「しかし、この喫茶店は、ほんとに客が来ないなあ…」  
「うん…。株の値段が凄く下がってるからじゃないかな?」  
 
可愛らしい頬をぶすっと膨らませてナギが問い掛ければ、細い肩先をちょっと落としながら歩も軽い溜め息交じりに答える。  
普通なら今頃からお客がポツポツと入りだすはずなのだが、全くそんな気配すら無い『喫茶 どんぐり』の店内で、  
『CAFE DONGURI』のロゴ入りのエプロンを着けた二人の少女は、空しく暇を持て余していた。  
 
ヒナギクの馴染みのこの店には彼女自身も時々バイトに入っていたし、  
今から約半年前、ひょんなことからハヤテが店の厨房を借りることになったのだが、  
その時、客の無理難題にヒナギクとマリアの助けを得ながら手際よく対応した彼のことを覚えていたマスターの加賀が、  
余りの人手不足に窮してヒナギクの紹介で彼をスカウト、それを、  
自分で働いて得たお金でハヤテに腕時計をプレゼントするために働き口を探していたナギとセットでいいなら、  
という条件でマリアが承諾したのだ。  
更にこの時、従業員が大金持ちのお嬢さまとその執事だけというのはバランスが悪いと考えた加賀が、  
“普通の人”として雇い入れたのが歩なのだった。  
 
今日は、ナギに内緒で一晩中伊澄の除霊に協力していたハヤテが、  
その疲労振りをナギに見抜かれて学院から屋敷への直帰を命じられ、残念ながらバイトを欠席。  
そしてマスターは、“ボス”とやらに呼び出されて先ほどから外出していた。  
 
「うむむむ…。SP連中が、また店の外で通行人の身体検査をし始めたんじゃあるまいな…」  
 
今年の春先、ナギがバイトを始めた直後には、その身を案じて、  
黒ずくめにサングラス姿のSPたちが十重二十重に『どんぐり』を取り巻いて一般の者の通行を遮断してしまい、  
全く入らなくなってしまった一般人の客に代わって着慣れないアロハシャツを着たSPがサクラの客となって入店したが、  
そんな涙ぐましい努力も、  
SP全員の顔を記憶しているナギに簡単に見破られて、そのシャツの襟元に忍ばせた超小型マイクをナギに摘み出され、  
それを通じて、警戒中のSP全員とマリアとハヤテは、「今後、このような真似をしたら、お前たち全員即刻馘首だ!!  
特に、マリアとハヤテが私を心配して様子を見に来ていたら、絶対に許さんからな!!」と言い渡されてしまったのであった。  
 
それ以来SPたちの活動は静かになったが、しかし、これほどまでに客の入りが悪いということは、  
季節が巡り再び寒くなり始めたこの時期になって、その活動がまた活発化したのであろうか?  
 
「え?『えすぴーが身体検査』って何かな??」  
「くっそー!せっかく来たのにこんなにまでヒマだと、せっかくの勤労意欲が台無しではないか!!」  
 
イラつくナギは、歩の当然の疑問には答えずに板張りの床をカツカツと踏み鳴らして店の入り口へ向かうと、  
上に付いているカウベルがもげそうになるほどガバッと勢い良くドアを開け、  
そこから首だけを突き出してキョロキョロと外の様子を窺う。  
 
『ふん…。いない、か…』  
 
「お嬢さまたちは、僕たちの事に気が付いていませんね」  
「ええ、今のところは大丈夫そうですね」  
「はい、本日は10台の諜報車を用意しました。それぞれメーカー、色、年式を違わせてありますし、  
ナンバーも東京都下と神奈川のものに分散させて、SPの服装もカジュアルなものにしています」  
 
店の前の歩道に一目でSPと分かる黒背広たちの姿が見えないことに満足したナギは静かにドアを閉めるが、何の事は無い、  
店の反対側の歩道沿いに設置されているパーキングメーターを入れ代わり立ち代り利用している数台の大型のワンボックス車は、  
もちろん全て三千院家のSP部門の所有車で、その中の一台の車内では、  
ナギの様子を心配するハヤテとマリアが、それぞれのヘッドホンで、店内に仕掛けたプロ仕様の盗聴機が傍受…、いや、  
店内に設置した高性能の情報収集機器が送信してくるナギと歩の会話に聞き耳を立てていたのだった。  
 
「確かにSP連中はいない。だが、客が来ない…」  
「うう…。ハヤテ君がいてくれる時は、いろんなお客さんが来てくれるのに…。どうしてなのかな?」  
 
店内で、ナギと歩の二人が思わず見合わせた顔の眉間に「むむむ…」とそれぞれ複雑な思いを込めて皺を寄せれば、  
その様子をモニターしているワンボックスカーの車内の一同は、気難しいナギの警護の難しさに、改めて気を引き締め直した。  
 
「ところで、ナギちゃん…?」  
 
既にナギとハヤテの心が深く強く通じ合っているということを全く知らない歩が、  
少々の優越感を篭めた視線を横目でナギへと送りつつ、ニヤつきながら話し掛けた。  
 
「この頃は、ちょっといい恋のエピソードとかは無いのかな?  
もちろん、起き抜けのベッドでハヤテ君が『甘いですよ』って勧めてくれたジュースが、実は酸っぱかった…。  
とかいうのは無しでね!」  
「うっ!」  
 
暇を持て余す仲良し(?)少女たちの話題の定番といえば所謂『恋話(こいばな)』だが、  
ハヤテをめぐる恋敵である−とまだ歩は思っていた−二人の間でのそれは、必然的にハヤテとの親密さの披瀝合戦となる。  
そして、歩が禁じた“ジュースのエピソード”とは、例のSP追い払い騒動の直後、  
自分から「恋話をしよう」と提案したのにも関わらず『デート』と『チュー(キス)』の体験での歩の虚勢を見抜けずに焦ったナギが、  
その日の朝、なかなかベッドから起きないナギの目を覚まそうとして、  
酸っぱいグレープフルーツジュースを甘いオレンジジュースと偽って勧めたハヤテの行動を極限ギリギリまで拡大解釈し、  
「今朝もハヤテに、ベッドでイタズラされたのだ!」とぶち上げた、という何とも他愛の無いものだった。もちろん、  
それに大ショックを受けた歩には、ナギの様子を見に来ていたマリアとハヤテがその真相を説明して、事なきを得たのだった。  
 
「さあ!無いのかな?無いのかな〜!あれから一つも、新しいのは無いのかな〜!?」  
 
ニタニタしながら執拗に煽り立てる歩に、既に耳の先まで真っ赤になって俯いていたナギは、  
その赤さを更に濃くすると、小さな体をモジモジともっと小さくしながら、ツンと尖らせた唇でボソッと呟く。  
 
『このところ毎日…、ハヤテとは…、いろいろと仲良くしているのだ…!』  
『え〜!あのハヤテ君が!?まさか〜!!ナギちゃん、無理やハッタリは勘違いは、よくないんじゃないのかな??』  
『な…!けっ、決して「ハッタリ」や「勘違い」などではなぁーーーーいッ!』  
『じゃあ、どんな風に“仲良くしてる”のか、具体的に教えてくれる?』  
『それは…、その…』  
『ほ〜ら、やっぱり!口から出任せはお止め下さい、ナギお嬢さま!!』  
『だから!出任せなどではない!!今朝だって…、ハヤテに…』  
 
「お…、お嬢さま…」  
 
例のワンボックスカーの中では、店内の黄色い声での言い合いを、  
着けたヘッドホンのスピーカーから耳にねじ込まれているハヤテが顔を熟れ切ったトマトのように真っ赤にしていたが、  
そんなハヤテの姿を、その横で別個のヘッドホンで同一の音声に耳を傾けているマリアは、  
ただ苦笑いを必死に堪えながら見守るしかなかった。  
 
 
今朝、ハヤテは何時もの通り、愛する小さな主人をその寝室へ起こしに行った。  
 
「おはようございます!お嬢さま」  
「む〜…」  
 
ナギが一回で起きないことを良く心得ているハヤテは、そのまま窓辺に進むと、  
高級な厚地の遮光カーテンをさっと開け、  
そのプリーツを丁寧に整えながら金糸で太く編まれた綱型のタッセルで纏めていく。  
 
「お嬢さま。さあ、学校へ行く支度を致しましょう!」  
「今日は、もう疲れた。学校は、お休みする…」  
 
天蓋付きの豪華なベッドの中で、窓から差し込む爽やかな朝の光に目が眩んだナギは、  
たっぷりした造りの羽毛布団の襟を、大判の羽毛枕に乗せた頭の天辺近くまでモゾモゾと引っ張り上げながら答えた。  
 
「お嬢さま〜…」  
 
そんなナギの仕草も可愛いハヤテは、ベッドに歩み寄ると、  
羽毛布団の襟元からほんの少しだけちょこんと覗いているナギのつむじを、  
その大きな掌全体を使って何度もゆっくりと撫でながら優しく話し掛ける。  
 
「僕は、お嬢さまと一緒に学校へ行きたいんです」  
 
つむじを撫でてくれるハヤテの掌はとても心地いいし、その言葉もとても嬉しいが、しかし、眠いものは眠い。  
 
「そんなに何時も何時も一緒にいては、早く倦怠期が来てしまうかも知れんぞ〜…」  
 
呑みに行こうという誘いを新婚ほやほやの部下に断られた上司のようにぼやきながら、  
ナギは、布団の中で寝返りを打って反対側を向いてしまう。  
だが、本当にこの可愛い主人と一緒に学校に行きたいハヤテとしては、ここで引き下がるわけにはいかなかった。  
 
「そうだ!お嬢さま」  
「ん〜?」  
「僕から、贈り物を差し上げたいと思うのですが、受け取っていただけますでしょうか…?」  
 
ハヤテからの口から出た『贈り物』という言葉に反応して、布団の中で思わずパチリと目を開けてしまったナギだが、  
しかし、ハヤテがそう告げたタイミングを考えれば、それは、この自分を何とかして起こすための策略に違いなかった。  
でも、ハヤテは今まで一度だってナギに対して全くの空約束をした事はなかったから、その『贈り物』とやらの内容に、  
ナギは興味を持った。  
 
「どんなものをくれるのだ?」  
 
布団を被ったまま答えるナギのその声音から明らかに眠気が去っている事を感じ取ったハヤテは、  
ナギの身体の大きさにふんわりと膨らんでいる羽毛布団の、  
おそらくはナギの耳があるであろう部分に向かって、そっと囁きかける。  
 
「オレンジジュースよりももっともっと甘くて…」  
「…?」  
「グレープフルーツジュースよりも、ちょっと酸っぱいかも知れませんねぇ」  
 
ジュースという単語が二つも並んだからには、やはり飲み物系だろうか?  
だが、そんなに甘くて酸っぱくて、起き抜けの目覚まし代わりに呑んでも美味しく感じられるような飲み物があるなら、  
それをこの自分が知らないはずはない。  
いや待て。飲み物でなければ、食べ物か?  
いやいや、ハヤテは確かに『僕からの、贈り物』と言った。  
ハヤテには、屋敷の物、つまり三千院家の物と自分の私物を混同するような癖はなかったから、  
ならば、ハヤテが自分で用意した何かか?  
 
「うむむ〜…」  
 
考えれば考えるほどいよいよもって深まっていく謎にとうとう耐え切れなくなったナギが、  
細い腕をグイッと伸ばして上半身を覆っている掛け布団を足の方へパタンと二つ折りにし、  
その開けた視界の中にハヤテの姿を捉えた、その時…  
 
「ハ…、…んッ!」  
 
あっという間に近付いてきたハヤテの顔が再びナギの視界を塞いだかと思うと、その唇が、  
「ハヤテ」と呼び掛けようとして半分ほど開かれたナギの愛らしい桜色の小さな唇に、ふんわりと優しく重なってきた。  
 
「!…」  
 
いきなりのとても素敵で幸せな出来事に、ナギが口付けを受けた姿勢のまま固まっていると、  
ハヤテは、ナギの唇の柔らかさを確かめるように、押し付けたままのその唇の先を二、三回ツンツンと尖らせてから、  
ゆっくりと顔を離す。  
 
「…あ、…」  
 
幸せに頬を染めながらほんの間近で見詰めあう二人の間に言葉は無かったけれど、  
ハヤテの藍色に煌めく澄み切った瞳と、ナギの優しい鶯色が美しい艶やかな瞳は、  
その表面に愛する相手の顔をキラキラと映り込ませながら、互いへの深くて強い永遠の愛情を雄弁に語り合っていた。  
 
「…」  
 
二人は視線を熱く絡め合いながら、  
うっすらと開いた唇を微かに閉じたり開いたりしては相手に「好きだ」と告げるタイミングを見計らっていたが、  
しかし、その均衡がナギによって破られかけた、その時…  
 
「…大す…、んんッ…!」  
 
「大好きだぞ」と言いかけたナギの唇に、再びハヤテのそれが素早く重ねられる。  
 
「…あッ」  
 
ハヤテの温かい舌先がナギの小さな唇を優しくなぞりながら、その中への進入の許可を待つ。  
 
「ん…ッ」  
 
ナギの唇が微かに動いたことをもって許可が下りたと判断したハヤテは、  
その少し広げられた隙間に大喜びで舌先を差し入れようと試みるが、と、どうだろう!とても嬉しいことに、  
その隙間の入り口近くまで、ナギの可愛らしい舌先がハヤテのそれをおずおずと迎えに出て来てくれたのだった。  
 
「んんッ…」  
 
完全に重なってはいない唇から漏れてくる互いの温かで少しだけ荒い息遣いを、鼻や頬、そして顎に心地良く感じながら、  
二人の舌の先は出会い、そして、お互いにその温かさと甘さを確かめるようにツンツンと軽く、  
あるいは強く突付きあって、ナギとハヤテ本人たちより一足先に『おはよう』の挨拶を交わす。  
 
「あっ…!ハヤテ…」  
 
ナギが、掛け布団の襟を握り締めていた指を離し、その腕を、  
自分の上半身の上に優しく覆いかぶさっているハヤテの首に回そうとした時、  
ハヤテは、ナギの上からそっと身を起こすと、ナギに向けて優しく手を差し出しながら蕩けそうな笑顔で朝の挨拶をする。  
 
「お嬢さま、おはようございます!」  
 
思わずその手に掴まったナギは、ハヤテにその手をそのまま引っ張られて、苦もなく上半身を起こされてしまった。  
 
「お…、おはよう、ございます…」  
 
今更ながらに耳の先まで真っ赤になりながら挨拶を返すナギの小さな身体をハヤテはベッドから軽々と抱え起こすと、  
その小ぶりな尻をそっとベッドの縁に据えて腰掛けさせ、自分はその前に跪いた。  
 
「お嬢さま」  
「ん?」  
「僕からの贈り物は、お気に召しましたでしょうか?」  
「うん…」  
 
嬉しさと恥ずかしさで子犬が鼻を鳴らすような声で短く返事をするナギの幸せそうな桜色に染まった顔を見上げながら、  
ハヤテは、真剣な顔でナギに話し始める。  
 
「何で僕がお嬢さまと一緒に学校に行きたいか、お嬢さまはご存知ですか?」  
「ううん…」  
 
もちろんそれを知らないナギはフルフルと小さく首を横に振るが、やはり、もちろん早くそれを知りたい。  
 
「僕がお嬢さまのお供をして校内を歩いている時…」  
「うん」  
「それを見た皆さんは、きっとこう思うに違いありません。『あの執事は、あんなに綺麗で可愛い主人に仕えているのか!  
あんな素敵な女の子と何時も一緒にいられるあの執事は、物凄い幸せ者だなあ』って!」  
 
ハヤテの言葉に欠片ほどの嘘も偽りも、更には誇張さえも混じってなどいないということは、  
その藍色に輝く瞳の煌めきと真っ直ぐさを文字通りに目の当たりにしているナギには痛いほどよくわかった。  
そんなナギのふっくらとした可愛い頬が、見る見るうちにさっきまでよりももっともっと濃くて美しい桜色に染め返されていく。  
 
「そ、そうかな…?」  
「はい!絶対そうですよ!!ですから、僕がお嬢さまの執事である事を、学校の皆さんに自慢させていただけませんか?」  
「ま…、まあ、ハヤテがそうしたいというなら…、それも良いかも…」  
「有り難うございます!!」  
 
心の底からの喜びと嬉しさにその表情パッと太陽のように明るくしたハヤテが、言葉を繋ぐ。  
 
「それに…」  
「?」  
 
不思議そうな表情になるナギの前からすっくと立ち上がったハヤテは、「失礼致します」と丁寧に断わってから、  
ベッドの縁のナギのすぐ隣にそっと腰を降ろすと、ナギの小さな身体に逞しい腕を回して優しく自分の胸元へと抱き寄せ、  
まだツインテールに纏めていないその艶やかな金髪のつむじに鼻先を埋めて深くゆっくりと息を吸い込んだ。  
 
「ハ、ハヤテぇ!?」  
「ああ…、お嬢さま…」  
「そんな所…、クンクンしたら、ダメだぞ…」  
「僕はお嬢さまの、このカスタードクリームみたいに甘い髪の香りが…、いえ、この綺麗な髪のだけじゃなく、  
お嬢さまの香りが大好きなんです…」  
 
大好きな男に優しく抱き締められながら地肌の匂いを確かめられてしまったナギは、もう、  
首から上の肌を真紅に染め上げて「きゅう…」と力無くハヤテの胸元にただ夢中で縋り付くほか無かった。  
 
「お嬢さまが学校をお休みになったら、僕は半日もこの香りから離れて過ごさなければならないんです…」  
「うん…」  
「ですから、お嬢さま無しでは半日生きるのがやっとのこの可愛そうな僕を助けてくださるおつもりで、  
どうか、お願い致しますから僕と一緒に学校へ行っていただけませんか…?」  
「…、…」  
 
耳元間近で願い事をそっと囁くハヤテの甘い声音に、ただ一言「うん」と返事をする力さえ奪われてしまったナギは、  
ハヤテの厚い胸板に火照る頬を埋めながら、小さく熱い溜め息混じりにほんの軽くコクンと頷くことしか出来なかった。  
 
「有り難うございます、お嬢さま…!」  
「…、うむ…」  
 
そのつむじに、チュッチュッと軽く啄ばむようなハヤテからの口付けを何度も何度も受けながら、  
ナギが、ハヤテの心臓の位置を確かめるように、その小さな掌をハヤテの白いシャツの胸元に優しく押し当てる。  
 
「ハヤテ…」  
「はい」  
「私も…」  
「はい…」  
「私も…、ハヤテと、何時も一緒に居たいぞ…!」  
「お嬢さま…!」  
 
ハヤテが、自分の胸元で再び熱い溜め息をついた世界一愛くるしい主人の顔を覗き込もうとして首をぐいっと傾ければ、  
その気配を感じたナギが、身体を支えてくれている愛する男の腕に預けた背中をしなやかに反らせ、  
白い喉元をすっと伸ばし、美しく尖った顎先をくいっと上げて、  
この自分の瞳の奥を一心に覗き込んでいる優しく美しいハヤテの藍色の瞳を、甘い熱を帯びた視線でうっとりと見詰め返す。  
 
「お嬢さまは…」  
「うん…」  
 
ナギの背中を支えている腕にハヤテがそっと力を入れなおすと、無上の幸福に頬を染めながら見詰めあう二人の顔の距離が、  
互いの息遣いを感じ取れるほどの近さにまで、再びぐっと近付いた。  
 
「お嬢さまは…、僕の宝物です…」  
「ハヤテ…」  
 
ほんの間近の距離にあるナギとハヤテの唇が、互いを求め合って僅かにツンと尖った、その時…  
 
「二人とも〜!早くしないと学校に遅れますよ〜!!」  
「はっ…!はいッ!!」  
「い、今行くのだッ!!」  
 
寝室の扉をノックしながらのマリアの呼びかけに、二人は飛び上がって大慌てで身体を離したのだった。  
 
『け、け、今朝だけではないッ!』  
『ほう!と、言いますと、具体的には?』  
『ク、クッキーを二人で食べたり…、ラジコンを教わったり…、DVDを観たり…』  
『何よそれ!ハヤテ君はナギちゃんの執事さんなんだから、そんなの、普通の事なんじゃないのかな?』  
『だから…、そうではなくてだな…』  
 
「…、うう…」  
 
店の筋向かいに停まっている例のワンボックス車の中では、  
先ほどからヘッドホンから聞こえてくるナギの言葉に冷や汗と脂汗に塗れながらハヤテが悶絶していたが、  
その上更に、同乗して同じ音声を聞いているマリアやSPたちからビンビンと伝わってくる、  
「照れまくるハヤテを見ないようにしよう」という必死の気遣いの気配にとうとう耐え切れなくなったハヤテは、  
天辺から激しく湯気を立てている頭からその罪なヘッドホンを毟り取るように外すと、  
それを握り締めたまま、コンソールにくたりと突っ伏してしまった。  
 
「ああ〜…、お嬢さまぁ〜…」  
 
ハヤテは、血が上りきって朦朧とのぼせている頭で、  
まだまだ数々ある二人だけの秘密のエピソードを、ナギが歩に対してもうそれ以上明らかにしないように、  
そして願わくば、歩から如何に煽られようと、間違ってもその詳しい内容について説明し始めるような事が無いようにと、  
ただただ必死に念じつつ懸命に祈るばかりであった。  
 

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