ビデオ屋の店番をしていた私の元にハヤテさんが訪れたのは、とある昼下がりの
ことでした。いささか退屈気味だった私に話しかけてきたハヤテさんは、ヒマワリの
様ないつもの笑顔とは打って変わって、今日はどこか不安げでおどおどした様子の
ように見えました。
「いらっしゃいませ! あら、ハヤテさん」
「こんにちはサキさん。あの、実は折り入ってお願いがあるんですけど」
「はい?」
ハヤテさんは若の婚約者であるナギお嬢さまのお宅に勤めていて、うちの
ビデオ屋の常連客でもある人。ですから多少の便宜は図ってあげてもいいの
ですが。
「個室、空いてます? 持ち込みで悪いんですけど、ちょっと見たいビデオがあって」
「個室ですか? 空いてますけど……ハヤテさん、お屋敷にビデオありましたよね?」
「えぇ、でも……ちょっと事情があって」
オフィス街のど真ん中にあるビデオ・タチバナには、時間制で料金をいただく
ビデオ鑑賞用の個室があります。もっとも今どきお家にビデオのない家のほうが
珍しいので、利用されるお客様は滅多にいません。たまに利用されるのはご自宅に
ビデオテープを持ち帰れない事情がある方で、それはその、つまり……。
「……(赤面)ハ、ハヤテさん!」
「すみません、厚かましいお願いだってことは分かってますけど、ちょっとお嬢さまには
見られたくないもので……あの、ダメでしょうか?」
あたふたする私の顔を、捨てられる子犬のような真摯な瞳で覗き込んでくるハヤテさん。
も、もぅ……そんな風に見られたら、断れないじゃないですか。
2時間分の料金をいただいて、ハヤテさんが個室に閉じこもって30分。
お客様のいない店内は妙に静かです。私はカウンターに頬杖をつきながら
スカートの裾をこそこそといじっていました。考えないようにしてるつもり
なのに、頭の中はさっきのハヤテさんのことでいっぱいです。
《ナギお嬢さまに隠れてみるビデオって……やっぱり、アレ、なんですよね……》
ビデオ屋である以上はアノ手の品物だって置いてありますし、それを借りていかれる
男の方だって少なくありません。レジ打ちの私をからかうためか、わざと過激な
タイトルのビデオを上に積んでくるお客様だって……でもお客様がそれを使って
どうするかなんて、考えないようにしてるつもりだったのですが。
《まぁ、ハヤテさんだって健康な男性なのですし、おかしなことじゃ……ないはず……》
うちで借りていったビデオという訳じゃなし、詮索するのが失礼なのは分かってます。
でも身近といっていい男性が、ここから数メートルほどの空間でそういう内容のを鑑賞
……そう、静かに見てるだけのはず……しているとなると、気にするなというほうが
無理です。せめて他のお客様でもいれば気が紛れるのですが。
《どうして男の人って、ああいうのに興味があるのかしら》
あんなのと言っても私はタイトルしか見たことはありません。きっと特殊な性癖をもった
ごく一部の男性だけのものだと今日までは思っていたので、身近な人がそれを見ていると
いうのはちょっとショックです。それもあの、よりによって、純真で繊細そうなハヤテさんが。
《あのハヤテさんでもそうなのなら、若だって何年かしたら……》
ぶるぶるぶる。つい浮かんでくる懸念を私は頭を振って追い払いました。この私が
大切に養育しているのですもの、若に限ってそんな……。
『地球、滅びねーかなぁ』
『てめぇ、こんなところに何しに来やがった!』
……だ、大丈夫ですよね、若? なんかとてつもなくガサツに育ってるような気が……。
こほん。ともあれ当面の問題はハヤテさんです。ナギお嬢さまに隠れていかがわしい
ビデオに手を出すなんて、あのハヤテさんらしからぬ振る舞い。ここは年上の女性と
して、きっぱりと注意をしてあげなくてはなりません。さいわい当分は他のお客様も
来そうにないですし。
私はカウンターからすっくと立ち上がると、そろりそろりと忍び足でハヤテさんの
いる個室へと歩み寄りました。防音の施された個室の壁からは中の様子は窺い知れ
ませんが、そこは客商売。中のお客様に万一があったときに備えて、室内マイクくらいは
用意してございます。ヘッドホンを頭にかけた私は、おもむろにマイクの電源を
オンにしました。
「キュン、キュン、キュン……シュッ、シュッ、シュッ……」
なんでしょう? ソファのスプリングがたわむような音と、何かがこすれるような
音が聞こえます。それに紛れて聞こえてくるのは……。
「はぁ、はぁ、はぁ……ふぅっ、ふぅっ……うーんっ」
……なにやら荒い息遣いと、何かに耐えるような気合の声……これ……聞いた覚えの
あるこの声は、ひょっとして……。
「……☆※$б■@▽★!!!!」
それがハヤテさんの声だと認識したとたん、私の脳みそは沸騰しました。
身体全体が熱くなり目の前の景色がぐらぐらと歪んでいます。もう注意する
どころではありません。あわててマイクのスイッチを切った私は洗面所に駆け込み、
冷たい水で顔を何度も洗うのでした。次から次へと浮かんでくる怪しい想像を
頭から洗い流すために。
ハヤテさんが出てくるまで、あと1時間。
私は憔悴しきった身体を、カウンターの席にうずめていました。こんなときに
限って他のお客様は現れず、拷問のような時間がゆっくりと流れていきます。
ハヤテさんは私の知らない遠くへ行ってしまいました、もう私なんかには留まらせる
ことなど出来はしません。
「そ、それにあんなところへ女の私が乗り込んだら、ハヤテさん、一生残る心の傷を
負ってしまうかもしれませんしね……」
注意しに行かないと決まれば、そのための言い訳はいくらでも思いつきます。
卑怯で臆病で弱虫な私。そうと分かっていても、あそこに乗り込んでいく勇気なんて
私にはありません。いや、ロボットやトラやヤクザを素手で倒すハヤテさんのこと。
あんなところを私に見られたとあっては、口封じのために乱暴な手段に走るかも
しれません。今のハヤテさんは、いつものハヤテさんではないわけですし。
「…………」
汗だくになって励んでいる男性の元に、いきなり現れるメイド姿の女性。
脳内がピンク色になってる状況でこんな事態に直面したら、怒りと恥ずかしさが
ごちゃ混ぜになって冷静な判断など出来はしません。私だってそんな状況になったら
思考停止してしまうに決まっていますし、悲鳴を上げたって誰もいない店内では
助けてくれる人などいないでしょう。いえ、そのまま個室の中に引きずり込まれて
鍵をかけられたら、部屋の中で何が行われているかなんて気づく人は誰1人いません。
それにもまして部屋の中では、男と女の営みの模範例が大々的に上映されているのです!
「……б@$▽☆※■★!」
考えただけでも全身に震えが走り、背中を詰めたい汗が流れ落ちます。
何度も洗面所に往復して頭と顔を冷やした私は、いきなりハヤテさんが部屋から
飛び出して私に襲い掛かって来やしないかと恐々としながら個室の扉をにらみつけ
ました。でも個室には外から鍵が掛かるわけでなし、もしハヤテさんが飛び出して
きたとしても身を守る術は私にはありません。私に出来ることは“どうか出てこないで”と
祈りながら扉を見つめるだけ、それも何の担保もなしに。
《あぁ神さま、どうか哀れな私をお守りください》
思わず神様にお祈りをささげる私。しかし頭の中では『そんな格好でそんな店に
勤めてる時点で救う価値なし、自己責任』という血も涙もない突っ込みが木霊しています。
こんなときに咲夜さんの声が聞こえるなんて、私は生き方を間違っていたのでしょうか?
「なに昼間から1人で悶えてんだよ、みっともない」
「……若!」
出口のない迷宮に光が差し込む瞬間とは、こういうものでしょうか。不機嫌そうに
入り口から帰ってきた若を見た途端、私の感情は爆発しました。頭ひとつ分も低い
男の子にしがみついて泣きじゃくるなんて、我ながらなんて恥ずかしいことを……
でも私には他に頼る相手はいなかったのです。
「どうしたんだよサキ、俺がいない間に何かあったのか?」
「あ、あそこ……あの個室……」
「個室? はーん、誰かやらしいビデオでも見てんだな。でもそんなの珍しいことじゃ
ねーじゃん」
「ハヤテさんが……」
よほど動転していたのでしょう、問われるままに答えてしまった私。しかし直後に
若の眼が光ったのを見て、私は失敗を悟りました。
「借金執事が? へー、そりゃ面白い。あいつの弱みを握るチャンスだな」
「……あの、若?」
「安心しろ、俺がガツーンと言ってやるから」
「若!」
世にも嬉しそうな顔をしながら個室のほうへと向かう若。安堵で腰が抜けてしまって
いた私には止めることは出来ませんでした。若は無造作に個室の扉を開けて中に入り
……そのまま出てはきませんでした。魔物退治に挑んでいった私の小さな騎士様は、
そのまま魔界の住人になってしまったのです。
「ふぅ〜、サキさんお待たせしました。おかげで助かりましたよ」
「……そうですか」
若が扉を開いてから1時間弱。異次元魔境から出てきたハヤテさんに、私は目を
合わせないようにしながら冷たく返事をしました。若を魔界に引きずり込んだ最低の
色情魔。さわやかな笑顔くらいでごまかされるもんですか。
「ワタル君はまだ中にいますよ。もう1回最初から見てみたいんですって」
「そうですか。よっぽどああいうのがお好きなんですね、男の方って」
「そりゃまぁ、ああいうのって男の夢ですし、執事としての必須技能みたいですから」
言うに事欠いて必須技能ですか。あんなので得た知識をお屋敷に持ち帰って
何をするつもりなんだか。
「そうですか。せいぜいナギお嬢さまを喜ばせて差し上げなさいね」
精一杯の皮肉を込めて突き放したつもりなのに、有頂天になったハヤテさんには
通じなかったようです。
「いえ、お嬢さまはこの話になると、何でか不機嫌になるんですよね。
でも必殺技って、白皇の執事の人たちは全員使えるみたいですし、
僕も頑張らないと」
……今どきの学校の考えることは分かりません、こんないやらしい技を使えるのが
当たり前になってるだなんて。必殺技なんて名前までつけて、お屋敷のメイドさん
たちを性の鎖で篭絡するつもりなんでしょうか? でもハヤテさんの場合、
相手があのマリアさんですから簡単にいかないでしょうけど。
「よーし、しっかり練習するぞぉ〜。楽しみにしてるヒナギクさんに早く見せて
あげないと」
「……え、ヒナギクさんって……」
あまりに意外な名前に私の脳細胞は硬直しました。高校1年生にして生徒会長に
登りつめた桂ヒナギクさんという才媛がいるということは、白皇に通う若から
聞いてます。ハヤテさんは白皇に通い始めたばかりだというのに、もう学園の
アイドルに狙いを絞っていたのですか?
「えぇ、気の必殺技を覚えたら真っ先に見せてくれって言われてるんですよ。
それじゃ失礼しますね、サキさん」
剣道場で竹刀を振るう凛々しいヒナギクさんと、性の必殺技の披露をねだる
妖艶な女生徒のイメージがどうしても結びつきません。唖然とする私を置いて、
ハヤテさんは軽やかに陽の暮れたオフィス街へと飛び出していきました。
芋虫はサナギを経て綺麗な蝶になるといいますが、いま目の前で起こった出来事は
ちょうどその逆。さわやかな少年が色情魔に変身するきっかけを提供してしまった
ことを、私は深く深く後悔するのでした。
その後。ハヤテさんの言う必殺技が文字通りの攻撃技であり、ハヤテさんの
持ち込んだのが『できる必殺技』というシリーズのビデオ教材であることを
私が若から聞いたのは、その日の夕飯の席でした。私がすぐに三千院家に
平謝りの電話を入れたのは言うまでもありません。
穴があったら入りたい気分です、勝手に妄想したうえにハヤテさんにあんなに
冷たい態度を取るなんて。明日は菓子折りを持って、直接お詫びに行かなくちゃ。
Fin.