫…。
「 い け な い 、 は や ま る な … 」
そう言うとひらりと身を翻し、姿を消した…。
木漏れ日を浴びながら校舎裏の庭園を散策しているハヤトとアザミ…。元居た世界で起こっているひまわりたちの悲劇とは対照的に『関係』を深めていく二人…。手を繋いで歩く…まるで恋人同士だ。
そんな風に、半ば、元の時空に戻ることに執着していないかのようにさえ見える…、他に誰もいないことさえ、むしろ二人にとっては好都合にさえ思えてきた…。
「このまま〜この里で二人で暮らすか〜」
「な、 何 言ってんのよ〜」
いろいろ想像して、頬を紅らめて照れるアザミ…。
「ハヤトは〜ひまわりのところに帰りたくないの?」
伏し目がちに彼の顔を見ずに聞いた。ハヤトの手を握る掌に少し力がこもった。
「ひまわり・・・か、そうだな…、」
「アイツ、きっと心配して泣いてるよ…」
そう言うと、自分も少しだけしきみのことを思い出した…。でも彼女のことだ、感情を表す事を極端に嫌う女だから、きっと気丈に振舞っているに違いなかった…。
(そう、それでいいのよ、しきみ…くノ一なんだもの…)。
「まぁた、例によって顔面くしゃくしゃにして涙声で何言ってっか解らん状態なんだろうな…」
そこまで言うと、ハヤトもそれまでの明朗さを失った。
(やっぱり、ハヤトはひまわりのこと 愛してるんだな…)少し、複雑な気持ちになりながらもアザミは切り出した…。
「やっぱり、こんなの・・・変だよ ね・・・」
「え?」
「なんとかして、帰ろう!元の世界に・・・」
「あぁぁ、でも、どうやって・・・?」
その時、里の上空に一機の航空機が近づいてきた。どうやら戦闘ヘリのようだ。
「まずい、隠れよう!」
そう言うとハヤトはアザミの身体を抱えて木陰に引っ張り込んだ。
ギューーーーーーンっという轟音とともにオリーブグリーンに塗られたAH-64型戦闘ヘリが二人の上空に現れ、二度ほど旋回すると、再び上空に上がり暫くホバリングしたあと飛び去って行った。
「なんかヤバそうだな・・・」
「『陸上自衛隊』って書いてあった、敵とは限らないんじゃない?」
昨日、二人が此処に現れたことによって誰かに異常を察知されたのかも、それともたまたま通りかかった訓練中のヘリが、里に人影のようなものを見つけたので確認しに来ただけか…、全くわからない。
「とにかく、これから昼間は人目につかないようにしないとね…」
「そうだな・・・」
二人は木陰を辿るようにして寮へ急いだ。
志能備学園、始業前の校庭を独り急ぐヒメジ。紫のレーシングスーツに身を包み、脇に人型のダミーを抱えている。どうやら裏のガレージに向かっているらしい。
ヒメジはガレージのシャッターをガラガラと乱暴に開けると、中に並んだ多種多様のクルマの配列を見渡し、例のタイムトライアル用のルノーが何台か並べられている場所に歩む、そこの『4』と書かれたスペースにクルマはなかった。
5号車の助手席のドアを開けると、ヒメジは丁寧にダミーを座らせて、4点式シートベルトを締める。
「お利巧さんにしてるんでありんすよ〜」
応える筈の無い人形にそう話しかけると、自分も運転席に座る。
ふ〜っっと一息深呼吸を入れ、イグニッションスイッチを押した。
ブルルルルンっとフロントにあるエンジンが震えると、ヒメジはDレンジにチェンジレバーを叩きこんでゆっくりと進みガレージを出た…。
ガレージの扉を出たところで右折すると、そこにつきよ姫が立っていた。
「 何をする気だ? 」
幾分、いつもよりは早い口調でヒメジを睨みつけて言う。
「 わらわがアザミのところに行って戻る方法を伝えるんでありんす! 」
ヒメジも険しい表情を向けてつきよ姫に言う。
「 やめろ! 死ぬぞ ! 」
つきよ姫は助手席側のドアに手を掛けるとヒメジの顔を覗き込んで睨んだ。
「 これしか、これしか・・・方法がないんでありんすっ! 」
ヒメジはアクセルペダルを踏み込み、砂利道の小石を飛ばしながら発車させた、
もんどりうって地面に座りこむつきよ姫。
起き上がって暫く走り追いかけるが、所詮クルマのスピードには追いつけない。
ヒメジの5号車はけたたましくホイールスライドをさせて校門から山道に出ていった。
踵を返すとガレージに戻り、つきよ姫は草履を脱ぎ捨て例の和服姿のまま、1号車のドライバーズシートに乗り込みエンジンを掛ける…。
「 先 廻 り す る し か な か ろ う …」
そう呟いて、白足袋をアクセルペダルに叩きつけた。
ヒメジはダートトライアルそこのけのドライブで一気に例の駐車場までたどり着くと、アザミたちが駆け下りて言った峠に続くコースに向けクルマをターンさせた。
アザミの辿ったラインは頭の中に叩きこんであった、同じラインをトレースするように走る。だが、アザミの区間タイムより数秒遅れている。
「もっと早く走るでありんす〜〜〜〜」
アザミのそれよりさらに『ドリフトキング』(しかもFFで…)だったヒメジの運転は、どうしてもコーナリングでロスが出る。
それを取り戻そうと直線で飛ばすから、またコーナーリングで膨らむ…。悪循環だった。
「同じ速度じゃないと駄目でありんす〜」
グワ〜〜〜〜ンっと音を上げて高回転で引っ張る。
ヒメジのクルマが最後の直線に差し掛かった時、今まさに坂の途中でコースに合流せんとするつきよ姫は、そのDのゼッケンを付けた白のセダンが横切るのを見てとめた…。
「 しまったっ! 遅かった! 」
そのまま追うが、緩やかな左コーナーに差し掛かったところで一旦ヒメジのクルマが視界から消える…。
「こ、ここでありんすっ!」
そう言うとヒメジはサイドブレーキを目いっぱい引き、ステアリングを大きく左に切る。
クルマはものすごい摩擦音を上げながら180度反転すると、ヒメジは巧みにステアリングを戻し、サイドブレーキを降ろす…。
「このまま一直線に行くでありんす〜〜〜〜〜」
クルマは激しい衝撃音を上げてガードレールを蹴散らし、衝撃で外れたリアバンパーがそのままソリの様な役目をはたして左後輪を斜め上に跳ね上げる。
車体はそのままクルクルと縦に回転しながら谷に向かって飛び出し、立木の枝を巻き込みながらコマのようにフロントを下にして地面に落下した。
「 ああ、神様っ! 」
思わず叫ぶと、土ぼこりを上げて回転しながら落下するヒメジのクルマをみて、つきよ姫はブレーキを踏み込む。
次の瞬間、落下したクルマが炎を上げて燃えだした、つきよ姫は脱兎のごとく飛び降りて、ヒメジの元へ駆けつけると、持っていた脇差しでベルトを切断し、逆さまになったキャビンの中からヒメジの大きな身体を引き出した。
10m程離れたところにある木陰に隠れると、ボワン!と大きな音を立てて燃料タンクが爆発した。間一髪だった。
「ヒメジ!、ヒメジ! おい、しっかりするのだ!」
額が切れて耳と鼻から出血していた。辛うじて呼吸はしているが瞼を閉じたまま微動だにしない…。
つきよ姫は、彼女の反応がないことに一瞬眼をつぶって下唇をかみしめると、直ぐに抱きかかえて自分のクルマに引き返した。
かなり重い筈だったがそんなことを言っていられる状況ではなかった。
ゆすらと桃太は息堰切って走る、しきみ達を探した、クラスメイトからひまわりの部屋にいると聞き、ノックもせずドアを開けた。
「た、大変よ!ヒメジが、ヒメジが 事故ったってぇ〜〜〜〜」
涙目で飛び込んできたゆすらを見て、ただ事ではないと悟ったが、しきみには全く状況が見えない。
「ヒメジが事故ったって?どういうこと?」
ひまわりはしきみに諭されてやっと登校する気になったのか制服に着替えているところだった。
「わからない?ゆすらにもわからないよ!とにかく今、里の総合病院に運び込まれたところだって〜」
「と、とにかく行きましょう!」
「は、はい!」
ひまわりも驚いてアドレナリンが高まったのか、先程まで感じていた気だるさがどこかに行ってしまった。
手術中のランプが消え、中から担当の主任医師が姿を現した、大きな事故の割に早く終わったのに一同は不安を感じながら医師を見つめた。
椅子から立ち上がるつきよ姫とちょろぎ、それに副担任の縄跳。
「お気の毒ですが…、かなり広範囲に及んで内臓が損壊しています。手の施しようがありません」
「 た、助 か ら な い と・・・?」
眼を潤ませてつきよ姫は聞いた…。
医師は黙ってうつむくだけだった…。
「な、なんと…」
愕然とする縄跳にちょろぎ…。アザミとハヤトを失ってしまったその幾日も開けずに、また一人生徒を失うのか…。
「こんな状況で、恐縮ですが、意識は取り戻しました…今のうちにご家族の方に…」
そこへダダっとしきみ達がなだれ込んできた。
「ひ、ヒメジは?」
眼鏡の奥の大きな眼を潤ませてしきみが問う。
「・・・・」
つきよ姫が俯き、無言で首を振る。
「そ、そんなぁ〜〜〜〜〜」
ひまわりは眼に一杯涙を浮かべて泣き出す。
「嘘でしょ!先生!嘘だって言って、つきよ姫さぁん〜も〜」
つきよ姫の両腕を掴んで振り回す、
「ヒメジさんは〜、ヒメジさんはどこぉ〜どこなの〜」
ひまわりは叫びながら、ほぼ半狂乱に近くのドアを片っ端から開く、
見かねたちょろぎがひまわりを掴み、案内されていた集中治療室につれていった。
「ひ、ヒメジさ〜ん!」
ベッドに横たわるヒメジを見て、更に涙があふれるひまわり…。
ヒメジは僅かに首を傾けると、左手を震わすように持ちあげてひまわりの手を取ろうとする。
ひまわりは彼女の手を取るとじっと見つめて言った。
「なんだ、元気ぞうじゃないでずが…、ヒメジざんったら、おどろがざないでぐだざいびょ…」
「ひ、ひまわり〜、ごめんなさいでありんす…。失敗しちゃったでありんすよ…」
ヒメジも泣いていた。
「ひまわりには…、いつも笑っていて欲し かったで ありんす。だから、ちょっと頑張りすぎちゃったであり ん・・・はぁ うっ 」
ヒメジはそこまで言うと突然意識を失い、それまで一定のリズムを保っていた心拍計の音が『ピー〜〜〜〜〜』っという音に変わった。
「心停止!」
「ちょっとごめんなさいね」
傍にいた看護師たちがひまわりたちに割り込む、慌ただしく蘇生処置に動き出した、
しきみはひまわりに下がるようにと抱きかかえて後退させる。
「先生を呼んで」
医師が駆けつけると聴診器をあて、除細動器の使用を指示した。
ドスンっといった音がすると、ヒメジの上半身が跳ねる、何回か試すが心音は回復しない、
強心剤を投与し、また何回か繰り返したところで医師は死亡時刻を確認する手続きに入った。
ヒメジが死んだ・・・。
「そんな、イヤァァァァアァァアァァ〜ッ、ヒメジさん〜」
蘇生処置を後ろで見守っていたひまわりがベッドに駆け寄る。
「ヒメジのバカ〜〜〜〜〜〜!」
その場で泣き崩れるゆすら…。
しきみは無言で立ち尽くすと、唇を噛みしめて必死で涙を堪えてる、だが、どうしてもあふれる涙は留めようがなかった。
(アザミのバカぁ!アンタの所為で、アンタの所為でぇ・・・もう みんな滅茶苦茶だわっ)
集中治療室は暫く阿鼻叫喚の修羅場と化した…。
ハヤト達の失踪に、それを何とかせんがために自らの命を賭したヒメジ…。3人もの大切な人を失ったひまわりには、絶望感しか残されていなかった。
ゆすらとて、そのショックはいかばかりか…察するに余りある。寮を飛び出したきり、桃尻とともに森に消えていってしまった。
行方不明のハヤトとアザミの場合とは別に、純然たる死が確定しているヒメジに関してはその勇敢ともいえる行為に敬意を表し学園葬でもって送り出すことが決められた。
悲しくも厳しくも、級長という立場のしきみにその主催を依頼するやつがしらだった。
「もし、あなたにとって心苦しいところがあれば、風間さんに代行をお願いしてもよいのですよ…」
「い、いえ、ヒメジは入学以来の親友ですから…。私が責任を持って…」
そこまで言うと込上げてくるものがあったが、耐えた。
「わかりました、必要なことはなんでも申し出なさい…よろしくお願いしますよ・・・」
「ありがとうございます…」
しきみは、校舎を出たところで外がすっかり暗くなっていることに気がついた。
「長い、本当に長い一日だった…」
しきみはひまわりほど悲しみに没頭できない。自分の美学として常に冷静沈着であれとのモットーがあったからだ。それを例え『クール』と揶揄されようと、それが『くノ一』としての彼女自身の理想だった。
『これは天が与えたもうた試練なのだ…』しきみはそう考えるように努力した。ここを卒業し、エスピオナージに生きる人生を選択したら、友や仲間を失うのはおそらく日常茶飯事になるだろう…。
さりとて、しきみ自身全てを『運命』と割り切る程悟りを開いてるわけではない、自分が納得できない運命などには断じて抗ってみせるタイプだった。そうでなければ思い通りの人生など切り開けるものか!そういう信念の持ち主だった。
ヒメジの『方法』は乱暴だったが、しきみにはいいヒントを与えた、アザミと彼女だけが知っている秘密…。あれを使えば少なくとも「未来に飛ばされたアザミ」なら助けられる。いや、戻る方法を伝えられる…。
確率はずっと落ちるが、『時間軸のカスケード理論』・・・その仮説が正しければ絶対に成功する筈だ…。もとよりそれが万に一つの確率でもそれに賭ける価値はあった。
しきみは早足で、図書室がある第二校舎に向かった。
夕食で腹ごしらえを済ませたハヤトとアザミは、一緒にシャワーを浴び、また互いの肉体を貪った。
激しい情交の余韻の中、ハヤトの厚い胸板の上に頭を載せて心地よい疲労感にまどろみかけていたアザミだったが、意を決して起き上がると、肩越しに振り向いてハヤトに言った。
「もう、これで終わりだよ…」
何?何の話?っといった顔でアザミを見上げるハヤト。
「実は…、見せたいものが あんのよ…」
そう言って立ち上がると脱ぎ散らかした衣服の山からデニムのミニスカートを掴み上げた。ポケットから黄ばんだ紙片を取り出すとハヤトに投げた。
「それ、読んで…」
「な、何だ…」
そう訝しげに言うと、ハヤトは紙片を開き、濃いめの鉛筆で書かれた『どこかで見た』筆跡の文字を追う。
(アザミへ、もし、あなたが今いる世界が『あなたの世界』でないならば、飛び込んだ時と同じ状況、同じ方法で戻ってきて、お願い、私を信じて… しきみ)
「こ、これは…」
「アタシ達、みんなに内緒で里を抜け出したりするとき、秘密の場所に手紙を置いて情報を交換してたんだ」
「なんで?そんな…」
「理由は内緒、聞かないで『女の子同士』の約束だから…」
「そんでぇ、今日〜図書室に行ったでしょ?、その時、もしかしてって思って調べてみたら…」
ハヤトは、ああ、あのときか…と、思い出した…。
「こ、これ、信じるのか?」
「だって、その字、間違いなくしきみの字だよ…」
「それに…嘘をつく理由なんてないじゃないの…」
「し、しかし、同じ方法、ったってクルマがないぞ」
「さっき、調べに行った。」
「エンジン掛かったよ…、後ろがへしゃげててミラーとかどっか行っちゃってたけど多分修理すれば走る…」
「そ、そうかぁ…」
ハヤトは実のところ殆ど絶望していた、だが、このしきみの手紙とアザミの態度に気持ちを動かされた…。先程の激しい情交も『アザミの最後の晩餐』だったのだ…。
失敗すればおそらく二人とも死ぬ…。だが、ここで何やら解らぬ状況に身を置いて、二人ひっそりと人目を忍んで暮すような人生よりはマシだと…。そう覚悟を決めたのだ。
「よし!判った、で、どういうプランだ?」
「朝になったら町に降りて必要な部品を探すワ、そうしたらクルマを今ある所から下の道に出して修理する」
「準備が整ったら、即実行よ」
もう、お前を抱けないんだな…ハヤトは正直にその気持ちを顔に現した。
想いを察したアザミは、ハヤトに向かって笑うと。
「もし、ちゃんと、元に戻ったら…」
一回何かを飲み込むように顔を震わせた後
「ここであったことは、二人だけの秘密…だよ」
少し鼻声でハッキリと言った。
「あぁ、約束だ」
そう言うと、ハヤトは小指を突き出して指きりの格好をして見せた、
(指きり拳万、嘘付いたらハリセンボン飲〜ます!指切った!)
二人は小指を絡ませて合唱する、アザミは後半鼻声で半ベソをかいていた…。
翌朝、ハヤトが眼を覚ますと、アザミは既に出かけていた。
テーブルの上に朝食の支度が整っていて、椅子の上に彼のレーシングスーツが畳んで置いてある…それを着て来いということだ…。
走り書きの置手紙があった。
(おはよう万里小路センセ。眼が覚めたら、慌てなくてもいいけど、クルマのところまで来て待っててね)
ファーストネームは書かずに『万里小路センセ』か…、そう思うと少し寂しさを覚えるハヤトだったが、彼女の精一杯の努力を思うと仕方がなかった。
ハヤトはアザミの焼いてくれていたトーストを齧りながら部屋を見渡した。ここも、俺が使ってた頃から16年たってたわけか…。
殺風景なのは同じだったが、ここでの数日間は、アザミという美しい花が咲いていた。
自分という男はなんて情けないんだろう…。
戻ることに考えも巡らさず、目の前の欲望の赴くままアザミを抱いた…。
二人の関係に何の保証もせずに…。
可哀想なことをしてしまったと自分を責めた。
ハヤトはレーシングスーツに着替え、1時間ほどかけて徒歩で例の場所にたどり着くと、クルマが元あった場所から15mほど下の道路脇に移動してあったのに気がついた。
傍にオンボロの軽トラックが横付けしてある。どうやら町で動くクルマを見つけたようだった。確かにキャブレター式の吸気システムなら電子機器に面倒は掛けないから、古いものなら稼働するクルマは何台かある筈だった。
トラックの荷台には数個の段ボール箱、そして新品のツールボックスに缶入りのガソリンなどが載っている。
これを一人で一所懸命に彼女が集めていたとき、オレは寝てたんだよな?…そう思うとさらに情けない想いになった。
「おはよ〜センセ」
二人の『4号車』の下に潜ってたアザミが顔を出した。例のレーシングスーツを袖を腰のあたりで結んで着ていた。タンクトップだけの上半身が眩しい。鼻と頬にオイルの汚れが付いていた。
「おはよ、あ、朝飯、ありがとうな…。で、どんな感じだ?」
ハヤトは心配そうに訊いた。
「大丈夫、ここまで自走して出せたよ」
「マフラーがすっ飛んじゃってて、音がうるさいんだけど…まぁ我慢して」
「今視てたんだけど燃料もオイルも他のハイドロ系も漏れは見当たらなかった…」
「アライメント狂っちゃってないか?」
「多分…少しはね…でも、大丈夫っしょ!」
アザミは地べたに座って鼻を掻きながら笑って言った。
ホントに可愛い、今すぐにでも抱きしめたい…そんな風に感じたが必死で堪えるハヤトだった。
「なんか 手伝うか?」
「そうね、じゃぁガソリンを一缶分入れといてくれる?」
「分かった…」
そういうと軽トラの方に歩いた。