「ナギ、ナーギ! いい加減起きなさい!」  
「んあ……?」  
 まどろみの向こうから聞こえる呼び声に間の抜けた返事で応えながら、三千院ナギは目を  
覚ます。  
 見慣れたベッドの天蓋。少し視線を横に向けると、眉を寄せてナギを見下ろすマリアが  
いた。  
「あー、おはようマリア……。そしておやすみ」  
「こら、これで何度寝だと思ってるんですか。早く起きなさい」  
「ふぁーい」  
 今朝はまだ一度も起きた記憶はないのに、と思いつつ、ナギは目を擦りながら身を起こす。  
 カーテンの開け放たれた窓から、溢れるように白光が差し込んでいる。今日もいい天気  
だった。  
 
 眠い目をこすりながら食卓につき、100%のオレンジジュースを一口飲んだところで  
はたと気づく。  
「ん、そういえばハヤテはどうした?」  
 いつもナギが食堂に入ると、爽やかな笑顔で出迎えてくれるナギ一番の執事が、今朝は  
どこにもその姿を見せない。  
「ふふ、珍しくお寝坊さんみたいですよ。まあたまにはいいんじゃないですか。た・ま・  
 に・は」  
「……なぜそこを強調する」  
 ナギはばつが悪そうにクロワッサンを千切って口に運ぶ。  
 しかし、確かに珍しいことだった。  
 前日に馬車馬のように働いてもダンプカーに引かれても宇宙人に攫われても新人類と  
未来を賭けて戦おうとも、翌朝にはけろっとした顔をして執事の仕事をこなすあのハヤテが。  
「……そんなことありましたっけ?」  
「ハヤテならそのくらいのイベントも難なくクリアしていそうだからな」  
 言いつつ、ナギはみじん切りの玉ねぎとベーコンが浮かぶスープを一口。  
 その時、食堂のドアの向こうから人の歩く気配がした。  
「あ、ハヤテくん起きてきたみたいですね」  
「ふっふーん、今日は私のほうが早起きだったからな。威張りたおしてやる」  
 
 鼻を鳴らすナギに、マリアは苦笑を浮かべる。  
 そして、食堂のドアがぎぃ、と力無く開いた。  
   
 ちんまり。  
   
「遅いぞハヤテー。……うん? なんだ今一瞬入った妙なオノマトペは?」  
「な……、ナギ! 見てください! あ、あれ……!」  
 のんきにスープをすすり続けるナギに対して、マリアは急に青ざめて恐る恐る入り口の  
方を指差している。  
「んー、ハヤテがいったいどうしたというのだ、って、うえええぇぇぇっっ!!?」  
 わなわなと体を震わせるマリアの指差す先。そこには。  
   
 扉の取っ手より頭一つ低い背丈。低い鼻にくりっとした瞳があどけない顔立ち。  
 大人用パジャマの裾や袖を歌舞伎役者のように引きずりながら現れた、その7歳くらいの  
幼児は、しかしどこからどう見ても三千院家の執事、綾崎ハヤテだった。  
「おはよーございます、ナギおじょーさま、マリアさん……」  
 
『はゃてのごとく!』  
 
「……」  
「……」  
「……ん〜っ」  
 猫のように眠け眼をこしこし擦る幼児ハヤテを前にして、ナギもマリアもすっかり開いた  
口が塞がらず、時が止まったかのように硬直していた。  
「……お二人とも、どーしたんですか? あ、ボク寝坊しちゃいましたねスミマセン」  
 現状とすっかり的外れのハヤテの一言を皮切りに、我に返った二人は一斉にまくし  
たてる。  
「そんなことはどうでもいいわあああああぁぁっっ!! どおぅしたというのだハヤテ、  
 その……、年齢はっ!!」  
「へ? 年齢?」  
 
「やはりあれでしょうか? 黒の組織? アポト○シン4869を飲まされ体が縮んだんで  
 しょうか?」  
「うむ、もしくは私たち全員催眠能力(ヒュプノ)にかけられている可能性があるな!  
 くっそう、京介のヤツ!」  
「もしくは重機人間として復活させられたのかも知れません。ハヤテくん、頭にボルトが  
 ついてたりしませんか……?」  
「惜しくも1巻で完結した作品を出してくるとはマリアにしてはやるな! となると、  
 逆玉手箱で時間を戻されたと言う可能性も出てくるな!」  
「え、ハヤテくん妖狐になっちゃうんですか? やーんどうしましょ!」  
「お二人とも、おちついてください……。いろんな意味でなにを言ってるんですか……?」  
 すっかり興奮した様子の二人をハヤテはなだめる。  
 そんなハヤテに、二人はついついと食器棚のガラス戸を指差す。  
「? 一体何が……」  
 促されるがままガラスに映った自分の姿を見るハヤテ。その瞬間に愕然とする。  
 振り返って、横、後ろ、正面と自分の姿をくまなく映し、再確認。そして、  
「えぇぇぇ〜〜〜っ!!?? ど、どういうことですかおじょーさまぁ!??」  
「わ、私に聞かれても!」  
「というか、起きてすぐに気づかなかったんですか」  
 マリアのツッコミも聞こえないようで、顔をこねくり回したり、腕や足をぶんぶん振り  
回してハヤテは一人慌てている。  
「ど、どうしましょう、お嬢様、マリアさ〜ん……」  
「むぅ。しかしマリア……、これは」  
「ええ……」  
 そんな彼をよそに、落ち着いた二人は怪しげな目つきで涙目の男児を見つめる。  
 彼の周囲だけ、特殊効果を使ったかのようにキラキラ輝いているかのような錯覚を  
憶える。これが若さ、いや幼さの威力と言うものか。  
「……反則ですわ」  
「ちょ、ちょっとハヤテ、こっちに来てくれ」  
「? は、はい」  
 短い歩幅でとことことナギの元に寄ってくるハヤテ。その様子を見ただけでマリアは  
正視に耐えられないとばかりに目を逸らす。  
 
「なんですかおじょー、わ」  
 椅子に座ってなお目線の下にあるハヤテの頭を、ナギは何も言わずに撫でつける。  
「……、あ、あの、おじょーさま?」  
「か……、かわいい〜〜〜っ!」  
「わぴっ!? ちょ、おじょーさまっ……!?」  
 辛抱たまらんとばかりに、ナギは自分より一回り小さくなったハヤテを思いっきり  
抱きしめる。  
「く、くるしいです、おじょーさま……!」  
「ダメだぞハヤテ! こんな、こんな愛らしさは反則だ〜! ぎゅううぅぅ!」  
 主人の愛溢れすぎる抱擁からハヤテも必死に抜け出そうとするが、今の体格では力も  
ロクに入らないようだった。やがてハヤテの腕の力が抜け、ぷらりと……。  
「こらナギ! 放しなさい! もう、なんてはしたない……」  
 見かねた、というより我に返ったマリアが強引にハヤテを引き剥がす。  
 息を吹き返したハヤテに、しゃがみこんで大丈夫ですか、と声をかけるマリアに、  
ハヤテは光を放つような天真爛漫の笑顔で答える。  
「あ、はい、ありがとうございます、マリアさん」  
 ばっちーん。  
「ああああ、もう! ダメですよハヤテくーんっ! ぎゅーっ!」  
「わぷ、むぁ、マリアさ、む、むね、んむー!」  
「こらーマリア! 変なスイッチ入ってるぞ! ハヤテを放せー!!」  
 
「はぁ、はぁ……。おふたりとも、おちつきましたか……」  
「ええ、まぁ」  
「なんとか……」  
 反省の顔を浮かべながら、ナギとマリアは足をぷらぷらさせて椅子に腰かけるハヤテに  
謝る。  
「しかし、これからボクはどうすればいいんでしょう?」  
「うむ。いくらユル系コメディ漫画のパロSSだからって、いきなりこんなことになる  
とはな……」  
「……どこかで聞いたようなセリフですね」  
 
「ハヤテくんにヴァンパイアの血を飲んでもらうというのはどうでしょう?」  
「むぅ、こうして考えると、サンデーはこの類のネタが多いな。惜しくも打ち切りになって  
 しまったが、私は好きだったぞ」  
「おじょーさま、また話が脱線してますから……。僕も好きでしたけど。良くも悪くも  
マイペースでしたよね」  
「私はクナイくんの生足が……、コホン。とにかく、原因がわからない以上、ひとまず  
 様子を見るしかないですね」  
「様子見、か」  
 マリアの提案に、ナギはまあ仕方ないかと言わんばかりに腕を組む。  
「ええ、ひとまずハヤテ君には普段どおりに生活してもらいます。その間に私が解決策を  
 調べてみますから。……何から調べればいいのかさっぱりですけど」  
「え、普段どおりってことは、学校も、ですか?」  
 ハヤテは思わず声を上げる。  
「当然です。体は健康なんですから、お休みなんて許しません。私だって、10歳で白皇に  
 通っていたんですよ?」  
「いや、それとこれとは」  
 はなしがちがいます、という二の句はマリアの一瞥によって阻止された。  
「でも服がありませんよ。見ての通りパジャマだってぶかぶかだし、執事服だって……」  
「そぉんなこともあろうかと綾崎ハヤテぇ!」  
「うわっ!?」  
 バーンと扉を開け放ち、くるくると前転宙返りをしながら現れたのは、  
「このクラウス、貴様のためにこのぐぼああっ!?」  
 堂々と名を挙げた老紳士の左頬に、鉄の砲丸が炸裂した。  
「うるさいぞクラウス……、ハヤテがこんなに脅えているではないか……」  
「スミマセンお嬢様……」  
 足元にすがり寄るハヤテをよしよしとなだめつつ、ナギは続ける。  
「で、何がそんなこともあったのだクラウス」  
「ふふ、まあこちらをご覧くださいお嬢様」  
「なっ、それは!」  
 
 不敵な笑いを浮かべながらクラウスが掲げて見せたのは、普段どおりのハヤテの執事服、  
しかしサイズは二周りほど小さいものだった。  
「お前……、こんなものいつの間に」  
「『いつの間に』? ふふ、愚問ですぞお嬢様。この執事を超えた超執事、クラウスの手に  
 かかれば、今朝の騒ぎを聞きつけてから採寸裁断縫製仕立てまでこなすことなど造作も  
 ないこと。それが三千院家クオリティ。ちなみに一万人のゼロスーツを仕立てあげたのも  
 この私。さあお嬢様、遠慮は要りませんぞ。どうぞこのクラウスに惜しみない賞賛を」  
「ありがと! よしハヤテ! これで学校に行けるな! さっさと行くぞ!」  
「え、お嬢様まだボク着替えて」  
「そんなもの私が着せてやる! ほらほらいくぞ〜!」  
「わっ、それくらい自分で着れま、うわああぁぁっっ…………」  
 ハヤテを引きずり、ナギはつむじ風を上げてぴゅーっと食堂から出て行ってしまった。  
 一人呆然と立ち尽くす超執事。  
「……」  
「……あ、く、クラウスさん。一万人のスーツの話、詳しく聞きたいですわー、なんて。  
 大丈夫でした? 口封じとか……」  
「……マリアよ」  
「は、はい?」  
「聞いたか、お嬢様が今、『ありがと』と……。この私に……。うぅっ」  
「……まあ、クラウスさんがそれでいいのでしたら」  
 
 目の前には、ハンガーにかかった小さいけど立派な執事服。  
「……懐かしいな」  
「んー、何か言ったかハヤテ? さっと着替えないと本当に手伝っちゃうぞ」  
「いえ、なんでもありません」  
 
「よし、バッチリだな! では行くぞハヤテ!」  
「はい……、なんかおじょーさま、やたらテンション高いですね……」  
 測ったようにピッタリなミニ執事スーツを身にまとい、教科書類を詰めたランドセル  
(これはクラウスは用意していなかったはずだが、どこから用意したのやら)を背負って  
ハヤテはナギとともに玄関に並び立った。  
 
「ああ、子供が進級したときのお母さんってこんな気持ちなのかしら……」  
「い、行ってきます……」  
「車に気をつけるんですよー」  
 後ろから、やたら母性を帯びた視線を感じながら、ハヤテは屋敷を出る。  
「今日は私がお姉さんだからな、しっかり守ってやるぞハヤテ……、ん?」  
 スタスタと軽快な足取りのナギははたと足を止める。数歩後ろから、パタパタと早足で  
追いすがってくるハヤテ。  
「はぁ、はぁ……。な、なんですか、おじょーさま」  
「んふ〜〜☆」  
 ナギはめいっぱい口を吊り上げてにんまりと笑うと、ハヤテの紅葉のような小さな手を  
きゅっと握る。  
「べ、べつにこんなことしていただかなくてもっ」  
「顔が赤いぞーハヤテ? あははははっ」  
「むぅ……」  
 ナギに手を引かれながら、顔を赤くしてハヤテは通学路を歩く。  
 いつもと角度の違う景色。そして前を歩くナギの背中。なにもかもが新鮮な景色に、  
こんな状況だというのにハヤテは少し吹き出してしまった。  
 
 学院に着いてからも大騒ぎだった。  
「こっ、こっ、こっ、これがハヤ太くーん!!??」  
「理沙ァッッ!!」  
「応っ!!」  
 美希の掛け声とともに、後ろからビデオカメラを手にした理沙が飛び掛ってくる。  
「はっ! うおおお、反応反射音速光速! 反応反射音速光速!」  
「こっ、これは、高速で運動するリサちんがドーム状にハヤ太くんを取り囲んでいるわっ!」  
「これぞ朝風家秘伝、被写体を左右360度上下180度、あらゆる角度から余すことなく  
 撮影する奥義『活撮自在陣』! 私も見るのは初めてだわ……ごくり」  
「ふはははは、どうだぁハヤ太君! とくと味わえこの、おぇ、ちょっと酔ってきた……」  
「あれ、絶対映像ブレてますよね」  
「んー、まあバカだから放っておけばいいんじゃないか?」  
 
「で、どうしてこんなことに? ハヤ太君」  
 後ろでエチケット袋を抱える理沙と、その背中をさする美希を尻目に、泉は質問を続ける。  
「はぁ、自分でも何がなんだか……」  
「ふーん、でも可愛いからいいんじゃない?」  
「いや、そんな一言で片付けられても……」  
 既にこの状況を受け入れたようで、泉は屈託の無いいつものニコニコ笑顔を浮かべている。  
「でさ、ハヤ太君。というよりナギちゃん」  
「んー?」  
「なんでハヤ太君を自分の席、というか自分の膝の上に乗せたままなのかな?」  
「あ、それはボクもさっきからずっと言いたかったんですが」  
 ナギは自分の席に着こうとするハヤテを引っつかみ、自分の上に鎮座させ背中をすっぽり  
抱き包んでいた。  
「やらんぞ」  
「おじょーさまにもらわれた憶えはありません!」  
「えー、次の休み時間にちょっとだけー」  
「泉さんも!」  
 そんなやり取りをしている後ろで、ガラッと教室の扉を開く音。  
「もー、隣の教室が騒がしいって苦情が来てるわよ、一体何を騒いで、……っっ!!?」  
 眉に皺を寄せて、生徒会長桂ヒナギクが教室に入ってきた。  
 しかし、ナギの胸元でひょっこり顔を出すその生き物を見た瞬間に、雷に打たれたかの  
ようにその場に硬直した。  
「あの……、ヒナギクさん?」  
「…………」  
「なにやら金魚のように口がパクパクしているな」  
「ちょっと私聞いてくるね」  
 泉がてとてとと近づいてきてもまったく気づかず、ヒナギクの視線は幼きハヤテにしっ  
かりと固定されていた。  
「ほぉ、ほぉ、ふむ、なるほどー」  
 泉が戻ってくる。  
 
「何か言っていましたか?」  
「えっとね、『ありえないありえないわありえないくらい可愛いわと言うより小さいわ  
 ハヤテ君よね何を言っているのヒナギクハヤテ君は高校生よということはあれは夢?  
 幻? 幻なら抱きしめても合法よね抱きしめよういやダメよそんな倫理に悖(もと)る  
 事はああでも本能が呼びかけてくるわ枷を外せ! 檻を壊せ! と』……だって」  
「お前の威力はヒナギクすら破壊可能なようだなハヤテ」  
「正気に戻ってくださいヒナギクさぁん……」  
 その時、石のように固まっていたヒナギクがゆらりと動き始めた。  
「ち、近づいてくるぞ!」  
「ちょっ、お嬢様放してください! 目が、ヒナギクさんの目が狩人のそれに!」  
 重い足取りでハヤテたちの目の前に立ったヒナギクは、石の巨人のように重々しく  
口を開いた。  
「ハ、ハヤテ君。駄目よ、もう授業が始まるんだから。自分の席に着かないと」  
「へ? は、はい」  
 きょとんとしながら、ハヤテはナギの膝から離れ、すたすたと自分の席に戻る。  
「ハヤテの異変にはノータッチだったな……」  
「おそらく気づかないように振る舞うことで、自らの精神を保つようにしたんだろう。  
 ヒナなりの、悲しい自衛手段だったんだな……」  
「おぇぇぇ……」  
 
「おらー、さっさと席に着きなさーい社会の憂し悲しを知る前のモラトリアムを貪る  
 若人どもー」  
 摺れたセリフを吐きながら、担任桂雪路が入ってきた。ハヤテの周りに群がっていた  
ギャラリーも蜘蛛の子を散らすようにそれぞれの席に戻る。  
「はーい、じゃあ出席を取るわよー。綾崎ハヤテー」  
「は、はい」  
「んー? …………、じゃあ次ー」  
「ちょっと待った雪路! このハヤ太君に対してツッコミは無しか!」  
「べっつにー。もう今私、二日酔いでそれどころじゃないのよー。何か視界もおぼつかない  
 しさー。綾崎君がどうかしたのー?」  
「駄目だこの教師」  
 
 続いて、世界史の時間。  
「じゃあ教科書に載ってないところで問題出すわよー。何人か当てるから、黒板に答えを  
 書くように」  
 えぇー、と教室内からブーイングが出る。あーもう頭痛に響く、としかめ面をして雪路は  
続ける。  
「先週ちゃんと教えたところでしょーが。えーと、じゃあ1番目を綾崎君」  
「あ、はい!」  
 指名されて、ハヤテは教壇に向かう。  
「うっわ! なにこれ綾崎君小っさ!」  
「だからさっきから言ってるだろうに」  
「何ー? どこに行ったらそんな若返りのお薬もらえるの? おいくら万円?」  
「ははは……。えーと1番、よっと」  
 答えを書こうと、ハヤテは必死に手を伸ばす。  
 ……が、解答欄はその遥か上。ハヤテから見ると、傾斜90度の崖を仰ぎ見るが如し  
だった。  
「えーと、桂先生?」  
「んー? 早く書きなさいよ」  
「えっと、すみません、何か台のようなものを……」  
「もー、まったくしょうがないわねー」  
 何故か憮然とした態度で、雪路は自分の座る椅子を差し出す。  
「すいません、失礼します……うんしょ。ん〜〜〜っ……」  
 ふらふらとバランス悪く椅子の上に立ち、ハヤテはもう一度目いっぱい背を伸ばす。  
 しかし、目的の位置には届かない。  
「くっ、ん〜〜〜っ、はぁ、はぁ、ん〜〜〜〜〜っっ。……ぐすっ」  
「……いじましいわぁ」  
 ついに目じりに涙を浮かべ始めたハヤテの様を見て、雪路はにんまりと笑みを浮かべる。  
「もう、お姉ちゃん! 可愛そうでしょ!」  
 バンと机を叩いて、ヒナギクは教壇に詰め寄り雪路に抗議する。  
 
「いや〜、こんなに小っこくてかわいいとさ、ついイジリたくなっちゃうというかイジメ  
 たくなっちゃうというか」  
「もう! ハヤテ君、大丈夫? 他の問題に変えてもらお?」  
「いえ、いいんですヒナギクさん……。……あの、どうして目を合わせてくれないんですか?」  
「え、い、いや、その、ちょっと目を合わせられないというか、合わせたら自分でもどう  
 なっちゃうかわかんないというか……」  
 不自然に首をぐぐぐと曲げながら、不自然な体勢でヒナギクはハヤテの肩に手を置いて  
なだめる。  
「あ、そうだヒナギクさん。おねがいがあるんですけど」  
「へ?」  
 
「あ、これなら届きますヒナギクさん! ありがとうございます!」  
「ど、どういたしまして……」  
 ハヤテの思いついた案は、ヒナギクがハヤテの脇を抱えて持ち上げるという実にスト  
レートなものだった。  
 ヒナギクの目の前には、小さなハヤテの小さな背中。ぶらりと下がった足は、ハヤテの  
うんしょうんしょという声に合わせてぷらぷらと揺れている。  
「軽い……、ちっちゃい……、か、かわいい……」  
「だいじょうぶですかヒナギクさん? なんか腕がプルプルしてますけどやっぱり重かった  
 ですか?」  
「いっ、いいえ、そんなことはななないわよ! でも、できれば早くしてほしい、かも、  
 こう、理性とか残っているうちに」  
「? はい! がんばります!」  
 ヒナギクが必死に母性本能とバトルしているのも知らず、ハヤテはチョークを走らせる。  
「ヒナちゃん、今自分がものすごく面白い顔をみんなに晒しているのに気づいているかな?」  
「まあ当然記録媒体にはしっかり残しておき、あとで話の肴にしよう」  
 
(にしても、子供ってあったかいのね……、こんなに細くて柔らかい体なのに、必死に  
 動いてるんだわ……、なんていうか、愛しい……、ああ駄目よ私……)  
「あの、ヒナギクさん、ヒナギクさん?」  
「ふ、ふぇ?」  
「答え書けたんですけど……、合ってますか?」  
 
 我に返り、ハヤテの書いた解答を見る。どんな問題だったか忘れてしまったが、もう  
どうでもいいやという気分だ。  
「合ってるんじゃないかしら、うん……」  
「ホントですか!? やった、ありがとうございますっ」  
 振り向くハヤテは、満面に笑みを浮かべる。抜けるような笑顔とはまさにこのことだと  
言わんばかりの、純真天然爛漫スマイル。  
 ヒナギクにとっては65536でカンストするほどの威力だった。ハンマーで直接脳を  
殴られたような衝撃が走った次の瞬間、ヒナギクの理性は完全に破壊され、沈黙した。  
「ハヤテくぅぅぅぅぅぅんっ! もおダメよこのこのこの子はぁぁぁっっ!!♪」  
 笑顔と興奮を撒き散らしながら、ヒナギクはハヤテを潰れそうなほど抱きしめて、その  
場でくるくると踊り始めた。それはもうアルムの森の木の下に広がるお花畑が目に浮かぶ  
くらい。  
「むぎゅっ!!? ヒ、ヒナギ、ぐむ、むぅぅぅぅぅ!??」  
「かーわいー♪ ハヤテ君かーわいー♪ このほっぺとかもう国家犯罪だわ、うりうり〜!」  
「うわー! ヒナちゃんが萌え狂ったぁ!」  
「いかん、ただでさえ最強の生徒会長だ、こうなったヒナは誰にも止められない!   
 なんとかしろ雪路!」  
「私、正直嬉しいわ……。ほら、ヒナっていつも生真面目で、もっと、本当の自分って  
 言うの? 曝け出していってもいいんじゃないかな、って」  
「実は影ながら見守り続けていた的な姉キャラ設定に浸っている場合じゃない! ハヤ太  
 君が窒息してしまうぞ!」  
「ヒナギクぅぅ! ハヤテを放せぇぇ!! もしくは私に替われぇぇっ!!」  
「な、そんなこと、言ってるばあいじゃ、おじょ、ぐむ、ああ、刻が見え……」  
 
「まったく、予想以上に大騒ぎになってしまったな」  
 放課後。なんだかんだとすったもんだで事態は収拾し、物珍しさの野次馬もやっと  
まばらになっていた。  
「いや、ある意味もっと大事になっていてもおかしくないと思うんですが……。そう  
 言えばヒナギクさんはどうしたんです? ぼくはあの後しばらくラ○ァに会いに行って  
 いたんで知らないんですが」  
「三千院家御用達の黄色い救急車で運ばれていった。治療には数日かかるそうだ。最後に  
 桂先生が聞いた言葉は『ショタが嫌いな女子なんていません!』だったそうな」  
「……ぼく、ヒナギクさんの経歴にとんでもない傷つけちゃいましたね」  
 
「可愛さは罪、というやつだな。……はっ、今のハヤテに、フリフリの、ヒラヒラの、  
 かわいらし〜い女の子の服を着せたら……」  
「お、おじょーさま? なんかまがまがしくも桃色なオーラを発せられていますが……」  
「よし、早く帰るぞ今すぐ帰るぞハヤテ! お楽しみはこれからだー!」  
「って、うわー! ちょっと、おじょーさまー!?」  
 ハヤテの腕を引っつかむと、初速からエンジン全開でナギは廊下を駆け抜けていった。  
 素早い動きで靴を履き替え、たったかと軽快な足取りで校門をくぐり抜ける。  
「でもこれ……、いつになったら直るんでしょうか?」  
「なんだ、まだ気にしているのか? 確かにいろいろ大変かもしれないが、マリアもいるし、  
 みんなにはモテモテだし、何より私がついてるではないか! 安心しろ!」  
「確かに、それは嬉しいんですけど、でも……」  
 ナギの小脇に抱えられたハヤテは、それでも釈然としないものがあった。  
 なにか、もっと大事なことが、このままでいてはいけないという何かが……。  
   
「うわっ」  
 その時、ドンという音とともに視界がぐらっと揺れたかと思うと、地面にべたっと  
叩き落とされた。  
「くっ、大丈夫かハヤテ!」  
 どうやらナギが転んだようだった。ちかちかする視界がゆっくり正常に戻ると、目の  
前には。  
「あー、んだこのジャリども? 前見て歩けねえのか?」  
 モヒカン、スキン、ドレッドと様々なパターンを網羅した頭の、いかつい3人組が立ち  
並んでいた。  
「う、うわーお……」  
「おい、聞いてんのかよ金パツ嬢ちゃんよ? 人にぶつかっておいてごめんの一言も無し  
 っつーのはどういうつもりだって聞いてんだ、あ?」  
「うるさい黙れこのばらんども」  
「ああ?」  
「ちょっ、おじょーさま!?」  
 
「確かにぶつかったことは謝ろう。しかし、往来の歩道でアホ面並べて人の行き来を  
 塞いでいたのはどこのアホだ? ちなみにばらんって何かわかるかアホ共?   
 弁当に入っている笹の葉を模したアレだ。桂馬くんはお前らのような雑人を指して  
 パセリなどと称していたが、お前らクラスになると煮ても焼いても食えない。  
 だからばらんだ。せいぜいエビのしっぽとともに廃棄されるがいい」  
「て、テメエ、べらべらとよくも!」  
「ふん、なんだ反論できるボキャもないからすぐに暴力か? まあよい、おおいハヤテ!  
 こいつらに目にもの見せてやれ!」  
「あのー、おじょーさま?」  
「む、どうしたというんだハヤ、あああしまったぁっ!?」  
 振り向きざま、ナギはとんでもない失態に気づく。ナギの後ろにいる頼れる執事は、  
 しかし今はいつもの半分以下の小ささだった。  
「おじょーさま、そうやってすぐ啖呵切るクセ何とかしてください……」  
「あうう……」  
「どうした? そこの後ろのハナタレ坊主が相手してくれるってのか?」  
 口にした後、げっへっへと如何にも下卑た笑いを浮かべる3人組。  
 くっ、とハヤテは唇を噛み締めると、力強く足を踏み出し、ナギの前へと立ちふさがった。  
「……そのとおりだ!」  
「あ?」  
「は、ハヤテ?」  
「おじょーさまを傷つけようとするやつは……、このあやさきハヤテが許しません!!」  
 高らかに言い放つハヤテ。それに遅れて、男たちの笑いが大きな高笑いへと変わる。  
「あーはっはっは!! あー面白ぇ! 許さないってかこの、ガキぃ!!」  
「ぐあああっっ!」  
 笑いが止まったと思った瞬間、男たちの1人がサッカーボールを蹴り上げるような  
キックをハヤテに見舞う。とっさに腕で防ぐが、体重の差も力の差も違いすぎる。それ  
こそボールのようにハヤテの体は宙を舞った。  
「ハ、ハヤテーっ!! お前、よくも……!」  
「はっ、あんなガキに守られようとしといてよく言うぜ、このナマガキがよぉ!」  
 すっかり頭に血の上った男はナギの胸ぐらを掴み挙げる。自分の身長よりも高く吊り  
下げられるナギ。  
「くっ、放せっ、ハヤテ、ハヤテぇ!」  
 
 ナギの目には、恐怖と後悔で涙が浮かんでいる。  
 数メートル向こうから聞こえる悲痛な叫びにそれを感じ取ったハヤテは何とか立ち  
上がろうとするが、蹴りを喰らった胴体、叩きつけられた背中から鈍く圧し掛かって  
くるような痛みに膝に力が入らない。  
 あまりにも無力な体。不甲斐ない自分を呪う。同時に、フラッシュバックする記憶。  
 そう、今のように体が小さかった頃、手に入れた幸せ。そして、それを守れなかった  
自分。あの頃の無力な自分を二度と味合わないために強くなろうと決めたんだ。  
「そうだ……、だから僕は……」  
「くそっ、ハヤテ、大丈夫か、ごめん、ごめんな……」  
「謝るのはこっちにだろこの……」  
「その手を、放せええええぇぇぇぇぇぇっっ!!」  
「っ、な、なんだこの気配は、!?」  
 夕日を背に立つ少年の目は燦然と輝き、火山口から吹き出す高温の蒸気にも似たオーラが  
彼を中心に渦巻く。こおおおお、と腹の奥へと気を溜め込むような深い呼吸音。  
「は、ハヤテ?」  
「な、なんだってんだこのガ」  
「はぁぁぁぁぁぁぁ……、ぁぁあああああああっっっ!!!」  
 咆哮一閃、体の中の気力を解放したハヤテの体は少しずつ、加速度的に膨張を始めた。  
筋肉が隆起し、骨格が驚異的な新陳代謝を繰り返し、スモールサイズの執事服は、膨れ、  
張り詰め、弾け飛んだ。おまけに露わになった上半身には7つの傷が見えたとか見えない  
とか。  
「ハヤテ!」  
「ば、ばばば、化け物!」  
 満面の笑みを浮かべる少女とは対照的に、目の前の奇怪な光景に一言そう漏らすしかない  
不良たち。  
 完全に元の姿に、いや、前より大幅にマッシブになったハヤテは、ずしんと重い足音を  
響かせながらナギの元へと歩み寄る。目は完全に狩猟動物のそれ。全身の血管は沸き立ち、  
筋肉はまるで岩のよう。あと、錯覚だと思いたいところだが、心なしか全身が赤く発光していた。  
「ほ、北斗だなハヤテ!」  
 
「……聞こえませんでした?」  
「あ、ななな、何が?」  
「その手を……、放せってんですよおおおおおぉぉぉぁたあああっっ!!!」  
「「「へぶちっ!!」」」  
 ダンスを舞うように、パンチ、キック、手刀を続けさまに3人組に放つハヤテ。哀れ  
男たちは、夕日の彼方へと飛び消えた。  
「ふっ、雑魚が」  
 軽く鼻をならすハヤテの目は、菩薩のような静けさだった。  
 
「ハヤテ、元に戻ったんだな!」  
「ええ、お嬢様のおかげで!」  
「いや、私はなにも……、すまなかった。しかしなんだ、前より男らしく……っ」  
「? お嬢様どうしました?」  
 ナギのほうに向き直ったとたん、彼女の動きがぴたりと止まる。  
 同時に、温度計が急上昇するように顔が真っ赤に変わっていく。  
「お、大人……」  
「へ? あ、あああああっ!!」  
 3秒ほど遅れて気づくハヤテは、慌てて身を縮める。  
 そう、執事服は、弾け飛んだのだ。  
「ハヤテくーん、ナギー、やっと見つけましたよ白乾児……、あら?」  
「ハヤテの……、破廉恥馬鹿あああああああああああああああぁぁっっっ!!」  
「ぐああああああっっっ!!」  
 愛沢家御用達の巨大ハリセンの一撃をくらい、ハヤテは更け始めた空の4つ目の星と  
なった。  
「まあ、結局はこんなオチだろうと思いましたけど……、とりあえず一件落着ですわね。  
 今日はこれで一杯やることにしましょうか、うふふ」  
 
 
「で、今回のこれは結局何が原因やったんや伊澄さん?」  
「……まあ愛の力で解決したんだからいいじゃない」  
「そこは投げっぱなしなんかい!」  
 
-END-  
 
 

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