『さあ、こっちにおいで……』  
 
 目の前には、優しく差し伸べられた男の人の手。  
 ここはどこだろう。視界の端々に白い霞がかかっているようで、なんだかよくわからない。  
 だけど、とても高い所というのはわかる。  
 自分が苦手な、そう、例えばあの生徒会室のような――  
   
『ほら、大丈夫だから……』  
 
 ――いや、ここはまさしく、白皇学院生徒会室のベランダ。  
 大きく、青白く輝く月。海に写った星のように広がる街の明かり。  
 これはあの一生忘れることのない、16歳の誕生日の夜の再現だ。  
 ということは、目の前に立つこの男性はやっぱり――  
   
『僕がしっかり掴んでるから……』  
 
 ――ああ、これは夢だ。  
 見るつもりもないのに何回も出てくるハタ迷惑な、……それでいてちょっぴり幸せな夢。  
 すぐに覚めてしまうとわかっていても、高揚する気分を止められないのだからますます  
たちが悪い。  
 所詮、夢。この世界の彼と、現実の彼は別物だというのに。  
 
『さあ、目を開けて……』  
 
 ……あれ? 隣に寄り添う彼は、なんだか本当に別人に見える。  
 背が少し伸びて、声のトーンも低い。肩に回された手の平も、こんなに厚かっただろうか。  
 そっと顔を覗き込む。月光が背中にかかり、よく見えない。けれど、自分の知っている  
彼の顔より、なんだかずっと男らしくて――  
 
 
『……目を開けてごらん、"ヒナギク"――』  
 
 
 チュンチュンと。もはやお約束のように朝はヒナギクを現実に戻す。  
「……我ながら、どこまでも頭の悪い……。春の陽気のせいかしら」  
 本当に嫌になる。何がって、目を覚まして5分も経つというのに、まだ顔のほてりが  
取れない自分自身にだ。  
(あれ……やっぱりハヤテ君よね……)  
 けれど、今の彼より少し成長して、大人っぽくなっていた。  
 そして、  
(名前……呼び捨て……、……〜〜〜っっ!!)  
 落ち着きかけていた血の巡りが、またもポッポポッポと勢いを盛り返す。  
 布団をごっぽりとかぶって恥ずかしさに耐える。ベッドから出られるのはまだしばらく  
かかりそうだった。  
 
 
(だいたい、最近の私はいくらなんでも呆けすぎだわ)  
 ぷりぷりしながら、ヒナギクは朝ごはんを口に運ぶ。  
「ヒナちゃん……、朝から何をそんなに怒っているのか知らないけど、そんなことじゃ  
 ご飯もおいしくないわよ?」  
 そう言えば、いつかナギも言っていた。  
「聞いてる? ヒナちゃ〜〜ん?」  
 
『よいか、ツンデレキャラの魅力というのはだな、表層的な二面性などではない!  
 ツンの要素を支えるのはその優れたプライド、気丈さであり、それこそがデレに移行した  
 ときのギャップとして活きてくるのだ! それは、各種イベントをこなし個別ルートに  
 入った後でも変わらん。情に絆され、個としての魅力を失ったツンデレなど惰弱の極み、  
 それじゃあスジが通らねぇ! なのだ! デレとは弱さではない、強さの裏側である  
 べきなの、あ、待てハヤテこら先に行くな一緒に帰るぅ! じゃあな!』  
 
 ……いや、思い出したところでよく意味はわからないのだが、気丈さというフレーズが  
心に引っかかる。昔の自分はもっとしっかりしていた。こんな心の弱さなんて、自分にすら  
見せなかったはずだ。  
 
「お、ヒナじゃないか、おはよう」  
(そうよ、もっと気持ちにメリハリをつけないと! あんな夢なんて、どうでも……)  
 どうでもいいはず、と。そう思おうとしたところで気づく。  
 結局は夢だ。あの時のハヤテがどんな声で、どんな風にヒナギクの名前を呼んだのか。  
その感触は、もうすっかりヒナギクの耳から消え去っていた。  
 そして、なぜかそれがとても寂しいことだと感じてしまった。  
(聞きたいな、ハヤテ君から直接……。……って、いやいやいや、何考えてるのよ私!)  
 雑念を振り払おうとぶんぶん振り回すが、一度浮かんだその願いはなかなか頭を離れ  
ようとしてくれない。  
「おーおーおー、今日もヒナはくるくる顔が変わって面白いなあ。とりあえず本日分と  
 して録画しておこう」  
   
 朝の雑務をこなすために生徒会室に着いたヒナギクだったが、まだ気分は上の空だった。  
「おはようございます、会長。朝から早速ですみませんが、各部から今年度の予算報告が  
 届いています。確認のうえ捺印を……」  
(でも、同い年なのに「さん」付けで丁寧語って……、なんだか壁があるわよねぇ。  
 あ、でもそう言えば彼って誰に対してもそうなのか。あの夢みたいに、普通の言葉  
 遣いで喋ってるところ、見たことないなあ。……ということは、彼がそういう風に  
 喋ってくれることって、それだけでかなり特別なこと、よね……。  
 ……うわあああああぁぁ、もー何期待してるのよ私ったらー!!)  
「あの……、会長、会長? ……どうしましょう、愛歌さん」  
「さあ、とりあえず写真に収めて今自分がどれだけオモシロイ顔をしてるか見せつけて  
 あげる、っていうのもなかなかいい趣向かもしれないわね♪」  
   
 1時間目、実の姉の無駄に騒がしい授業もどこ吹く風とばかりに過ぎていった。  
(だいたい、そんないきなり接し方が変わるわけないじゃない。突然「私のこと呼び  
 捨てにしなさい」なんて言ったら、頭のおかしい人だと思われちゃうし……、  
 どうすれば……)  
 事を現実にしようとしている時点で、既に普段の彼女の思考からだいぶ掛け離れている  
ことに本人は気づいていない。  
 
「ハヤテ〜、ハヤテ〜」  
 休み時間。もうすっかり周りの声など聞こえていなかったヒナギクだが、後ろで聞こえた  
呼び声にぱっと振り返る。  
「どうしたんですかナギお嬢様」  
「うむ。今日はもう学校めんどくさいから帰ろう」  
「え!?」  
 ……またとんでもないやり取りをしている執事と主人がいた。  
(そう言えば、ナギはハヤテ君のこと、呼び捨てにしてるのね……ご主人様なんだから  
 当たり前か。……そうだわ!)  
 ヒナギクの頭の中でぴこーんと豆電球が光る。  
(まずは自分から歩み寄らなければいけないわ。だから……、まず私が、ハヤテ君を  
 呼び捨てにするところから始めないと!!)  
 ……全てが春の陽気のせいなのだとしたら、その罪は非常に重いといわざるを得ない。  
   
   
「……よし、ではみんな、また明日なぐべっ!」  
「お嬢様、ガチで帰ろうとしないでください! まだ朝の10時ですよ?」  
「ごほっ、ごほ、こ、こらっ、いきなり主人の首根っこを掴んで『ぐべっ』なんて  
 発音させる執事がどこにいる!」  
「お嬢様が想像の斜め上をいく行動を取るからです! そうでなくても、マリアさんには  
 最近もっと厳しくいかないと言われているんですから――」  
 
「ハ、ハヤテ!」  
 
 一瞬、場の空気が固まる。  
「……え、えっと、今の声、ナギお嬢様ですか?」  
 ナギはぶるぶると首を振り、ハヤテの背後をちょいちょいと指差す。  
 振り返った先には、これまでに感じたことのないほど鬼気迫るオーラを発するヒナギクが  
立っていた。眉はぴくぴく震え、いかった肩からはこもり過ぎた力が滲み出てきている  
ようで、そばに寄っただけでSHUNSATSUされそうだった。  
 
 呆然とするハヤテとナギだったが、平静を装うのに(装えていないが)いっぱいいっぱい  
で、現状がよく見えていないヒナギクはそのまま口上を続行した。  
「あー、ハ、ハヤテ、次の授業の宿題はちゃんとやってきたのかしら?」  
「は、はははは、はい、ヤッテキマシタ」  
 止めようとしても、歯の根がカチカチと震える。人間、完全に予測不能な事態が起こると  
一寸先全てが恐怖に感じられてしまうものだ。  
「そ、そう。それはよかったわ。じゃあ次の授業も真面目に受けましょう、……ハヤテ」  
「は、はい!」  
「わかりましたぁ!」  
 何故かナギも揃って、ビシッとヒナギクに向けて敬礼。  
 一方、ミッションを終えたヒナギクは、力が抜けたようにフラフラと自席に戻ると、  
心の中でサムズアップした。  
(完璧だわ……!)  
 ちっともだった。  
   
「お嬢様、僕、今日何もしてませんよね。普通に朝起きて、ご飯食べて、学校に来て、  
 真面目に授業受けていただけですよね。空は青いですよね」  
「落ち着け」  
 
 2時間目の休み時間。  
「ヒナギクさん……、スミマセンちょっと一緒に来てもらえますかスミマセン」  
「え、い、いいわよ。……ハヤテ」  
 
「すみませんでした」  
 特別教室の集まる廊下の一角。次に利用される教室がないため、人気は全くと言って  
 いいほどなかった。  
 ハヤテはそこに着くなり3秒で土下座した。  
「ちょ、どうしたのよいきなり!」  
「それはこちらも非常に申しあげたい台詞でありますが、今はそんなことよりともかく、  
 また僕はヒナギクさんを怒らせてしまったようで、もうとにかくすみませんでした」  
 
「ちょっと、とにかく顔を上げてよ! 私怒ってなんかいないわよ!」  
「だ、だって、いきなり呼び捨てにされるから、なんだか、突き放されたみたいな感じが  
 して……」  
(あ……)  
 そうか。呼び捨てにしたほうが、丁寧語じゃないほうがより親密な感じがする。それは  
間違いだ。  
 思えば、夢の中に出てきたあの男性。あれはハヤテであってハヤテではなかった。  
 自分に「ハヤテ君」と呼ばれることに安心を感じている、この目の前のちょっと頼り  
ない男の子。それが自分の恋している綾崎ハヤテじゃないか。  
 ……そんなことも気づかないほど呆けていたなんて。まったく、らしくない。  
 
「くす、ごめんね。ハヤテ君」  
「え、ど、どうしてヒナギクさんが謝るんですか?」  
「あー、えーとね、ハヤテ君のことを呼び捨てにしたのはね、その……、なんとなくなの」  
「へ?」  
「えっと、だから、その、その方が距離が近くなるかな、なんて思ったりして、だから、  
 なんとなく……。あはは、馬鹿よね私」  
 苦笑しながら、はい、とハヤテに手を差し伸べるヒナギク。  
 その手を取り、身を起こしながら、ハヤテもホッとした顔で笑う。  
「あ、あはは、そうだったんですか」  
「ごめんね本当に、変な事言って。さ、教室に戻りましょ」  
 そう言って、ヒナギクが踵を返し、  
   
「ええ、わかりました。……ヒナギク」  
 
 歩き出そうとしたところで、突然の不意打ちに胸を打ち据えられた。  
 重ねあった手は、まだ繋がれたまま。  
 
「えーと、えへへ、僕も、なんとなく、呼び捨てしてみたりしちゃいました」  
「……」  
 まずい、まずい。そう思っているのに、頬っぺたやら耳やらに血が集まってくるのが  
止められない。せいぜいできる抵抗なんて、顔をきゅっと伏せるくらいのもの。  
(ど、どうしようどうしよう)  
「あ、あのー、ヒナギクさん、やっぱり失礼でした? すみません……」  
(なんかもう、理屈とかそういうの抜きに、すごく、嬉しい――!)  
 
「……ハ、ハヤテ」  
「へ?」  
「ハヤテ」  
 顔は伏せたまま、繋いだ手をきゅっと握ってヒナギクは繰り返す。  
「……ヒナギク」  
「〜〜〜っ、……ハヤテ」  
「ヒ、ヒナギク」  
「ハヤテ」  
「ヒナギク……」  
 
 ただ、それだけのやりとり。  
 たったそれだけで、なんだかもうどうしようもないくらい幸せを感じてしまっている  
自分は、やっぱりどうかしてしまっているんだろう。  
 春の陽気のせいなのか、はたまたやっぱり、どうしようもないこの恋のせいなのか。  
 けれど、たまにはこうやって馬鹿みたいに、ちっともらしくない自分を楽しんでみる  
のもいいんじゃないか。  
 右手から伝わる温かさと、耳に確かに残る呼び声に、そんなことを思うヒナギクだった。  
   
   
「あの、ヒナギクさん、いつの間にか人集まってます。き、聞いてます? ヒナギクさぁん!」  
 
 
-END-  
 
 

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