「おう、行ってこい」
雨上がりに、是光が言ったその言葉。
精一杯の後押しと精一杯の我慢がこめられたその言葉は夕雨にとって幸せな言葉だった。
だから、夕雨は、その言葉を精一杯の気持ちで受け取る。是光の腕にしがみつき、あふれる涙を隠して。
「ありがとう」
くぐもった声に彼は気づいてしまったかもしれない。それでも何も言わずにただただ受け止めてくれていたことに夕雨は感謝していた。
「ありがとう」
もう一度つぶやいたときには、夕雨の髪を是光の手のひらがそっと触れた。ぎこちなく撫でるその手には確かに優しさがあった。
今だけはその優しさに甘えたまま、そっと目を閉じる。
(……ありがとう)
しばらくして、閉じていた目をそっと開けて是光を見上げる。
その少しだけ怖そうに釣り上がった瞳と、恥ずかしそうに頬を染める顔がそこにあった。
「もう、大丈夫」
「あ、あぁそうか」
夕雨の頭を撫でていた手を慌てて離す。
切なげにその手を見送ったあと、夕雨が微笑んだ。
「な、なんだよ……」
バツが悪そうに頬を歪める。
「やっぱり、私のほうが年上かなって」
ふふ、と笑う夕雨はアパートにこもりっきりだったときと違っていた。
夕雨の自然に笑う姿を見て、是光もつられて笑ってしまう。
「もう元気になったみたいだな」
「うん。赤城くんの、おかげ」
「俺はなんつうか、ただヒカルが見せたかったものを……」
是光のその言葉に、夕雨はそっと首を振る。
「違うわ。きっかけはヒカルだとしても、私をあそこから連れ出してくれたのは赤城くんだもの」
「……」
「そして私が好きになったのも――」
「夕雨」
夕雨の言葉は遮られ、是光が夕雨の瞳をじっと見つめる。そして、そっと抱きしめた。
「俺は、何も知らないバカで、失敗して、お前を泣かせて、辛い思いばっかりさせた。これだって決めたら進むしかないと思ってて、躓いて怪我してるやつだっているってことにも気づけないで、本当にバカだった」
夕雨は是光の腕の中でそっと耳を傾ける。
「でも、俺は不器用だからゴールを目指すことしか出来なかったんだ。たとえ辛くても、傷ついてるやつの手を取って、行くぞって。手を引いてやることしか出来なかった。本当にごめんな」
夕雨の手が是光の背中へとまわる。その手がそっと背中をポンと叩く。
「……ううん、わたしはちゃんと立てたもの。手を引いてもらって、ちゃんとゴール出来て、嬉しかったよ。そして、だからこそ、これからも自分の足で立とうって、ちゃんと歩いていこうって思えたの。だから、大丈夫。赤城くんは間違ってなかったわ」
震える是光の腕が夕雨をより一層強く抱きしめた。夕雨も是光へと体を預けて是光に応える。
お互いの体温も吐息も心臓の音も全てを共有して、二人で一つになる。
「俺は、こんなふうに人を抱きしめるなんて初めてだ」
「うん」
「こんなふうに人を想うなんて初めてだ」
「うん」
「今からもう一つ初めてのことをする」
「うん」
すぅという深呼吸をおいて是光が口を開く。
「夕雨、俺はお前のことが好きだ」
力強く、優しい声が夕雨の耳元へと届く。
夕雨は、その言葉をしっかりと抱きしめて、一言だけ返した。
「わたしも……大好き」