曇天の梅雨空の下、まとわりつくような湿気が午後の街を覆っていた。  
その日は一日中小雨が降っており、  
西沢歩は学校の授業を終えた後  
寄り道もせずに家に帰って自室のベッドの上で漫画を読んでいた。  
しばらく前から蛍光灯の明かりがチカチカと暗くなったり明るくなったりを繰り返している。  
替えは置いていなかったがこんな日は電器屋に行くのも億劫だ。  
そんなことを考えているうちに、歩はベッドの下からモゾモゾと床を擦るような音がしているのに気づいた。  
(な…何なのかな、この音は…もしかして今流行りの「ス」で始まり「カー」で終わる…  
いやいや、「ド」で始まり……)  
動悸が激しくなる…ここは相手(人間だったと仮定して、ほら、近所の猫かもしれないし)  
を刺激しないように、気付かないフリをするのだと自分に言い聞かせる…  
(そうだ、まずは落ち着くのよ…深呼吸…しんこきゅ…)  
だが歩が小さな覚悟を決める前にベッドの下にいるものは姿を現わした。  
緩慢な動作で頭をベッドの下から突き出し、  
ベッドの上で固まっている歩に顔を向けて開口一番こう言った。  
「こんにちわああああ」  
 
「おわあああああああああああああっっああっ〜〜〜〜!!」  
歩は完全にパニックに陥っていた。  
ベッドの上から飛び起きる様はまるでハムスターのごとく俊敏で、  
開けてないドアに頭からぶつかる様も…やっぱりハムスターのごとし。  
衝撃でひっくり返り、後頭部を部屋の床にぶつける「ゴッツ」という音が階下まで響いたが、  
今この家にいるのは歩だけなので、気付く者はいない。  
いや、この表現は正確ではない…家にいるのは歩の他にベッドの下から出てきた怪しい人物、  
そう、それは近所のマヌケな猫などではなくまぎれもなく人間だ!  
上等そうな、しかしちょうど今日の空模様のような灰色のスーツに真っ黒なネクタイを締めた30代サラリーマン風の男だ。  
彼は歩の仰天する様子を見、ベッドの下から這い出て立ち上がると、  
床に転がってじたばたしている歩に左手をかざす。  
「落ち着きなさい、お嬢さん」  
男の掌が光ると不思議と歩の心は平静を取り戻していった。  
 
「私は神様です…フフフ。スでもドでもありませんよお嬢さん…安心なさいフフフフフ」  
安心しろと言われてもまるで説得力はなかったが、  
神様なら一人知り合いがいるので、そんな電波なセリフも普通の人よりは驚かなかったのかもしれない。  
(歩も普通を絵に描いたような普通だがその点だけは違っていた)  
「何故私があなたのところに来たか、心当たりがないという顔をしていますね?」  
…別にそうではなかった、神様であろうがなかろうが、  
ただこんな状況から解放されて、何事もなかったように風呂に入って夕食を食べて眠りたかっただけだ。  
「あなた、昨日傘を拾ったでしょう?」  
「傘…?」  
 
歩はすぐに思い出した。  
昨日の放課後の帰り道、雨が降ってきたので近くの神社の境内で雨宿りした。  
その時に向こうの茂みの中に傘の取っ手が突き出ているのが目についたのである。  
(あれ、使えないかな?どうせあんなとこに捨てられてるんだし、もってってもいいよね)  
歩は茂みのほうに行くとガサガサいう草木の間から傘を抜き取った。  
金属部分はところどころ錆でおおわれていて、恐ろしくボロい傘だが、一応開く。  
なんとなく茂みの向こうに目をやる。  
薄暗く、背の高い雑草が伸び放題に伸びている…好んで入ろうとする者はいないだろう。  
葉っぱの上に大きなかたつむりがいる…頭を上げ、こちらを見上げているような気がした。  
歩は何故か理由もわからぬ不気味な想いに駆られ、傘をさし、自転車を押して家に帰ったのである。  
 
「わたしは傘の神様です…付喪神というのをご存じですか?」  
「つくもがみ?」  
「長い年月を経て古くなったものが、神…まあ私の場合、妖怪といってもかまいませんが、  
とにかく私は傘のそれなんですよ。  
私も長いこと大事に扱われていた時代がありましたが、  
傘というものは往々にしてどこかに忘れられたり、捨てられる運命にあります。  
私にもついに終りの時が訪れたかと思っていたときに、あなたが私を拾ってくださったのです。  
物にとっては、人に使われることこそが、無上の喜びなのです。  
あの暗い茂みの中で物としての生を終えるのはあまりにも酷。  
あなたは私の生の最期にいい思い出をくれたのですよ」  
「はあ…そうなんですか」  
「あなた凄い普通の受け答えしますね。私セールスマンとかじゃないですよ?  
神様ですよ?」  
「そんな恰好じゃ説得力がないよ、証拠を見せてくんないかな。」  
歩は目の前の自称神様の話を聞きながらもどうにかして警察に連絡する手段を考えていた。  
どうせ神社で傘を拾ったところを見ていたストーカーが適当な話をでっち上げている決まっている。  
彼女は凡人のくせに自分の容姿にはそこそこ自信があるのだ。  
「証拠ですか?面倒ですねえ!疑り深い子は嫌われちゃいますよ?ね?西沢さん。」  
目の前でとんでもないことが起こった。  
男があろうことか、ハヤテの姿になったのだ。  
いつ変ったのかわからなかったが、確かに目の前にいるのは綾崎ハヤテその人だ。  
歩が告白する前、潮見高校の制服を着て、  
歩が遠くから憧れていた頃の懐かしいハヤテの姿がそこにある。  
「ハ…ハヤテくん?ええ〜〜〜〜〜っ!」  
「どおですかああ?信じてもらえましたかああ〜〜〜?」  
声は元のままだった。  
「ハヤテ君の姿でそんな気持ち悪い声で喋るなあ!」  
歩は思わず渾身の右ストレートを目の前のハヤテの姿をした自称神様に叩き込んでいた。  
「ぶふぉあおぅ!」  
倒れて柱に頭をぶつける自称。  
「ああっ!ハヤテくん!」  
「こ…このアマ……とにかくこれでわかったでしょう?私が神だということが」  
「あはは、ごめんごめん。信じるよ、長くなると困るし」  
 
「では話を戻しましょう…ぶっちゃけあなたにお礼がしたいんですよ。  
なんでも欲しいもの3つ言ってごらん?」  
「じゃあipodナノが欲しい」  
「普通だなオイ!そんな小ネタはいいんだよ!…まあいいでしょう」  
自称が指をくるっと回すと、まるでマンガのように煙が出て、  
歩の目の前にipodナノが出てきた。  
「わあ〜〜すごい!貰っていいの!?」  
(これは、もう疑う余地なく本物なんじゃないかな?  
まじめに生きていればいつかいいことがあるんだ…!)  
歩はさっきの警戒心はどこへやら、目の前の男を完全に信じる気になっていた。  
「どうぞどうぞ、そんなもんならいくらでも…さあ、あと二つですよ?」  
「う〜〜〜〜ん……じゃあ、シュレッダー」  
「シュレッダー!?なんでそんな…まあいいでしょう」  
今度もやはり目の前にシュレッダーが出てくる。  
願い事はあと一つだ。  
だが、欲しいものといきなり言われてもなかなか出てこないものである。  
「最後のひとつ…う〜〜ん…」  
「迷ってるようですね…あなたの本当に欲しいもの、よく考えたほうがいいですよ?  
なんせ最後の一つなんですから」  
「そうは言っても…うーん」  
「さっき私が変身した彼、ハヤテくんですか…彼、あなたの想い人でしょう」  
いきなり真実を見抜かれて真っ赤になる歩。  
「ななな何をいきなり言ってるのかな!?そ…そうだけど…あたしの心を読んだの?」  
「デリカシーのないことをしてすみません。  
ですが、あなたの一番欲しいものは彼ですよね?  
何故彼が欲しいって言わないんです?」  
「言えば出してくれるの?」  
「いいえ、血の通ってるものは無理ですよ」  
「出来るとしてもそんなこと言わないよ。そんな方法でハヤテくんと結ばれても意味ないもん」  
「いやはや、若いのに立派な考えをもっている」  
「普通だよ…そんなの」  
「しかし、これぐらいなら出せます。」  
自称は手をくるくる回した。  
「?靴?これ男物でしょ?」  
歩の目の前に現れたのは一揃えの革靴だ…妙なのは、  
よく手入れされているようだが、それが一目見て新品ではないとわかることだった。  
「わかりませんか?彼の靴ですよ」  
 
ドキッ  
 
「彼…ハヤテくんの??」  
「そう」  
「だっ、ダメだよ!返してきてよ!何で私がハヤテくんの靴欲しがるのよ!」  
「ですが、好きな人の持ち物を持っていたいと思うのは当然なのでは…?」  
「そうだけど、靴なんかありえないし、盗んできちゃダメだよ…あんた本当に神様なの?」  
「そうですか…喜んでもらえると思ったんですがねえ。じゃ返してきますか。」  
「当り前だよ!もう…」  
自称は手に靴を抱えたまま神経を集中させる。  
「持ってくるのは簡単なんですが、返すとなるとちょっと時間がかかりましてねえ…  
元の場所にちゃんと置くようにしなきゃならんもんですからあ…」  
目の前にハヤテの靴がある…ハヤテが毎日履いてる革靴だ…  
歩はごくんと唾を飲み込んだ。  
ハヤテくんの…  
 
「ねえ…ちょっとだけ貸してくんないかな…」  
 
翌日、空は梅雨の晴れ間の青空を覗かせていた。  
いつもならこんな日の放課後は商店街に行って買い食いでもしたいところだが、  
今日の歩の心は天気とは対照的に疲れ気味で、沈んでいた。  
授業にもまったくもって身が入らなかった。  
帰り道も青ざめた顔でトボトボと家の方角に足を運んでいた。  
「西沢さん!」  
馴染みのある声が後ろから聞こえた。  
声をかけたのは綾崎ハヤテだった。  
小奇麗な執事服を身にまとい、青空のような笑顔でこっちに歩いてくる。  
今の歩にはその笑顔はあまりにも眩しすぎた…  
自然と目に涙があふれそうになる。  
「ハ、ハヤテくん…」  
「どうしたんですか、西沢さん。何か今日は顔色が悪いような…寝不足ですか?」  
「あ、あはは…そうなの。夜更かししちゃって」  
チラっとハヤテの足もとに目をやる。  
靴は真新しかった。  
胸にズキっと針が突き刺さるように感じたが、顔は平静を装った。  
「その靴、ステキだね。新しいの買ったんだ」  
「そうなんですよー。それが革靴が一足なくなっちゃいまして、  
仕方ないから新しいの買ったんです。」  
その後もとりとめない話をしながら一緒に帰った。  
いつもの歩なら小躍りして喜ぶところだが、  
今日は相手の顔をまともに見れなかった。  
 
その夜、歩はある人物に携帯から電話をかけた。  
明日の日曜日ハチ公前で会う約束をした。  
相手の能天気な声を聞いたら少し心が安らいだ気がしたので歩はその晩はわりと眠れた。  
 
 
 
「罪を犯しました」  
「はぁ?」  
日曜日の朝、歩は神様ことオルムズト・ナジャと喫茶店にいた。  
この神様、先日の怪しい自称とは違い、正真正銘の神様である。  
普通の女性にしか見えないが、どうやらそういうことになっている。  
ちなみに単行本のカバー裏とキャラソンCDドラマパートにしか出現しない。  
神様はトーストとコーヒーとベーコンエッグのモーニングセットを注文し、コーヒーには砂糖を小さじ3杯ぐらい入れていた。  
「私は罪を犯したのです…私は穢れてしまったのです。  
その罪を聞いてほしくて呼んだんです」  
「ああ、そうなんですか。いいっすよ?私でよければ、聞いてあげますよ」  
神様はトーストにバターとジャムをたっぷり塗ってもしゃもしゃと食べながら受け答えしていた。  
「私は許されるんでしょうか?神様に罪を告白すれば許されますか?」  
何か今日の西沢さんは真剣だ…どうせ高校生の悩みなんて大したことがないだろうと  
タカをくくっていた神様だったが、さすがに歩の剣幕を見ると事は重大らしい。  
「何があったの?西沢さん。落ち着いて話してみて?」  
歩はおとといの午後にあったこと、そしてその晩にあったことを包み隠さず話した。  
 
「そうですか…わかりました。  
まず、その西沢さんの部屋に現われた自称神様のことですが、彼は神様ではありません」  
「神様じゃない?」  
「付喪神でも妖怪の類でもありません。悪魔ですね。」  
歩の顔が一気に青ざめる。  
そんな恐ろしいものが自分の部屋に入り込んだのか…  
「傘の話はただあなたに近づくための口実にすぎません。  
でもその傘を拾った日に目をつけられたのは確かですね…。」  
「私はどうしたら…」  
「心配ありません。彼は人の歪んだ情念を食い物にする悪魔のようですから、  
その靴を西沢さんに渡し、その晩…その、罪を犯させたことで気がすんだみたい。  
もう彼の気配はこの街にはありません。」  
だが罪の意識は依然歩の心に根を張っている。  
「…まあ、若いうちは魔がさすこともあるのんですよ、西沢さん。  
もう二度としないって思ってるなら、それでいいんじゃない?  
自分の中だけのことだし。」  
なんだかフツーのなぐさめになってしまったがそれもこれも  
周りが今まで神様なのに神様扱いしてくれなかったから  
こういう真面目なときにどう対処していいか忘れてしまったのだ…  
しかしどうも歩はどっと肩の荷が下りたらしく、おいおいと泣き出した  
「うわあああああん!ハヤテくん、ごめん…ごめんね…許して!  
もう…もう二度とあんなことしないから…嫌いにならないで!」  
神様は泣いている歩をそっと抱きしめてやった。  
周りの客が何事かとこちらを見ていたが、歩にも神様にもそれは気にならなかった。  
 
歩と神様は喫茶店から出て人気のない小高い丘の上にいた。  
これから靴をハヤテのいる三千院家に転送する儀式を行うためだ。  
「なかなか難しいんですよねこれが…まあ玄関の前にでも転送すれば誰か気づくでしょ」  
「何から何までありがとう神様、本当は私が返さなきゃならないのに」  
「いやあ、それはなかなか難しいでしょう…こっそり返すにしても三千院家の監視網は厳しいですし。」  
神様は地面に見たこともない文字を書いて(さんすくりっと語というらしい)呪文を唱え始めた。  
しばらくすると靴の周りが光り始めた…  
始め淡かった光が徐々に強さを増していく…そして突然靴が消えた。  
(えっ?もう消えた?いつもならもっと段々と消えていくはずじゃなかったかしら?)  
それもそのはず、靴は歩の手の中にあった。  
「西沢さん?なにしてるんですか…?」  
 
「あと一日…」  
「はい?」  
「あと一日だけ…!あと一日だけ貸してくんないかな!??」  
「にっ…西沢さんんん!!???」  
「ハヤテくんの靴なんだよ!本物のっ!!  
こないだハヤテくん新しいの買ったって言ってたからこれ本物なんだよ…ッッ!!  
最初の晩ベ…ベッドでオ、オナニーした時は本物じゃないんじゃないかって半信半疑だったけど  
ハヤテくんが履いてたって想像したらすっごく気持ち良くって臭い嗅ぎながら何度もイッちゃったのよ!!  
だから、ほ、ほんものだってわかった今ならもっともっとキモチヨクなると思うのッ………!!!」  
歩は恍惚の表情で目をギラギラと見開き、はあはあと荒い息をしながら感情を暴露した。  
(狂っている、この子は狂わされた…あの悪魔ではなく、借金執事に…ここまで。  
ヘラヘラと曖昧な態度で何人の女を虜にし続けるのだ…  
あの天然ジゴロこそ本当の悪魔じゃないかあああああっ!)  
「西沢さん!目を覚ますのよ!これはここにあってはいけないものなの!  
これがあると、心を壊されてこのままでは一生あなたは闇の世界から抜け出せなくなってしまう!  
さあ、その靴をこっちによこしなさい!」  
神様は靴をつかみ、歩から奪い取ろうとするが、歩も抵抗する。  
「ダメなのよ!これは手放せないのよオオオオオオ!」  
「西沢さん、負けないで!心をしっかり持つのよ!ハヤテくんはこの靴にはいない!  
靴は靴!モノなのよ!血のかよったハヤテくんは別の場所にいるのよ!」  
 
確かにハヤテはたかが靴のことでとんでもないことになってたり、  
いわれのない非難を受けたりしているのもつゆ知らず、  
三千院家でナギのゲームの相手をしていた。  
「へくちっ!」  
「なんだハヤテ、風邪か」  
「いやあ、誰かが僕の噂をしてるみたいですねえ〜」  
「漫画みたいなベタなこと言うなよ…」  
三千院家では平和なひとときが過ぎていた。  
 
「う…神様…私は自分をコントロールできそうにない、ハア、ハア…」  
歩の目に正気の光がともり始めた…  
「わ、私を殴って気絶させて…そして靴を…ハヤテくんのもとへ……」  
「西沢さん…そこまでの覚悟が……  
わかりました、あなたの罪はきっと許されます。  
そしてこの出来事が記憶の彼方に埋もれ、消え去らんことを!」  
神様は渾身の力を右腕に籠める…  
「いくぞ最強の拳!!かみさ・マジカルパ〜〜〜〜〜〜〜ンチッ!!!」  
神様の必殺拳が歩の鳩尾にクリーンヒットした!  
「ごぶうううううっっ!!!」  
ドサっと地面に倒れる歩…その顔は安らかだった。  
神様は靴を三千院家の玄関の近くに転送した。  
「終わった………いつの世も愛は悲しいものね」  
神様はそう言うと、丘を後にした。  
 
小雨が降りはじめ、歩の身体にいつまでも降り注いでいた。  
 
〜完〜  
 

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