水気をたっぷり含んだ風は今にも振り出しそうな予感。見上げると雲行きが怪しく翳り、天気予報など見なくても容易に降雨を推測することが出来る。  
 不快な空気に肩を落とし、植物だけは活力に満ちた通学路をトボトボと歩いた。  
 なぜか赤城是光の周囲には人が居ない。朝の通学時間帯だというのに。  
 周囲の学生たちは遠巻きにして露骨に表情をしかめ距離を置いているのだ。  
 一人を除いて。  
「ねぇ、知ってる? 紫陽花の色が変わるのは土壌に含まれている酸性度が要因なんだよ」  
 にやついた表情で園芸の講釈をたれる色男。こいつは自分にしか見えない幽霊なのだ。名前をヒカルという。  
 傍から見れば、変なドラッグでも決めてハイになっているのか、虚空に向かって独り言を呟いているようにしか解釈できない。そんな危険人物には近づきたくないだろう。例え俺でもな。  
「おはよう。赤城」  
 ところが校門をくぐった途端に不意打ちの様な挨拶を受けて驚いた。  
 それは目つきの悪い不機嫌そうな少女である。  
 
 名前を式部帆夏といった。  
 彼女は視線をそらしつつ唇を尖らせて言い訳するように呟く。  
「勘違いしないでよね。たまたま偶然一緒になったクラスメートに挨拶しただけなんだからねっ」  
 少女の向こうにニヤニヤするヒカルの顔が気になったが、怒鳴りつけるわけにもいかず、同じように不機嫌そうな様子で「おはよう」と返すだけであった。  
 そして足早に立ち去る。もっと元気よく挨拶すべきだったのかと後悔しながら。でも、余り親しそうにすると彼女に迷惑がかかるだろうし。  
 そもそも親しくしてしまっていいのだろうか。たしかに一時期世話になったが、自分の思い込みかもしれない。  
 ヒカルが何かいいたそうな顔をしていたが、あえて黙殺した。  
 下駄箱で靴を履き替えて廊下を見ると、また掲示板の前に人だかりが出来ている。  
 なんだ? またヒカルの追悼記事か。月命日というわけでもあるまい。  
 視線をやると、壁新聞みたいな紙が貼られていた。見出しには「援交現場激撮!」と特太ゴチックで書かれており、大きく写真が掲載されている。  
 中年男性と若い女性が喫茶店らしき場所で歓談している隠し撮りっぽい不明瞭な写真だが、その女性の顔ははっきりと写っていた。  
 式部帆夏。写真の中の彼女は幾分緊張した趣で男性と向き合って座っている。  
 
「なっ!」  
 背後から先ほど聞いたばかりの声。  
「ち、ちがうの、これはっ!」  
 掲示板の前に駆け寄り、背中に隠すように両手を広げる。弁解しようとして言葉が出ないのか、溺れかけの金魚のように口をパクパクと開けて、顔色を紫陽花のように赤から青に変化させているのだ。  
 視線は味方を求めてさまようが、誰も目をあわせようとせず、ヒソヒソ囁くばかりである。  
 なんだよ。この連中は。  
 猛然と腹が立ってくるのを是光は抑えることが出来なかった。  
        *  
 屋上なら多少は涼しいのかと思ったら、そんなことはなかった。風のないよどんだ湿気でじっとりと汗ばんでくる。  
 どんよりとした曇り空で陽射しがないのが幸いだった。  
 都合のいいことに、ここは無人でヒカルと会話していても目撃されることはない。  
 もっとも、是光の奇行の定位置として他人が避けている結果なのだが、当人に自覚はなかった。  
 
「カッコよかったよ、是光。まるで姫を守る騎士のようで」  
 ニヤニヤしたヒカルは目障りであるが追い払う物理的手段はない。  
「でもなぁ……」  
 人の気配がしたので、ヒカルへの言葉を飲み込む。  
 屋上に姿を現したのは式部帆夏であった。  
 登場は予測していたので動揺はしない。是光は沈んだ様子の彼女に声をかけた。  
「すまなかったな。返って酷い噂になってしまって」  
 いつの間にか赤城是光が式部帆夏を奴隷調教して客を取らせていたという噂になって校内を駆け巡っている。  
「なんで謝るのよ。バカ。お礼を言うのはこっち。あんただけ、あんただけが庇ってくれたんだから」  
 そして、強張った表情で「ありがと……ね」と続ける。  
「あれだけ根も葉もなくエスカレートしてしまうと、かえって嘘っぽくなって、そのうち消えると思うよ」  
 ヒカルの台詞に頷き、彼女にも伝える。  
「あの写真だって、親戚とか、そんなんだろ?」  
「ううん。初めて会った人」  
 
 それを聞いて固まる是光に慌てて言い訳する。  
「あ、違うの。そういうのじゃなくて……えっと。これはまだ外に出しちゃいけない話だけど、商業のお誘いがあって。あの人は出版社の、薫風社。ほら。知っているでしょ」  
「知らん」  
「嘘だ―――」  
 帆夏は頭を抱えた。  
「何で知らないのよ。井上ミウくらい読んどきなさい」  
 だが是光をみるに「馬の耳に念仏」を具現化したような表情だ。  
「もうっ、とにかく。ついにこのあたしが商業デビューするかも……アンソロだけど。という話で編集者さんと打ち合わせてしていたのよっ!」  
「ほう。それはたいしたものだな」  
「でも商業とはいえ所詮はアンソロ作家だし。賞をとったわけでも無いもんだから、自慢するのも気恥ずかしくて……」  
 もじもじするが、是光が鼻くそでもほじりそうなほど無関心なことに気付き愕然とする。  
「もう、知らないっ」  
 背を向けて屋上を後にしようとする。  
「よかった。いつもの式部に戻って」  
「え!?」  
 一瞬振り返った後、耳まで真っ赤になって足音荒く階段を下っていく。  
 
「なんで、あいつ赤くなってんだ?」  
 是光の疑問にヒカルは肩をすくめるばかりで答えようとはしなかった。  
         *  
「はぁ……最悪」  
 帰宅途中、帆夏は溜息をつく。学校来てから、帰るまで碌な出来事が無かった。  
 教室では誰もが距離を取って話しかけようともしなかったし。いや、級長だけはオドオドと『なにかあったら言ってね』と声をかけてきただけだったが。  
 まともに言葉を交わしたのは赤城是光だけか。  
「あのバカ」  
 眼差しを思い出すだけで、僅かに表情が緩む。  
 だが次の瞬間こわばることになった。  
「おねーちゃんが式部帆夏っていうのかぁ」  
 進路をふさぐようにガラの悪い連中が立ちふさがっていた。  
 いまどき見かけないような奇抜な髪形にジャラジャラしたアクセを身につけ、ダブっとしたズボンを腰穿きしている。そんな若い男たちが数人行く手を阻んできたのだ。  
 駅まであと少しという距離なのに。助けを呼ぼうと周囲を見渡したが、通行人は数百メートル手前から集団を目撃すると足早に進路を変えている。  
 つまり、周囲はこの連中しか居ないということだ。  
 
「タダでやらしてくれるんでしょ。男無しじゃいられないヤリマンだって聞いているよ」  
 ニヤニヤしながら背の低い半分だけスキンヘッドにした男が一人近づいてくる。  
「そんな噂どこから……」  
 帆夏は慎重に間合いを計った。前方はふさがれているが、背後には回られていない。この半分ハゲさえ無力化すれば……。  
「メールで出回ってるよ。輪姦してくださいってな」  
「それはデタラメね。お引取りください」  
「なぁに、嫌よ嫌よも好きのうちってね」  
 男はあきれるくらい無防備であった。こちらが無力な少女だと思いこんでいるのだろう。股間を膨らませて、鼻息荒く近づいてくる。  
 奴め。もうヤったつもりになっているな。では教育してやるか。  
 狙いすましたローキックを相手の股間に叩きこんだのだ。  
「おうふっ」  
 崩れ落ちるその様子を見て後ろの連中は笑い転げた。  
「カッコ悪ぅ」  
 それを聞いて半分ハゲは激昂する。  
「クソッ女! まわして剥いて吊るしてやる!」  
 渾身の一撃であったのに、期待したほどの効果が無い。腰穿きズボンが防御効果をもたらしたのか。  
 股間を押さえながらも内股で立ち上がり物凄い形相で掴みかかろうとしてくるのだ。  
 ならば、短いスカートではあまりやりたくは無かったのだが。  
 
「真空飛び膝蹴り!」  
 高く跳躍してからの膝蹴りである。それを鼻っ柱に叩き込まれてはさすがに昏倒するのだ。  
 だがこれは失敗である。いや威力としては申し分ない。完璧に決まっている。だが、これを見たチンピラ集団が本気になってしまったという意味で失敗だったと言うしかないだろう。  
 弛緩した表情を引き締め、ゆっくりと迫ってくる男たち。半ハゲを一人無力化しただけにしては高い代償であった。  
         *  
 ヒカルのマンションの管理人と羊羹をつつきながら、ヒカルの思い出話に花を咲かせているときだった。  
 是光の携帯がメールの着信をしらせたのである。  
 ちなみに一方的に語り続けているのは管理人さんで、是光は相槌を打つだけ。たまにヒカルの解説を聞いてコメントを寄せる程度であるが、管理人さんは目を潤ませて是光の手を取り大きく頷くのである。  
 正直な話おっさん相手に鬱陶しくもあったが、悪気は無いので真面目に応対していたのだ。  
 だから携帯の着信は救いの船だったのである。  
「ちょっと失礼」  
 画面を見て是光は顔色を変えた。  
 
「すみません。急な用事が出来たもので帰ります」  
 返事も聞かずに駆け出す。  
         *  
 帆夏は荒い息を整えようと壁にもたれた。現在位置は把握できていない。ビルの谷間のような路地裏である。  
 全力で駆け続けてたどり着いたのがこの場所であった。  
 奴らは巧妙にも交差点などの重要地で待ち伏せし、携帯で連絡を取り合って退路を塞ぐように追跡してくるのである。  
 こっちは通学路以外の道は把握できていないというのに。  
 反撃しようにも常に複数で行動しており、ましてや警戒されている今は倒すことは不可能であった。  
 だから全力で逃げ続けて、逃げ続けてここに追い込まれたのである。  
「見つけたよ。帆夏ちゃん」  
 倒した半禿の声がした。振り返ると路地の入口に例の男たちが立っており、ニヤニヤと近づいてくる。  
 あわてて路地の奥に駈け出して帆夏はすぐに絶望のうめきを上げた。  
 その先は行き止まり。袋小路だったのである。  
 何とかならないかと見渡しても窓ひとつないコンクリの壁が絶壁のように立ちふさがって飛行能力でもない限り脱出は出来そうもない。  
「さぁて、先ほどのお詫びをしてもらおうじゃないか」  
 
 背後に迫る男たちの気配。  
 こいつらを倒して……無理だ。  
 最初の一人こそ奇襲で何とかできたとしても、二人、三人と相手にできない。組み伏せられるのはこちらのほうだ。まして警戒されている現状では奇襲は望めない。  
 そのうえ先ほどまで全力疾走を続けていて疲労がたまった状態ではどれほどの動きができることやら。  
 どう分析しても溜息しか出そうになかった。  
 だが、戦うしかない。  
 式部帆夏が唇をかみしめたとき。男たちの背後、路地の入口から救いの手が伸びたのである。  
「式部! 無事か!」  
 そこに立っていたのは赤城是光の姿であった。  
「なんだよ、にーちゃん。この女のコレかぁ? 黙って見学してな。そうすればおこぼれくらいわけてやっからよ」  
 次の瞬間、不用意に近づいた一人が地面に伏す。  
「なっ!?」  
 男たちに緊張が走った。  
「そういえば聞いたことがある。その面、そのなり、赤城……是光か」  
「あの赤城! だがこいつを倒せば……名を売れる」  
「この、人数でならっ!」  
「ボコるぞ。ごるぁ!」  
 だが、威勢がいいのは口だけである。  
 
 最初の男は拳とその側面で抉るように打たれ昏倒した。  
 次の男は革紐のようにしなる腕に締められ気絶する。  
 その次の男は弩で撃ち抜かれるように膝がみぞおちに入り悶絶した。  
 四番目の男は腰が引けたところを間合いの外から高く躍り上がった脚に撃沈される。  
「動きが……見えない?」  
 呆然と帆夏は見守るしかなかった。是光の悪名は聞いていたが、実際に彼と接するにつれ何かの間違いじゃないかと感じるようになっていたのだ。  
 しかし目の前の光景は伝説の通りだったのである。  
「そりゃ、外見が怖いというだけで、あれだけの悪名が広がるわけがないもんな。伴う事実がないと……」  
 ヒカルは感心しながら流麗な動作でチンピラ集団をのしていく是光を眺めた。  
「書道の筆の動き、無駄のない研ぎ澄まされた運筆は武道に通じるものがあると聞くが、これほどとは」  
 是光が合掌し、一礼したときには、立っている男たちは一人もいなかった。ことごとく倒れ呻き声を上げていたのである。  
「よかった。無事だったか」  
 ほっとした表情をみせる是光に帆夏はどんな表情を見せたらいいかわからなかった。  
 
「おっそーい! もっと早く来てよね」  
 つい、こんな声を上げてしまって後悔してしまう。だから顔を伏せて付け加えた。  
「怖かったんだから……ありがと」  
 今度は是光がなんていうべきか混乱する番であった。  
 だが、台詞を口にする前に新たな人影が現れたのである。  
「これは由々しき問題ね」  
 周囲を睥睨するように泰然とたたずむ姿は少女というより美女。黒髪で長身、怜悧な刃物を思わせる彼女の名前を斎賀朝衣といった。  
「赤城……是光君。このような暴力事件を起こしてただで済むと思っているの?」  
「会長! 彼はわたしを……」  
「式部さんは黙って。実際に手を下したのは、赤城是光君に間違いないわ」  
 巨悪を弾劾するように見据え、是光の眼光にひるむ様子も無い。  
「さてはお前が仕組んだことか……?」  
「馬鹿も休み休み言いなさい。わたしは生徒が暴力事件に巻き込まれそうだという通報のメールを受けてここに来たのよ」  
 そしてスカートの裾を翻して踵を返す。  
「必ずや、厳重な処分が下されるでしょう。覚悟しておきなさい」  
 この台詞を残して颯爽と立ち去る。  
「メール……?」  
 ヒカルは首をかしげた。  
 
「是光。尋ねてみてくれないか。助けを呼ぶメールをいつ送ったか」  
 だが帆夏の返事は意外だった。  
「送ってない。メールする余裕なんか無かった」  
「おい。俺は確かにっ」  
「ちょっとみせて……これあたしのメアドじゃないよ。なりすまし!?」  
 一同、沈黙する。重い空気が満ちた。  
「そういえば、あのチンピラ連中もメールとか言ってた」  
 暗鬱な雰囲気を表すような空から滴るように雫が降ってきた。  
 限界を迎えた前線から決壊するような驟雨。  
 その中、濡れるまま立ち尽くす二人と半分であった。  
 
         *  
「ふふ。んふふ。おもしろいですねぇ。こんなちっぽけな携帯から送られた短いメールでみんなあっちへ行ったりこっちに来たりと右往左往するなんて」  
 彼女は声を抑えるように笑う。小柄な体つき。それでみてみっしりと脂の乗った艶かしい肉体。だが髪は少年のように短い。  
 すばやい指さばきで手に持った携帯に文章を打ち込んでいくのだ。  
「さぁ。踊ってもらいますよ。掌の上で」  
 声にならない笑い声が虚空に響いた。  
 
       おわり。  
 
 

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